第2章 本音の扱い方

第一話 ぼくのかのじょのかさねかた

 

 『面影』という言葉がある。


 それは、生きている、亡くなっているに関わらず、誰かのことを脳裏に思い浮かべることである。


 それは、自分の心の中にある誰かの顔や仕草を、目の前の別の人物を見て想起することである。


 それは、心の中の誰かの姿を、その誰かとの記憶を、別の誰かに幻影として投影することである。


 こういって並べ立てると、さもそれそのものがまるで悪であるかの様な言い方になってしまうが、決してそんなことを言いたいわけではない。


 誰かの面影を感じたからこそ仲良くなれた。なんて事例だってきっと探せば見つかるだろうし、知人の間に生まれた子供や、友人のきょうだいなんかを見て、面影を感じて可愛がりたくなる。なんて事例ももちろんあるだろう。


 

 ふと目が止まった誰かや、知人なんかでも良い。そうした他人を見た時に、例えばテレビ番組に出ている有名人を思い浮かべてしまうこともあるだろう。

 それは、その他人や知人が自分の知っている芸能人にどこか似ていたからこそ思い浮かぶことなのだと思う。


 では逆に、自分のよく知る友人や恋人なんかでも良い。そうした知古の関係である人を見た後に、テレビ番組なんかを見て、そこに出ている有名人に今度は逆に自分のよく知る誰かを思い浮かべてしまうこともあるだろう。

 それはその有名人が、思い浮かべた知古の人間のどこかに似ているからこそ思い浮かぶことなのだと思う。


 これは思い浮かべるのが、どちらなのかというだけの話だけれど、一応言いたいことは伝わってくれたかと思う。


 誰かを見て、誰かの面影を感じる。


 その行動は、感覚は。得てして自分の、より思い入れの強い人こそが後者になるのではないだろうか。

 


 きっとこんなことは人間誰しも生きていれば普通に起こり得ることで、誰かの面影を感じることについて。なんて、こうしていちいち考えないのかもしれないけれど、それでも考えてしまうのだ。



 面影を感じることについてではない。



 面影を、感じられた側の人間について、考えてしまうのだ。



 それも、面影を感じた本人が『無意識で、かつ一瞬などではない長期間に渡って面影を投影していた』としたら?



 果たしてそれはもう、面影と言って良いのだろうか。



 そして、それをされた人は一体、どんな気持ちになるのだろうか。







 そんな当たり前の事に、気付かされた後悔の話である。







※※※




 高校に進学して初のゴールデンウィークも空けて、3日が経った。


 中学時代まではゴールデンウィークというのはただの休みでしかなくて、存分に自分のやりたい事を行ったり、身体を休息させたりする日。といった感覚が強かったけれど、今年のゴールデンウィークは端的に言ってなかなかにハードだった。


 その理由としてまずあげられるのは、課題の多さである。

 県内有数の進学校でもある我が校が、ゴールデンウィークを一体どういう風に捉えているのかが、これでもかと伝わってくるほどに課題の量が多かったのだ。


 恐らくそれは、受験を乗り越えて、入学して一月が経ち、気持ちに緩みが発生してしまった新入生に向けたある種、喝の様なものでもあるのだろう。


 そんな課題の事を思い起こしながら、バイトをしながらもよくやり切ったものだなと自分で自分を少しばかり讃えてやりたいと思った。


 そう、バイトである。


 入学してからすぐにバイトを始めた僕ではあるが、学生の身分の僕らとは違い、ファミリーレストランであるところの、『プレミアムホスト。』

 僕が勤務しているそこにはゴールデンウィークだから休み。なんてものは関係がないのである。

 いや、むしろ逆だった。


 ゴールデンウィークだからこそ、営業をする。


 無論、シフトを作る際に「学校が休みなら来れるよね?」と店長に問われて二つ返事で「はい」と答えたのは僕だ。


 家計を助けるという意味でも、僕の妹である水月−−−月岡水月つきおかみずきに少しでも不自由を感じさせない。という僕の決意のためにも、バイトには大喜びで行った。


 しかし僕は無知だった。


 駅から徒歩数分という好立地にも関わらず、普段から客入りの少ない僕のバイト先ではあったのだけど、それが油断を生んだのだ。


 人生で初めて言おう。てんやわんやであった。


 そんなゴールデンウィークのバイトであったが、1日だけ平日で、学校に行かなければならない日もあった。

 その日もバイトだったのだが、ゴールデンウィーク期間だけれど平日になった途端、いつもの様に客は(長く居座っていた1組を除いて)ほとんど来なかったというのだから、祝日の威力はすごいのだなと、改めて思ったものだ。



