最終話 ぼくのじぶんのだましかた
自己犠牲という言葉がある。
この言葉の意味を知らない人というのもなかなか居ないとは思うけれど、念のため確認しておこうと思う。
『何らかの目的や他者の為に、自己の時間・労力・身体・生命を捧げること』
こうして改めて見てみると、この言葉の持つ”強さ”みたいなものを感じることができると思う。
一重に自己犠牲と言ってもその種類はいくつかあると思っていて、でも僕はその大半は実は違うのではないかと考えるのだ。
僕が真に思う自己犠牲は、先の説明文の最後の一単語”生命”の部分だけだ。
例えば、「出産をすると自らの命の保証はない」と言われ、それでも尚産まれてくる我が子の為にそれを決意する、とかだ。
これはあくまで僕の考えであって、この考えを誰かに強制したり何かはしないし、そもそも他人とこんな賢しらめいたことを論議する気にもならないのだから。
なら何故こんなことを僕が並べ立てているのかというと、『嫌い』だからだ。
世間一般で使われている様な『自己犠牲』という言葉それそのものが、僕は嫌いだからだ。
例えばドラマや恋愛なんかでも良い、相手のために自分を犠牲にする−−そんな展開は誰でも一度は見たことがあるのではないかと思う。
ありふれていて使い古された展開ではあるから、直近で見たことはなくとも記憶を掘り返せば心当たりはあると思う。
けれど、それに僕はどうも共感できないのだ。
−−本当に、他者の為だけなのか?
そうやって、穿って見てしまうのだ。
確かに誰かのため、そんな気持ちもあるのかも知れない。
けれど、「違うだろう?」と、思ってしまうのだ。
−−「心のどこかには、”自分の為”っていう感情があるだろう?」
そう、考えてしまうのだ。
もう諦めたかった、悦に浸りたかった、自己陶酔していた、これ以上辛い道を歩みたくなかった−−何でも良いけれど、自分にむけた何がしかの感情が1ミリもなかったなんて嘘だろう?
そうやって、考えてしまうからだ。
きっと、きっとそれは−−どこかで恐れているから。
本気で、自らの全ての感情で、何もかもを投げ打って−−誰かの為に犠牲になる。
そんなある種究極の美談めいた事を、そんなことが出来てしまう人が居ることを恐れてしまうから。−−だから、嫌いなのだ。
一度だけ、言われたことがあった。
−−「自分を犠牲にしなくたって……良いんだよ!」
その時僕は、激昂した。
自分の今やっていることは、これからすることは、何も自己を犠牲になんてしていない。
そうやって、激しく憤りを感じたのだ。
だって僕は、何一つとして諦めてなんていなかったのだから。自分を犠牲にしているなんて、欠片も思ってなどいなかったから。
取り返しのつかない過去はともかく、将来も、現状もどれ一つとして諦めてなんていなかった。もちろん『自分の為』という思いも強く持っていたから。だから自己犠牲なんて言われる様なことはしていないと、そうやって怒ったのだ。
だから僕は、自己犠牲を嫌う。
これを人に押し付ける気はない。それはさっき言った通りで。
でも、他人のそれを止めないのとは、また別の問題だ。
長々と話してしまったけれど、詰まるところ今回は何が言いたいのかと問われれば、こう答える他ないと思う。
自分の為に他人を助ける。そう言い聞かせた自己欺瞞の話だ。
※※※
「こ、こんにちは……です」
そう言って放課後の教室−−僕のクラスでもある1年1組の扉を開けて入ってきたのは、八色奏だった。
僕が座っている正面の机に荷物を置いて勉強の準備を始める奏は、背中まで伸びた地毛だと言う暗めの茶髪を首のあたりで二つに結んでおり、ボストンタイプの野暮ったい眼鏡に隠されてはいるが、整った顔をしている少女だ。
少女で、僕の勉強仲間だ。
ここで「僕の友達だ」と、はっきり言えればよかったのだけど、奏とは知り合ってから2週間近く経つも、つい昨日まで僕はしっかりと目の前の少女のことを見れていたわけでは無かったのだ。
そんな自分の過ちを謝罪し、昨日の夕方に彼女に許してもらえた僕が、安易に友達だと言ってしまって良いのかは、少々疑問の余地がある。
僕の心情など知る由もないであろう奏は、勉強道具を準備し終わって、昨日の帰りに僕が渡したノートをおずおずと差し出して来た。
「ゆ、悠くん……持って、来ました」
「お疲れ様。じゃあ採点してる間こっちやってみようか」
そう言って用意して来たノートを手渡す。
僕のことをじっと見つめてくる奏の目に、ほんの少しの不安の感情を感じた僕は、安心してもらえる様にしっかりと目を合わせて頷く。
他人が見たらただ見つめあっている男女の図になりかねないが、僕と奏に限って言えば、これは確認作業の一つだと思っている。
僕が”奏”を見れている。昨日謝罪して許してもらった僕が、継続して彼女に安心してもらう為、自らの言葉に嘘は無かったのだと証明する為のものなのだから。
意味が伝わった奏は安心した様に眼鏡の奥の瞳をゆるりと曲げて、笑みの形を作った。
奏の笑顔が見れている。それがとても安心できて、僕もつられて笑顔になった。
しかし、すぐに奏の顔はその色を変化させていき、しまいには俯いてしまう。
「あ、あの……あんまり見られると、その……恥ずか、しい」
「あー、ごめん。……確認、してるんだろうなって思ってさ」
何を、とは言わなくても伝わると思った。
「あ、ハイっ……それは、もう大丈夫……です。ゆ、悠くんのこと……信じてる、ので」
「……そっか、それは−−嬉しいな。いや、本当にさ……ありがとう奏」
「あ、ハイ……ど、どういたしまして」
本当にだ。
一度失ってしまった信用を取り戻すのは容易ではないのに、奏はそれでも僕を「信じている」と言ってくれたのだ。全部が本当なのか嘘なのかは関係がなくて、そうやって言ってくれた事自体が嬉しかった。
何がとは上手く言えないが、変な気まずさを感じた僕はノートの採点に移った。奏もそれを見てか、問題を解き始めた様だった。
しばらくそうして各々の作業に興じていると、不意に小さくお腹がなる様な音が聞こえた。
奏の方をみると、まだ何も言ってはいないのに「わ、私じゃないですようっ」と、わたわたとした動作で言ってきた。
……自白している様なものじゃないか。
まだ勉強を開始してそこまで時間が経過していたわけでは無かったけれど、丁度良いかと思い、用意してきておいた物を取り出す。チョコだ。
「奏、これ食べるか?」
「え?あ、ハイっ……えっと、良いんですか?」
「良いんですか?って聞くやつがそんなにすぐ受け取るか」
「あ、スミマセン。つい……うぇへへ」
「今朝学校に来るときに買っておいたんだよ。何だかんだと、いつも僕が貰ってばかりだったから」
「あっ……覚えてて、くれたの?」
言われてる意味はすぐに分かる。
僕が昔の彼女−−中学時代の水原を奏に重ねて見ていた期間の事だから、だろう。
未だ胸から完全には消え去っていない罪悪感を感じながら答える。
「……まあ、ね。正確に言えば思い出した。が正しいんだろうけど」
「うぇへへ……嬉しいです。わたしが、好きって言ってたやつだ」
「記憶力は良い方なんだよ。……ちょっと休憩にしようか」
あまりに嬉しそうにするものだから、こっちが気恥ずかしくなってしまい、無理矢理に話を変えた。
