最終話 ぼくとかのじょのあらわしかた


 人間関係を表す言葉というものは多岐に渡る。


 様々な状態や環境、感情なんかを表す言葉にはきっとまだまだ僕が知らない表現方法なんかも存在するもので、生粋の日本人である僕なのに日本語は難しいと常々感じてしまうのだから、無数の言語が存在するこの地球という世界でも、『日本語は難しい』と評されていることは、まごう事なく真実なのだろう。


 これだけでは頭に疑問符を浮かべてしまうこと請け合いだろうから、ここで例を上げてみよう。


 例えば『母親』この一つを表す日本語には−−−母、御母さん、母さん、母ちゃん、母上、母君、お袋、慈母、お母様、おっかさん、女親、おっ母、生みの親、義母、継母。

 僕が思いつく限りでもこれだけ多くの表し方がある。


 でもその全ての意味は、その関係は、自分の『母親』であるという事を表している。


 これは自分のことを呼称する上でも、父親でも、きょうだいでも全く同じことが言えるわけで。


 ではなぜそうも多く自分と相手との関係性を表す言葉が多いのかと言えば、それはきっと、自分が口にだして、あるいは心の中で呼ぶ、『相手との関係を表す言葉』には、それに見合った『距離感』というべき物が存在しているからだ。


 他人から知人へと変わる様に、知人から友人へと認める様に、友人から親友へと重ねる様に。


 そうやって僕らは、自分と相手との適切な距離感を、言葉に出してあるいは心で思って、確認しているのではないだろうか。


 そうやって確認しながら、自分自身を戒めているのではないだろうか。


 毎度の様に紆余曲折してここまで話してきたけれど、結局のところ今回は何が言いたいのかと言えば、これである。



 −−−僕と彼女の関係をどうやって表現したらいいのか。



 他人から知人へと変わり、知人から友人へと移り、友人から気になる異性へと変わるのを感じ、気になる異性から自分の彼女へとなってもらった。そして、別れた。



 そんな僕と彼女の今現在の関係を、なら僕はどう表現するのか。




 ただそれだけの、つまらない話である。






※※※





 高校に入学してからおよそ2週間が経過した今日、僕はいつもの様に少しだけ登校には早い時間に教室へと辿り着いていた。


 通常の授業が始まって、進学校特有のカリキュラムにも少しずつ対応し始めた僕は、遠くにあるグラウンドの方から微かに聞こえてくる運動部諸君のエネルギーに満ち溢れた声を聞き流しながら、教科書を開いていた。


 教室内にはポツポツと既に登校している生徒も見られ、その多くは僕と同じ様に教科書やノートを開いている。

 入学以来、僕の隣に座る男−−−小高大樹、彼以外とは友人と呼べるほどの関係性を築いていない僕ではあったが、流石に入学して2週間も経過すれば、それなりにクラスメイトに挨拶を返す。くらいのことはできる様になっていた。



 「おはようっ。月岡くん。今日も早いねーっ」


 「おはよう。新発田さん」


 今、僕の3つ前の席に座る彼女がそうしてくれた様に、大体はクラスメイトの方から声を掛けて来てくれている。 

 自分がぼっちになろうがなるまいがどうでも良いと思っていた僕ではあるけれど、こうして普通にクラスメイトと挨拶を交わしている。

 こういうのは、中学時代では−−中学時代の後半では、あまり馴染みのなかった現象だから、少しだけむずむずとしたものを感じてしまうのは、しょうがないと思う。

 けれど、決して不快なものではない。それだけは確かだ。


 その後も、一人、また一人と教室に人が増えていくのを教科書に目を通しながらも感じていると、不意に視線を感じた。




−−−まただ。




 そう、『また』なのだ。


 ここ1週間くらい、こうして視線を感じる事が度々起こっている。


 そんなの自意識過剰なんじゃないのか?ナルシストは胸の内にしまっておけよ。なんて思うかもしれないが、こと視線に関して『だけ』言えば、僕はそれを感じ取る事に少々自信があるのである。


 とは言え、この自信はなんの自慢にもならないし、むしろ誇って吹聴できる様な事では決してないのだけれど、僕が人の視線を感じ取る事に敏感になってしまった理由は、つまるところ中学時代に起因する。


 当時、僕が付き合っていた彼女−−−水原笑美。彼女と別れた後に学内の生徒から虫けらを見る様な視線と共に批判を浴びていた僕は、そうした生活の中でいつしか人の視線を感じ取るセンサーみたいなものだけは磨かれていたのである。

 まあこれについては、全て僕の責任であるというのは強く自覚しているので、深くは触れないでいようと思う。


 僕が視線に敏感になった根拠はわかっていただけたかと思うが、今の話題はそれではない。


 なぜって、現在進行形で僕は視線を感じているのだから。


 こうやってつらつらと、どうして僕が視線を感じ取れる様になったのか、なんて愚にもならない事を考え直している間に、どうにか居なくなっていて欲しいと儚い希望を抱いていたのではあるが、結局その希望は届くこともなく、いまだに視線の主は僕を見ている。