 まあでも……悪くないゴールデンウィークだった。

 


 そんな風に教室の窓の外の景色を眺めながら入学後初の連休について思いを馳せていると、視界の端からゆっくりとノートが現れた。


 

 「あのう……出来ました」



 何か悪いことでもしたのか、母親に怒られている小学生の様な表情でノートを差し出す目の前の少女−−−八色奏。


 髪色は地毛なのか判別は付かないが少々暗めの茶色で、背中までのびた髪を首のあたりで二つ結びにしている。あどけなさを感じる顔立ちははっきりとしているものの、どこか野暮ったさを感じてしまう大きなボストンタイプのメガネが印象的な少女である。


 そんな彼女のおっかなびっくりといった表情に、中学生当時、付き合い始めたばかりだったの頃の元彼女を連想してしまい自然と頬が緩んだ。



 ノートを受け取る。



 「結構早く終わったじゃないか。昨日今日じゃ無理かと思ったけど、成果が出てきたってことじゃないか?」


 「あ、ハイ……ちょっと、頑張って、みた。……みました」


 「……ん?おい奏。この辺り、全然答えが埋まっていないんだが?」


 「……」



 さっきとは打って変わってどこかもじもじと嬉しそうにはにかむ奏は、僕にそう言われるなり一瞬で目を逸らした。


 ノートをよく見る。



 「……ちょっと待て、君終わったって言ったよな?よく見なくてもこれ、空欄の方が多いんだけど。どういうこと?」


 「えっとですね、そのう……終わった、とは言ってない……よ?」


 「は?」


 「で、出来ました。って言ったので……」


 「……奏。そういうのは屁理屈って言うんだよ。どちらにしろダメだ。勉強を教えてくれって言ったのは君だろう?」


 「い、いやあ、違う……違います。月岡くんが先に、勉強大丈夫かって言ってくれたから……うぇへへ」



 ああ言えばこう言う……!


 そうなのだ。この女、激しく弱々しい態度をとっている癖にちゃっかり言いたいことは言ってくるやつなのである。


 僕としても女性に声を荒げるなんて言うのはあまりしたくはないし、それに何より、どうにも彼女が相手になると調子が狂うというか、つい中学時代の『彼女』に被って見えてしまい、変な感じになるのである。


 奏の勉強を見始めたのがゴールデンウィーク明け初となる登校日の翌日、つまり2日前になるのだが、どうにもまだ僕はこの目の前の少女に対しての自分の対応に、それとないブレを感じてしまうのだ。


 一つため息を吐いてこれ以上とやかく言うのは時間の無駄だな。と思い直す。


 彼女にもう一度問題を解かせるために、ノートを突き返そうとしたのだが、そこで彼女の視線が凍り付いたかの様に一箇所に止まっているのを見て、僕もそちらに目をやった。



 放課後の僕ら2人しか居ない教室。


 その閉じた扉の窓から、一人の女が覗いていた。



 彼女−−−厳密に言うと元彼女であり、現同級生。


 水原笑美みずはらえみが、覗いていた。



 「ヒィッ……つ、月岡くん、あれ、見えてますよね?わ、わたしだけじゃないですよねっ??」



 椅子ごと机を回り込んで僕の陰に隠れる様にした奏。


 大丈夫、僕にもしっかり見えている。



 ……水原、君幽霊だと思われているぞ。



 教室の窓が若干曇りガラスになっているせいもあるのだとは思うが、水原の真っ直ぐに伸びた綺麗な黒髪が恐らく奏の中の『日本の幽霊』像を想起させたのだろう。


 未だ僕の陰で震える奏。


 どういう感情が込められているのか、ガラス越しに僕を睨み付けてくる水原。


 僕が遠い目をしてしまうのも、無理からぬことであった。



 ……なんて、黙っている場合じゃないか。


 というか水原、君はいつまでそうしているつもりなんだ。もうとっくに僕にバレているのはわかっているだろうに。


 このままでは埒が明かないと思い至り、声を掛けた。



 「水原。そんなところに立ってないで、入ってきたら?」



 その言葉を待っていたかの様に、ゆっくりと扉が開く。



 「ひっ!ひぃぃやあぁっ……!き、きました!きちゃいましたよっ!月岡くんっ……」



 ……こいつ、いい加減うるさいな。


 

 無言で教室内へと入ってくる水原を横目に、今度は奏に声を掛ける。



 「奏。大丈夫だ、あれはにんげ」



 「アレ?」



 「……彼女は人間だ。幽霊なんかじゃない。第一、こんな真昼間から幽霊が出るわけないだろう」



 僕の言葉で少しは安心したのか、相変わらず僕を遮蔽物としながらではあるものの、奏の視線が水原へと向いた。


 

