第十話 熱を感じた日

 「あの人ってどんな人?」



 自分の知人や、一方的に知っている人をそう聞かれて、他者に紹介する事なんていうのは、誰しも一度や二度は経験したことがあるのではないでしょうか。

 何せ、昔から周りと比べても極端に交友関係の狭かった私ですらも、何度かそんな経験をしたことがあるくらいなのだから。


 他人を語る上で必要になってくるのはもちろん外見的な特徴なんてものもあるのだろうけど、上記の質問のように聞かれたらきっとみんな無意識のうちにその人の『内面的な印象』を述べるのではないだろうか?


 外見的な特徴は別にその人と会話をしたことがなくたって一見すればある程度の情報は掴めると思う。けど、その人の内面なんてものはただパッと見ただけでは普通の人ではまずわかりっこないのだから。


 ではその印象とは何かといえば、例えば私が千秋ちゃんを評するのであれば『さっぱりしているけど、友達想いの優しい子』とか、『意外と寂しがり屋さん』とかである。

 こんなことは本人の前で言ったら怒られること請け合いだけど、でも簡潔に他人に説明するとしたらこうなってしまうのである。

 もちろん、「詳しく聞かせて」なんて言われればエピソードを交えながら彼女の良いところをたくさん、それはもうたくさん話聞かせることが出来る自信はある。

 しかしそれは往々にして評された本人の意思とは乖離しているパターンもあるのだと思う。

 さっきの例で言えば、私は千秋ちゃんを寂しがり屋だと思っているけど、きっと千秋ちゃんは寂しがり屋ではないと、自分では思っているだろうということだ。


 そうした『他人から見た自分』と『自分で思う自分』というのはきっと誰しも少なからずズレが生じているもので、それは例にあたわず、私にも言えるのである。


 私と特別親しくないけど、幾度か話したことがある人が、私のことを他者に聞かれた際に答える内容は、恐らく大人しいだとか、物静かだとか、人見知りだとか、纏めると『基本的には静かな人』といった評価になるのではないかと思う。実際に、話しているのを聞いてしまったこともあるから言えるのだけど。


 でもそれは私からしたら違うのだ。どこかやっぱりズレているのだ。

 

 私は私をこう思う。『頑固なやつ。』

 

 言い換えれば、『諦めの悪いやつ』である。


 しかし実際そうなのだ。一度これをやると決めてしまったら、突き進みたくなってしまう性格なのだ。それはただ単に要領が悪いだけなのかもしれないけど。


 でもその性格のおかげで私はもう一つ、私っていう人間が、どんな人間なのか気付くことに繋がったのだから。

 

 それに気付くに至った経緯を、過去の記憶を思いながら、最初の質問に倣ってみる。

 つまり、改めて私は私を評してみようと思う。

 


 私ってどんな人?




 はい。私は諦めが悪い上に−−−欲張りな女です。






※※※




 中学2年 8月。

 夏休みも中盤に差し掛かろうかというその日、私は駅前に程近い場所にある図書館にて夏休みの宿題に取り組んでいた。


 しかし私の今の状況を改めて冷静に分析してみるに、宿題に取り組んでいるというのは少々語弊がある。

 正確にいうと、宿題に取り組むフリをしながら正面に座っている私の彼氏−−−八色悠。のことをちらちらと見ていた。


 机に広げた課題に目を落とす彼は、少し長い前髪で普段は気付き難いが、睫毛が長く涼しげな瞳がどこか中性っぽさを感じさせる男の子だった。

 男の子にしては線が細めなこともそれを一層際立たせていたのかもしれないけど。

 だからといって男の子らしくはないのかといえば、もちろんそんなことはないのです。

 細いけれどどこか骨張った指も、半袖のシャツから伸びる腕に薄らと見える血管も、何より私が困っていたり、何かに悩んでいたりする時に、それを察してくれて安心させるように微笑んでくれる彼の笑顔は、これ以上ないくらい男の子だったのだから。


 わたしのかれしがいけめんすぎる。ぎるてぃである。


 お分かりかと思うが当時の私は、八色くんにそれはもうべったべたに惚れていたので、夏休みの課題なんてものは手に着く筈が無かった。


 単純にデートに誘うのが、恥ずかしいという事もあり苦手だった私。そもそも男の人と交際することすら初めてだったので、どこに行けばいいのかもわからなかったのだけど。


 ……デートに誘うのは難しいけど、八色くんと会いたい。


 そこで頭を悩ませ閃いたのが、「夏休みの宿題を一緒にやろう」と誘うことであった。

 これを閃いたときの私は「ふわあ……!私いま日本で1番の天才かもしれない……!」なんて、自分の発想の素晴らしさに震えたりもしていたのだけど、千秋ちゃんに報告した際には「それをデートと言っていいのか判断に悩むわー」と、なんだか微妙な反応をされたりもした。


 だけれど、だ。


 −−−私の判断は間違ってなかった!


