第三話 わたしの中の他人


 暗い部屋。


 ちくたく、ちくたくと時計の音だけが響きます。



 ……見ないでください。


 嬉しいと哀しいが同居して、私の中はもういっぱいなんです。


 ……だから、そんな目で私を見ないでください。


 あなたに見つめられて、こんなに嬉しいのに、こんなに寂しいんです。


 お願いします。


 私の中に、私の知らない誰かを探さないでください。


 私の中には、わたししかいないんです。


 きっと、ばちが当たったんだと思います。


 遠くから眺めているだけで満足だったのに。


 それだけであんなにも満ち足りていたというのに。


 一度声をかけられただけで、欲張ってしまったばちが当たったんです。


 どなたか知っていたら教えてください。




 どうすれば、時間は戻ってくれるのでしょうか。 





 どうすれば、あの人の望む私になってあげられるのでしょうか。





 


 切っ掛けは、なんて事ない普通の事でした。



 小学校、中学校と全くと言って良いくらいに周囲と関わりを持たず、周りの女の子も、男の子も、等しくバカにしていました。


 きっとそれは、ただの僻です。今だからわかることってやつですね。


 自分が劣っているって、周りと違うって事をちゃんと受け入れることができていなくて、その代償行為で周囲を蔑んで、小馬鹿にして日々を過ごしていたんだと思います。


 だから、当然の様に初恋なんていう代物は経験したことがありませんでした。


 私も女の子なので、周りより劣っているとは思っていますけど、女の子だとは思っているので、勿論そう言った色恋沙汰ってものにも人並みには興味がありました。

 いや、人並み以上かもしれませんね。大盛りです。450円くらいでしょうか。


 でも、周りを見ても、テレビなんかを見ても、どうにもピンとこなかったのです。

 同じ中学の男の子なんかは、粗野で、粗雑で、乱暴で、高慢で、まあ言い出したらキリがないくらい嫌っていましたし、テレビの人もどうにも私には存在感が希薄に感じられて、顔はかっこいいと思う事はあっても、恋をする。までは行かなかったのです。


 だから、『その時』は、本当に驚きました。


 高校の入学式でクラスの振り分け票を見ていた時に、『その時』は訪れました。

 1組から順番に見て行こうとして右に1歩ずれた私は、正面しか見ていなかったので、ぶつかってしまったのです。


 意識していない方向からの衝撃っていうのは、小さなものでも意外と大きく動いてしまうもので、私は左側に倒れ込みそうになってしまいました。


 スローモーションに変わった様な感覚の中で、「初日から制服汚してまたお母さんに鈍臭いって言われちゃうなあ。」なんて考えていたら、左に傾いていた私の体が今度は大きく右に引かれたのです。


 それこそ予想だにしていない出来事だったので、私は大層驚きました。


 やがて動きが止まったかと思いきや、私は男の人の腕の中に居ました。

 まあ、すぐに離されてしまいましたけど。


 良い匂いの人ですー。なんて感じ入っていたら、声を掛けられました。


 あまり見たくなかったですけど、仕方がないので頑張って顔を見ました。


 あれ……?



 「             」


 「あ、ハイ」


 「             」


 「あ、ハイ」



 かろうじて、言葉は返していたみたいですけど、何を言っていたのか、どんな声だったかもまるっきり覚えていなかったのです。まあでも、それも仕方ないというものですよ。


 だって、初めてだったんですから。


 ずっとずっと、どういうものなのかなってあんなにも想像していた出来事がこんなに急にやって来たのですから。心の準備なんてものはありもしませんでした。


 私が想像していたものなんて本当に何の意味もなかったんですねって、笑ってしまうくらい想像の遥か上をいったのですから、ちょっと記憶が飛ぶくらい当たり前という奴ですよね。


 散り始めた桜が舞う高校の入学式の朝に。



 私は生まれて初めて、恋をしました。


 





 祝!人生初の恋ですよ!


 これから私の毎日は薔薇色になっていくのでした。


 めでたしめでたし。


 ……なんて夢を見ていた私ですが、初恋をしたからといって『現実』というものは今まで通り上手くいくものではなくて、むしろ思い通りに行かないのが『現実』という嫌な奴でしたね。

 また一つ勉強になりました。


 

 入学してから早くも1週間が経ちますが、初恋の君の名前は愚か、そのお姿さえ私は確認できないままでいました。


 ……不登校になったのでしょうか?

 いやいや、地獄の様な受験戦争を勝ち抜いてまでこの高校に入ってきたんですから、そんなもったいないことする訳ないですよね。

 だとしたら、一体なんで私は彼を見つけられないのでしょうか?


 ちょっと考えてみたら答えはすぐに出てきました。


 私、そういえば彼のこと一度も探しに行ったことありませんでした。

 なーんだ、それなら見つけられなくて当然じゃないですかあ。

 

 そんな風に自分で納得してほっとしたのも束の間、私は私のあまりの行動力のなさに驚き慄いていました。


 あれ、おかしくないですか?普通女の子って恋をしたら、積極的になるものじゃないんですかね?

 私、どこまで『女子力』というものが欠如しているのですか……。


 こうしてはいられません。今日のうちに、何とか彼の名前……は、ちょっと難しいので、お姿だけでも確認して目に焼き付けましょう。


 そんな決意を胸の内で燃やしていると、クラスの女子生徒の方が近寄ってくるのが見えました。

 委員長さんですね。眼鏡を掛けているのでわかります。


 視線を机に向けてちょこっと下を向きます。こうすれば余程のことがない限り話しかけられませんから。

 この術は破られたことは十数回しかないのです。


 「八色さん?次、移動授業だよ……?」


 「あ、ハイ。えっと、す、すみません……あははっ……」


 「場所わかる?実験棟の化学室だからね?」


 「あ、ハイ。あ、ありがとうございます」


 「じゃあ先に行ってるね」


 話しかけられてしまいました……コミュ強にはこの技は通じません。

 委員長さん割と根暗っぽく見えるのにコミュ強の方でしたか、ギャップがすごいですね。意外と恋愛も積極的なのでしょうか?