 「……ふああ、つ、月岡くん。……も、ものすごい美女が居ます。ど、どうしよう……」

 


 奏は僕にしか聞こえない位の音量でそう呟いてくる。


 本人に聞かれたらもの凄く照れそうだな。



 「随分楽しそうね、月岡くん」



 なかなかに冷えた目つきでそう告げてくる水原。どうにも機嫌がよろしくない。

 ……あれと言ってしまったのがお気に召さなかったらしい。



 「……誰のせいだと思ってるんだ」


 「なっ……!うぅっ……あっそ!お邪魔しちゃってすみませんでしたっ!」


 「何を怒っているんだよ。別に誰も水原が邪魔だなんて言ってないだろ?」


 「そ、そうだけどっ……だって……本当に邪魔じゃない?」



 伺う様に聞いてくる水原を見て納得した。


 ……ああ、変に気を使って教室に入ってこなかったのか。



 「大丈夫だよ。というか、何か用があったから来たんだろ?どうした?……というか奏、いい加減離れてくれ、暑い」


 「はっ!……す、すみません。つい」



 そう言えば……水原が奏に会うのは初めてか。


 そんなことを思いながら、少しだけ前にあった出来事を思い出す。


 先月の後半、僕と水原は紆余曲折あって、『元恋人だけど、同級生』という今までとは違う新しい関係性を持つこととなった。よいうよりも、元々そうだった関係を再確認した。まあ友達になるのを断られたからではあるが……。

 それからこっち、今の様に時たま放課後にふらっと僕の教室に現れては、たわいも無い話をしたり、お菓子をくれたりなどのやり取りをする様になっていたのだ。


 水原との新しい関係性について少しだけ回想している間に、僕から離れた奏は元の位置には戻らず、僕の少し横に移動して、居住まいを正した。


 急にくっつかれると、こう、非常に落ち着かないのだ。


 というか、どれだけ人見知りなんだろうか。まあでも、こんな所も……


 そこまで考えた時に、水原が奏に声を掛けた。



 「えっと、初めまして。さっきは驚かせちゃってごめんなさい。9組の水原笑美です。その、よろしくね?」



 そう言って遠慮しつつ奏の顔を覗き込む。



 「あっハイ。……八色奏やいろかなでと言います。……よろしくお願いします」



 緊張しているのか、ちらちらとだけ視線を水原に飛ばしつつ、か細い声で告げた。


 途端、水原の表情が驚きに変わった。


 まあ、僕には理由が分かるのだけど。



 「えっ、八色?」



 そう、水原は 『そこ』に引っかかったのだ。


 瞬間、はっとした顔をして、一瞬だけ僕に視線を寄越した彼女はしかしすぐに表情を戻して、奏へと向き直った。



 「あっ、ハイ。八色、です……けど」


 

 何で聞き返されたのか理解していないであろう奏が、もう一度名乗りつつ恐縮した様な表情を浮かべていた。


 微妙な空気になりつつあるのを察して、僕が言葉を発しようとした時、机に置いたままだった奏のスマホが震えた。



 「あ、ちょっとごめんなさい……」



 そう言ってスマホを手にとった奏は、しばらく画面を見た後、おずおずと申し訳なさそうに告げてきた。



 「あのう、月岡くん、ごめんなさい……お母さんから、お使いを頼まれてしまいまして……だから、そのう……」


 

 申し訳なさそうに僕と水原を交互に見やった奏はスマホの画面を向けてくる。


 何もそこまでしなくてもいいのに……変に律儀というか。そんな所まで似ているのか……。



 「わかった。じゃあ今日はここまでにしようか。奏、これ。出来たらで良いから、家に帰ったら埋めてみて」



 そう言って空白だらけだったノートを手渡す。


 それを受け取った奏は、何度か頭を下げてから教室を後にした。


 下校時刻にはまだ早いから、もう少しだけやっていくか。


 そんな事を思いながら、目線だけで水原に着席を促した。


 どう見たって、「話がある」って顔をしている。


 水原は一回だけ教室の外を見た後、僕の正面に座った。

 


 「……彼女が八色さんなのね」




 変な言い方だな……。


 一度だけ、水原の方へと目線を動かす。


 静かに告げた水原の表情に、声にどんな感情が乗せられているのか、僕にはわからなかった。


 けれど、何を言いたいのかはなんとなく伝わった。



 「別に、学校に一人くらい同じ名字がいたって、珍しい話じゃないだろう。現に今は八色ではないし」



 中学時代の僕の名字であった『八色』はあまり珍しい名字とは言い難かったが、だからといって他に居ない訳ではないのだから。


 実際、最初に聞いたときは僕も少し驚いてしまったけれど、でもだからといってそれは僕の都合であり、八色奏本人はそんな僕の過去など知る由もないし、なんの関係もない事なのだから。