 だって、こんなにも満足しているのだ。図書館という性質上あまり会話はできないけど、私も八色くんもあまり話すことが得意では無かったから、長時間話さないでも一緒に居ることが出来るこの場所はまさに聖地だったのです。

 

 それにもう一つ嬉しいことがあって、それは何かというと。


 宿題が手に付かない私ではあったのだが、そんな状態でも何度も図書館デートを重ねれば嫌でも残りの宿題の量は減ってきてしまう。

 目の前で真面目にこなしている八色くんなら、もうとっくに宿題なんて終わっているのでは……?なんていう疑問が何回目かの図書館デートにて降って沸いた私は、それとなーく帰り道で聞いてみたことがあったのだ。


 「八色くん。あ、あの……宿題ってあと、どれくらい残ってる?」


 「あ、あー……いや、そうだなあ」


 なんだか気まずそうにぼかすその様子に、途端に不安に駆られた。


 「あ、ご、ごめんね。もう終っちゃってるよね……。ごめんね、私がやるの遅いから」


 「あ、いや違う!その、今年はまあ、ちょっとゆっくり進めてもいいかな、なんて思ってたから……だから、まだ結構残してる……」




 ノックアウトであった。


 嬉しさにより1ラウンドKOだ。




 ……わ、わ、私と一緒だああぁあぁああっ!



 そう!私と一緒だったのである。恥ずかしげに口元に手をやって、いつもよりもごもごと話した八色くんの姿を、私はもちろん脳内フォルダに永久保存した。

 照れてる!可愛い!



 八色くんとこのようなやりとりがあってから数回目の図書館デートである今日も、変わらず八色くんと私の問題を解くスピードはゆったりとしていた。


 その速度と一緒に、私と彼の関係もゆっくりと積み重なっていくみたいに思えて、「幸せだなあ」って、そう感じていた。



 その日の帰り、いつものように私の家の近くまで送ってくれた八色くんは、なぜだかしきりに私の顔を見てきていた。

 最初は私が彼の顔をちらちらと盗み見ているのがバレたのかと思って、(当然慌てた)なるべく彼の方を見ない様に頑張っていたのだけど、あまりにも視線を感じてしまい、「もしかして私の顔に何かついてる!?」と不安に思った私は、恥をかくくらいならいっそ聞いてしまえ!と彼にそのままぶつけてみたのだ。


 「へぇあっ!?あ、いや違う水原っ。君の顔には何もついてない、うん。んー……っと、そうじゃなくて、だな。あー、ほら。……もうすぐ、家に着くなー、なんて」


 「え?あ、うん。そうだね。……えへへ、なんか、あっという間だね。いつもありがとう」


 「ああいや、それは全然。僕も一緒に帰れて嬉しいから。っとさ、そうじゃなくて水原。…………っキス、していいか?」




 ……きす?





 ……キス!?



 初め彼の言った言葉が脳で上手く処理されず、一拍置いてからその意味に気付いた私は、今まで感じたことがないくらい顔に熱が溜まっていくのがわかった。




 わかって−−−






 ……逃げた。








 ぽんこつだった。








 自室にたどり着いて、へなへなと床に座り込み、しばらく呆然とする。


 どれくらいそうなっていたのか、突如、なんの返事もせずに彼の前から逃走してしまった事実を思い出して目眩を覚えた。




 ……や、やってしまった!!!


 ……ど、ど、どうしたらっ。


 ……とりあえず、しゃ、謝罪だ!


 ……え、まって。待ちなさい。なんて言って謝るの?キスが嫌だったんじゃなくて、顔が赤くなったのが恥ずかしくて逃げてしまったんですーって!?


 ……そ、それだけはダメだ。恥ずか死ぬっ!!


 死因、『恥』そんなもの女子として認めるわけにはいかない!