 でも名前も知らない委員長さん、ありがとうございます。危うく一人ぼっちで50分間過ごすことになるところでした。

 ん?それもそれで悪くないですね……。


 

 あれ?私何を考えていたんでしたっけ?まあ、とりあえず授業の準備をして向かうとしますかあ。

 遅れて教室に入った時のあの何とも言えない目線を感じる苦痛だけは、何としてでも避けなければいけません。

 

 教室を出るときに自分が最後だと、電気は消した方が良いんですよね?あれ?窓が空いてます。

 え、これ……閉めた方が良いのでしょうか?


 

 一度教室を出た私でしたが、結局窓が気になってもう一度戻ってしまいました。

 誰も居ない時に窓から不審者が入ってきて荷物を荒らしてしまうかもしれませんからね。乙女たちの秘密は守らないとです。男子は知りません。エロ本でも盗まれるのでしょうか?高校生男子のエロ本……内容がちょっとだけ気になりますね。

 しかしやりましたよ私!善行を一つ重ねてしまいました。これはお昼ご飯が美味しくなりそうです。


 そんな風に自分の行いを自分で褒めて、なかなかに良い気分で実験棟に向かった私は、普通に授業に遅れてしまいました。

 うう……歩く速度を間違えてしまいました。恥ずかしさと、ここに来るまでのあれやこれやを後悔していたら授業もう終わっちゃいましたし……こうして落ちこぼれが出来上がっていくんですね、わかります。


 ……誰かノート見せてくれないでしょうか?

 心の中でお願いしてみるも、席を立った皆さんはぞろぞろと教室へと帰って行ってしまいました。


 それを私はぼうっと眺めます。


 こうして流れていくクラスメイトの列を見ると、思ってしまうのです。


 思い知らされてしまうのです。『私は違う』んだって。


 私には、あの『一個の塊』にはどうしたってなれっこないんだって。


 でもそれも今更のことですね。

 高校に入ったら何かが変わるかもしれない。なんてただの言い訳だって、自分でもよーく分かっています。そこまでバカじゃあありませんから。

 これは全部、自分で選んだ結果なのです。


 周りを羨ましく思いながら、ただ思うだけで自分では何の努力もしてこなかった。そんなツケが、回ってきているだけのことなのですから。


 ふと、一人取り残された科学室を見渡します。


 さっきまでの喧噪はここにはなくて、それはずうっと遠くから私の耳に届いてきます。



 「……あはは」

 

 この気持ちを飛ばしたくて発した笑い声は、誰にも届かずに小さく響いて消えていきました。



 ……虚しい。


 ほんとうに、虚しいです。


 



 



 お昼休みになりました!


 今日はどこで食べましょうか。なんて考えながら校舎の中を彷徨うろつきます。


 そこでふと思いついたのが、実験棟でした。


 ついさっき私という人間の虚しさを感じたあの場所に赴きましょう。

 私は意外とMっ気があるのかもしれません。これはSっ気の強い男子にはたまらない武器になるんじゃないでしょうか?

 あ、男子で思い出しました。

 そういえば私、今日中に初恋の君のお姿を発見すると決めていたではありませんか。

 

 ん〜、この変に彷徨いていないですかね?よほどのレアキャラなのでしょうか?

 一目見るだけで満足なんですけど……。


 なんて考えていたら、入学以来2度目の『その時』がやってきました。


 実験棟に赴くために、仕方なく人の多いカフェテリアの側を歩いていた私の斜め前方に、あのお方が歩いてくるではないですか!


 ……網膜に焼き付けます!


 髪で目線を隠して、限界まで上目遣いをしました。痛い……これ毛細血管やられてますね。

 しかし、この位の代償は払わなければ釣り合いが取れないというものです。


 段々と近付いてきました!ちょっと、隣の見るからに軽薄そうな男子が邪魔ですね。むむ、その組んでいる腕をどかしてください。私に腐の素養はありません。 



 時が止まった感覚。


 入学式の時に起きたその現象を私はまた感じていました。


 知らず息を止めてしまっていた私は、『彼』が通りすぎると共に、呼吸を再開しました。


 別に何も悪いことはしていないというのに、この胸の動悸は何なのでしょうか?

 授業で当てられた時みたいに、嫌な感じではありません。

 何でしょう?苦しいのに、あったかいです。

 本当はもう少し近付いて何を話しているのか、その声を聞きたかったなあ。

 まあでも、それは欲張りってものですね。


 

 ああ、ほんとうに、良い日じゃないですかあ。

 

 窓なんて閉めなければ良かったとか、後悔してごめんなさい。

 これからも最後に教室を出る時は、ちゃんと窓を閉めていきますね!


 

 つい1時間前まで感じていた虚しさは、すっかり吹き飛んでいました。







 憧れの『彼』を再び目にした日の夜、夕飯を終えた私は、リビングのソファでごろごろしていました。相棒はトッポです。とっぽの方がかわいいと思うのは私だけでしょうか?


 いまだに上機嫌なので、お母さんの小言もどこ吹く風です。


 「ちょっと奏?いるー?」


 「いるよ〜。なあに?」


 「お父さんの部屋から、レンチ取ってきてくれない?机に入ってると思うから」


 「はあい」


 レンチ?レンチとはなんぞ?


 スマホで調べながらお父さんの部屋に向かいます。

 ほう、バールのようなものですか。違いますね。


 私はあまりお父さんの部屋には入りません。


 というのも、『お父さん』なんて呼んではいますけど、実のお父さんではないからです。

 別に悪い人ではないし、むしろ年頃の娘っていうのをきちんと気に掛けて、適度に距離をとってくれている所は私としてもとても助かっているのですが、実のお父さんの記憶をちゃんと持っている私としては、どこか他人の部屋。みたいに感じてしまうからです。