「ハイっ!」と元気よく返事をした奏は、僕が渡したお菓子を開けて早速食べ始めた。僕もお裾分けを貰い口に運ぶ。
「ん、意外と美味い」
「ハイ、そうなんですよ。……前持ってきた時は、要らないって、言われてしまったので……」
「あんまり甘いものは好きじゃないんだ。たまに食べたくなるけど、どちらかと言えばしょっぱい方が好きかな」
「あ、じゃあ今度しょっぱいので……えっと、おすすめなの、持ってくる、ね」
「ありがと、楽しみにしてる」
奏は勉強の休憩中によくお菓子を食べるので、僕なんかよりもお菓子の種類については圧倒的に詳しい。
彼女のおすすめなら食べてみたいと素直に思う。
しかし……。
「相変わらず、口に詰め込むんだなあ」
「んっ! ……ん〜−−んーん?」
頬にお菓子を詰め込んだ奏は、首を横に振りながら『ん』のみで何かを伝えようとしてくる。
……わかるわけないだろう。
「食べ終わってからで良いよ。……別にその食べ方が嫌いなわけではないし」
リスみたいだから。なんてここで言ってしまうと以前の二の舞になってしまう気がした為、口を噤んだ。
急いで飲み込んだのか、水筒に口をつけ「っふう」なんて大袈裟に息をついた奏は、嬉しそうな表情でこっちを見てきた。
「……何?」
「あ、いえっ!えっと……あってたよ。って」
「合ってた?」
「あ、ハイ。……この食べ方、つい癖で辞められなくて……えっと、良くないですよね?って、聞いたから……」
もじもじと相変わらず嬉しそうに言ってくれるところ悪いが、確実に言ってはいなかったと思う。
しかし言いたいことは分かった。
「一応言っておくけど感想を言っただけで、奏の言ってることが分かったわけじゃないからな?」
「あ、ハイっ。でも、そのう……うぇへへ……嬉しかったので、つい」
「そ、そうか……それは何よりだけど……でも、吐かないでくれよ?」
「そっ!……それは、ほんとうに忘れてくださいっ!」
「いや無茶言うなよ……僕だってあんなこと忘れたいけど、無理だっていう自信がある」
「も、もう〜っ…………うぅ……」
「ご、ごめん奏っ。悪かった……なるべく忘れる様にするから……たぶん」
「たぶんって言いましたっ……ぜ、ぜったい忘れてくれないやつだあ」
そのまま机に伏せてしまった。
どうにも奏の喋り方の癖というか、彼女が持つ性格というか。
感じたこと、思ったことを素直に言葉にしてぶつけてくる彼女と話していると、こう−−くすぐったい様なムズムズとした感覚に襲われるのだ。
だからつい、照れ隠しにも似た感じなのか、会話を逸らしてしまいたくなる。
逸らした結果、完全に会話のチョイスを間違えた僕は、奏をむくれさせてしまうのだった。
コミュニケーション能力の低さが顕著だった。
※
何とか奏に復活してもらった僕は勉強へと戻っていた。
ちなみに財布の中身は120円減っている。
奏に渡したノートの採点もひと段落つき、彼女の過去の問題の成否と今回のそれを見比べていた。
奏は、渡した部分の問題でわからないところでもあったのか、ノートから僕の方へと視線を向けてきた。
「どうした?」
「あ、いえ……水原さん、遅いなと思いまして……」
言われて時計を見る。確かに彼女が放課後にここに来る時間はもっと早かった。
「んー、水原も毎日来ていた訳じゃないからな。今日は用事でもあるんじゃないか?」
「そう、ですかね? ……でも、えっと、お昼ご飯食べた時は、そんなこと言って無かった、よ?」
「ああそうか、奏たち一緒に昼食べる様になったんだったね」
「ハイ。……放課後に会いましょうって、話してはいないんです、けど」
奏の言わんとしていることは分かる。
用事があるならその時に何かしら言うのではないか、ということだろう。
「なら、その後に用事でも出来たんだろう。明日は来るかもしれないし、強制しているわけでもないんだから、待っててあげよう」
「あ、ハイ。……そう、だね」
僕はともかく、奏は昼休みに会えるしな。
「まあでも、残念ではあるかな。奏に許してもらったこともきちんと会って話しておきたかったからね」
少しだけおどけて見せる。嘘では無い、水原が居たから彼女と仲直り−−否、関係の再構築ができたのだから。
「そう、ですね。私も……お昼はあまりその話が出来なかったので、ちゃんと……お礼、言いたかった、です」
「まあ、次来た時に言おうよ。水原涙腺弱いから、また泣かれちゃうかもしれないな」
「うぇへへ……そう、だね」
昨日の帰りと同じく、ここにはいない水原のことを思う。
当たり前だが、水原にもプライベートはあるのだ。別に毎日ここに顔を出さなければいけないなんていうルールは無い。
今言った様に、次来た時にしっかりとお礼を伝えれば良いだけ。
そうやって、どこか寂しさを覚えてしまう自分へと言い聞かせた。
結局この日、水原はやって来なかった。
※※※
翌日の昼休み、いつもの様に自分の机で昼食をとっていると、購買にパンを買いに行っていた小高大樹(高校で出来た僕の友人だ)が、にやにやとした嫌な表情で戻ってきた。見なかったことにする。
「おいおいおい! 面白い話聞いたぜ月岡っ! 聞きたいだろ?」
「遠慮しておく」
「だよなあ! 聞きたいよなっ! じゃあ聞かせてやるよ……良いか?」
「君は誰と話をしてるんだよ……」
「8組の”喜久田”って男が”水原さん”に中間テストで勝負を挑んだらしい」
この男から聞いてもいないことを聞かされるのは常なので置いておき、内容について考えた。
……水原が勝負ね、馬鹿馬鹿しい。
成績で勝負なんていう馬鹿げたことに彼女が乗るなんて思わなかった。
そんな僕の考えは、間をためる様にして発された小高の言によってあっけなく崩れる。
「……それでな、水原さんがその勝負受けたらしいんだよ!なんでも、首席は必ず守るって宣言したらしいぞっ!」
正直に言えば、驚いた。
けれど、すぐに何の信憑性も無いことだと思い直す。
「はぁ。その噂話の信憑性がどんなものか、疑わしいけど」
「まあそれは確かにあるな。けど実際、そう不思議な話でもなくねえか?」
「……首席を維持しようとするのは、当たり前ってこと?」
「その通りっ! 男共に塩対応の水原さんなら、どうせ首席をとるなら誰と勝負しようが関係ない。なんて思ってる可能性もあるんじゃないか?」
「どう思うよっ!」と、肩を叩いてくる小高をいなして考えてみた。
小高の言う通り、首席を死守しようとしているなら誰と勝負しようが関係ない。と言うのも考えられなくはない話だ。
けれど、それでも僕には水原がわざわざ『勝負』なんてことをするとは思えなかった。
入学当初のどこか張り詰めた様な水原だったらともかく、ここ1ヶ月と少しの間の水原には、そんな肩肘張った様子は見られなかったから。
だからどうしても、その噂話を信じる気にはなれなかった。
しかし、それとは別に気になることが出来た。なので、自称”情報通”とやらのこの男に聞いてみることにする。
「……なあ小高。その喜久田って、どんな男だ?」
「喜久田か。俺もまだ詳しくは調べちゃいないが、頭は大分良いみたいだなあ。……なんでも、『次席入学』したって自分で吹聴してるらしい」
「……次席、ね。だとしたら随分な自信家だな」
我が校では首席入学者は入学式での式辞がある為公にされるが、それ以外の入学時点での成績順位というものは発表されていないのだ。