 ……ああ、もう。でもじゃあどうしたら。


 ……絶対八色くん怒ってるよね?どうにかしないと。でもこんなこと千秋ちゃんにも恥ずかしくて言えないし。



 《ピコン》



 「っひゃい!?」


 スマホの通知音に驚かされながらも、メッセージをみる。


 しまった!と思った時にはもう開いてしまっていたのだ。



 《さっきは驚かせてごめん。水原は気にしないで。》



 謝るのは、どう考えても私のほうだった。それなのに、私が気に病まないように気を使ってメッセージを送ってきてくれた八色くん。

 きっと、ただ恥ずかしくて逃げ出しただけの私なんかよりも、彼女に目の前から逃げられた八色くんの方が何倍も辛い筈なのに。



 だって、多分私だったら、キス断られたら死んじゃう。



 そんなことに今更ながら気付かされた私は、きゅうっと切なくなる胸の痛みを感じながら彼にメッセージを返した。



 《私の方こそごめんね。明日、今日と同じ時間に会えるかな?》



 ……断られるかもしれない。

 食い入るようにスマホの画面を見ていると、1分もしないうちにメッセージが届く。



 《わかった。ありがとう、水原。じゃあまた明日。》





 私はその日、寝るまで初キスの情報を漁りまくった。







 翌日、いつも通りの時間に図書館の前で待ち合わせ、勉強を終えた私たちはお互いに昨日のことが尾を引いているのか、なんとなくいつもよりもギクシャクしていて、いつもみたいに彼の顔を盗み見るのも難しかった。

 それは帰り道でも同じで。



 いつもより半歩ほど離れて歩く八色くんとの距離が全然落ち着かなくて、このまま彼と離れてしまうことになるんじゃないかという恐怖を覚えた私は、それでやっと−−−天秤が傾いたのだ。





 恥ずかしい。よりも、一緒に居たい。が勝ったのです。





 帰り道にいつも送り届けてくれる場所よりも、200メートル程手前にある公園。

 そこで私は歩を止めて、無言で彼の腕を掴んだ。




 「……ちょっと、きて」




 震えそうになる声を、彼にあまり聞かせたくなくて、言葉少なに公園へと入っていく。


 入り口から程近い場所にひっそりとあるトイレ。その裏まで進んだ私は手を離した。





 頭の中はぐちゃぐちゃだった。




 −−−恥ずかしい、恥ずかしい、寂しい、あつい、手が寒い、顔見れない、見たい、声聞きたい、でも怖い、怖い、緊張する、逃げたい、怖い、好き、嫌われたくない、好き、好き、好き、好き、好き、好き。





 ……キス、したい。





 ぐるぐると脳をかき混ぜられたかのように思考が判然としない中、最後に浮かんだ気持ちへ進む。


 一夜漬けの知識。


 しかし身体が覚えてくれていた。






 −−−目を瞑る。



 近くで小さく息を飲む音が聞こえた。



 夕日で眩しかった瞼の裏が、影で覆われる。



 そっと唇に触れたものが、八色くんのそれだとわかって、不思議と強張っていた身体が弛緩した。

 自分の中の何かが満たされていく感覚に己を委ねる。


 目を開けると同時、八色くんが顔を離す。



 途端、満たされていたものが薄れてしまう様で。


 触れていた熱が逃げてしまう様で。


 彼が離れてしまうのが無性にいやで、それを止めるように、右手が彼を捕まえていた。





 「……もういっかい、して?」





 勝手に口から飛び出した言葉。

 

 でもそのことに驚きは一切感じなかった。


 ただただ、彼の熱を感じていた。


 私の中に満ちていくそれを、噛み締めていた。





 −−−ああ、なんて私は欲張りなんだろう。





 だってもう、これを知らなかった頃の私には、うん。




 絶対に戻れないって思うのだから。






※※※





 入学後初の実力試験当日。


 それを満足のいく形で乗り越えた私は、自室で突っ伏していた。


 なんとしてでも今回の実力試験でもいい成績を叩き出したかった私は、そんな自分の中に蔓延る欲深さを思い直すために、過去へと思考を飛ばしていたのだが、あろうことか思い出したのはとんだ恥エピソードだった。


 「……罠だ」


 誰が、なんの為の罠なのか。

 自分で自分の地雷を踏み抜いたくせに、未だこうしてどこにもいない誰かのせいにしてしまおうと呟いていた私は、そんな自分自身の愚かさから目を逸らすことにした。



 「……よし、答案見なおそ」



 かつて身体中に満ちていたあの感覚はもちろん今はもうないけど、それでも私はこうして日々を過ごせているのだから。



 −−−八色くんに何があったのか突き止める。


 そうした覚悟はいまだしっかり持っている。


 けどそれは、何よりも優先して行う事柄ではないというのが私の結論だった。


 私には、学年首席という守らなければならない学力があるのだ。


 容姿は磨いた。けれど、内面は悔しくなるほど成長していない。


 かつてと同じく、弱いままなのだ。


 それは昨日の一件−−−吉田さん達からの誘いをそもそもちゃんと聞いていなかったり、しっかりと断ることが出来ていなかったりと、そうした事からも自分の成長のなさを突きつけられていた。