 それにお仕事が忙しくてあまり家で会う機会もありませんし。

 こんなこと、お母さんには絶対に言いませんけど。それくらいの良心は持っているつもりです。

 何より、幸せそうなお母さんの顔が見れているので、別に良いのです。

 お弁当もちょっと豪華になってますし。


 そんなことを考えているうちに、到着。お邪魔しま〜す。


 見慣れない部屋の机を開けていきます。


 おやおや?写真たてがあるじゃないですか。


 夫婦のラブラブ写真でも隠しているんですかね?意外とちゃんと夫婦っぽいことやっているじゃないですかあ。

 なんて、つい出来心で引き出しにしまってあった写真たてを手に取りました。



 「え……?」



 ゴクリ。と、音が鳴るのがわかりました。

 遅れて、それが自分の喉から出たのだと気付きます。


 咄嗟に私は、お母さんがこっちにやってきていないか聞き耳をたてました。

 大丈夫なことを確認して、スマホを起動します。


 パシャっと小さく鳴る機械音にびくつきながらも、撮ったそれを確認します。


 上半分を裏側に織り込まれた家族写真と思われるもの。

 夫婦と思われる下半身しかない男女に挟まれるようにして写る2人の子供。


 その大きい方。まだ幼さの残る少年の顔は、私の初恋の彼とそっくりでした。


 自分でも、よくない事だとはわかっています。


 けれどたぶん……偉い人が言ってました。


 見つかる方が悪いのだ、と。


 ……たぶん、言ってました。


 「奏ー!まだー?」


 「あ、ハイ!ただいま〜」


 写真たてを素早く戻し、急いでレンチのようなものを発見した私は、お父さんの部屋を後にしました。



 お母さんにブツを渡し、そそくさと部屋へ逃げます。


 

 「……ふう」


 安全地帯(自室)へと逃げ込んだ私は、スマホの写真を開きます。


 画面に表示される『彼』……ではないけれど、成長した初恋の『彼』によく似た男の子の写真。



 2人が同一人物なんて物語みたいな話があるわけがない。



 現実という無慈悲なものを知っている私は、そんな運命めいたくだらない妄想をため息ひとつで消し飛ばします。


 

 でも、それにしてもよく似てますねっ!かわいいです!


 手に持ったスマホを見ながら、今日再会(厳密にいうと再会ではないです)した彼の姿を脳裏に描きます。


 この子が順当に成長したらあんな感じになるんですねえ〜。

 つまり!あの人が幼かった頃はこんな感じだったんですねっ!


 鼻血が出そうでした。なんて……なんってかわいいのでしょうか。


 「いやっほーう」


 ベットにダイブします。これでもう、あの人の姿を忘れてしまうこともないでしょう。写真を開くだけで、いつでも大人verと子供verを堪能できます!……大人の方は、脳内補完ですが。

 ああ……ほんとうに何て良い日だったんですか今日は。


 この翌日から、私は中学時代に流行っていた恋のおまじないに15歳にもなって傾倒していくのでした。






 「あれ?八色さん髪型変えた?」


 「あ、ハイ。えっと……変えて、みました」


 「えー超似合う!ちょっと大人っぽくなったよね!」


 「え、その……あ、あはは」


 「え、なになに?どったの?」


 「八色さんの髪!めっちゃ似合ってない?」


 「お?おー!ローツインテいいね!可愛いっ」


 「え?え?」


 「めっちゃ困ってるー!やだもう可愛いんだけどっ!持って帰っていい?」


 「いやお前にはやらん」


 「こーら!八色さん驚いちゃってるでしょ?あんまり困らせないの」


 「げえ……いいんちょ、ちょっとまっ……引っ張らないで」


 「ごめんね八色さん。この子にちゃんと言い聞かせておくから」


 「あ、ハイ……」




 ……何が起こったのでしょう?


 

 1週間分の会話をしたような気がしたのですが。気のせいですかね?

 気のせいですね、私全然喋ってませんでした。


 呆然とした頭で今の会話を思い出してみました。


 ……可愛い?持って帰る……似合ってる?言い聞かせる……。


 ……これは、いじめの前兆でしょうか?


 確かに私は今日、髪型をちょこっと変えてみましたけど、それだけでいきなりフレンドリーに話しかけられるとか、そんなラブコメみたいな事起きるわけないですよね?そもそも相手は女子なのでかなりニッチなラブコメになってしまいますね。それはそれで需要がありそうです。うぇへへ……。



 おっといけない、ついトリップしてしまいました。


 窮地を助けてくれた委員長には感謝です。さすがコミュ強。おっぱいが大くなるご利益を授けましょう。


 

 今の様に私に話しかけてくれる女子生徒もいるのですが、どうにもテンポがあわなくて、私がわたわたしたり、言葉の意味を反芻している間に次の話に移っていたりするので、私は上手く立ち回れません。

 昔からこうです。だから今更どうという事もないのですが、その度に申し訳なくなるのです。

 本当はわかっています。さっきの子たちは普通に私に話しかけてきてくれたんだって事くらい。


 中学でも、最初はこうやって話しかけてきてくれていたのですから。でも。


 せっかく話しかけてきてくれたのに、何も返せないことが申し訳ないのです。


 せっかく仲良くしようとしてくれるのに、鈍臭い私のペースに巻き込んでしまうのが恐ろしいのです。


 ほんとうは仲良くしたいのに、仲良くなった後で愛想を尽かされるのが怖くて、入っていけないのです。


 私が何かやらかして、話しかけにきてくれなくなってしまうくらいなら、今みたいにあまり会話もせずにいるのが、分相応なんです。


 だから私は、今日も一人でご飯を食べるのです。


 上手くクラスに溶け込めないから。


 幸い、ご飯に誘われることはもう無くなっていたので、私は静かに教室を後にしました。



 そして私は、お昼ご飯を食べに向かったその先で3度目の『その時』を迎えました。



 

 今日、私は『今の彼』の写真を手に入れたのです。


 リザルト。彼の写真(盗撮)、生徒手帳(落とし物)。


 まごう事なくS評価ですね!髪型を変えたおかげもあったのでしょうか?