 流石に僕以外の生徒も気付き始めたのか、にわかに教室がざわめき始めるのを肌で感じた。


 決して気付いた素振りはするまいと自分に言い聞かせていた僕ではあるが、こうなってしまっては仕方がない。

 変に騒ぎになる前に、収拾をつけるのだ。


 顔を上げる事に、視線の主がいるであろう方向を向く事に抵抗を感じながらも、それを振り切る。




 ……あぁ、やっぱり。




 −−−水原笑美が、そこにいた。



 

 

 彼女は僕と視線が合うと同時、少しだけ肩がビクついた後、口を数回小さく開けては閉じて、を繰り返して、スウっと覗いていた扉の影から消えていった。



 ……何をやっているんだ。水原……。



 僕は心底困惑していた。


 彼女が僕を何故こうして見てくるのか、皆目検討が付かないからである。


 確かに僕と彼女は中学時代に別れてから、高校に入って再会するまで全くと良いほど会話なんてしてこなかったし、それに別れてからは僕も彼女もお互いに近付かない様にしていたのだ。


 それが、高校に入ってからのわずか数日の間に、何度か関わってしまう事は有った。

 けれどそのどれもがそうなってしまう理由があったからであり、僕としては決して不用意に自ら彼女に近付くことは無かったのだ。


 それはもちろん、彼女と別れてしまった僕が今更彼女に近付かなければいけない理由も、権利も無いからであり、何より彼女に言われた言葉がそれの後押しとなっているからだ。



 −−−「絶対に学校で私に話しかけてこないでね」



 思い出す度に胸がチクリと痛む錯覚を覚えてしまう彼女からの言葉であるが、僕はそう言われるだけの事を彼女に対してしてしまっていた負い目があるし、だからそれだけはしっかりと守りたいと思っているのだ。


 先週末に、自分の心を見つめ直して、いまだに水原のことが好きな感情を持っていると認めた僕ではあるが、だからといって彼女に言われた言葉を無視してまで彼女に関わっていこうなんて微塵も考えてはいない。

 そもそも、好意を持っているだけで、彼女とどうこうなりたい等、考えてもいないのだから。



 けれど、こうして彼女が僕を見てくる様になったのも、最初はそうされる心当たりは確かにあったのだ。


 それは入学して間もなくして行われた体力測定当日の出来事。


 人目を避ける様にして倒れていた水原を保健室まで運び、介抱した事だ。



 熱中症の症状があったのか、終始朦朧としていた彼女ではあったが、最初の処置を行ったのが僕だという事は分かったのだろう。

 

 倒れてから週を挟んだ月曜日の放課後には、彼女と同じクラスであり、高校からの友人である三条千春さんが、わざわざ僕のクラスに来てまでお礼を伝えてくれたのだから。



−−− 「えみちゃんを助けてくれてありがとう月岡くんー。えみもありがとうって言ってたよー」



 どこか間延びした様な声でそう伝えてきた三条さんに、僕は「気にしないで良いと伝えてくれ」と、確かに言ったのだ。

 


 月曜の朝から何故か水原が僕を見てくる事に気付いた僕は、三条さんがお礼を伝えてきた時点で、「ああ、これが理由だったのか」と、確かに納得したのだ。



 けれど実際はどうだ。火曜になっても、水曜、木曜、金曜になっても、あまつさえ週を挟んだ月曜。つまり今日になってもそれが無くなることは無かったのだ。



 

 正しく困惑である。


 僕には彼女が何をしたいのかさっぱりわからなかった。


 良い加減もやもやとするので理由を聞いてやろうと彼女に向かおうとすると、先ほどの様に颯爽とその場から立ち去ってしまうため、聞こうにも聞けないのだ。




 ……とびきり斬新な嫌がらせでは無いだろうか。




 いや待て僕、流石に嫌がらせなんて表現は早計だろう。


 今一度冷静に考え直してみるか。




 絶対に話かけるなと言われる。けど向こうは僕に気付かれる距離でこちらを見てくる。僕が目を向けたり、理由を聞いてやろうとすると居なくなる。




 ……新種の妖怪か何かに思えてきた。




 それが少しだけおかしくなってしまい、自分の頬が緩んでしまったのを感じて、すぐに表情を戻した。



 こんなところ誰かに見られたら、なんて言ってごまかせば良いのかわからないからな……。




 「ん?月岡くんニヤニヤしちゃってどうしたのー?」




 バレていた。



 いつの間に近寄ってきていたのか、僕の前の席に座ってじいっとこちらを見てきていた新発田さんに問われる。



 「……いや、別にどうも」



 新発田さんの瞳に宿る興味の感情から逃げる様に、なんとなく右を向く。



 「よう月岡!何だなんだ?女の話しか?」


 「……何でいるんだ小高」


 「朝から随分な挨拶だなおい!?」



 感情が声になっていた。


 いや、君タイミング悪すぎるだろう……。



 「おはよー小高くん!そうなんだよ、またなんだよーっ」


 「おーっす新発田。おお……やっぱし今日もだったか。んで、実際どうなんだよ月岡。お前なんか水原さんに悪さでもしたのか?」




 −−−シーン



 教室の空気が凪いだ。


  

 水原が僕を見にくるのは、幸いまだ登校している生徒が少ない朝の時間帯や、放課後のみに限られていたので、そこまで大々的に知られているわけでは無かったのだが、それは他のクラスの生徒に限った話であって、僕のクラスでの最近の噂はもっぱらこれなのである。

 現に今も驚くほど教室内は静寂に包まれていた。


 聞き耳を立てるなんてレベルじゃないだろう……!