 

 

 「うん。……でも、なんか……ううん。だから奏って呼んでいるのね」



 「……まあ、そう」



 

 そうなのである。


 家族を除いて、基本的には人を名字でしか呼んでいない僕が。かつての彼女であった水原でさえも結局最後まで下の名前で呼べなかった僕が、『彼女』に対してはほぼ初対面の時から下の名前で呼んでいるのである。


 それは一重に、僕のわがままに寄るものなのだけど。


 かつての自分の名字を。

 幸せだった家族といた時の名字を、自分で呼ぶことに対して強烈な忌避感を抱いてしまった、僕のわがままなのだから。



 お互いそれ以上何を言っていいのかわからないのか、教室には沈黙だけが漂っていた。


 僕はそれを誤魔化す様に、開いていた教科書へと目線を落とした。


 するとそんな空気に耐えかねたのか、水原が徐に席を立ち上がった。



 「さて、と。私はそろそろ帰るね。……また、ね。八色くん」



 そう言って歩き出した水原であったが、数歩進んで、止まる。



 「彼女、奏さんだけど……その、付き合ってる、とかじゃないのよね?」



 突如告げてきた水原に、僕は呆けてしまった。


 まさかそんな質問をされるなんて思ってもみなかったからだ。


 自分でも何故か、早く弁解しなければという気持ちが湧き上がり、少し早口で答えた。



 「まさか。僕と奏が付き合ってるなんて、あるわけないだろう」



 背を向けたままの水原の表情は窺えない。変な緊張を意味もなく感じてしまった。



 「……そ。じゃあまたね。八色くん」



 そう言うなり、今度こそ水原は教室を後にした。



 ……結局、彼女の用事とはなんだったんだ?



 彼女が「用事がある。」なんて一度も言ってはいなかったことには、僕は随分と後になるまで気付くことはなかった。








 帰宅して色々とやる事を終え、自室にて勉強をしていた僕は、一休みしようと椅子から立ち上がる。


 なんとなく、壁に掛けてある制服のブレザーに気を取られ、目を止めた僕は胸ポケットの小さな膨らみを見て、中に入っている生徒手帳を手に取っていた。


 高校に入学して一月が過ぎ、徐々に見慣れてきた制服と、ほんの少しだけ擦過傷の様な傷が見られる生徒手帳。


 つい数時間前、今日の放課後にあった水原と奏の邂逅を脳裏に描きながら、勉強の疲れで少しだけぼうっとする感覚に身を委ね、無意識の内に僕は思い返してしまっていた。



 どことなく中学時代の水原の面影を感じてしまう彼女のことを。


 気弱だけど、自分の意思はしっかりと伝えてくる彼女のことを。


 そんな所まで、当時の彼女を彷彿とさせる彼女のことを。


 その彼女に、勉強を教えてあげるきっかけとなった日のことを。





※※※





 ゴールデンウィーク明け初の登校となる今日。



 いつもの様に登校時間より幾分早めに教室へと到着していた僕は、休みの期間にバイトで酷使した身体の痛みをどこか心地よく感じながら、自分って奴は意外と社畜耐性というものがあるのかもしれないな、なんてくだらないことを考えていた。