その上で次席入学を自称しているのは、相当な自信の表れだと思われる。
……厄介なことにならなきゃ良いけど。
そこまで考えて、彼女と親しくしている三条千春さんのことを思い出した。
……まあ、三条さんがいれば滅多な事にはならないか。
水原からの話を聞くに、相当頼れる人物らしく(人様の盗撮を未然に防いだり証拠を押さえたりしているらしい)、頭もキレるのだとか。
「何だよ月岡。気になるのか?」
「そりゃあな。我らが首席様の一大事かもしれないんだろう?」
動揺をしない様に気を付ける。
この男は友人だけれど、僕と水原が『中学時代の同級生というだけではない関係』であることがバレたら、どんな弄り方をされるかわからないから怖いのだ。
「へいへい。相変わらずクールな返答で」
「小高が暑苦しいからこうやってバランスを取ってるだけだ」
「−−お前なあ。そうやって供給するから……」
−−ざわ……ざわ
ほんの少しこちらを見てくる女子生徒が増えていた。
僕と小高が話していると稀に発生する現象だった。
「……なあ、今回は何なんだ?」
「知るかっ!毎回尻拭いする俺の身にもなってくれ!」
盛大にため息をつく小高。どうやら彼にはよくわからない場所で助けてもらっているらしい。実感も何もないので感謝しようもないが。
「……ところで、さっきの噂話なんだけどさ、もう少し調べることって出来そうか?」
「へぇ……珍しいな。どういう風の吹き回しだよってのは、まあ聞かないで置いてやるよ。俺もこの件に関してはもうちょい情報の精度を上げたかったからな」
「そうか、ありがとう小高。いつも助かるよ」
素直に感謝した。僕では到底出来ないことを彼は難なくやってのけるので、そう言った部分では尊敬すらしている。決して本人には言わないが。
「おい……頼むからその笑顔でお礼はやめてくれ……お前、実はわかっててやってないか?」
「……何が?」
「いやあ……もういい」
そう言って小高は机にもたれ掛かり、昼食を続行した。何が不味かったのかいくら聞き出そうとしても答えてくれないので、僕も残りの時間を使って勉強に取り組むことにする。
相変わらずクラスメイトからの微妙な視線は少しだけ感じていた。
……何なんだ?本当に。
※
放課後、教室に残り宿題を片付けながら奏がくるのを待っていた。
校舎内から聞こえる喧噪が小さくなって来た頃、奏はやって来た。
「こ、こんにちは……です」
「こんにちは奏」
勉強の用意をする奏に、質問をしてみようと思った。
水原と昼食を共にしている彼女なら、何か知っているかもしれない。
「なあ、奏。水原から何か聞いてないか?」
「あ、ハイ。私も……ちょうど、悠くんにお話ししようと、思ってたんです」
そう言って奏はスマホを操作し、画面を僕に向けて来た。
《中間テスト終わるまで1人で勉強するね、ごめんね。》
水原が奏へと送ったメッセージだった。
「えっと……これ、ついさっき届いたんです」
「そっか。他には何か聞いてないか?」
「あ、いえ……お昼休みは普通に、お話しをしていただけ、だから」
そう言って、少し不安げに僕を見て来た。
これ以上は現状何もわからないし、当たっているかもわからない推測をして奏に心配をかけるのも躊躇われた。
「そうか、ありがとう奏。水原が決めたことならしょうがないね」
「あ、ハイ……そう、だよね」
しかし奏の不安げな表情は増していく。
「……どうした?何かあるなら、聞くよ」
「あ、ハイ。えっと……私の勉強も、見てくれたりしたから……負担に、なっちゃったのかな?」
奏の言い分もわからないでもないな……。
「大丈夫だ奏。水原はそんなこと思う様な奴じゃないし、仮にそうだったとしても、きっとあいつは普通に奏に伝えてくれるよ。テストが終わるまで自分のことに集中してもいいか? ってさ」
「ハイ……そう、ですよね」
「それに、水原は別にどこで勉強したって集中できる奴だ。家にいないといけない理由でもあるんじゃないか?テストが終わるまでって本人が言ってるんだ。待っててあげよう」
そうして俯いている奏の頭を一度だけ優しく触る。
「ハイっ!……そう、だね。……あ、私応援します!」
「そうしてあげると良い。きっと喜ぶよ」
「ハイ。……うぇへへ……ありがとう、悠くん」
「いいえ。じゃあ僕らも始めよう。正直に言って水原の応援も大事だけど……奏、君が一番不味いんだからな?」
「うぅ……言われると、思ってました」
罰が悪そうな奏を横目に、今日の分のノートを渡して勉強を始めるのだった。
※
夜、自室で奏用の中間テスト対策を作っている時、小高から電話が掛かってきた。
普段電話は滅多にしないので、少し嫌な予感がしつつも応答する。
「もしもし?」
『お、悪いな月岡。今平気か?』
彼にしては真面目な声。おそらく昼の話の続きか何かだろうと当たりをつける。
「大丈夫だよ。それで?」
『おう、じゃあ早速なんだが……昼の件でちょっとな」
「さすが、仕事が早いね」
『まあ、正確に言えば昼の件と繋がってるかどうかはわからねえんだが……水原さんの”噂”を聞いてな。学校じゃあまり話したくない内容だったんで電話したんだ」
水原の噂。そう聞いて少し鼓動が早まるのを感じた。
「……うん」
『最初に言っておくが噂は噂だ。俺は信じちゃいないし、信憑性も今のところかなり低い。……聞くか?』
「聞かせるために電話してくれたんだろう?ちゃんと聞くよ」
『うし、じゃあ……噂によると水原さんは、男遊びを頻繁にしているらしいんだわ』
水原が男遊び?あまりに突飛な内容に、思わず声が出た。
「はあ?」
『まあ待て待て! 俺もここまでならお前と同じ反応になるよ。続きがあるんだ』
「ああ、悪い。それで?」
『何でも、その噂を流してるのが、確証はないが8組の”吉田”って女子生徒らしいんだ。そんで、面白いのがこっからだ…………』
続きを待つ……。
「おい」
わざと溜めたなコイツ。
『ッハハ! 悪い悪い。んでな、その吉田って生徒がどうにも最近喜久田に近付いているらしい。9組の奴に聞いたんだが、喜久田は水原さんに勝負をけしかけただけじゃなく、噂の内容とリンクすることも言ってたらしいんだわ』
……ふむ、”吉田”? 聞き覚えがある様な。
「……内容はわかった。また何かあったら教えて欲しいんだけど」
『もちろんよ。遅くに悪かったな!」
「ああいや、助かったよ。ありがとう」
『ほいほい。じゃあまたなっ!』
通話を終えて、今の会話内容をもう一度整理する。
……単純に考えればそういう道筋になるんだろうけど。どちらにしろ証拠も何もない、か。
頭の中で導いた推論があるも、どうにも決定打に欠ける気がした。
どちらにしろ、僕にどうこう出来る問題じゃない。
そう結論立てて、気になっていたもう一つの問題について考えようとした時、またスマホに着信が来た。
小高が何か言い忘れたのかと思い手に取るも、知らない番号だった。
一瞬出るか迷ったものの、何となく気になり出る事にした。
「……はい、月岡です」
『あーもしもし月岡くんー?』
この間延びした様な話し方は……。
「三条さん、か?」
『ぴんぽーん。三条千春ですー。いきなりごめんねー』
「……いや、それは別に良いんだけど」
……まさか三条さんから電話が来るとは。このタイミングでってことは、その話か?
