第九話 回想/家族−1

 朝食はご飯派かパン派か。


 パンが日本に広く普及してから、今日現在まで、未だ決して決着を迎えていないこの問題。

 ここ数十年ではシリアル等の第3勢力まで登場し、混迷を極めているこの問題。まあ、ここではその第3勢力は一旦外しておくけれど。


 きっと僕がこのまま年齢を重ね、亡くなる時になったとしても、解決はしていない問題の一つなんじゃないだろうか。

 多くの人はおそらくだけど、基本的にその時の気分で、なんて答えることだろう。

 まあ所謂、無人島に一つだけ持っていけるなら何にする?とかいう非現実的な質問と同じで、究極の質問の中の一つなのだから。

 実際には死ぬまでどちらかしか食べることが出来ないなんてことはそうそう起こり得ないだろうし、近年では昔とは違い、アレルギーを抱えた人の為の、代価食材での調理法も着々と研究されている。

 そう言った観点からもこの問題が解決する。なんてこと、多くの人には特に起こり得ないのではないだろうか。


 米にも小麦にもアレルギーがない僕なので、朝食の代表格である上記にあげた2つの中に、アレルギーがある人の苦悩とか考えっていうのは、その全てを理解してあげることは出来ないし、特にこれといって米にもパンにも嫌いになる理由なんかはないので僕はどちらも食べられるし、確かにその時の気分で食すことは出来るのだ。


 しかして、それはただ、それが可能だ。というだけの話であり実際に行動に移せるのかとなればまた別の問題なのである。



 もっと具体的に言うと。


 僕の家庭はパン派である。と言っても差し支えなかったかもしれない。そう思うくらい朝に米が出てきたことなんて思い返すに記憶には無かったし、これといってどうしても朝からパンが食べたいだなんてわがままを言ったことも無かった。

 僕がそこまで食にこだわりを持っていないというのが1番の理由だとは思うが。

 しかしそれは僕に限った話で合って、僕の妹であるところの−−−月岡水月には当てはまらなかった。

 水月は時たま、「朝からお米が食べたいよー!」と用意された食事に対してぶつくさと言っていることがあったが、「いやよ。母さんがパン食べたいのー」なんて母には一蹴されていたけれど。

 そこは僕の妹。しっかりと残さずいただいていた。

 まあそんな感じで朝はパン派であった僕なのではあるが、ある日を境に、朝食は米しか食べない派へと転身したのだ。


 誰に言われるでもなく、好き嫌いが理由でもなく、単純に僕の意思でもって、それを行ったのだ。



 朝から何を食べようが別にどうでもいいじゃないか。そんなことを言われたら僕としても言い返す言葉もないのだけれど、それでも考えてしまうのだ。




 高校に入学してから初めての週末。4月とはいえほのかに肌寒さを感じてしまう朝早い時間の、電気もついていない、人気のないリビング。

 そこにこうして1人座っていると、どうしても考えてしまうのだ。


 ここではない家の、ここではない朝の食卓で、確かにあった家族の風景ってやつを。



 特になんとも思ってなかった日常の一幕をこそ。



 無くしたことに気付いてから、必死にかき集めようとするかのように。








※※※






 中学3年 6月


 時刻で言うと07:20分

 この日も僕は、いつも通りの時間に朝の食卓についていた。

 リビングのテーブル、いつも僕が座るその場所にはゆらゆらと湯気を出しているカップが鎮座していた。

 覚醒しているとはいえ、まだ少しだけ野暮ったい目を擦りながら僕は椅子に座ってぼうっと湯気を眺める。

 そっとカップに触れた指先から感じる熱は、思わず火傷してしまったかと思うほど熱く伝わってきて、咄嗟に外した指に息を吹きかけながらじとりとした視線を、このコーヒーの淹れ主へと注いだ。