 ゴールデンウィークが空けてしまいました。


 今朝はほんとうに学校に行きたくなくてお母さんに怒られるまで部屋でぐずぐずしていたのですが、今は学校に行って本当に良かったと思っています。

 お母さん、叱ってくれて、ありがとう。五、七、五。


 今は自分の部屋で今日起こった出来事を振り返っている所です。


 もう何度頬をつねったかわかりません。

 力もないし、ほっぺがよく伸びるのであまり痛みを感じないのです。


 でも、でもですよ。

 今も耳に残る彼の−−−月岡くんの声を思い出します。



 『慌てなくて大丈夫だよ。何か言いたいことがあるなら、ゆっくりでいいから』



 「あ……あう……うう」


 自分でも聞いたことのない声が口から漏れました。

 表情筋がボイコットしてます。引き締まる気配がありません。


 思い出すたびにこれです。さっきは鼻血も出ました。


 それにしても……


 なんなのですかっ!なんなのですかあ!


 え?私の人生もしかして恋愛ゲームでした?


 息遣いがずっと荒いです。なんですかこれ。死んでしまうのでしょうか?


 水筒を取り出して残っていたお茶を飲みました。一息つかないと多分倒れます。


 「……ふう」


 水分のおかげか、少しだけ冷静になれました。


 両手を頬に当てます。すごく熱い。きっと頬を引っ張ったせいじゃないんですよね?これ……。

 だって……。


 「わたし……喋った……」


 「月岡くんと……喋ったんだ……うぇへへ」


 声に出していました。ただ彼と喋った。それだけで、こんなにもドキドキするなんて。


 「……逃げちゃった」


 口に出した途端、身体を風が吹き抜けていく様でした。


 そうなのです。ゴールデンウィークに入る前に拾った生徒手帳を返しに行ったのは良かったんです。


 そこまでは順調だった筈なのに、彼に渡したと同時にほんの少し指先が触れてしまって、気付いたら逃げ出してしまっていたのです。


 ……たぶん、生きてて1番足早かった。



 「あぁああぁあ……ぜ、ぜったい変な子だと思われたよお……」



 絶望しました。


 ただ写真を眺めているだけで満足していたのに、落とし物箱に生徒手帳を入れるだけでも良かったのに、わざわざ「自分の手で返したい」だなんて変な欲を持っちゃったから、こんな失態を犯すのです。


 「……さいあくだあ……」


 最悪なのです。それなのに、それなのに、私の頬は緩んだままなのですから、どこまでお気楽な人間なのでしょうか?恋愛してる子ってみんなこんな風になるんですかね?


 だとしたら、全ての女子を尊敬します。


 ほんとうに今まで小馬鹿にした中学時代の人たちもすみませんでした。

 バカは私でした。反省します。あなたたちはスゴかった……!



 結局私の表情筋は、寝るまで仕事に復帰しませんでした。




 この時の私は分かろうはずもなかったのです。


 少し彼と話しただけでこんなにも浮かれていた自分が、その次の日には彼と一緒に勉強をしてしまう事なんて。

 

 あろう事か、初恋の男子に口からご飯をぶちまけてしまう事になるなんて。






 


 ……ぜつぼう



 私の脳内を埋め尽くすのはこの言葉のみでした。


 今も昼休み明けのどこか眠たげな空気が漂う教室を、先生の声と板書する音だけが聞こえてきます。


 ……消えて無くなってしまいたい。


 「……はぁ」


 もう何度目かわからないため息が勝手に出ます。


 でもごめんなさい先生。隣接する席の方々。止められません……。



 「じゃあこの問題を、八色−−−は、ちょっと辞めとくか、尾形。答えろ」

 

 「えおーい!そこで俺っすか!」



 −−−わはははは



 「……はあ」


 集中してないのが伝わってしまったのでしょうか。指されたのに飛ばされました。先生、一生ついていきますね。尾形と呼ばれた男の子、ごめんなさい。話した事ないので許してくれとはちょっと言えません……。


 今も尾形くんの起こした笑いが残る教室で、私はさっきまでの私を思い出してはため息をついてしまいます。


 だってそうじゃないですか。


 嬉しいと恥ずかしいが一片に来ただけでもあんなに苦しかったのですよ?


 それなのに……それなのに……あまつさえ、私は……。



 「……ごはん」


 「……ど、どうした八色?お腹空いてるのか?」


 「……はぁ」


 「八色さんこれ食べる?飴だけど」


 「あ、いえ。授業中なので大丈夫です。すみません……」


 「おーいお前ら良いから、今日はそっとしといてやれ?な?俺も今日は当てないから。あと飴はしまっとけ」



 ……ああ、注目されてしまっています。


 いつもならこんな状況になったらパニックになってあわあわしてしまうだけなのに、今はなんかもうどうでもいいです。返事も普通にできた気がしました。

 これが無我の境地ってやつですか?だとしたら代償が大きすぎませんかね。


 そんなふうに最大級の落ち込みをしていた私に追い討ちを掛けてくる者がいました。脳です。


 脳が勝手にリフレインしてきます。


 

 『あ、リスの子だ』



 『ぶほっ』



 −−−ぶほっ、ぶほっ、ぶほっ、ぶほっ、ぶほっ、ぶほっぶほっぶほっぶほっ


 

 

 ……あああぁああぁあぁ!死にます!私!死にますっ!いややっぱり死ぬのは無理なので学校しばらく休みます!


 なんで我慢できなかったんですかあ!どうしてご飯吐いちゃったんですか!お母さんがあれほど口に詰め込みすぎるなって言ってたのに、なんで懲りずにやってしまうんですか!



 私のご飯(直喩。直輸入の直喩でもある。ダブルミーニングですね。我ながら上手いです。上手いもダブルミーニング……)を顔に付けた月岡くんを思い出します。ああああ違います!くだらないことを脳内で考えている場合じゃない……。


 ……うぅああぁあああっ


 怒ってなかったけど……!怒るどころか普通に話しかけてきましたけどっ!



 そこまで思い出してハッとしました。


 そうです、そうなんです。


 月岡くんは、私が口からご飯を吐きかけたというのにも関わらず、怒るどころか普通に話をしてきてくれたのです。それに、それに何より−−−



−−−『よろしく、奏。君、勉強大丈夫か?』



 あんなことをしでかした私を。勉強に、誘ってくれたのです。


 「……うぇへへ」


 「……八色?お前ほんと大丈夫か?やっぱ腹減ってんのか?」


 「うぇへへ」


 「八色さんこれ食べる?チョコだけど」


 「……うぇへへへ」


 「……はあ。はい、次のページ行くぞ」




 さっきまであれほど絶望のみだった私の頭に、『嬉しい』が蘇ってきてくれました。

 そうだ、そうですよ!私、これから月岡くんと勉強できるんです!