『ちょっと話したいことがあって、かなちゃんから番号聞いてさー。今大丈夫ー?』
……奏のことか。
「平気だよ。僕も三条さんに話しておいた方が良いことがあったから、丁度よかった」
『むむっ。となるとー、えみちゃんの話かな?』
「そうだね。僕の方から話そうか?」
そう切り出して、つい先ほど聞いたばかりの水原にまつわる噂話と、その出所と思われる人物について話をした。
『なるほどなるほど、あの女か』
話し終えた第一声がそれだった。
僕は一瞬電話相手が変わったのかと錯覚してしまった。それほどまでに、僕の知る三条さんの話し方とは違っていたのだ。
「あー、三条さん?」
『おっと、いけないー。ごめんごめんー。ありがとう月岡くんー』
「僕も聞いた話だから、信憑性も何もあったものじゃないんだけどね」
『いやいやー、大助かりだよー。これで大分手間が省けるからねえ』
何を考えているのかは知らないが、聞かない方が良さそうだ。
でも、一応……。
「……あんまり危ないことはしないでくれよ」
『おーっ、紳士ですなあ。でも大丈夫だよー。危ないことも、法に触れることもしないからー』
……その言い方が逆に心配になるんだが。
「ま、まあ。なら良いけど−−それで?三条さんの話っていうのは?」
『んー、もう月岡くんも知ってると思うんだけどさー、えみちゃんがテストで1位とるぞーって話』
「ああ、クラスの人から聞いたよ。結構噂にもなってるみたいだしね」
『そうそう。月岡くんはあれさー、どう思う?』
まさかの質問形式だった。
「どうって?」
『んー、月岡くんから見てえみちゃんはそういうことしそうなのかなー?』
「そうだな……正直最初はそんなバカなことするわけないって思ったよ。するにしたって理由が……」
そこまで言って思い当たることがあった。いや、推測したというべきか。
『うん、その理由。何だろうね?』
……けど、この推測があっていたとしたって、それこそ三条さんが居るなら”そう”はならないと踏んでいた。
僕の無言に何を思ったのか、三条さんは言葉を続けて来た。
『……ごめんね月岡くんー。多分、私だけじゃ対症療法にしかならないと思ってさ』
……圧倒的に足りない言葉。けれど、言いたいことは分かった。
「……少し、考えてみるよ」
『うん、ありがとうー。あ、噂話の方は気にしないで大丈夫だからねー』
”こっち”は任せておけ。言外にそう言われた気がした。
「ありがとう。じゃあ、何かあったらまた」
そう言って通話を切る。
一つ大きくため息を吐いて、改めて考えを整理する事にした。
まず一つ確かなことは、水原の”男遊び”の噂については僕は何もしないで良いということだ。というか、むしろ僕は出ない方が良い。
三条さんに話しながら思い出したが、『吉田』と言われた女子生徒はおそらく4月の最初の頃に水原に詰め寄っていた生徒のうちの1人だろう。完全に予想だけど、間違っていないと思えた。
もし本当に彼女が噂話の首謀者なら、あの時に水原を庇う様な真似をした僕が出るのは、その噂という火に、油を注ぎかねない事になる。
三条さんの物言いから察するに、きっと彼女は水原から僕に庇ってもらった話を聞かされているのだとも思われる。だからわざわざ彼女は最後に、あんなことを言ったのだろう。
そこで思考を区切り、次の問題に移った。
次の問題は、水原がどうして”首席を取る”なんて決定を下したか、だ。
彼女の性格から考えるに、きっと周囲の『期待』に応えようと、自分を追い込んでしまったのではないだろうか。移動教室の前後で水原を見かけたことが何度かあるが、彼女は多くの生徒に囲まれていた。中学時代でも最後の方にしか見なかった光景だ。
けれど、あの時と今とでは、彼女の周囲にいる生徒の感情は違うだろうに。
中学時代の時は、僕を近づけさせないため。”可哀想な生徒を守るため”といった生徒が多い様に思えた。実際、そのことで黒磯がぶつくさと僕に文句(罵詈雑言の方が正しい)を言いに来たくらいだから。
だけど、今彼女の周囲にいる人は、そうではないだろうに。
友達が極端に少ない僕ですら、遠目から見ただけでもすぐにわかったのだから。彼女の周りに居る生徒たちは、『水原の人柄が好きで一緒に居てくれる』のだと、僕ですらわかったのだから。
そうなると、何で水原が変な追い込み方をしたのかという問題になる。
実際がどうかは知る由もないけれど、きっとその理由の発端は喜久田という生徒だろう。
小高の言葉だと、相当な物言いで水原に勝負を吹っかけたみたいだから、もしかしたら彼女の為に怒ってくれた友人の言葉で、首席を維持する宣言をしてしまったのかもしれない。
自分でも些か飛躍しすぎた推測だと思うけれど、三条さんが言った『対症療法』という言葉が、僕が僕の推測を否定しようとすることを否定していた。
……だから、根本から治療するとしたら。
「……はぁ」
ため息が漏れた。
この決定を下すのは、生半なことではない。
何せ、首席殿を蹴落とそうというのだから。
だから、見極めよう。
何もかも噂と又聞き、そこから来る推測でしかないのだから。
それだけで動くのは、そんな理由でこの決定を下すのは、違うと思った。
「明日の当番は……9組か」
呟いた言葉。図書委員会の当番、明日は水原のクラスが担当だ。
「……会って、確かめるしかないか」
自分に言い聞かせる様にして声に出し、僕はそれ以上考えることを辞めて、奏のテスト対策作りへと戻った。
※※※
翌日、金曜日。今日が終われば土日がやってくる。
週が開けたらテスト前の期間に入るため、出来れば何としても今日の内に水原と会っておきたい。
昨日考えていたことを実行するために、放課後がくるのを僕は待つ事にした。
放課後、いつもの様に奏と僕は教室で勉強をしていた。
「奏、渡したいものがあるんだけど」
「あ、ハイ。……ありがとうございますっ」
「早いよ。まだ何かも言ってないだろう」
……何でもう嬉しそうなんだ。
「うぇへへ……すいません、つい」
「……これ、君のテスト対策だ。苦手な部分を多く入れてあるけど、これ以外もちゃんと勉強するんだよ」
そう言って、昨日やっと作り終えた奏用の対策ノートを渡した。
受け取った奏は、胸の前でノートを抱き、暫くしてから口を開いた。
「……ほんとうに、いつも、いっつも……ありがとう」
心からの言葉だとわかる。
本当に奏の言葉は、いつも真っ直ぐに飛んでくる。
だから僕も、隠し事はせずにきちんと話す事にした。
「良いよ、やりたくてやってるんだ。奏、もしかしたら僕はテスト期間中、君の勉強を見てあげることが出来なくなるかもしれない。……ごめん」
「……ううん。それって、水原さんの、ため?」
水原のため、か。
口元が自嘲気に緩んでしまった。そんな高尚なものではないだろう。
「……違うよ、僕のためだ」
「……? 悠くんのため、ですか?」
「……まあね。それで、下校時間になったら水原に会いに行ってくるよ。話したいことがあってさ。奏も来るか?」
「いえ……わたしは、先に帰ります。勉強、頑張らないと……ですから」
「……そっか。勉強を見れなくなるかもしれないとは言ったけど、わからないところがあったらちゃんと聞くんだ。今ほどはつきっきりになれないって意味だからね」
「あ、ハイっ。……わかり、ました……うぇへへ」
そうして暫く勉強を続ける。
下校の鐘が鳴り、水原に会うために僕は下駄箱へと向かっていた。
奏は言っていた通り、先に帰っている。
校内に残っていたのか、まばらではあるが生徒たちが下駄箱へと向かってくる。
靴箱にもたれる様にして立ち、水原を待つことおよそ10分。彼女が来るのが見えた。
「……どうしたの?」
僕に気付いた彼女が、周囲を一度気にしてから声を掛けてきた。
目を見て答える。
見逃すことがない様に。
「水原のこと、待ってた。委員会だろ?お疲れ様」
「ありがと。それで? 用件は何?」
一見いつも通りに見えるが、少しの動揺が見て取れた。
「奏から聞いた。首席取ろうとしてるんだって?」
「……そうだけど、それが?」
眉が少しだけ歪む。
後ろめたいことでもなければ、堂々としていれば良いのに。
だから、聞いた。
「1位を取るのが、水原のやりたいこと?」
「そうよ。首席で入学したんだし、目指すのは当たり前のことじゃない?」
……そうか。
「君が本心でそう思っているなら、そうなんだろうな」
「だからそうだって言ってるでしょ! 八色くんは……応援、してくれないんだ?」
そう言って、駆ける様に靴を履き替えて帰って行った。少しだけ彼女の後ろ姿を眺め、教室へと戻る。
彼女に会って正解だった。
心から、そう思った。
※
家に帰りやることを終えた僕は、リビングでコーヒーを飲んでいた。
ドクドクと嫌な動きをする心臓を自覚しながら、今からする事への覚悟を決めようとしていた。
決めようとして、踏ん切りがつかないでいた。
中間テストで1位を取る。
水原に会ってそう決めた。
しかし、それは本当に困難なことなのが現状だった。