 噂について聞かれそうになる空気を感じる度に僕は席を外したり、教科書を開いて聞こえていないフリをしていたのだが、今回ばかりはどうにも逃げ切るのは難しいらしい。



 ……仕方ない、シラを切り通すぞ。



 「何のことだかさっぱりわからないな。そもそも僕と水原さんは何の関係もない」


 「えー?水原さんこの間、月岡くんとは中学が同じだったんです。って言ってたのに?」


 「……は?」





 …………君は一体何をやってるんだ水原っ……





 結局、予鈴に助けられるまで僕は黙秘を貫いた。






 

 朝の一件での僕の反応からか、「今日こそは何か聞き出せるかもしれない」そんな恐ろしいまでの統一したクラスの空気から何とか逃げ切った僕は、放課後の図書室のカウンターに座っていた。


 今日は僕が図書委員としての当番を行う日である。


 図書委員としての仕事内容はすこぶる簡単で、返却された本を書架へと戻す、貸し出す際に本人の生徒手帳と本のバーコードを読み取って、返却期限を伝える、下校時刻になったら、簡単に掃除をして、戸締りをする。

 これだけだ。


 昔から交友関係が狭かった僕は、元々が読書好きだったというのもあるけれど、良く学校の図書室や図書館にはお世話になっていた。

 高校では何かしらの委員会に必ず入らなければいけない様だったので、迷わずに図書委員に手を挙げたのだ。幸い誰かと被ることもなくすんなりと決定した。

 

 委員会の顔合わせの際に水原が同じ図書委員だった時は少しだけ驚いたものの、1学年10クラスある僕の高校では、1日各学年1クラスずつ順繰りで委員会の仕事が回ってくるため、実際に仕事に赴かねばならないのは10日に1回で済むのだ。

 そのため水原と一緒に仕事をしなければいけない。なんていう事には幸いにもならなかったし、仕事をしなければならない日数が比較的少ない委員会を選ぶことが出来たのは、基本的には放課後にバイトを入れている僕としては、嬉しい計算外だったのだ。


 下校時刻まで10分と少し切った辺りで、図書室から人が居なくなったのを確認し掃除を始める。

 僕以外の図書委員は時間はまばらだったけれど、皆それぞれ先に帰ってしまっていた。そんなに掃除がしたくないか……。


 そういえば、何の用があったのか、それともただ単に本を借りに来ただけだったのか、途中水原がカウンターへと来たけれど、特に何も言われることは無かった。


 しかし僕としてはツッコミたくて仕方がないことがあったのだ。



 水原が借りた本『ふんコロ昆虫記。』



 恐らくはふんころがしの生体について書いてあるだろうその本を、水原が僕の前に出してきた時は正直、二度見、いや三度見はしてしまったと思う。


 ……あいつ確か、虫は苦手だったよな?


 確かに虫嫌いであった筈の彼女が虫の本を、しかも何故かふんころがしの本を持ってきたことだけは意外というか予想の斜め上すぎて、その後もなかなか頭から抜けてくれなかった。


 ……彼女も彼女で、あんなに恥ずかしそうな顔をするくらいならわざわざ借りなくても良いんじゃないか?


 共感性羞恥ともいうべきか、こっちの頬まで赤くなってしまった気がした物だ。

 


 そんな風に、ついさっきあった出来事を思い返しているうちに掃除は終わり、彼女が返却したら僕もちょっと読んでみるか。なんてふんころがしについて興味を高めていた時、図書室の扉が開いた。

 心優しき図書委員が今更ながら掃除をしに戻ってきてくれたのかと思ったが、違った。



 水原笑美がそこにいた。


 

 ……忘れ物でもしたのだろうか?



 入り口で止まったままの彼女を僕もつい黙って見てしまう。


 「……こ、こんにちは」


 喋った。


 ここ最近姿は見ていたけど、声を聞くのは久しぶりだな……。


 「こんにちは。何か忘れ物か?」


 「あっ……え、っと、そう、うん。忘れ物……。……じゃ、なくて。その……」


 「……」


 「…………」


 

 結局黙るなり下を向いてしまった水原。

 