 単純に運動不足なだけだろうが……。


 まだ登校している生徒もまばらな教室、この朝の静かな時間が僕はなんだかんだと気に入っていた。


 一つ大きく息を吸って、未だゴールデンウィーク期間から脱し切れていないどこかふわふわとした自分の感覚を切り替える様に、大きく息を吐いた。


 鞄から教科書を出し、休みに入る前に行っていた単元を復習するために目を落とす。


 そうしてしばらく復習を行なっていると、段々と教室が活気付いてくるのがわかった。

 同時、僕の右側の席からどかっとした音が聞こえ、目を向けた。



「おーっす月岡!久しぶりだな!」



 見るだに軽そうな鞄を机の上に放り投げる様にして置いた男−−−小高大樹こだかたいき

 僕の高校で出来た唯一の友人である。


 ……教科書はどうした。



 「おはよう小高。念のため言っておいてやるが、課題の提出期限は今日の17時までだぞ」


 「おっ!そんだけ残ってりゃなんとかなるな!サンキュー!」


 そう言ってなんの焦りもなく僕の背中を軽く叩いてくる小高に、思わずため息が漏れた。


 ……こいつなら有り得るかもと思ってわざわざ提出期限を確認したのは間違いだったかもしれない。数時間短く伝えてやれば良かった。


 よっぽど頼み込んでくる様だったら、少しだけ手伝ってやるか。などと思いつつ軽く小高をいなしていると、僕の前の席が動いた。



 「おはよーっ月岡くん。ゴールデンウィークぶりだね!」



 そう言って朗らかに挨拶をしてくる目の前の少女は新発田香織しばたかおりさん。あまり教室で喋る相手のいない僕が、小高の次に良く話す相手だ。


 ……君の机はもう2つ前だよ。


 こうして僕の前の席を陣取って、毎朝の様に新発田さんから話しかけてくれているので、僕から話しかけたことはいまだに無いのだけれど。

 そういった辺り僕のコミュニケーション能力の低さも分かろうというものだ。



 「おはよう新発田さん。久しぶり」


 「おーい新発田。俺もいるぞーっ」


 「あっごめんね小高くん。課題やってるっぽかったから、話しかけない方が良いかと思って」


 「ん?そうなのか。でも大丈夫だぜ。なんせ提出期限は17時までだからな!」


 「何が大丈夫だ。そもそも大丈夫な人は休み中に全部終わらせて来てるんだよ。いいから手を動かせ」


 「そうだよー小高くん。普通に授業もあるし、17時なんてあっという間だと思うよーっ。あ、それと数学だけは初回の授業時に提出じゃなかったっけ?今日だよね?」



 言われて思い出す。確かに新発田さんの言った通り、数学の課題だけは初回の授業時に提出だった筈だ。


 急に黙り込んだ右隣の席を、新発田さんと二人で無言で見つめた。


 小高が泣きついて来たことは、言うまでも無かった。



 ……こいつ本当になんでうちの高校入れたんだ?







 

 休み時間と昼休みをフルに利用してなんとか泣き言を言う小高の課題を終わらせることに成功した(この際解答の成否はスルーした)放課後、僕は教室から図書室へと向かっていた。



 入学後2回目となる図書委員の当番の日である。


 小高の勉強を見るために、クラスのもう一人の図書委員である北条さんには掃除を僕がやるからと言って、先に行ってもらっていた。


 その時に、当番の日に掃除をしなければいけないことを忘れてしまっていたらしい彼女に、前回掃除をしないで帰ってしまったことを謝られたので快く許した。

 というかそんなこと正直忘れていたので、ああも喜ばれてしまうとその事実を忘れていた僕の方が罪悪感を覚えてしまいそうだったけれど。



 中庭に併設される様にして建つカフェテリアがある棟の、3階にある図書室。

 その階段を上り切ったところの窪みに嵌る様な形で設置されている木製のベンチに、1人の女子生徒が座っているのが見えた。ネクタイの色からするに、同じ1年生の様だ。


 放課後にこんな所に1人で居るのを珍しく感じ、少しだけ意識を向けるも、スマホをいじっている様だったので、すぐに意識から外して図書室へと入っていった。



下校時刻が近付き、図書室から生徒が居なくなったことを確認して、約束した通り北条さんにも帰って貰った。

 自分も残って掃除する事を申し出てくれたけど、遅れて行って迷惑を掛けてしまったことには変わりないので、次回からは一緒にということで納得してもらった。

 最初はとっつきにくいかと思ったが、案外いい人かもしれないな。



 掃除を終え、パソコンの電源を落とす為にカウンターへと戻り、電源を落としたと同時に図書室の扉が開いた。



 目を向けると、どことなく見覚えのある女子生徒がこちらへと近付いて来た。


 ……あっ、さっきスマホ弄ってた子か。


 まだ最終下校時刻には数分残っていた事もあり、僕の方から彼女へと声を掛ける。



 「ごめん。誰も来ないと思ったからもうパソコン落としちゃったんだけど、何か借りるなら、もう一度付けようか?」


 「あっ。い、いえ……そのう……」



 一瞬、脳に電気が走った様な気がした。


 目の前で今も、もじもじとどこか気恥ずかしそうに俯く彼女を見て、僕は中学時代の水原を見た様な気になってしまった。


 目の前の少女と、当時の彼女ではその野暮ったい眼鏡以外は、さして似ているわけでもないのに。


 だけどどうしても、水原と被って見えてしまった。


 そんな感覚が抜けないまま、今も「あの…そのう……」と声にもなっていない様な声を発している彼女に、ゆっくりと話しかける。


 無意識の内に。かつての彼女に、そうした様に。

 