ただでさえ首席入学を果たす程、頭の良くなってしまった水原に勝とうと言うのだ。それこそ普段はあまりテスト勉強をしない僕ではあるが、持てる時間を最大限に使わないと、勝てる可能性なんてないのは明らかだ。
ここで問題になってくるのが、家事全般である。
妹であるところの水月と僕の2人暮らしである我が家では、家事のほとんどを僕が取り仕切っている。しかし、それが今回ばかりはネックになってしまう。
水月はたまに皿洗いやリビング、階段の掃除などをやってくれてはいるけれど、炊事洗濯に関しては完全に僕の担当だ。
朝食はまだ良いとしても、買い物や夕食、その後の片付け、風呂掃除などを行っている時間は大幅にロスしてしまう事になる。
だから……その負担を少なくするために、水月に頼もうと思った。
思ったのだが……言い出せないでいた。
「おにーちゃん!」
「……え?」
顔を上げると、水月が立っていた。
不安と怒りが混ざった様な顔で、僕を見ていた。
……また、心配を掛けてしまったのか。
そう自嘲する。ついこの間も心配を掛けたばかりだというのに。
そこで気付く。
そうだ、この間だ。
決めたじゃないか、悪戯に心配を掛けるだけなら、相談しようって。
自分の学習能力のなさに頭に来た。
覚悟はできていない。けれど、相談してみよう。
そう思えたのだ。
「なあ、水月」
「何? お兄ちゃん」
「……相談があるんだ」
「っ! ……うんっ!任せてよ!」
パッと、花が咲いた様に笑顔で言う水月につられてしまう。
任せてよ、か。
……まだ、何も言ってないのにな。
妹の成長が、素直に嬉しくなった。
無条件に僕の頼みを聞き届けようと全身で伝えてくれる妹に、感謝をした。
相談の結果なんて、言う必要もないだろう。
※
週が明けた放課後、いつも通り勉強に打ち込んでいた。
奏には休みの間に改めて、つきっきりで見ることはできなくなったと伝えてある。
しかしそれは勉強中だけの話であり、流石に休憩している間は普通に話をしていた。
「……ふう、何だか、その……頭が、よくなった気が、しちゃうね」
「これだけやってきてるんだ、実際少しは身についててもらわないと困るな」
「うぇへへ……な、なんかその……休憩の時しか話さないのも、その……良い、ね」
……嘘ではなさそうだ。僕にはいまいちわからないけど。
「そうか? 僕はさっさと普段通りに戻りたいけどな」
「あ、ハイ……それも良いんですけど、その……なんか、塾の先生みたいだな、って」
「ごめん、僕塾に行った事ないからわからない……」
「ハイっ、わたしもですっ」
……今の時間はなんだったんだ。
「えっと、イメージか?」
「あ、ハイ。……悠くんは、先生が……えっと、似合うな、って」
「先生か……自分じゃあわからないな」
「ぜ、ぜったい似合います!だ、だからその……これ」
そう言っておずおずと自分の掛けているメガネを外し、手渡された。
「え? これ、掛けろと?」
「お、お願いします……」
相変わらずおどおどとしているものの、その目は譲る気はないと告げていた。
……くそ、相変わらず変に押しが強い。
仕方なくメガネを掛けた。
「……はい」
「ふぉぉぉおっ……!」
「いや、怖いよ」
「はあ、ああっ……す、すご」
尋常ではない様子に、たじろいでしまう。
その後も「はあはあ」と荒い息をする奏にどうすれば良いものかと思っていると、変化があった。
「っ! ちょっ、奏! 鼻血、鼻血出てるからっ!」
「ふぇ? ……ああっ! わわわっ……えっと、えと」
ティッシュを探しているのか、あわあわとする奏に、ハンカチを素早く渡す。
目の前で鼻血を出されるなんて、小学生ぶりだと思う。
「あ、あり、ありがとっござっ」
「良い良い! いいから抑えて上向いて」
「ハイっ、す、すいません……」
制服にも少しだけ付いてしまっていたので、僕は奏を残して水を買いに行き、教室へと戻った。
もう血は止まったのか、奏は机に突っ伏していた。
「奏……?」
「……見ないでください」
「え、いや……これ、ほら」
そう言って水を手渡す。
どういう視界になっているのか、俯いたまま水を受け取った奏は、「ありがとうございます」と言って机の下で制服に着いた血を落とし始めた。
暫く両者無言で、奏の鼻血を落とす作業音のみとなった。
全部落とし終わったのか、奏はすくっと立ち上がると、「ほんとうにありがとうございました。このお礼は明日改めてするね。すいません、先に帰ります」そう言ってそそくさと教室を出て行ってしまった。
暫し呆然とする。
……というか、めちゃめちゃ流暢に話してなかったか?
スムーズに話す奏という珍しいものを見た僕は、下校時刻になるまで勉強を続けた。
※
翌日、奏から「あのハンカチは返すことが出来なくなったので、別のものを渡します」といった内容のことを聞かされた僕は(かなり湾曲して伝えられたので、意訳するとこうなる)、それを了承して勉強へと戻っていた。
奏は昨日の件がまだ尾を引いているのか、「今日は家でやります」と言って先に帰ってしまった。
そして翌日の放課後、教室にて勉強をしながら奏を待っていると、彼女らしくもない荒々しい扉の開け方をして教室に入ってきた。
何事かと思い、手を止めて彼女を見る。
「悠くんっ! た、大変ですっ!」
※※※
◆ ◆ ◆ 八色奏 ◆ ◆ ◆
「なーるほどー、それで昨日もさっさと帰っちゃったとー」
「ハイ……悠くんの前に、ど、どういう顔で出ればいいか」
悠くんのメガネ姿に興奮して鼻血を出すという大失態を犯してから二日、私はお弁当を食べながら最近仲良くなった三条さんに相談(様子がおかしいのを見抜かれて吐かされた)をしていました。
三条さんは「ふーむ」と考え込んだ後に、なんてことない様な顔で告げてきました。
「気にすること、ないと思うけどなー」
……溜めてそれですか!
三条さんには本当に申し訳ないと思うのですが、人選ミスをした様です。いや、そもそも選ばされただけなんですけど。
「無理です……悠くんに顔を見られる度に、鼻血が……鼻血がきっとリフレインされるんです。この鼻血女がどの面下げて俺の前に立ってるんだ。って、思われるんです」
「いやー、口調変わってない? その月岡くん。ほんとに月岡くん?」
「無理です無理ですっ……あぁ、終わりました……うぅ」
「かなちゃーん、ほらほら、お菓子だよー。元気だそー?」
「……そんな手には、乗りません」
「さっき引っかかった人が言うセリフじゃないよそれー」
……ぐうの音も出ません。
「……ぐう」
出ました。
「いやいやー、ほんとにさー。気にすることないってー」
「……だって、無理ですよう」
ただでさえ過去には顔面にご飯をぶちまけてしまったんですよ?その上目の前で興奮して鼻血を出すとか、もうどうしようもない気がします。
ああ、でもほんとうに悠くんのメガネ姿は素敵でした。鼻血で済んでよかったかもしれません。
「じゃあさー、月岡くんが鼻血出したら、かなちゃんはこの鼻血やろうーって思うの?」
そう言われて、考えてみました。
鼻血を出す悠くん……ありですね!
介抱して膝枕しちゃうと思います!
「お、思いませんっ!」
「うわ、急に元気出たー。でも、そういうことじゃないかなー?月岡くんだって、それくらいどうとも思ってないって」
「ほ、ほんとうに……?」
「ほんとほんと! だって、そんな人じゃあないでしょー?」
確かに、悠くんは顔面にご飯をぶちまけられてすら怒りもしなかった人です。そうなると直接的に被害を出していない今回は、まだマシなのではないでしょうか……?
というか、なんなら悠くんのハンカチを合法的に入手できた今回は勝ちなのではないですか!?
「た、確かに、そうかも……しれません」
「ふいー。まったくー、時間ギリギリまで落ち込むとはなあ」
言われて時計を見ると、もうすぐ昼休みも終了の時間でした。
「じゃあ、戻ろっかー。今日も見ていくー?」
「あ、ハイ。……あの、三条さん、ありがとう、ございます」
「いいのいいのー。元気になって、良かったよー」
そう言って笑ってくれる彼女は、水原さんと似てはいないけど、同じ様に安心することが出来ました。
お弁当を片付けた私たちは、9組の教室へと歩みを進めます。
そうです、9組です。週が明けてからこっち、私は三条さんとお昼を食べ終わった後、9組まで一緒に着いて行っていました。
せっかく悠くんと仲直りしたのに、水原さんと会える機会が減ってしまって、寂しかったのです。
だから三条さんにお願いして、9組まで同行する事にしていました。けど、見に行くだけで、話しかけたりはしません。知らない人ばっかりのクラスに入っていくのなんて絶対無理ですし、わざわざ呼び出すのも水原さんに申し訳なかったからです。
遠くから見つめるだけで良いとか、恋してるみたいですね。なんて思いながら、今日も9組へと向かいます。
階段を登り終えると、9組が少しだけザワザワとしていました。
私にはわかります。あれは何か問題が起きた時のザワザワです!