 なんの用事だかわからなかったけれど、ここ最近ストレスを貯めさせられたこともあって、僕の方から聞いてやろうと口を開く。



 「……あえて断定して言わせてもらうけど、最近僕を見てるよな?あれ、一体何が理由なんだ?」


 「……それはっ……」


 「……もしかしてあれは、お礼が言いたかった……とかか?」


 「……う、うん。それも、ある……」



 何だ、結局はそれだったのか。


 僕は水原を律儀なところもある人だと思っているので、三条さん伝いで受け取っていたにしろ、改めて自分で感謝を伝えたかったのだろう。



 「そうか。それなら大丈夫だよ水原さん。ちゃんと三条さんからも聞いていたし、具合が悪い人に手を貸すのは当たり前だ。別に君がそう何度もお礼を言うことじゃない。むしろ気にしないでくれ」



 「……っ!……ち、違うのっ。もちろんあの時のことでお礼も言いたかったんだけど。でも……今日はそのっ!ち……違うことと言うか」



 後半になるにつれだんだんと音量が小さくなっていく水原を見て、正確にはその顔を見て、僕は理解した。


 だって、あのいかにも恥ずかしいですって顔はついさっき見たばかりなのだから。



 ……なるほどなあ。



 つまりこういうことだろう水原。

 

 僕はつい微笑ましくなってしまいながらもそれを水原に伝えた。



 「そんなに心配しないでも大丈夫だよ水原さん。君がああいった本を借りていったことなんて、僕は誰にも言わないから」



 そもそもそんな事を話そうと思う相手がいないしね。



 「……?……〜〜〜〜っ!」



 それを聞いた水原は言葉の意味を理解したのか、一層赤くなった顔で一度だけ僕をキッと睨みつけた後、図書室を飛び出していった。



 ……あそこまで恥ずかしがるくらいなら、借りなきゃ良いのに。




 それにしても、『水原さん』か。


 僕が彼女のことをいまだに好きだと自覚してから、家族を守るのだと誓ったことを改めて思い出したあの日から。

 入学してから何度か彼女と関わってしまった際に呼んでしまっていた『水原』と言う呼称に『さん』をつけ加えていた。


 何故か水原本人が僕と同じ中学だったことを新発田さんに話してしまったとはいえ、周りの生徒が皆『さん』付けで呼んでいるのに僕だけ呼び捨てというのは、こう、いかにもお互いの事を知っています。みたいになってしまう気がして、意識的に変えることにしたのだ。



 彼女が改めてお礼を言いたかったと認めた、あの保健室での出来事を思い出す。



 熱に浮かされた様な瞳。僕のことを「八色くん」と呼んだ水原の声。



 まるで食肉植物に誘われる昆虫の様に、さながら甘い蜜に誘われる虫の様に、ふらふらと勘違いをしてしまいそうになる自分の心を掴んで止める。


 あれは、ただの妄言だ。


 熱中症でただ意識が朦朧としていたから出てきた言葉だ。それ以上でも以下でもない。


 そもそも、僕は誰とも付き合わないと決めたじゃないか。仮にあれが僕を思っての言葉だったとしても、それは全て『過去』の僕に対する言葉だ。


 知らず握り締めていた箒の柄を一度見遣り、片付けをして家路についた。


 今日はバイトがないから温かいご飯を作ってやれる。



 少しだけ荒みかけていた心は、家で待つ妹を思うとすぐに和らいでいった。




 




 まだ新しさを感じることのできるフライパンが、「ジュ〜ッ」と音を立てて丸めた肉の塊を焼いていた。


 閉じた蓋から漏れ出てくる匂いはいかにも食欲を駆り立てる魅力に溢れており、隣でその様子を見ていた水月の喉がごくりと動くのが分かった。


 「そんなに見つめなくたって、ハンバーグは逃げやしないぞ」


 「だって美味しそうなんだもんっ!」


 思わず苦笑しながら、今か今かと体全体から期待の雰囲気を出す水月に告げる。

 僕が本格的に料理をする様になって数ヶ月。モチベーションの維持に水月のこれは大いに役立ってくれていた。


 可愛い妹のためなら、リクエストされた物は何でも作ってやりたくなる物だ。



 

 食卓に今日の晩ご飯が並ぶ。


 僕はそれを極力視界に入れない様に努力していた。



 「……お兄ちゃんさ」


 「……はい」


 「ハンバーグは逃げないって、言ったよね?」


 「……はい」


 「じゃあこれは、ナニ?」


 「……ハンバーグです」


 「ふう〜ん。この黒と茶色でマーブルされた固そうな塊がハンバーグなんだ〜?」


 「……申し訳ありませんでした」



 失敗していた。


 

 かっこつけて「何でも作ってやりたくなる物だ」なんて抜かしておいて、そのわずか十数分後には平謝りをしていた。


 失敗した理由は明白である。


 場所をとって邪魔だった水月をテレビの方に押しやってから、付け合わせのポテトサラダをマッシュするのに手間取ってしまい、「お兄ちゃん?なんか焦げ臭くない?」と言われた時にはすでにマーブルになっていた。


 「悪かった。ちょっと料理できる様になったからって完全に油断してた。これから余ってるやつで何か作り直すから、サラダだけ食べて待っててくれ」


 バイトをする様になり、二人揃って晩ご飯を食べる機会が減ってきていたことを水月が寂しがっている様に見えていたので、久しぶりにちゃんとしたご飯を作ってやりたかったのだが、完全に裏目に出てしまった。