 「もっとしっかりしないと」


 自分に言い聞かせる様に口に出す。


 せっかく三条さんという新しい友達も出来たのだ。


 まだ友達とは言えないかもしれないけど、私なんかとお喋りをしてくれる人達が増えたのだ。

 きっと今のままだと皆を失望させてしまう。


 がっかりさせてしまう。


 自分に、近い将来やってくるであろう未来を幻想して、喉が詰まった。


 コミュニケーション能力の低さは、すぐには改善できはしない。そんなことは自分が1番わかっている。


 だからせめて、せめて学力だけは今を維持しないとダメなんだ。



 八色くんのことは、それができてからでも良い。



 ……ううん、違う。



 −−−「……勉強、頑張ったんだね。水原」



 きっと私は、彼に失望されたくないんだ。


 私とは関係がなくなった今。それでも彼が私の成果を認めてくれていたから。


 

 それに気付いて、少しだけ恥ずかしさを覚える。



 ま、まあ?彼だけが理由って訳じゃないし、いろいろ頑張るのは、そもそも自分のためなんだから。うん、そうだ!それだ。決して彼だけが理由じゃない。


 

 等と、様々な考え事をしてしまっていた私が答案を見直し終わるのは、夜もふけた後だった。







 実力試験の翌日、つまりは体力測定当日である。


 前日の行動がたたって、寝不足の状態で登校した私は、快晴という予報が外れずに運動日和となった今日という日を呪っていた。

 

 「どーしたのえみちゃん?太陽に恨みでもあるの?」


 太陽に向かって送る私の憎々しげな視線に気付いた三条さんが、そう声を掛けてきた。


 「ううん。気象予報士ってなんでいるのかなって」


 太陽だけではなく、正確無比な天気予報を行った気象予報士にまでその恨みを飛ばしていた私の言に、三条さんは首を傾げた。


 「うんーそうだねー。じゃあストレッチしよっか」


 あっさりと私の言葉をスルーした三条さんに引っ張られる形でストレッチを始める。


 うん、いつまでもぶつくさしてても仕方ないし、頑張ろう。


 どうやらこの学校の体力測定は偶数のクラスと奇数のクラスで屋内と屋外それぞれスタート箇所が違うらしく、私のクラスである9組は屋内種目からの測定だった。


 ……八色くんはどこにいるのかな?


 三条さんとの軽いストレッチを終えて、ふと、彼が1組で私と同じ奇数クラスだったことを思い出し、辺りを見回してみた。


 視線を感じ、そっちを向いてみるもそこにいたのは顔も知らない男子のグループで、私と目が合うとサッと逸らされてしまった。


 八色くんがこっちをみてたのかも、なんて私の思いつきは結局ただの思いつき……ううん、思い込みであって、そのグループに彼はいなかった。


 その後も視線を感じては、違う人達で……なんていうことを数度繰り返した私は、これ以上は無駄かなーと、ため息と共に諦めた。


 「ほんと、ああいうのは気持ち悪いね」


 心底辟易とした様に吐き捨てる三条さん。珍しい、こういう話し方もするんだ。

  

 「……?ああいうのって?何かあったの?」


 三条さんの珍しい様子に気を取られはしたものの、その発言の内容まで汲み取ることが出来なかったから、つい聞き返してしまった。


 「んー、だって男子達さっきからえみちゃんのことばーっか見てたよ?見せ物じゃないのにねー」


 その言葉で、やたらとさっきから視線を感じる様な気がしていたのはそのせいだったのかと思い至る。


 背筋にゾワっとした物が走り、体を隠す様にして俯いた。


 ……ただの自意識過剰かもしれないけど、知らない人達にじろじろと見られるのは、考えただけでも落ち着かなくなるのだ。


 「よしよしー。いこっかえみちゃん」


 優しく腕を引いてくれる三条さんにひっつく様にして、私たちは男子が少ない種目から始めていくのだった。

 