 偉いですよ私!よくぞ勇気を振り絞りましたっ!

 完全に欲望に負けただけですけど……。


 

 午後の授業は、あっという間に終わりました。


 机にチョコが置かれていたんですけど、誰でしょう?美味しかったです。






 

 こ、こんにちは!良いお天気ですね!


 よし、大丈夫です。これなら行けます。落ち着きましょう。大丈夫です。



 私は今、1組の扉の前に居ます。


 月岡くんと放課後に勉強をする事になって、いざ放課後になり彼の教室に向かおうとしたのですが、緊張のあまり気持ち悪くなって20分位トイレに篭ってしまいました。


 だから大丈夫。もう吐くものもありません!女子としては大丈夫とは言えませんが、誰にもバレてないので大丈夫です。口腔ケアも問題なし。



 そっと窓から中を見まあああ!い、い、居ます!


 ひい〜……ど、どうしましょう?


 なんて言って入るんでしたっけ?起立?いや違いますね……えっと、えっと……。



 「何してるんだ?入ったら?」


 「っひ……!」


 「?どうした?時間もそんなに無いし、早く始めようか」


 「あ、ハイ……うぇへへ」


 


 わああああああああああ!迎えにきてくれましたあ!


 な、なんですかこれ!なんですかこれえ!彼シャツってやつですかこれ!?違いますねっ。うわあああどうしましょう!


 

 と、とりあえず月岡くんに着いていきましょうっ……!



 「……なあ、なんで僕の後ろに立ってるんだ?」

 

 「え、あれ?えっと……あれ?」


 

 完全に脳がお休みしていました。


 月岡くんがゴルゴだったら私ぶん殴られてます。


 自分でもなんで背後を取ってしまったのか、返答に窮していると、月岡くんが空いていた机を自分のそれへとくっつけてくれました。紳士ですねえ!やばいです!語彙力も仕事をしなくなりますね!

 


 「えっと、その、あ、ありがとう……ござる」


 「ん?あ、ああ。とりあえず、座ったら?」


 「ひゃい……」


 

 噛みました。ダブルです……。


 どうしましょう……私今日から月岡くんの前で『ござる』口調でいないとだめなんですか。ご先祖さんきっと農民ですよ。


 「じゃあ、改めてよろしく。昼休みの終わりに言ったやつ、持ってきた?」


 「あ、ハイ……で、ござ……」


 「ん?」


 無理です!ござるはさすがに恥ずかしいですよっ。素直に謝ります?どうしたら良いんですかお母さん……。


 「あ、これです。えっと……どうぞ」


 「ありがと」


 結局ござるを華麗に無かった事にした私が渡したのは、4月に行われた実力試験の答案用紙でした。

 

 真剣な表情で見ていく月岡くん。素敵です。お、睫毛が長いんですね!爪楊枝は余裕じゃないでしょうか?


 「……なあ、奏。一つ聞きたいんだけど」


 「あ、ハイ。なんで、しょう?」


 「君、これテスト当日具合が悪かったとかじゃ無いよな?」


 「えっとー……あ、ハイ。とっても元気でした。」


 「……そうか」


 「え?あ、あの……何かございましたでしょう、か?」


 「ああ、大問題だな。僕の想定していたよりボロボロだ。これじゃ小高と同レベルだぞ……」


 小高さんという方が誰かはわかりませんが、怒られてしまいました。さっきよりもちょっとだけキツめの口調がカッコいいです。やばいですね。先生とか似合いそうです。家庭教師なんてベストかも知れませんよ!眼鏡もお願いします。


 「……うぇへへ」


 「笑ってる場合じゃないよ。今日はともかくとして、明日から教科ごとに課題作ってみるから、奏もできたら家で復習してごらん」


 「あ、ハイ。すみません……うぇへへ」


 「……はあ。本当にわかってるのか……?」


 「ハイ、大丈夫。ですっ。つきっきりで勉強、です……よね?」


 「家で、復習、して来い、だ!」


 ああっ……トリップして聞いていなかったのがバレました……。

 どうしよう、愛想尽かされちゃいますかね……。


 「えっと、そのう……ごめん、なさい」


 「え?何が?……よくわからないけど、別に謝らなくても良いよ。まあ、すぐには結果出ないかも知れないけど、一つずつきちっとやっていこう」


 「あ、ハイ……」


 

 月岡くんの言った言葉の意味を理解するのに時間を要しました。


 だって、完全に愛想を尽かされると思い込んでいたから。だから、この時はほんとうに嬉しかったんです。

 私が色々失敗しちゃったり、話聞いてなかったりしても、怒らないでいてくれる月岡くんがとても、眩しく見えたんです。




 でもなんでそんなに、優しい目で私を見てくれるんでしょうか?




 こうして、私の記憶が飛び飛びの中、彼との初めての勉強は終わったのでした。

 『彼との勉強』って響き、なんかちょっと背徳感があって良いですよね。


 ほんとうにこの時の私は、信じられないくらい幸せでした。



 だからきっと、この日がピークだったんだと思います。


 





 

 今日から9組の水原笑美さんが一緒に勉強をするようになりました。


 ほんとうに綺麗な人でびっくりしたんですけど、それよりも今の私には気になっていることがあります。


 だから多分、いきなり初対面の人と一緒になってもあまり慌てないでいられたのかと思うんですけど、でも。あまり素直に喜べそうもないです。



 最初に疑問に感じたのは、最初に勉強を見てもらった時でした。

 私が全然話を聞いていなくても、変な返事をしちゃっても、彼は怒るどころか色々真剣に考えてくれたりして、優しいなあって思っていたんです。

 特に、彼の私を見る目が、ほんとうに、優しかったんです。


 ただただ仏のように優しい人だって、最初は思いました。

 でも、それにしてはどこか違うところを見ている。そんな漠然とした『勘』みたいなものが働いたんですけど、鈍臭い上に人とまともにコミュニケーションを取って来なかった私の感なんて当てになるわけないですって、言い聞かせていました。


 でも、2回目、3回目って、月岡くんとの勉強を行う度に、どんどんあの目線が増えていくんです。


 ……何ででしょう?彼は一体、何が見たいんでしょうか。それともほんとうに私のただの気のせいなのですか?幽霊が取り憑いてるとかじゃないですよね?