 そんなことを考えながら、ハンバーグだった物が載った皿に手を伸ばすと、水月がそれを阻止してきた。



 「ううん、これ、食べる」


 「いや、でもな焦げてるし……」


 「良いのっ。ほら、早く食べよ?」


 こっちを見ない水月。昔からそうだ、照れ隠しをする時は目を合わせなくなる。

 

  全く……助けられてばかりだな僕は。



 「……ごめんね」


 何について謝ってるのか、なんて。聞かずともわかる。


 「気にしてないよ。ほら、冷める前に平げるぞ」


 「へへ……うんっ」


 

 「「いただきます」」


 母の教えを今日も守った僕らは食事を始める。

 

 一人だったらおそらく食べきることは出来なかったであろうその焦げたハンバーグの皿は、しっかり空になっていた。





 食後、リビングのソファでコーヒーを飲みながら読書をしていた僕の横に、風呂上りの水月が腰掛けてきた。


 ……珍しい。


 普段、食事の時意外はあまりリビングへとやってこない水月に少しだけ驚く。



 「……お兄ちゃんさ、その後どう?」


 ……その後、ね。


 「別に、どうともないな。特に何かあったわけでもないし」


 「……ふ〜ん。そうなんだ」


 「ん?何だよ?」


 「別にー。じゃあ他は?良い子いないの?」


 「良い子って、僕の周りは一応みんなお前より年上だからな?んー、勉強も忙しいしそういうのは良いかなって思ってる」


 「……そっか」


 さっきから様子がおかしい。


 過去の光景を思い出してしまいそうになり、心臓が早鐘を打つ。



 「……どうした?なんかあるなら、言って良いんだぞ」



 僕の不安を感じ取ったのか、一度だけちらりと顔を見てきた水月は、徐に立ち上がると、リビングの扉へ向かって歩いて行った。


 扉を開けて、姿を消す直前に少しだけ振り返り。



 「あたしは、お兄ちゃんに彼女作って欲しいって思ってるから……!」



 それだけを言い残して、リビングから出て行った。





 困惑する。


 水月の言った言葉の意味を、僕はどう捉えれば良いのか、本気で戸惑う。


 僕に彼女を作って欲しいと思っている?水月が?



 ……有り得ない。


 ……他の誰が言ったとしても、水月が。水月だけはそれを言わない筈なのだ。




 在りし日の言葉が蘇る。




 −−−「お兄ちゃんはっ!……お兄ちゃんは、いつも彼女と出かけてるから!!私の気持ちなんてわかるわけないじゃん!!」



 何かが引き裂けるかのように叫んだ妹の言葉。



 目眩を覚えて思わず両手で顔を覆った。掌から感じる嫌な汗がひどく不快に思えてすぐに手を離す。


 知らず上げてしまった視線は何も映していないテレビへと向けられて、黒塗りの画面に写った僕の顔は、何の色も宿していなかった。





※※※




 水月に「彼女を作って欲しいと思ってる」と言われた日から数日経っても、僕はその真意を問いただすことが出来ていなかった。


 『プレミアムホスト』の厨房。皿を洗い流す水を眺めながら、考えた。


 

 正直に言おう。


 僕はその意味を、確認するのが怖かったのだ。


 水月の真意がどちらにあるにしても、改めて口に出されるのを恐れたのだ。



 じゃなければ、僕がやっていることの意味が、無くなってしまう様な気がして。



 何よりも家族を1番にすると決めた僕の決意が、崩れてしまう様な気がして。



 彼女を作ってしまったら、妹に注げる時間が減ってしまうから。


 妹をまた、一人にしてしまうことになるから。


 これが水月の強がりだったとしても同じだ。

 

 だってそれは。『僕に気を使った』ということだ。


 言い換えるなら、水月が自分のことを『僕の負担』になっていると、そう感じてしまっているということなのだから。


 そう、『感じさせてしまっている』ということなのだから。


 だから僕は聞けなかった。


 どちらに転んでもそれは……。



 −−−『僕がちゃんと出来なくなる事』に繋がり。



 −−−『僕がちゃんと出来ていない事』を表すのだから。



 だから僕は、思考を止めた。


 努めてあれを、聞かなかったことにした。


 胃のあたりがねじれる様に痛み、思わず顔を顰める。



 弱い男だと罵られても良い。



 誰に何と言われようと構わない。



 祖父母の顔を思い出す。一生を掛けても返しきれない程の恩がある。



 病室の母を、今も家に一人でいる妹を思い描く。これ以上失うわけはいかないんだ。



 

 僕は僕の下した決意を、ただただ信じようとしていた。



 じゃなければ、僕は何を信じればいいのかすらわからないのだから。







 バイトを終えた僕は、自分でも理解出来ていない漠然とした不安めいたものを抱えた頭で、駅に向かって歩いていた。


 バイト先である『プレミアムホスト』を出て数分。駅へと向かう道すがらにある公園。その入り口に誰かがいるのが見える。


 目を瞠った。



 

……こんな遅い時間に一人で何をやってるんだあいつはっ……!