 結局屋内種目では、八色くんを見つけることは出来なかった。



 屋外にでて、空いているところから順々に種目をこなしていた私は、はっきりと自分の体調が良くないことを自覚していた。


 それもその筈である。普段滅多に夜更かしをしていない人間が、急に睡眠時間を削れば誰だって体調に不備を起こす。道理であった。



 それでも、この時私の中にあった意識は、「周りの人にこの不調を気取られる訳にはいかない」それだけで。


 ……ここを乗り切って、今日睡眠をしっかり取れば問題ない。


 ……自分が招いた不調で三条さんに、周りの人達に迷惑を掛ける訳にはいかない。


 ……だって、私は変わったんだから。弱い内面のままの私だけど、強くなろうって決めたじゃない。


 ……きっとここで不調を訴えたら、周りからの評価が下がる。


 ……ダメなやつだって思われちゃう。



 次々と頭に浮かんでくる思考に、ただでさえぼうっとする頭が不安で埋め尽くされる様な感覚を覚えた。


 幸い残りの種目はあと少しだけ。三条さんには申し訳ないけど、マラソンは別々で走らせてもらおう。


 

 ふらつきそうになる足を意地でもって安定させ、残りの種目をこなして行った。


 私を見る三条さんの表情には、意識を割ける余裕がなかった。





 


 「じゃあ三条さん、マラソン頑張ろうね。私走るのは得意じゃないから、別々になっちゃうけど……ごめんね?」


 「んーんー、大丈夫だよー。それよりも、えみちゃん大丈夫?」


 「うんっ。大丈夫だよ!これ終わったらお昼だね、楽しみだなあ」


 「うーーん……えみちゃんがそう言うならいいんだけど……むりしちゃダメだからね」


 「ありがと。三条さんもね!……あっそろそろ始まるね。ほら、前の方行ってきて」


 訝しむ様に私を見る三条さんの背中を押して、一人になる。


 スタートを告げる音をどこか遠くに感じながら足を動かした。



 

 学園の敷地内の、外周を沿う様に敷設されたマラソンコースは1周1.2キロとそれなりの長さになっていて、もうマラソンを終えた人がほとんどなのか、あまり他の生徒を見かけることは無かった。


 体調が悪い今、それをありがたく思いながら走りを続けていたけど、同時に。

 周りに人が居ないと言う事実が、不調を隠すための力を奪っていくのがわかった。


 昨日の失敗を自覚してから、さらに強く意識して身体に纏わせていた『強い水原笑美』が、一歩一歩走って行く毎に、音を立てて剥がれ落ちていってしまう様な気がした。


 熱があるのか、朦朧とする頭でそんなことを考えながらも、今の姿だけは誰にも見られてはならないというある種、脅迫めいた感情に突き動かされた私は、前方左側。マラソンコースから外れた所にある扉へと半ば無意識で進んでいた。


 ……ちょっとだけ休んだら、少しはよくなる。


 ……だから、それまで身を隠すだけ。


 ……そうしたらまた、いつもの私に戻れるから。


 進むごとに重くなる体を引きずる様に、扉へとたどり着いた私は中へと進む。


 


 マラソンコースを外れる時も、扉を潜る時も、周囲を気にする余裕は完全になくなってしまっていた。



 

 授業を行なっている生徒が居ないのか、明かりも灯っていない廊下を壁伝いに進み、身を隠す様に曲がり角へと入った。


 限界だった。


 熱と一緒に体が空気に溶けてしまうのではないかと思うほどに暑く。


 それなのに背中だけは異様に寒くて。


 ぼやける視界は、いつの間に蹲っていたのか、廊下の模様だけを写していた。



 ……神様、お願いします。



 ……ここに誰も来させないで。



 動かせない身体をもどかしく感じながら、自分の意思ではもうどうしようもなかった私は、ただそれだけを祈っていた。

 



 

 「あの、すみません。大丈夫ですか?」




 −−−終わった。



 何がどう終わってしまったのか、何がしたくて今こうしていたのか。

 そんなことも分からなくなっていた私は、でも漠然とそれを思った。



 何か返事をしなくちゃ……。


 

 声に出そうにも、焼けついた様に閉じている喉を開くことが出来ずにいると、再び声を掛けられる。


 「あの、大丈夫?」


 さっきよりも近くで聞こえた声。こちらを心配そうに伺ってくるその声の主を安心させないといけない。

 弱い人だと、思わせちゃいけない……!


 意地になって顔を上げ、無理やりに喉を開く。声は出た。


 「……はい。大丈夫、です」


 相手が誰かはわからないけど、とにかくこれ以上迷惑をかけられない。


 その一心で、声の主から身を隠そうと身体を動かした。


 壁に手をかけ、片膝をつく。


 ……もう一歩、もう一歩だけ足が出れば、立ち上がれる。



 しかし、そう思った時には、私の頬は床に触れていた。



 思いばかりが先行して、身体がついて来ていなかった事に遅れて気付く。




 ……あ、つめたい。


 身体に溜まった熱を床に吸い取られていく感覚に、とうとう私は負けてしまった。



 ……もうダメだ。少しも力が入らない。


 ……頑張ろうって思ったのにな。結局最後まで上手くいかない。


 ……これじゃあみんなに−−-







 