ぼっち期間が長いと、クラスがごたついた時の空気にはやたらと敏感になるのですよ。素早く気配を消すために身につけた技能ですね。将来は忍者とか良いかもしれません。
何事だろうと思って近づくと、扉の前に男の人が立っているのが見えました。
え?あれ?扉を挟んで向かいにいるのって、水原さんじゃありませんか?
わーいと思って彼女に近付こうとした私は、三条さんに腕を引っ張られる形で止まりました。なんでしょう?
「ちょっと、ここで様子みようか」
「あ、ハイ……」
こう言っては失礼ですけど、いつになく真剣なお顔をされていました。
階段から程近い9組の扉。曲がり角に身を隠す様に押し込まれて、聞き耳をたてます。家政婦みたいですね。ちょっとワクワクします。
けど、そんな私のワクワクはすぐに消し飛んでしまいました。
た、た、大変ですよ!これ、どうしたら良いのでしょうか!?
不安になって三条さんを見ると、何やらじいっと考え事をしている様です。さっきも止められたので、勝手に動かない方が良いかと思い、三条さんの裾を少しだけ引っ張りました。気付いてくださいー。
「……ん。ごめんごめんー、考え事してた」
「あ、ハイ。……大丈夫です、けど……これ、どうしたら?」
「んー、そうだなあ。じゃあ、かなちゃんに1個お願いしてもいい?」
三条さんは水原さんも信用している人です。それに、私にもほんとうに良くして下さいます。だから「ハイ!」って、二つ返事で答えました。
「じゃあ−−……って感じでー」
「りょ、了解ですっ」
2つのお願い事をされた私は、放課後を待つのでした。
あれ?1個って言ってませんでしたっけ?
時間が経つ毎に、あれ?これほんとうにまずいのでは?と思い始めた私は、放課後に人がいなくなるのをまだかまだかと待ってから、1組の教室へと急ぎました。
早く悠くんに教えてあげないといけません!
ノックをする事すら忘れて、扉を開きます。
「悠くんっ! た、大変ですっ!」
そのまま彼に駆け寄り、思わず制服をつかんでしまいました。
「どうした? ……落ち着いて話してごらん」
私を落ち着かせる様にゆっくりと話してくれる悠くんの声で、少しだけ落ち着きました。
「あのあのっ、お昼休みに、聞いちゃったんです」
「……うん」
「えっと、喜久田っていう男の人が、そのっ……水原さんに勝負を挑んでてっ」
「うーん? もともとそんな話じゃなかったか?」
「あ、ハイっ。……そうなんですけど、そうじゃなくてっ」
「……わかった、少し座って話そうか。ね?」
言われて、ずっと彼を掴んだままだった事に気付きました。
いけません、ちゃんと伝えないと……。
深呼吸をしてから、席につきました。
「それで? 昼休みに、喜久田ってやつと水原が話してたんだね?」
「ハイ。……喜久田っていう人が、水原さんに”賭け”をしよう。って」
「……賭けね。それで?」
悠くんの目つきが変わりました。
私が、初めてみる目でした。
「そ、それで……水原さんもそれに了承しちゃって……」
「……はぁ。−−内容は? わかる?」
「ハイっ。……えっと、どっちかが1位になったら、負けた方に、命令するって……言ってました」
悠くんは言葉を自分の中に落とし込む様に黙った後、静かに口を開きました。
「……他の条件は?」
「えっと……どっちも1位になれなかったら、引き分けだ。って」
「まあそんな所か……わかった。聞いてたのは奏1人? 三条さんは?」
「あ、ハイ。一緒に、居ました」
それを聞いた悠くんは、時計を確認してから席を立ちました。
なぜだかとても不安に駆られた私は、思わず悠くんに詰め寄ってしまいました。
「あ、あのっ! こ、こんな事……悠くんに言うのはおかしいって、おかしいって……思うんですけど」
「うん」
静かな声。静かな目。
私の気持ちなんて全部見抜かれているような気持ちになりました。
「み、水原さんをっ、助けてくれませんか? えっと、私最近……お昼食べた後に、9組を覗きに行ってるんだけど、えっと……水原さん、ずっと、ずっと思い詰めたような顔をしててっ! ……それで、それでっ」
「……奏」
その声に、下がってしまっていた顔が自然と上がりました。
その目で、彼がどうするのか、言われなくてもわかりました。
頬に熱が溜まります。こんな事考えている場合じゃないのに……。
なのに。その顔に、何度目かわからない恋をしてしまいました。
「心配しないで。……なんとかするって、もう決めてる」
そう言って悠くんは「先に帰ってて」とだけ言い残して、教室を出て行ってしまいました。
私は暫く動く事すらできませんでした。
でも、思ったんです。
確かに、思ったのです。
まだ何にも終わってないのに。
もう大丈夫なんだって、思えたのです。
※※※
◆ ◆ ◆ 月岡悠 ◆ ◆ ◆
3日間計10教科のテストが終わり、結果表が貼り出された。
結果表から程近い場所の1組だったこともあり、さっさと自分の順位を確認した僕は、下駄箱の裏でちょっとした用事を済ませた後、再び結果表の前に戻り彼女が来るのを待っていた。
各々の順位を確認しようとしていた生徒の動きに変化が起きる。
人垣が割れるようにして出来た道を、彼女が歩いてきた。水原だ。
水原はすぐ横に僕がいる事にすら気付かずに、結果表を確認していった。
彼女の目が3位で止まり、1位へ向く。様々な感情がない混ぜになった彼女の顔を確認して、声を掛ける。
「水原」
隣の彼女にだけ聞こえる位の音量。
少しだけ肩が揺れた彼女は、下を向いたまま、問うてきた。
「……なんで」
声に込められた感情に、胸を刺された様な気がした。
それと同時に、僕の決意は間違っていなかったのだと、改めて確信出来た。
僕は水原を首席から蹴落とした。
彼女に、根本的な考え方の思い違いを直してもらう為に。
彼女の願いを無下にしてまで、それを行ったのだ。
「……ごめん。君の思いを踏みにじるような真似をした」
これ以上、彼女に言えることは僕には無かった。
”それ”は僕には出来ない役割だから。
だから、『彼女』に任せる。
正確に言うと、『彼女達』に任せる。
もう来てくれないかもしれないな。そんなことをちらと考えた僕は、教室へと戻った。
放課後、クラスの人たちから散々っぱら褒めそやされた僕は、やっと静かになった教室でバイトまでの時間潰しをしていた。
ノックの音がなる。
「こんにちは〜……」
「こんにちは、奏。来てくれた所悪いんだけど、もうすぐバイトに行かないとなんだ」
机に荷物を置く奏を見ながら告げた。
「ハイ。……知って、ますよ? えっと、お礼を言おうと、思って」
……お礼か。貰えるようなことはしていないと言いたいけど、奏の気持ちだからな。
「……どういたしまして」
「ま、まだ言ってないのに〜っ……で、でもっ。ほんとうに、ありがとう。すごいよ、悠くんは」
照れ臭くなり、つい視線を逸らしてしまう。
自分のためにやっただけなのに、こうも喜ばれてしまうと、どう返せば良いかもわからなかった。
「もう二度とごめんだけどね……」
「ハイっ! ……でも、首席に勉強を見て貰えるって、うぇへへ……ぜ、贅沢、だね」
「今までだって、首席様が見てくれてたじゃないか」
「あっ……そうでした。うぇへへ……」
時間を見ると、もうバイトにいかなければならなそうだ。
「ごめん奏、バイトに行く時間だ。帰り道気をつけるんだよ」
「あ、ハイ。えっと……行ってらっしゃい」
「うん、行ってくる」
足早に教室を出て、バイト先へと向かった。
道中、三条さんから電話が入り、”お礼”と、”結果”を伝えられた。
それを聞いて安心した僕は、勤労に勤しむのだった。
※※※
バイトを終えた僕は、疲れた頭でぼうっとしながら、駅に向かって歩いていた。
バイト先である『プレミアムホスト』を出て数分。駅へと向かう道すがらにある公園。その入り口に誰かがいるのが見える。
目を瞠った。