 頭の中は、はてなマークだらけでした。


 だから私は考えました。


 きっと頭の良い人ならもっと確実で堅実で手っ取り早い方法を思いつくのかも知れませんけど、私はこれしか思いつかなかったのです。



 『色々な行動をしてみて、彼の目がどう変わるか確かめる』



 これです。だから、だからその為に私は、女子になります!



 そこまで決意して、私は再度自室の机に向き合いました。


 ここ最近では課題とかノートとか、教科書なんかばかりを広げていた机。


 けど今の机には教科書は教科書でも、女の子の教科書が乗っています。


 メイクはさっきお母さんに教えてもらいました。

 私は肌がありがたい事に綺麗だったので、「ベースメイクと仕上げのみにしなさい」とのことでした。よくわからないのでお母さんにお任せしました。私用の化粧品をすぐに買ってきてくれたお母さんには今度肩叩きでもします。ありがとう。


 その流れで爪もピカピカにして、スカートも上手いこと上げてもらいました。

 お母さんが私よりJKでちょっと怖いです。夫婦でそういうのとか、やってないですよね?……ちょっと想像したら気持ち悪くなりました。


 今まであんまりこういった雑誌なんかは見てこなかったですけど、意外と見ているだけでも楽しいものなんですねえ。


 おっといけない。やることをささっと終わらせて、今日は寝ましょう。

 夜更かしは、美容の大敵なのです。






 

 今日もまた放課後になりました。


 あれから、『彼の目がどう変わるか確かめる』と決めた日から、あっという間に時間だけが過ぎていきます。


 コロコロとおにぎりが転がってしまうみたいに、どんどんどんどん、取り返しが付かなくなっていく感覚ばかり覚えてしまいます。


 ここ最近、色々試してはその感覚が強まっていくのを感じるだけの日々です。


 好きな男の子と一緒に勉強できて、楽しいのに、苦しいんです。


 苦しくなりたくなくて頑張ると、もっと苦しくなるんです。

 笑っちゃいますよね。


 今日も色々とやってみました。でも、全部ダメでした。


 今、月岡くんは私の前で答案を見て採点してくれています。


 きっともうすぐ水原さんもやってくるでしょう。


 ほんの少し前までは、2人きりの空間が脅かされるなんて考えていたこともあったのですが、今は水原さんが来てくれるのが待ち遠しいって気持ちもあります。


 だって、彼女はきっと私と同じで月岡くんが好きだから。


 ライバルなのに何を言ってるんでしょうって思うかも知れないですけど、でも私はほんとうに嬉しかったんです。


 綺麗で、優しくて、頭が良い。そんな彼女も私みたいなのと同じ人を好きになるんだって、ずっと自分は皆と違うって思ってきたけど、誰かを好きになるっていう部分だけは同じなんですって、そう分かったんですから。


 でも、ほんとうは彼女が羨ましいです。

 だって水原さんは、月岡くんに『あの目』で見られないんですから。


 ちゃんと水原さんは、水原さんを見てもらえているのですから。


 

 「奏、答え合わせ終わったよ。よく出来てる、頑張ったね」


 そう言って、『あの目』で微笑んでくれる月岡くん。


 「あ、ハイ……あはは……ありがとう、ございます」


 「じゃあ次、これね」


 そう言って『あの目』で手渡してくる月岡くん。



 ……ああ、またです。


 ……また、その目です。


 

 心臓が、煩くなります。前は嫌じゃなかったドキドキだったのに、今はもう、彼に『あの目』で見られると、とても嫌な音が鳴ります。


 それが心臓の音なのか、私のもっと深いところの音なのか。

 私には判別できませんでした。


 いつの間にか水原さんが来ていました。こんにちは。今日も綺麗ですね。


 どうやら私の気持ちは、バレてしまったみたいです。

 だって彼女、すごく悲しそうな目で私をみてくれましたから。

 ほんとうに、優しい人なんですね。悲しくなるくらい、優しいんですね。



 水原さんは私の行いもきっと気付いているのでしょう。

 気付いた上で、私の好きにさせてくれているのだと思います。


 でも、もう十分です。

 今日で、今日まででわかりました。




 確信に、変わっていました。


 私が何をしても、彼は驚くことこそあれど、そのすぐ後には『あの目』で私をじっと見てくるのです。

 ノートを渡すのを躊躇ったり、渡す時に引っ張ってみたり、ちょこっと足を蹴ってみたり、シャーペンで突っついてみたり、消しカスを飛ばしてみたり、恥ずかしかったですけどシャツの第2ボタンを開けてみたり、メイクもして、爪も磨いて、スカートも上げて、もっと仲良くなりたくて敬語を外そうとしてみたり、『私』を見て欲しくてじっと見つめてみたり。……思いつくことは全部ぜんぶやりました。


 けれど……けれどどんなに驚かせても、そのすぐ後には『あの目』になるんです。


 そうやって、私の中に誰かを探そうとするんです。


 私なんて居ない人みたいに、私に誰かを感じているのです。


 もうこれ以上、私には何も思いつきませんでした。



 両手を見つめます。この手はほんとうに私のものですか?


 教えてください。私の中に、誰がいるんですか……?


 あなたは聞いたら、教えてくれるのでしょうか?


 それとも……ただの私の勘違いだよって、そう言って安心させてくれますか?