 −−−バサッ


 

 視界が消える。否、視界が何かに覆われた。


 途端、冷たい床と一体となっていた身体が宙に浮く。


 抱えられたのだと、瞬時に理解した。




 けれど、そんなことはただの情報で。




 私の意識を締めたのは、『懐かしい』という感情だけだった。





 


 −−−八色くんが、ここに居る。



 被せられたジャージの匂い。誰かなんて、確認するまでも無かった。



 私の身体が、覚えていた。

 






 ……あぁ。もう、大丈夫。





 頭の上から聞こえる荒い息遣いに耳を傾けながら、ゆっくりと私の意識は落ちていった。










 


 「−−原。……え……か?」


 どこか懐かしさを感じる声に、落ちていた意識が浮上した。


 見覚えのない天井。……そうだ、たしか私は……。


 視線を彷徨わせると、こちらを心配そうに眺めてくる彼の姿があった。


 「水原。飲み物持ってきたから。起きれるか?水分をとった方がいい」


 優しい声音で、変わらず心配そうな瞳で、彼が言う。


 その視線に、さっきまで感じていた安心感を再び感じて、思わず喉が音を発していた。


 「……八色、くん?」


 

 彼は一度だけ大きく目を見開いた後、私の肩に優しく腕を回して、上半身を起こしてくれる。


 口元に持ってきてくれたペットボトルの水を、少しずつ口に含んだ。

 身体に入った水分が全身に流れていく様な感覚を覚えて、少しだけ重かった身体が楽になった。


 私がお礼を伝えると、またゆっくりとベットへと横たわらせてくれた八色くんは、私にタオルを掛けてくれたり、おでこに熱冷まシートを貼ってくれたりした。


 そうして彼が一つ一つ丁寧に、介抱してくれている姿を眺めながら、私はただただ、私の中に安心感が積もっていくのに身を任せていた。



 一通りの処置が終わったのか、少しだけ安堵した様なため息をついた八色くんを見て、一気にその安心感がなくなって行きそうになる感覚に陥った。


 このまま彼が、どこかに行ってしまいそうな気がして、それが何故だか悲しく思えて、つい呼び止めてしまっていた。



 「……もう、行っちゃうの?」



 違う。ほんとは違う。



 言おうと思った「どこにも行かないで」は、出すことが出来なくて。



 この後に及んでまで意地を張ってしまう自分が、情けなかった。



 「……大丈夫だよ。水原のクラスの人に連絡して、鞄を取ってきてもらう様に頼むだけだから」



 彼が最初からここを離れる気がなかったのだと知って、心が跳ねた。



 不謹慎にも、彼がそばにいてくれる事に、歓喜している自分がいた。




 「……それまでは、居てくれる?」


 「大丈夫。それまで僕は、ここに居るから」




 念を押す様に問いかけた私のそれにも、しっかりと応えてくれた彼の言葉に私の中の何かが満たされながら、未だに休息を欲する身体に引っ張られるかの様に、私の意識も沈んでいった。








 夢を見ていた。


 多分それは、眠りに落ちる前に私が見ていた景色のせいだ。


 幸せだった過去と、どうしようもなく被って見えた景色のせいだ。


 その景色が引き金で、私は多分、この夢を見ているのだろうから。


 





 中学3年 4月


 中学生活最後の体力測定を行なっていた私は、有り体に言って、とても疲弊していた。


 具合はもう、最悪だった。


 特に夜更かしなんかもしないで床についた私だったのだけど、何故だか酷く寝つきが悪く、最悪の体調でその日を迎えていた。


 きっとそれは進級して新しいクラスへと変わった環境の変化などから来る疲れだと思うのだけど、何もこの日に具合が悪くならなくても良いじゃない。と、心の中でぶうたれてしまう程には、精神にも疲れを感じていたのだ。



 特に仲の良い人と同じクラスになれなかった私は、私と同じ様に上手くクラスに溶け込むことが出来ずにいた女子生徒とペアを組んで、体力測定を粛々と進めていた。


 特にこれといった会話をするでもなく、最後の種目であったマラソンへと移ると、ペアだった女の子は一人で先に行ってしまっていた。


 その事に、少しの安堵と寂しさを感じながら、走り始めた私はなんとかマラソンを終えたのだった。


 結果は散々だったけど、「これでやっと休むことができる。」そんな風に開放感を感じながら校舎へと足を進めた私は、自分でも気付かないくらいにガタが来ていたみたいで、少しだけふらついてしまった。