 「慌てなくて大丈夫だよ。何か言いたいことがあるなら、ゆっくりでいいから」



 すると彼女は、少しだけ目を瞠ったあと、小さくはにかんだ。


 そんなところすらも、かつての彼女と同じだったのだ。



 「あ、えっと、ですね。……これっ……」



 先ほどよりも少しだけハキハキとした声音で言いながら差し出された彼女の手には、生徒手帳が握られていた。


 それを僕に渡したいのだとわかり、手に取る。

 見るとそれは、僕の生徒手帳だった。


 目の前にあるのだから、そんな所にはある筈もないのに、それでも一度制服の胸ポケットを触ってしまった僕は、そこで漸く彼女が僕のそれを拾って届けてくれたのだということに気が付いた。

 けれど、お礼を言おうと思って顔を上げた時には、彼女はもう図書室の出口へと向かってしまっていた。




 ダッシュであった。




 結局、呼び止める事も敵わず、下校時刻を迎えた僕は帰宅するのだった。







 翌日の昼休み、昨日の生徒にお礼を伝えようと思った僕は1年の各クラスを覗き回ってみたけれど見つけることは出来ず、もしかしたら……と思って図書室の側にあるあの木製のベンチへと向かってみることにした。


 階段を上り切った所で、目当ての彼女を見つけることが出来た。


 僕をみてあからさまに驚いた表情をしている彼女だったけれど、僕も僕で驚いていた。


 その『顔』には以前に一度、見覚えがあったのだ。


 そのご飯を頬張ってもぐもぐとしている顔に、見覚えがあったのだ。


 つい、彼女と初めて会った日のことを。

 水筒を落とした彼女に拾って手渡して上げたことを、その時に彼女に対して抱いた印象を、ついぽろっと。



 「……あの、リスの子だ」



 口に出してしまった。




 「ぶほっ!!」





 口から出されてしまった……。



 顔面に大量のご飯粒を吐かれるという、大変貴重な経験をしたのだった。


 彼女の名誉のために、直後の彼女の様子は伝えないでおこうと思う。





 一頻りの片付け(色々な意味で)を終えた後、改めて僕は彼女にお礼を伝えていた。



 「昨日はありがとう。無くしたことにも気付いていなかったから、君が届けてくれなかったら、最悪再発行するかもしれなかった」



 そう言って頭を下げると、上から声が降ってくる。


 散々狼狽した後だったからか、昨日よりも良く声が出ていた。



 「あ、いえっ。わたしこそごめんなさいというか……ありがとうございましたというかっ……」



 いまだ混乱が収まり切っていないらしい。


 そんな慌てた様子も、当時の水原を思い出してしまい、頬が緩んだ。



 「君が謝ることは一個もないでしょ。そうだ、これ。良かったら貰って」



 そういって昨日、帰宅する時に買ったお菓子を手渡した。


 そこでまた一悶着あったが、恐縮する彼女になんとか受け取ってもらい、挨拶をして帰ろうとした時だった。


 予鈴とは違うアナウンスが流れた。



『1年3組 八色奏さん。 至急職員室小松の所に来る様に。 繰り返します−−−』



 −−−心臓が止まったかと思った。


 無意識に息を止めていた僕は、隣から聞こえてくる呻き声の様なもので、意識を戻す。



 「っひぃ!……ど、どうしよう……忘れてたぁっ……あんな点数取ったから、ぜったいお、怒られる……」


 「……もしかして今の、君のこと?」


 「うぇ?あ、ハイ。えっと、そのう……八色奏といいます。……あはは」



 