 遠目でも誰かなんてすぐに分かった。


 彼女−−−厳密に言うと、元彼女。


 水原笑美。


 無用心にも公園の入り口の防護柵に腰掛け、ぷらぷらと足を揺らしている水原に、何故だか無性に腹が立った。


 それが何から来る怒りなのか、どこから来る怒りなのか、わからないまま。



 足音を立てる様にして彼女に近付く。


 「こんな時間に、何をやってるんだよ君は」


 「……見てわからない?待ってたの」


 こてんっと、首を傾げる水原。


 誰を。とは言わなかった。


 最近の彼女とは違うどこか余裕めいた態度を見て、先ほどから僕の中で渦巻く怒りが、競り上がってくるのを感じた。



 「……何の用?僕には水原さんに用はないんだけど」


 感情を押し殺す様に告げる。


 「……そ。でも、私はあるの」


 頼むから、どこかに行ってくれ。


 じゃないと……



 「僕にはそれを聞く理由がない」


 「……そうだね。でも私には、話したい理由があるの」




 挑む様な瞳。




 僕の中で、何かが弾けた。










 「……っ!いったい何なんだよ君はっ!!話しかけてくるなって言ったのは君の方だろう!?だいたい何なんだよ!別れてからずっと、僕と話すことなんて無かっただろう!?君は僕を嫌っていただろう!!なのに……!なのに、何で今になってこうやって話しかけてくるんだよっ!僕が高校に上がってから君に対して何かしたか??何かこれ以上不快にさせる様なことをしたかよ!?なあ!?……高校でも一緒になったのが気に食わないのはわかってる!でも一緒になってしまったものは仕方がないだろう!……水原が言った通りにする。話しかけたりもしないさ!だからっ……!だからもう…………頼むから…………放っておいてくれ……」

 


 

 これ以上、僕の心を乱さないでくれ……。


 

 一息に告げて、荒くなった肩で息をする。


 酸素が足りないのか、目眩がする。


 わかってる……。


 こんなのはただの八つ当たりだ。


 知らず、抱え込み過ぎていた感情の吐口だ。


 そう頭では分かっていても、どうしても止めることが出来なかった。


 遅きに失した後悔。


 ……彼女は何にも、悪くないのに。


 何もかも、僕が足りないせいなのに……。



 奥歯を噛み締めて下を向く。





 

 


 視界が、消えた。


 

 

 

 

 俯いた頭を抱き竦められているとわかると同時、声がした。











 「……やだ」










 たった2文字。



 そのたった2文字の言葉だけで、ずっと堪えていたものが溢れていった。



 



※※※







 「はい、これ」



 公園のベンチに座り、街頭に集る虫を眺めていると、隣に座る水原が鞄から飲み物を出してくれた。


 350mlのペットボトル。当初は熱かったのであろうそれは、僕の手に渡った今は緩くなっていた。



 不覚にもつい感情的になってしまった僕は、まあいろいろあってこうしてベンチに座っている。


 あんなにも怒鳴り散らされた後だというのに、水原は深く腰掛けて浮いた脚をぷらぷらと揺らしていた。



 その姿に何を言うべきか迷っていた心が、なぜだか少しだけ軽くなった様な気がして、口を開いていた。



 「……水原さん。さっきは、ごめん。怖かったろ?」


 「……ううん。大丈夫。……落ち着いた?」


 「……あぁ。うん。落ち着いたよ、本当にわるかった」


 「……そ。なら良かった。……ふふっ」


 何がおかしいのか、漏らす様に笑う水原に、もう怒りなんて湧いてこなかった。


 「散々怒鳴っておいて何だけど、用って何?……一応、聞くよ」


 「……うん。そうだなー、まずは謝ろうと思って」



 ……謝る?


 僕が想定していた用件とは全然違う単語が出てきた。



 「えっと、謝るって、何が?」


 すると、「よいしょっ」って掛け声と共に立ち上がった水原は、僕の前に立って、頭を下げた。



 「話しかけないで。なんて言って、ごめんなさい。あれ、撤回させて下さいっ」


 