 



 「奏さん」


 「あ、ハイっ。えっと、な、なんでしょう?」


 「……ううん、もう帰ろ?」


 そう言われて、教室の中に私たちしか居ない事に気が付きました。


 どうやら月岡くんは先に帰ってしまわれたようです。


 「あ、えっと……わたし」


 「大丈夫、ちゃんと挨拶もしてたし、気付いてないと思う」


 何になんて、言わなくてもわかりました。


 きっと水原さんが助け舟を出してくれたりして、違和感の無いようにお別れしたのでしょう。ほんとうに、優しいです。


 「あの……ありがとう、ございます」


 「ううん。ね、ちょっと話さない?」


 優しい顔。ああ……ほんとうに、優しい顔ですね。

 私をちゃんと見てくれているんですね……。


 だから自然と、水原さんに「全部話したい」って、思えたんです。


 「あ、ハイ。えっと、わたしもその、話したいことがありまして……」


 「うんっ。なんでも話して!」


 わざとらしく胸を叩く水原さん。綺麗な人がやると様になりますね。

 そんな水原さんを見て、ちょっと落ち込んでいた気分が楽になった気がしました。


 「えっと、じゃあーそのう……わ、わたし実は、月岡くんの事がそのう、す、好き……でして」


 「おおう……いきなりストレートにくるのね」


 「あ、いえ……すいません」


 ああ……またやらかしてしまいました。2、3雑談を挟んでから本題に入るのが正解なんですかね?それとも言い方の問題でしょうか。


 「ううん、良いの。私こそ驚いちゃってごめんね?でも、嬉しい」


 そっと目線を移す。嘘はついている様に見えません。気を使ってくれている訳ではないのですね。


 「……嬉しい、ですか?」


 「うん、嬉しい。だって、奏さんの『そのまま』が聞きたいんだもん」


 そんな事を、さらっと言ってくれるんですね……。


 「あ、えっと、ありがとう……ございます」


 「いーえ。で、話戻すけど、奏さんがストレートに言ってくれたから私も言うね。……うん。私も彼が好き。って、奏さん気付いてたと思うから今更だけどね。ふふっ」


 「あ、ハイ……うぇへへ……でも、水原さんも、そのう……気付いて、ましたよね?」


 「もちろんっ。……うん、気付いてた」


 少し悲しげな表情に変わる水原さん。ああ、やっぱり『そっち』も気が付かれているのですね。


 「……じゃあ、つ、月岡くんが、私を……そのう」


 「……うん。気付いてる。……ほんっと、どうしようもないよね!女の子相手にしながら別の女の事考えるとかさ!ムカつかない?」


 ……わざと明るく言ってくれてるんですね。


 「そ、そうです……ね。ほんとうに色々、試してみたんですけど、あはは……やっぱり、ダメでした」

 

 何かを思い詰めた様な水原さんの顔を見て、また一つわかってしまいました。

 でも、それは水原さんに言わせちゃいけないんだって、恋愛初心者の私でもわかります。


 「奏さん……あのねじ」


 「水原さん。……良いんです。これは、きっと水原さんの口から聞いちゃ……ダメ、なんだと……思うんです。……あはは……変です、かね?」


 「っ……ううん」


 「だから……あはは……水原さんがそんなにな、悩まなくても、いいんですよ?」


 「っ……」


 おっと!いきなり抱きつかれてしまいました。

 うぇへへ……あったかいですね。

 そんなに泣いたらかわいい顔が台無しですよ。なんて、今の私が言えたことじゃあないですかね。


 

 私のために泣いてくれる水原さんを、ゆっくり抱き返しました。


 今はもう居ない私の『お父さん』が、小さい頃に言っていた事を、水原さんの泣き声を聴きながらぼんやり思い返してしまいました。




 


 まだ、私が小学1年生の頃でした。


 学校で友達のいなかった私は、先生に言われた言葉の意味がよく理解できなくて、お父さんに聞いたのです。



 「おとうさん。おともだちって、なに?先生がね、もっと作りなさいって言うの」


 「うーん、友達かあ。父さんは別にたくさん友達なんて作らなくても良いって思うよ」


 「そうなの?でも、先生はともだち100人作りましょうって、いつも言ってるよ?」


 「あっはっは!100人かあ、そんなに作るのは難しいな!父さんは100人も友達なんていないからなあ」


 「??じゃあ、おとうさんは悪い子なの?」


 「うーん、どうだろうなあ。奏はどうだ?お父さんが悪い子に見えるか?」


 「うーうん!おとうさんは悪い子なんかじゃないよ!」


 「だろう?だったら、友達100人居なくたって、悪い子にはならないんだ。だからそんなの気にする必要ないって、父さんは思うな」


 「うん!あ……でも、そしたら先生が……おこっちゃうかな?」


 「そんな事で怒ったりしないさ。でもそうだな、奏は友達、欲しいって思うか?」


 「うーーん……わかんない。どうやったら、友達になれるの?おはなししたら友達なの?」


 「んー、中にはそういう人もいるけどなあ、んうーなんて言えば良いか……なあ、母さん!」


 「知らないわよ。自分で聞き始めたんだから、最後までやり通してくださいっ。本当にダメそうなら変わるから。奏だって、お父さんのお話聞きたいわよねー?」


 「うんっ!そうだっ!ねえーおとうさんは、どうやって友達つくってるの?」


 「お、それなら答えられるな!良いか、奏。」


 「なあに?」


 「奏の為に、泣いてくれる人がいたら、その人とはきっと良い友達になれるぞ!父さんはそうだった!……奏も、今はわからなくても、覚えていなさい」





 


 泣き続ける水原さんの頭を撫でます。おかしいですね、さっきからずっと視界がぼやけてます。

 ああ、制服の肩がすっかり濡れちゃってますね。こんなに水原さんが泣き虫だったなんて、知らなかったです。


 知らなかったですよ。肩を抱き合うのが、こんなにあったかいだなんて。



 知らなかったんですよ。


 

 自分の為に泣いてくれる人が居るのが、こんなに……。



 ……ああ、お父さん。お父さんは、間違っていませんでした。


 

 ……間違ってなんて、なかったよ、お父さん……。




 この日、初めて私に女の子の友達ができました。


 最初の同性の友達がライバルって、なんだかおかしいですね。


 けどそれが私らしいって、そう胸を張って言えます。


 彼女が友達で良かったって、ちゃんと前を向いて言えます。


 





 下校時刻を完全に過ぎてしまい、見回りの先生に学校を追い出された私たちは、駅までの道を歩いています。


 水原さんとなぜか手を繋いでいます。恋人繋ぎなんですけど、どうしましょう。彼女、意外と甘えん坊なのでしょうか?