 この感覚をなんて表せばいいのか、僕にはよくわからなかった。


 ただ気付いた時には、口をついて言葉が出ていた。




 「よろしく、奏。君、勉強大丈夫か?」


 「あっ……あ……えと、そのう。えと……えっと……お……教えて、欲しいかも、です。うぇへへ」


 「わかった。とりあえずは職員室に行った方がいい。今日の放課後、空いてるか?」


 「あっハイ。えっと、空いて、ます……」




 この日の放課後から、僕は奏の勉強をみる様になった。


 自分でもなぜそうなったのかは、分からない。


 ただ何故か、放っておけなかったのだ。ひどく感覚的なもので、どうしてそう思ったのかなんて分からないけれど。


 ただ胸の内に広がる懐かしさみたいなものだけは、感じていた。



 僕が『奏』と、下の名前で呼び捨てにしていることは、一度たりとも触れられなかった。





※※※



 奏の勉強を教えるきっかけになった日のことを思い返し終わった僕は、つい余計なことまで思い出してしまった事に少々の疲れを感じた。


 そっと顔を撫でる。

 ……同級生の、それも女子からご飯を吐かれる経験をする事になるなんて、つくづく人生っていうのは何が起きるかわからないな。


 恐らく、あの何とも言えない不快な感覚は、忘れようと思ってもそうそう忘れられるものではないのだろう。


 ………僕がこの手のことをご褒美だと考える人種じゃなくて良かったな奏。



 「お兄ちゃんどしたの?さっきから自分の顔なんて撫で回して。なんかキモい。」



 「っ!違う!」



 「え?なに?急に、怖いよっ。怖いしキモい!」



 不意に言葉を投げかけられて咄嗟に叫び返してしまったが、よく見てみなくとも水月が部屋に入って来ていた。


 そんな事にも気付かなかったのか、僕は。


 これ以上考えたら何かいけない様な気がして、無理やり思考を切り替えた。



 「ごめん。ぼーっとしてたみたいだ。どうした?何かあったか?」



 先ほど兄に向かって「キモいキモい」と連呼していた勢いは今はもう無く、どこか不安げに僕を見てくる。



 「……変なの。うーん……どうもしないんだけど、なんとなく……」



 どこか罰が悪そうな水月の表情に、理解が広がった。


 『それ』に答えてあげるために、机に広げていた教科書とノートを畳む。



 「僕もそろそろ寝ようと思ってたんだ。水月も今日は一緒に寝るか?」



 ベットに移りながら、水月に問いかける。


 この家で2人で生活する様になってから、その頻度は少ないものの、水月は僕の部屋で一緒に寝ようとするのだ。


 小さく「うん」と頷いた水月と、横になる。


 1人で布団に入った時よりも、倍の速度で中が温まっていく。


 疲れた頭では、その温もりに抗う事も能わずに、僕は眠りへと落ちていった。






※※※


 


 

 水原と奏が邂逅してからあっという間に1週間が過ぎた。

 

 ここまで日が経つのを早く感じたのは本当に久しぶりのことだった。

 それこそ、当時水原と付き合っていた頃以来かもしれない。


 この1週間の間、何回か水原も放課後に一緒に勉強をすることがあり、随分と奏も水原に慣れて来た様に感じていた。


 僕はそんな毎日に、なぜだか満ち足りた物を感じていたのだ。


 水原と、奏と過ごす放課後に、不思議と心が安らいでいたのだ。


 それが何故なのかなんて、少しも疑問を感じないほどに。




 だからこの時の僕は、徐々にだけれど、それでも確実に起こっていた異変に微塵も気付くことはなかったのだ。

 

 回を重ねるごとに、水原が何か言いたげな顔をしていることに。


 回を重ねるごとに、奏の様子が変化していたことに。


 欠片も僕は、気付かなかったのだ。




 今日も、いつもの様に放課後で勉強をしていると、先に教室に入って来たのは水原だった。

 大体は、水原の方が奏より10〜20分程遅れて来るので、少し珍しいなと感じていると、机に置いていた僕のスマホにメッセージが届いた。


 教室に入ってから一度も喋って来ない水原を怪訝に思いながらも、メッセージを開く。


 差出人は奏だった。



 《お話ししたいことがあるので、図書室前のあの場所まで来てもらえませんか?》



 奏とは普段は家に持ち帰らせている課題について、わからない箇所があった時などにしか連絡が来たことは無かったので、純粋に驚きを覚えた。


 話とはいったい何だろうか。


 それにしても。と、目の前に座る彼女をみてしまう。


 ……そもそも、水原になんて言って抜け出せばいいのか。


 いや、というかそもそも僕と水原は付き合っているわけでもないのだから、気にする必要もないのか。


 しかし、僕が誰とも付き合うつもりは無いとは言え、好意を抱いている相手に他の女に会って来るなんて内容の事はこう……どう伝えれば良いのか判別が付かないのだった。

 

 だからといって、水原に黙って奏に指示された場所まで会いに行く。という事に変な気まずさを感じた僕は、迷った末に、当たり障りの無い言い方を選んでしまった。



 「ごめん水原。ちょっと用事があるから、一回抜けるね」


 「……うん。行ってらっしゃい」



 静かに机の一点を見つめながら言う水原に一度だけ視線を送ってから、席を立った。


 教室の扉を開けた所で、後ろから声が掛かる。




 「……八色くん」


 「ん?どうした?」



 振り返ると、変わらずに机を見つめていた水原は、少しためらう様な仕草を見せた後、言った。




 「……その……っ鞄、みておくね」


 「……あ、ああ。……ありがとう」



 ぎこちなく一度だけ笑った水原の顔が、なぜだか妙に頭に残った。




 図書室までの階段を上り切ると、初めて会った時と同じ様に、彼女はベンチの側に立っていた。

 