 呆けた。



 「……え?それだけ?」


 「うん。だめ、かな?」


 「いや……だめではない……けど。もしかして、それを言うために僕のことを見てたのか?」


 「あ、あはは〜。なかなかタイミングがわからなくて、はい」



 頬が緩む。……本当に昔から、要領が悪いというか何というか。



 「……変わらないな」


 「えへへ……」


 「褒めてない」


 「あっ。そうだよね。えへへ……」



 何がおかしいのか、にこにこと笑う水原。


 そうだ、変わらないんだ水原は。僕があれこれと考えていただけで、その実なんてことはない理由だったのだ。


 たったそれだけのことを、頑張る人なのだ。



 「で?まずはってことは、他にもあるんだろ?」


 「う、うん。えっとね……あの放課後の時も、体力測定の時も……助けてくれて、ありがとう」


 「どういたしまして。でも、僕が勝手にやったことだから、気にしないで良いよ」


 「うん。それでも……ありがとう」


 「……それで?他にはもうない?」


 尋ねながら時計を見る。そろそろ帰さないといけない時間だ。

 ベンチに座って少ししてから、水月には遅くなると送ってある。



 「えっと……まだ、ある」


 水原は時間なんて気にしていないのか、僕の前でじっと立ちながら続きを話そうとした。


 「じゃあ、それも聞くから。もう時間遅いし、帰りながらで良い?送るから」


 「ええっ!いや、そんな、悪いよ……」


 「それこそこんな時間まで付き合わせたのは僕の責任でもあるんだ。どうしても嫌だっていうなら辞めるけど、そうじゃないなら行くよ」


 そう言って立ち上がり駅に向かって歩き出す。


 後ろから遅れてついてくる水原は、それ以上は断って来なかった。






 電車に乗っている間は、お互い何も話さなかった。


 ほんの少しだけ距離をとって並びながら、流れる景色を眺めていた。


 バイトを終えた時にはあれ程ささくれだっていた心は、もう治っていた。




 ホームを出て、今では随分と懐かしく感じる水原の家までの道を歩く。


 会話の機会を探っているのか、歩く速度は遅かった。


 何となく居た堪れなくなり、俯きながら半歩後ろを歩く水原に声を掛ける。


 大丈夫。今はもう、落ち着いている。




 「……それで、他には?」


 僕から話を振られるとは思っていなかったのか、小さく肩が揺れた。


 驚くほどさっきまでの元気をなくしているように見える彼女は、もう少しだけ歩く速度を緩めた。


 少しの沈黙の後、絞り出すようにして話し出す。


 「……中学を卒業した時にね、思ったんだ。……あぁ……これで、もう……八色くんを見ないで済む……って」


 「……うん」


 「……でも…………私ね、嬉しかったの。嘘だって思うかもしれないけど、またやい……月岡くんと同じ学校になれて、最初は驚いたし、何でって思ったりもしたけど、でも……嬉しかったの」


 「……」


 「でも、自分でもよくわからなくて、それで話しかけないで。なんて言っちゃって。……それで……それ……で……っ」


 「……うん」


 「だけど……やっぱ……り……っ……やっぱり……」


 「…………」


 「……いや……なの。……イヤなの……っう……話せ、ないのは…………さみ、しい……ょっ……」



 水原の足は、完全に止まっていた。




 −−−あぁ。……本当に、変わらない。



 俯いて、涙を流す水原が、過去と重なる。


 中学時代なんて目じゃないくらいに綺麗になった彼女が、それでもぴたりと一致する。



 すれ違う人が驚いた顔をして僕らを見る。



 こんなこと、今の僕がしてあげる権利はないのに、それでも僕は手を引いていた。


 


 僕の記憶にしっかりと残っている公園。水原の家から程近い場所にあるそこまで無言で手を引いて、古ぼけたベンチに座らせた。


 

 ハンカチを出す余裕もないのか、今も必死に止めようと手の甲で涙を拭う水原の手をとって、僕のそれを握らせる。


 また一段階嗚咽が大きくなった彼女に、ちゃんと届く様に、ゆっくりと話す。




 「大丈夫だよ、水原。ゆっくりでも、まとまらなくても良いから。……ちゃんと最後まで、僕は聞くから」



 昔、そうしてあげた様に、小さな頭にそっと手を乗せる。


 気持ちに蓋はしたままだ。


 だけど、それでも良いと思った。


 水原の涙を止めてあげられるなら。


 それでも良いと、思ったんだ。





 しがみつく様にして、彼女の左手が僕のブレザーを握った。



 「……っうぅ。……や、やいろくっ……つ、つきおか、くん……っ……」



 思わず苦笑した。こんな時でも他人に気を使う優しい彼女に。



 「……八色でいいよ。まだ慣れないだろ?それ」



 「……や、八色くんっ……う……ぅ……あぁっ……ぅああっ………」







 膝立ちした僕にしがみ付くようにして泣く水原が、少しでも安心できるように。



 そんな思いを込めて、ゆっくりと背中をさすり続けた。




 時間はもう、気にならなくなっていた。








 

 「はい、これ」



 泣き止んだ水原に鞄を持っていてもらった僕は、自販機で買ったお茶を彼女へと手渡した。



 「……あ、ありがとう。あ、お代……」



 まだ少しだけ鼻声の彼女が財布を取り出そうとするのをやんわり止める。



 「良いよ。さっきのお返しだ。……まあ、お互い口止め料ってことで良いんじゃないか?」



 水原だって、僕の前でわんわん泣きはらしたことなんて、誰にも知られたくはないだろう。

 少しおふざけっぽく言ってみた効果は、十分あったようだ。


 

 「……口止めりょう……ふふっ……うん、わかった」



 水原が小さく笑ったのを確認して、隣に腰を下ろす。



 「それで?さっきの話だと、結局僕は水原さんに話しかけても良いってことで良いのか?」



 撤回します。とも、寂しい。とも言っていたしな……。




 「……それ、嫌だ」

 