 手が柔らか過ぎて鼻血が出そうなんですけど。これが友達特権ですか!?

 これ、私が男子だったら完全に堕ちてますよ!あれ?俺のこと好きなんじゃない?って思って、自信満々に告白してあっさり振られてますよ!


 そんな事を考えていたら水原さんが鼻声で聞いてきました。



 「本当に良いの……?」


 明日、月岡くんに聞いてみるという私の決めた事について言ってるんだと思います。ずっと泣いてたから聞いてないかと思ったんですけど、秀才は泣いててもしっかりお話を聞いているものなのですね。


 「あ、ハイ。……わたしが辛いっていうのもあるんですけど、えっと、たぶん……月岡くんにとっても、よくないと、思う……気がするので。そ、それに……もしかしたら、わたしの勘違いかも、しれませんから……」


 「でも、だったら」


 ……本当に、私の友達は優しいですね。いけません、しみじみ考えるとまた視界がぼやけてしまいそうです。


 「良いんです。……あはは……良いんですよ、水原さん。えっと、そのう……わたしが言いたいというのも……あるんです。そ、それにちょっとだけ、憧れてたんです、よね。放課後に、えっと、男の子を呼び出すのって……うぇへへ」


 「……はあ。本当に、私も奏さんも厄介なの好きになっちゃったわね」


 「……ハイ」


 「もし認めないでシラを切る様だったら、ぶっ飛ばしてやるわ!」


 「うぇへへ……水原さんの細腕じゃあ、そこまではできません、よ?」


 「いいの!それでもぶっ飛ばすんだからっ!」


 「……水原さん、そのう、えっと……ごめんなさい」


 「ん?なにが?」


 「あ、ハイ。えっと……私のせいで、勉強会……そのう、出来なくなっちゃうかも、しれませんから」


 「だとしても、私は奏さんと友達だって思ってるよ。それこそ、もしそうなったらあんな男放っておいて2人で勉強すればいいのよ。ね?」


 「あ、ハイ。……うぇへへ、そう、ですね」


 「うん!あ、そうだ。ねえ、明日お昼一緒に食べない?」


 「えっ。い、いいんですか……?」


 「もちろん。もっと奏さんのこと知りたいし、どこで食べよっか?」



 

 こうして私と水原さんは、明日のお弁当を一緒に食べる約束をしたのでした。



 初めての女の子と食べるお弁当ですよ。

 私にもそんな日が来たんですね。


 連絡先も交換した水原さんのおかげで、その日は寝るまであまり悪い事ばかりを考えないで済みました。


 彼女が友達で、良かったです。





 そうして私は、『その時』を迎えました。


 

 

 結果は、やっぱり予想通りでした。

 でも、嘘をつかれてしまうよりは良かったと思うんです。



 ……ああ。


 

 これが女の勘っていうものだというのでしたら、私はそんなもの、欲しくなかった。

 







 

 

 どれくらい眠っていたのでしょうか。


 ぼやけた視界で部屋を見渡しても、暗くて何にも見えません。


 そのままぼうっとします。



 ちくたくと、時計の針の音だけがいやに大きく聞こえます。



 段々目が慣れてきたのか、部屋の中が薄ら見える様になりました。


 電気をつけるのも億劫で、這う様にして床に置いてある鞄を手に取りました。


 中を開けて、ノートを取り出します。


 「……はぁ」


 おっと、ため息が出ちゃいました。


 これじゃあ幸せが逃げてしまいますね。


 「……ぁはは」


 いつもみたいに無理して笑ってみます。

 もう逃げる幸せなんてないのに、笑ってみせます。



 「……ぁはは……はは……っ……」



 あれ、おかしいですね。



 「……おかしいな」


 「……おかしい……おか……っぅ……しい、な」



 おかしいです。


 おかしい。おかしいです。


 あんなに覚悟したのに、あんなに泣いたのに。


 「……うぅっ、ぅああっ……っ」


 なんでまだ、涙が出るんですか。


 月岡くんとの思い出が、どうしてこんなに溢れてくるんですか……。


 なんで、あの目を思い出してしまうんですか……。


 「……みな、いで……くださぃっ」


 思い出と後悔が同居して、私の中はもういっぱいなんです。


 「ぅう……み、ない……っで」


 あなたに見つめられて、あんなに嬉しかったのに、今はそれが感じられないんです。


 「うぁぁっ……しら、ないよ」



 私の中に、私の知らない誰かを探さないでください。



 ほんとうはずっと気付いて欲しかった。



 私の中には、わたししかいないんです。



 私をちゃんと、見て欲しかった。



 「そん、なひとっ……しらない……っ」



 彼に今日渡せなかったノートを抱きます。



 「あぁぁっ……っぅ……ぅうあっ……」



 彼に今日伝えられなかった恋を抱きます。

 


 きっと、ばちが当たったんだと思います。



 遠くから眺めているだけで満足だったのに。



 それだけであんなにも満ち足りていたというのに。



 一度声をかけられただけで、欲張ってしまったばちが当たったんです。



 どなたか知っていたら教えてください。




 どうすれば、時間は戻ってくれるのでしょうか。 



 どうすれば、彼と会う前の私に戻れるのでしょうか。



 どうすれば、あの人の望む私になってあげられるのでしょうか。



 どうすれば、私は彼に見てもらえるのでしょうか。



 どうすれば、この胸の痛みは無くなるんですか。




 誰もいない暗い部屋。


 

 ちくたくと、時計の針の音だけがします。



 ちくたくと、今も一分一秒を刻んでいます。



 ちくたく、ちくたく、と。一秒ずつ。




 その音と一緒に、私の恋が刻まれていく様に感じました。



 流れ続ける涙を拭いもしないで、その音を聞き続けます。




 ちくたくちくたく。



 ちくたくちくたく。



 ……どうすれば、この胸の痛みは無くなるのですか。



 そんな問いは、誰にも届いていませんでした。



 ちくたくちくたく。



 ちくたくちくたく。




 秒針の音が、失った時間を正確に刻むのみでした。






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