……こんな遅い時間にまた一人で何をやってるんだよ。
遠目でも誰かなんてすぐに分かった。
彼女−−厳密に言うと、元彼女で現同級生。
元首席であり、現次席−−水原笑美。
無用心にも公園の入り口の防護柵に腰掛け、ぷらぷらと足を揺らしている水原を見て、こんな時間に一人でいたことを心配した。けれどすぐに何事もなかったであろう事実に安堵した。
今日の昼のことを思い出す。
彼女にあんな顔をさせた後に、なんて声をかければ良いのか。
わからないけれど、でも足は進んでいった。
わからないのに、話したくなった。
足音を立てる様にして彼女に近付く。
思い出す、2ヶ月前の同じ場所。
だから、あの時と同じ言葉をわざと言った。
なんてことはない、ただのおふざけだ。
「こんな時間に、何をやってるんだよ君は」
一拍間が空く。彼女の口元にわずかな笑みを見た。
「……見てわからない? 待ってたの」
こてんっと、首を傾げる水原。
誰を。とは言わなかった。
不思議と口元が緩んだ。それを隠しもしないで告げる。
「……何の用? 僕には”水原さん”に用はないんだけど」
挑発するように、わざとらしく言った。
「……そ。でも、私はあるの」
同じ様な声音で返される。
僕も彼女も、段々と笑みが深まっていく。
「っく……僕にはそれを聞く理由がない」
少しだけ、笑ってしまった。
「っふふ……そうだね。でも私には、話したい理由があるの」
彼女も笑った。
そうしてお互い我慢できず、静かな公園に僕らの笑い声だけが響いた。
ただ2ヶ月前の再演をしただけだっていうのに、それが−−心から面白かったのだ。
※
一頻り笑い終えた僕たちは、電車に乗っていた。
時間も時間だったので、「どうせ話すなら水原の家の側にしよう」と誘ったのだ。
改札を抜け、思い出の公園までの道を歩く。
2ヶ月前とは違い、彼女は僕の横を歩いていた。
「……八色くん」
「なんだ? 水原」
少しだけ落ちた彼女の歩幅に合わせる。
「……お昼、ごめんね」
どういう感情が込められているのかは、わからなかった。
でも、単純に安堵した。
三条さんから彼女を取り巻く環境の結果についても報告を受けていたけど、今の声を聞いて「大丈夫」だと、自分の目で確認できた。
「……気にしてないよ」
そう答えるとまた無言になり、僕らは公園へと進んだ。
2ヶ月前と同じベンチに腰掛ける。
でもその距離は、2ヶ月前よりも少しだけ近くに感じた。
静寂が支配する公園。
けどその静けさに不快感は感じない。
やがてその静寂の中に、声が一つ落とされた。
「……八色くん」
「……どうした?」
「ううん……ねえ、一つ聞いても良い?」
「……いいよ」
「1位取ろうって、いつ決めたの?」
「……どうだったかな」
嘘をついた。
「……私と、会った時?」
「どうだろうな、覚えてないよ」
嘘をついた。
「ふふっ……」
「……なんだよ」
「ううんっ。別に、なんでも」
「……そ」
「……八色くん」
「なんだ? 水原」
「……ありがとう」
どういう意味のありがとうなのか、わかった気がした。
だから。
「別に、自分のためにしただけだから」
嘘をついた。
「……そっか。でも、ありがとう」
胸がざわつく。
およそ会話とも呼べない様なものなのに……。
そう言えば。と、まだ言っていなかった事を思い出した。
「……水原、勉強頑張ったんだね」
本音を言った。
「ふふっ。それ、首席が言う?」
「3点差だろう? 誤差みたいなものだよ。それに、次はあんなにとれる気がしない」
本音を言った。
「……ねえ、なんで1位とったの?」
顔を覗き込まれる。
反射的に背けてしまい、そんな事実にすら動揺してしまう。
「……さっき言っただろう。自分の為だって」
「うん。でも、聞きたいの」
囁く様な声。
胸のざわつきは、ちっとも治ってくれない。
「……ずっと水原には勝ってきてたからな。だから、負けたままなのが落ち着かなかっただけだよ」
「ふふっ……くふっ……あははっ……」
爆笑された。
なんなんだよ……。
「……もう良いか? お母さんも心配するぞ」
「あーおかしいっ……ふふっ……じゃあ、あと5分……だめ?」
首を傾げる仕草で問われる。
喉元まで出かかった「ダメだ」は、結局でてはくれなかった。
「……5分だけなら」
「うん。ありがとっ」
そう言うなり、僕の横に水原がぴったりとくっついて来た。
「っ! 水原っ……? なにやっ」
「寒いから……だめ?」
息を飲んだ。
もう6月だ。寒さなんて感じない。
うるさいくらいに鳴る心臓の音もどこか遠くに聞こえる。
くっつかれた右側がやけに熱く感じて、ふわっと香る匂いとか、水原の柔らかさに全部の神経が持っていかれそうになる。
僕の中に湧き上がってくる”何か”を必死に抑える様にして、声を出した。
「……別に、良いけど」
「うん……ありがとう、八色くん」
さっきまでは大丈夫だった筈の沈黙も、今はなぜか無性に落ち着かなかった。
「水原、その……放課後、来るのか?」
「え? なんで? 行くよっ」
「……そっか」
「……心配した? 私が来なくなるんじゃないかって……」
どきりとする。
今は、目を合わせたく無かった。
「奏がな。寂しそうだ」
嘘と本音を言った。
「ふふっ……そっか! うん、ちゃんと行くから、安心して?」
彼女の返答と同時に、右手に触れるものがあった。
右手の小指と薬指の間に、何かが乗っている。
けれど、それを見ようとは、思わなかった。
「……奏に、言っとくよ」
「……うん。……心配かけて、ごめんね」
「……なんのこと?」
「うーん、色々」
素直に、謝られてしまうと困るのだ。
何にも素直に返せていない自分を嫌でも自覚してしまうから。
だから、だから仕方ない。
これだけは、ちゃんと言おう。
「……水原は、頑張ってるよ」
「え……?」
「君は、頑張ってる。充分に頑張ってるし、周りもそれをわかってる。僕と奏だってそうだ……水原が良い子だっていうのは、ちゃんとみんなわかってる……と、思う」
「……うん。ほんとだね」
それは、いろいろな意味を内包した言葉の様に思えた。
だから何にも、返さなかった。
それは水原も同じで、無言で前だけを見ている。
その無言の中で、もう一つ言いたくなったのだ。
今日という日の残り時間が減っていくから。
たった今、「行く」って言ってくれていたのに。
それでも言いたくなったのだ。だから、仕方ない。
そうやって自分に言い訳をしてから、口を開く。
「水原。教室で待ってるよ、僕も奏も……まだ、君にお礼を言えてないんだ。だから、待ってるよ」
……そんなもの、今言えば良いのに。
「……うん、わかった。ちゃんと聞きにいくね」
なんでかその声は、僕を安心させる様に言っている気がした。
「……ありがとう」
寄り添った肩をほんの少しだけ右に傾けた。
応じる様に加えられた右からの力が、なんだか心地良くて、それ以上は僕も水原も喋らなかった。
だけど、さっきよりも少しだけ、手に触れている物の面積は広がっていて−−
きっと僕だけじゃなく、水原も気が付いている。
5分なんてもう、とっくの昔に過ぎていた。
※
水原の家までの200メートルにも満たない道を、並んで歩いた。
「八色くん、今日はここまでで良いよ、ありがと」
そう言われて、立ち止まる。
もう100メートルもない。この距離なら何か危ない事に巻き込まれることもないだろう。
「分かった。遅くまで待っててもらって悪かったな」
「ううん、私こそ付き合って貰っちゃって、ごめんね」
「……なあ、次も僕を待つ事があったら、店の中にいてくれないか」
「……うん、えっと−−わかった」
「じゃあ、また明日」
そう言って背を向けた。
「八色くん!」
少しだけ振り返る。
「…………助けてくれて、ありがとう。あなたは知らないって言うと思うけど、でもっ! ……助けてくれて、ありがとう。もう大丈夫だからっ……テストで賭けたりもしないから。……だから、心配しないで」