 ちょうど他の生徒とすれ違うタイミングだった為、心配して具合を聞いてきてくれた子がいたけど、「ううん。大丈夫。ありがとうございます。」と、いつもの様に取り繕って、足早に校舎へと向かう事にしたのだ。


 ……午後からの授業は全部座学だから、少し休んだら大丈夫だよね。


 そんなことを考えながら校舎へと辿り着くと、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。



 「水原っ!」


 急に大きな声で呼び止められたからびっくりしたけど、でもこの聞き覚えのある声は……。


 「っ!……え?八色くん?」


 そう、当時の私の彼氏−−−八色悠くんが立っていた。


 普段学内で大っぴらに会話をする私達ではなかったので、その珍しさに驚きつつも喜んでいると、不意に一歩近づいて来て、少しだけ心臓がはねた。


 「水原、間違ってたら気にしないで良いんだけど、具合悪かったり、どこか痛かったりしないか……?」



 驚いた。それはもう凄く驚いた。


 八色くんは、私の不調に気付いてくれたのだ。


 ……嬉しい。


 あれだけ疲弊していた身体も心も、不思議とすっと軽くなった気がした。


 今なら午後の授業も余裕で乗り切れそうだ。


 でも、八色くんは間違っていないよって。そう伝えたくて、吹き飛んでいた不調は無かった事にした。



 「うん、実はちょっとだけ気持ち悪くて……気付いてくれたんだね」



 本当は「ありがとう」までちゃんと言いたかったけど、急に私の手を引いて歩き始めた八色くんに驚いてしまって、最後までは言えなかった。







 −−−彼氏に保健室に連れて行ってもらえる!


 密かに憧れていたシチュエーションを自分がこれから体験できる事に、るんるん気分で彼の後に続いていた。


 ……はぁぁぁっ!あーもう、好き!


 脳内で彼への好意を叫びつつ、けれど少し具合を悪そうに歩くという我ながら器用な事をしているうちに、保健室へとたどり着いた。






 

 ……だ、誰もいないんですけどおおおぉおお!?



 


 想定外であった。





 私のシミュレーションでは、保健室まで連れてきてくれた彼が、少し照れ臭そうに去って行って、保健室の先生に「おやおや?あれは彼氏かな?」なんて茶化されて、「い、いやあ〜。えへへ……」なんて照れつつも否定はしないっ!みたいになる予定だったのに。あれーー?



 想定と違う事で混乱している私の手を引いて、八色くんはベット目掛けてスタスタ歩いていく。



 そのままストンッとベットに座らされ、混乱したままの私は、そのまま私の靴を脱がし始めた八色くんの頭を眺めていた。





 ……あ、つむじだ。可愛いなあ〜。



 ……??



 ……くつっ!?

 



 彼のつむじを見てぽわぽわしている場合では無かった。


 同級生の男の子、しかも自分の好きな人に靴を脱がしてもらう。なんていう事態に、中学生だった私はなぜかとてもえっちなことをされている様な感覚に陥ってしまい、オーバーヒートしてしまった。



 目の前がぐーるぐーると周り始めた私の顔に、近づく様にして話しかけてくる八色くん。会話の内容なんてほとんど入ってこなかった。



 かろうじて「熱はあるか?」みたいなことは言っていた気がしたので、素早くベットへ横になった私は、「これ以上えっちなことをされたら爆発しちゃう!」なんて考えながら、この思考が八色くんに伝わってしまわない様にシーツで顔を隠しながら答えた。



 そう、靴について尋ねるのだ!


 その返事如何では……私も覚悟を決める必要があるかもしれない!


 なんて変わらず湯だった頭で考えながら。



 「……う、ううん。熱はな、ないと思うよ。……えっと、そうじゃなくてね、えっと、その……くつ……」



 ……ど、どう来るっ??


 ……今は先生もいないし、なぜか1番奥のベットだし。八色くん迷わずここに連れてきたし……!


 ……あれ?今日、可愛い下着だったっけ……?どうだったっけ!?



 

 じーっと彼を見て反応を待っていると、八色くんはみるみるうちに青ざめて……


 え?青ざめた……?なんで!?



 と、思ったらみるみるうちに赤くなって、慌てた様に口を開いた。



 「いや違うんだ水原!わざとではないんだっ。具合も悪そうだったし、自分で靴を脱ぐのも辛いだろうと思って。いやほら、僕妹がいるじゃないか?だから何となく看病とかってなるとつい子供扱いしちゃいそうになるっていうか……いや、でも君を妹みたいに子供扱いしているとかではなくて、ちゃんと女の子として見ているのは間違いなくて……あっ。……えっと、つまり、ほんと、ごめん。悪かった」



 ぽかーんとした。


 彼はただ看病のためだけにやってくれていたのだ。


 ってことはつまり……



 ……あれ?私の独り相撲だったってこと?