 ずっこけた。

 



 「えぇ……?そういう話しじゃなかったか今?」



 この時間は何だったのだ。




 「ううん、そっちじゃない。……名前」



 「……名前?」



 「うん。『さん』はイヤ」


 

 胸の前でペットボトルを抱くようにして持つ彼女の瞳からは、感情は読み取れなかった。



 「あー、うん。分かったよ、水原。……これで良いか?」



 「……うん。……八色くん」


 

 「八色で良いとは言ったけど、2人の時だけにしてくれよ。周りが困惑する」



 「えっ……2人の時……?」



 っくそ、言い方を考えてなかった。これじゃあ誤解されても仕方ないか。


 

 「他意はないよ。学校でも、話すかもしれないだろう」




 「あっ、うん。そうだよね、うん。……わかった」



 恥ずかしげに揺れる瞳。


 大丈夫……勘違いはしていない。



 「そろそろ帰ろうか。お母さんに心配かけるぞ」



 立ち上がり、公園の出口へと進む。



 不意に、足を止めてしまった。


 胸のうちに湧き上がるものを感じて、足を止めてしまった。


 疑問は山ほどあった。


 でもそのどれをも考えないようにしていた。


 彼女に安心して欲しかったから。泣いて欲しくなかったから。


 だけど、どうしても聞かなければいけないことがあるのだ。


 彼女の言ったように、これからまた水原と話していくのだとしたら。


 必ずこれだけは、聞かなければいけないのだ。

 

 だから、聞いた。



 「水原。…………君は、怒っていないのか?」



 一拍置いて、返事が来る。




 「……うん。だって………」



 続きを待つ間が、僕には地獄の審判のように思えた。



 「……ううん。……だってさ、八色くんも言ったでしょう?『一緒になってしまったものは仕方がない』って」



 「……でも」



 「だからっ。……だから、良いの」



 彼女の中で、それが本当に言いたかったことなのかは、僕にはわからなかった。


 けれど、今は、それで良いと思うことが出来た。


 彼女の前で醜態を晒してしまう位、心に重りを抱えてしまっていたらしい僕にとっては、それで良いと、思ってしまった。


 彼女の優しさに、多分僕は甘えていたのだ。







 

 2人連れ立って歩く住宅街。


 昔とは何もかも違う僕ら。


 記憶のそれより、半歩分距離は開いていたけれど、そこに感じてしまう寂寥感は無視した。



 「あーあ……本当はね、もっと話したいことがあったんだけど。全然だめだった」


 泣いてしまったことを言っているのか、恥ずかしそうに笑って言う水原。


 彼女の家はもう、すぐそこだ。



 「別に、今日無理に全部話さなくても良いんじゃないか?」


 「……うん」


 「まだ高校が始まって1ヶ月も経ってないんだ。それこそ話す時間なんて、いくらでもあるだろう?」


 「……えへへ、そうだね」


 「なあ水原」


 「なあに?八色くん」


 「その、……僕と君は、友達ってことで、良いのか……?」



 変な間が空いた。



 「うーん。それはイヤ」


 「おい……意外と傷付くんだが……」


 「えへへっ。友達は、イヤっ」


 「2回言う必要あるか?それ……」



 ……なら、ならなんて言えばいいのだろう?


 ……友達ではないのなら、僕と彼女は何なのだろうか。


 そんなことを思っていると、いつも送り届けていた曲がり角まで到着していた。



 「……じゃあな、水原。遅くまで悪かった」


 「私こそごめんね。……帰り、気をつけてね。……また、ね。八色くん」




 そう言って僕に背を向けて歩き出した水原は、しかしすぐに立ち止まる。



 そして水原は、振り返って告げたのだ。





 つい数時間前に公園で見せた、あの瞳で、告げたのだ。




 「……元カレ。でしょ?今は…………今は同級生だけど。でも、あなたは私の元カレ。なら今は、それで良いじゃない」




 言って、今度こそ振り返ることなく帰っていった。





 ああ、何だ。



 胸に理解が広がった。



 だってそうだろう。



 自分自身で何度も言っていたじゃないか。



 水原笑美。−−−元、彼女。



 たまたま同じ高校になっただけで、その関係性はなんてことないものなのだ。



 −−−同級生で、元彼女。




水原への好意を未だ持っている僕だけれど。



それは好意であって、恋ではないのだ。



だってそれはもう、捨てたものだから。



彼女に抱いた僕の初恋ってやつはもう、とっくに手放してしまっているのだから。





その初恋を、拾おうだなんて。今の僕には考えられないのだから。






 家に帰ると、水原と別れて以来、初めてとなるメッセージが届いていた。


 とうの昔に僕の連絡先なんて消されていたと思っていた彼女からの連絡。


 それはわざわざ紹介することもない、本当になんてことない内容で。


 けれど、一度離れて何もかも途切れていたと思っていた僕と彼女の、今までとは違うけれど、それでも確かに存在する細い糸のように思えた。





 この日から、僕のスマホは少しだけ、電池の消費が早くなった。








 




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