 雲が少なかった今日は、夕日がやけに強く光って、僕が来た事に気付いて振り返った奏の顔は、良くは見えなかった。




 「どうした?奏、何かあったか?」


 「あ、ハイ。月岡くん、そのう……急に呼び出したりしちゃって、えっと、すみませんでした」



 落ち着いた声、彼女にしては珍しかった。



 「いや、それは良いんだけど」



 続きを促す。




 「えっと、ですね。……そのう。……えっと……」



 

 どこか照れた様に、俯きがちになる奏。


 僕はまた、記憶と被るその光景に、無意識の内に懐かしさを感じながら声を掛けた。



 「よく分からないけど、ゆっくりで良いよ。最後まで、ちゃんと聞くから」




 『彼女水原』にそうしていた様に、『彼女』に僕はそう言った。




 「あ、ハイ。……じゃあ、えっと……言いますね」



 「うん」



 「こんな事、えっと、いきなり言われても、困らせてしまうかも、しれないんですけど……」



 「うん」



 「わたし、……高校でも全然お友達とか出来なくてですね。……えっと、初めて、だったんですよ」



 「……」



 「昔から、えっと、それこそお母さんにも鈍臭いって言われてきてて、それで何回も……周りの人に迷惑かけてしまったりして……」



 想像が付く。そんな所まで、奏はあの頃の水原に似ていたんだな。



 「だ、だから……はじめてだったん、ですよ……?わたしと一緒に、いてくれても、わたしが色々と、やらかしてしまっても。……そのあとでも、声を掛けてきてくれたのは、月岡くんが、初めてだったんです」



 「うん」



 「あはは……最初は、こ、これはもしかしたら夢じゃないんですかねーとか、思ったりも、しまして。……でも、夢なんかじゃあ味わえないくらい、それくらい……月岡くんとの勉強が、楽しかったんです」



 「大丈夫、夢じゃないよ」



 「ハイ……夢じゃ、ないんですよ。…………っだから、辛いんです」



 「……え?」



 「…………初めて、ともだちになれましたって、そう思えた人が、自分をみてくれてないんだって気付いて。……あははっ……つらかったんです」



 奏の言っている意味を、分からずに受け止めた僕は、僕の唇は、驚くほど水分を失っていた。


 そんなことを、だんだんと煩くなる心臓の音と一緒に、感じていた。



 「あ、えっと、そのう……ご、ごめんなさい。わたし、月岡くんとか、水原さんみたいに、頭、良くないですから。もしかしたら、ぜんぜん検討違いなこと、言ってしまっているのかもしれませんけど。…………けど、やっぱり、違うんです」


 「−−違うんですよ、月岡くん」



 段々と、口調が早くなっていく奏に、返事は返せなかった。


 ただただ足元が崩れていく様な嫌な感覚だけが、僕を襲っていた。



 「月岡くんが、勉強をみてくれるのも、最初に声をかけてくれたのも、いつもいつも優しくしてくれているのも、わたしだけど、わたしじゃないって。……あはは、変ですよね。……でも、そのう、一回そう気付いてしまったら、ごめんなさい。……もう、そうとしか、考えられないんです。……変ですよね」


 

 何か。


 何かを言わなければ。


 でも、そう思っても、言葉はでなかった。





 「月岡くん。……月岡くんは、わたしをみてますか?」





 全身に、鳥肌が立った。



 だって、だってそれは−−−






 「月岡くんは、わたしで。……いえ…………んでしょうか?」






 いつもの様に、決して大きくはない奏の声が、いやに大きく耳に残る。



 何度返事をしようとしても。



 僕の口は、開かなかった。





 「……否定はして、もらえないんですね。そう、ですか……ぁはは……っ」





 そう言って、横を通り過ぎて行った奏の顔は、僕には夕日で見えなかった。




 それが、僕が奏を……



 奏自身を見ていなかった何よりの証の様で……知らず僕は、座り込んでいた。



 


 奏と会ってからの日々を思い起こす。



 驚くほどに、奏自身のエピソードは。奏との記憶は、出て来なかった。



 代わりに脳裏に浮かぶのは、あの過去の空き教室の風景で。



 もう知り合って2週間近くも経っているのに。



 ちゃんと思い出せるのは、出会った時の事ばかりで。



 僕は奏自身のことを、何一つとして、知ってはいなかったのだ。



 そうだ、僕は……





 −−−「わたしに誰をみてるんでしょうか?」






 出会ってから今までずっと、奏に彼女当時の水原を重ねていたのだ。






 

 下校の鐘が鳴る。






 


 それが僕には、奏との−−−









 離別の音に聞こえていた。









 

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