本当に、街灯が離れていて良かったと思った。
「なんのことかわからないけど……テストで賭け事は、良くないな」
「うんっ! 反省してる」
「……それと、心配してないよ。もう大丈夫だって、分かってるから」
「……うん。じゃあ、またねっ」
胸の前で手を振る水原に見送られる形で、今度こそ駅までの道を歩いて行った。
またねという言葉を、水原から聞けた。それが何より嬉しかった。
「……賭け事、ね」
もうじき梅雨が来る。
日毎にジメジメとしていく空を見上げながら、僕は自分の行いについて思い出していた。
※※※
先週の水曜日、奏から話を聞いた僕は、下駄箱へとやって来ていた。
確証なんてなかった、ただ早く行動を起こしたかっただけだ。
目当ての名前を見つけ、まだ外ばきが残っていることを確認して、階段を登る。
目当ての教室に辿り着く直前、一人の男子生徒が教室から出て来た。
「ねえ、喜久田ってまだいる?」
「……なんだキミは? ボクが喜久田だ」
すぐに見つかって良かったと、それだけを思った。
「1組の月岡だ。君、水原さんと勝負してるんだって?」
「フン、もう1組まで噂が届いていたか。それがどうした? まさか辞めろなんて言うんじゃないだろうなあ?」
「まさか。逆だよ」
僕を見る目が、訝しむ様に変化する。
「……逆?」
「うん。それさ、僕も混ぜてもらえない?」
「ちっ……有象無象に興味はないんだよ。話はそれだけか?」
想定内だ。こういうタイプだと小高からも聞いている。
「怖い? その有象無象より下になるのが」
「……なんだと?」
ほらね。
「君が嫌なら良いよ。学年中の人たちに言いふらすだけだ。挑んだのに、逃げられた。って」
「舐めるなよ! 良いじゃないかあ、乗ってやるよっ! 条件はなんだ? 水原と同じで良いのか?」
……僕にとっては好都合だけど、君の将来が心配だ。
「……いや、僕が1位を取れなかったら僕の負けでいい」
……もう取るって決めてあるから。
「はあ? きひっ……きひひ……ああ、言ったな? それで良いんだなあ?」
自分の目で見ないとやっぱり駄目だな。
本当に、人の話は当てにしちゃいけない。
話に聞くより、余程扱いやすいじゃないか。
「良いよ。その代わり、僕が勝ったらどんな命令でも聞け」
「……どんな命令でも?」
こいつが考えそうなことはわかる。
僕もそこまで鬼じゃない。
そんな事が目的じゃあない。
「安心して、退学とか金銭とか、そんなことは言わないから」
「−−なら、良いだろう……あー、なんだっけえ? 名前?」
「1組の月岡だよ」
※
結果発表当日。
1位であることを確認した僕は、喜久田が来るのを待っていた。
彼の性格なら水原よりも先に来るだろうと踏んでいた。
彼が来たことを確認して、腕をひっぱり下駄箱の人目につかない場所へと連れて行った。
「な、なんだオマエっ! 離せよっ! 順位がっ」
喚き散らす喜久田に、あらかじめ撮っておいた結果を見せた。
「ッは? ……ボクが、さ、さんい? ……こ、こんな」
「嘘だと思うなら、見て来たら? 2回落ち込むだけだと思うけど」
「……っく、く」
歯軋りをする喜久田を眺める。
さっさと我に返ってくれないだろうか。
「話して良いか?」
下から顔を覗き込んだ。
時間が惜しいのだ。
「っ! ……ああ、くそっ! なんだよっ!?」
「じゃあ、命令ね。あ、録音してあるから。使う気もそんなにないけど、一応ね。君だって、そこまで落ちぶれたくないだろ?」
言外に約束は守れと伝える。
僕があっさりと周囲に言いふらす奴だと思わせたのも、この保険だ。
「……わかってる」
「ありがとう。じゃあ、2つだ」
もっとたくさん命令をされると思っていたのか、驚いた顔をされた。
別に僕、君に興味ないからな。
「……わ、分かった」
「1つ、水原さんを侮辱したことを謝るんだ。彼女は君が聞いた噂通りの人なんかじゃ無い。そんな人が、君に勝てると思うか?」
ここでもう一度純粋に結果を突きつける。
認める他無い筈だ。
”噂通りの女に負けた自分”には、君はなれないだろう。
だから、相対的に周囲の評価を上げる事しかできないだろう。
「……わかったよ」
苦虫を噛み潰した様な顔。
わかるよ。認めるしか無かった気持ちは、良く分かる。
少しほっとした。
予想以上の阿呆ではなくて助かった。まあ、そもそもこの学校に入れている時点で、そんな人はいないと思っていたけれど。
でも、こっちが本命だ。
「じゃあ、2つ目」
「……なんだ」
感情を表に出さない様に苦心する。
「謝罪が終わったら、もう水原に近付くな」
あまり逡巡もせず、答えが返って来た。
「……わかった、約束する」
「そうか、ありがとう。もう行って良いよ」
「……月岡、キミの点数は、いくつだった?」
「958……君の、9点上だ」
「9……そうか……そうか」
噛み締める様に呟く姿に、なんとなく声を掛けた。
「……喜久田。僕は、君はすごい奴だって思うよ。下らない噂に惑わされたりしてないで、集中して勉強していたら、君が勝ってもおかしくなかった」
そう言って、その場を後にする。
結果表を、もう喜久田は見に来なかった。
※※※
「……人のことなんて、言えないだろうに」
線路沿い、家までの道を歩きながら、そうひとりごちる。
よくもまあ賭け事は良くないなんて言えたものだ。
こうして思考を飛ばしてみたけれど、それでもずっと、声が残っていた。
水原と別れてから、脳内に彼女の声がこびりついて離れないままだ。
自分のついた嘘が、頭から離れてくれない。
本音を言わないで良かったと告げる自分と、なんで本当のことを言わなかったのだと告げる自分が、混在していた。
理由なんて、わからなかった。
「……はあ」
心に溜まった
けれど、少しもそれは減らなくて。
ずっと、声が聞こえる。
聞こえる筈もない水原の声。
−−『1位取ろうって、いつ決めたの?』
−−『……私と、会った時?』
見抜かれていた。
当てずっぽうなのか、そうじゃないかなんて、わかりもしない。
−−『なんで、1位取ったの?』
”自分の為”これは嘘じゃない。
嘘ではない。
最後まで言えなかった「水原と居たかった」の言葉。
これは間違いなく、自分の為だった。
ただ……『本当』だけでもない。
こうしないと、動けなかっただけなのだ。
自分の為であると、自分に納得させないと、動けなかっただけなんだ。
僕の中の決定的な何かが変わってしまいそうで、恐ろしかっただけなんだ。
だから結局、最後まで言えなかったんだ。
「水原の力になりたかった」
そう呟いた声は、電車の音に重なり、消えていった。
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みなさまこんにちは。
ここまで本作をお読み頂きましてありがとうございます。
初めて本編内に後書きをさせていただきます。
この話で本作第2章は終了となります。
本作の本編、当初は3000〜5000文字程度で区切って投稿しようかとも考えていましたが、この様に1話完結方式で投稿させて頂きました。話を区切って読むのも、一気に読むのも皆読み方が違うと思っていて、お好きな様に読んで欲しかったからです。
こうしてお読み頂いて、皆さんの時間を使って頂いた事、本当に感謝しています。改めて、ありがとうございます。
3章開始までは少し間が開くと思いますが、まだ話は続いていきます。
今後ともよろしくお願い致します。あ、どのお話でもコメントとか貰えたら凄く励みになります。
暫くは間話1(1章〜2章開始までの間)と、間話2(2章内+2章後の話)を投稿した後、2.5章を投稿することになるかと思います。詳細は近況ノートにてお知らせ致します。
それでは。 21/02/08
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