 ……な、なにそれっ!?


 ……あんなに恥ずかしかったのに!?


 ……ちょっとだけ覚悟も決めちゃったのに!


 ……こ、これじゃあ私が期待しちゃってたみたいじゃないっ。


 ……うぅぅううぅ!八色くんのばかっ!!




 ……まあ、でも−−−



 返事がない事に焦ったのか、ひたすら罰が悪そうに、けど真っ赤な顔で謝ってくる八色くんを見て、私の恥ずかしさなんてどうでも良くなった。


 

 珍しい八色くんが見れたし、それでいっか。




 恥ずかしかったけど、なんとなく心があったかくなった気がして、シーツで隠した口元は微笑んでいた。



 その後、先生が返ってくるまでそばにいてくれようと思ったのか、八色くんが丸いすを一つ持って、私の近くに腰掛けた。


 

 

 さっきの恥ずかしさが残っているのか、まだほんのり赤い顔で時折私の方を見てくるその態度を見て、なんだか私もお腹の辺りがうずうずとする感覚を覚える。



 私に気を遣ってか、人一人分の間を開けて腰掛ける八色くんとの距離。

 

 八色くんをもっと近くに感じたくて、自然と手が伸びていた。






 そっと手に触れる。



 指先から彼の熱が伝わってくる。



 だけどそれじゃあ足りなくて。



 だって私は欲張りだから−−−

 



 だから一個だけ、わがままを言おう。




 気持ちが伝わる様に、視線に熱を込める。




 「……いっかい、だけ……」




 私と彼の、熱を交換する様に視線が交わる。



 

 彼が身を乗り出すのがわかって、私も少し顔をあげる。





 

 私は一つ、嘘をついた。







 いっかいだけなんて、嘘をついた。

 






※※※





 とても懐かしい夢を見た。


 それは正しく夢の出来事であり、私の無意識が見せた過去の一片なのだろう。



 けど、じゃあ−−−




 唇に熱を感じながら、私の意識は浮上した。


 見覚えのない天井。……いや、違う……確か、私は……。


 薄く開いた目を動かし、傍に誰かが座っているのを確認した。



 「……あんなになるまで無理をしようとして」



 八色くんが、そこにいた。


 そこでしっかりと思い出す。なんで私がここにいるのかを。


 なんで彼が、ここに居るのかを。




 でも、わからない事もあった。





 ……なんでそんなに、辛そうな顔をしているの?





 八色くんが何かを堪える様な顔をしているのがたまらなく嫌で、胸が締め付けられる様に痛んだ私は、彼に触れたくて、その顔を止めたくて、手を伸ばそうとした。




 

 しかしそれよりも早く、俯いていた彼が首を動かすのを見て、咄嗟に開いていた目を閉じた。



 なんとなくだけど、彼は私が眠っていると思っているのではないかと感じたのだ。




 ほんの少しだけ薄目を開けて、彼の方を見遣る。



 「……君が頑張っているのは分かってる。僕が言えたことではないけど、君が頑張ろうとしてるのは分かってる。……でもな水原。無理をしてまで頑張らなくていいこともあるんだよ。体調が悪かったって誰も責めやしない。それくらいで誰も君を見捨てたりなんかしない。……辛かったら辛いって、言って良いんだよ水原。……君が優しい子だっていうのは、変に無理をしなくたって、きっとみんなに伝わるから」



 





 −−−あぁ。




 −−−八色くんだ。




 彼の言った言葉の全てをちゃんと理解できているかはわからない。


 だって今、そんなこと考えられない。





 八色くん。



 八色くん。



 八色くん−−−




 


 知らぬ間に手は伸びていた。




 丁度椅子から立ち上がった八色くんの手を私は掴んでいた。




 言いたいことがきっとたくさんある。




 でも何から、どれから話せばいいのか考えられない。



 思考は完全に止まってる。



 ごうごうと滝の様に様々な感情が流れ落ちてきて。



 そこから一雫の言葉が弾かれた。





 「……いっかい、だけ……」





 だから私は自分が何を言ったのかも、理解はきっとしていなかった。








 手が震えてる。



 抱えきれない程たくさんの想いで、心が軋む。



 目の前はとうに真っ暗で。



 自分が何を考えているのか、答えなんて一つも出てこない。




 



 何も掴んでいない掌に残る熱だけが、私に唯一わかることだった。

 






 

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