 少しだけ離れたところにある台所。そこにあるのは僕に背を向けながら朝食の準備に取り掛かる女性の姿。

 僕の母親−−−八色湖悠やいろこはるである。


 性格なのか、学校があるないに関わらず、毎朝ほぼ同じ時間に起きてくる僕の席には、いつの頃だったからかは定かではないが、僕がリビングに到着する前にコーヒーが注がれたカップが置かれているようになっていた。

 犯人はもちろん母である。


 少々茶目っ気が強いというか、悪戯好きな面がある僕の母は、きっと最初はブラックのコーヒーを飲んで苦い顔をしている僕を見ようとした。とか、そんなくだらない理由で始めたのであろうそれは、確かに苦手だったブラックコーヒーを、美味しいと思って飲めるようになった今でも変わらずに行われていた。


 なんだか子供扱いされているようで、最初はコーヒーと同じように、苦々しく思ったりもしたものだが、今ではまあ感謝している。

 わざわざ息子が起きてくる直前に淹れてくれているのだから。

 子供扱いされているようで、なんて当たり前の話なのに。


 だけど、感謝していることと、少しだけ文句。もとい、注文を付けたいのは別であるとここに主張したい。

 コーヒーを淹れてくれるのはありがたいさ。ありがたいけれど、問題は温度なのだ。

 カップに触れるのを躊躇ってしまうくらい、熱々なのである。それも、毎日。


 あまり認めたくないが、僕は少々猫舌なのである。


 未だ湯気の量が変わらないそれに一度目を向けてから、再度母に向き直った。


 「おはよう、母さん。コーヒーどうも」


 熱くて飲めたもんじゃない!なんて、淹れてくれた人に対して言ってしまえる程図太くない僕は、「コーヒーどうも」の部分を、語気を強めるという形で抗議していた。

 今にして思うと、これすらも生意気だったと思っているのだが。


 「はいはい、おはよう悠」


 朝食を作りながらも振り返らずに返事を返してくる母さんを少しだけ眺め、時計を見る。

 もうすぐ水月を起こさないといけない時間になっていた。

 時計を確認したところで、「そろそろ水月起こしてきてー」と母さんからの命令が下る。


 適当に返事をして、水月を起こすためにリビングを出た。

 カップの湯気は、変わらずに出ていた。








 「「「いただきます」」」


 家族3人の揃った声で、朝食を食べ始める。


 我が家の朝食のメニューはほぼ毎日変わらない。


 パンにサラダ、ウインナーにスクランブルエッグ。


 たまにそのどれかが欠けたり、どれかが入れ替わったりはするものの、基本のメニューはこれであった。

 それは今日も今日とて同じである。

 料理が得意だと自慢する母さんの腕前は確かにすごくて、ありふれた普通の朝食ではあったけれど、いつも最高の状態で提供してくれていた。


 母さんの口癖というか教えの一つで、「家族が揃っている時は一緒に食べるのは当たり前です」というものがある。


 中学3年という思春期真っ只中の僕にとっては、いちいち家族が揃うのをまち、同時に手を合わせて食べ始めるというのは些かむず痒いものがあるのだが、母さんの満足げな顔を見ると特に何か言ってやろうとは思えないのであった。


 「お父さんは?」


 少しだけ覇気のない声で問いかけるのは妹、水月だ。


 「もう出ちゃったわよー。相変わらず仕事、忙しいみたい」


 いつものようになんてことない口調で答える母さん。

 そう、いつものことなのだ。


 僕の家族は父、母、妹、僕の4人家族なのだが、僕の妊娠を機に専業主婦となった母さん。父は都内のそこそこ大きな商社に勤める会社員であった。


 小さい頃はこの朝の風景に父の姿も確かにあったのだが、いつの頃からかその頻度は減っていき、今では月に数える程しかこの朝の時間に父と顔を合わせることはなくなっていた。


 かといって別に単身赴任だとか、遠洋漁業に出ているとかではないのだから、普通に夜になれば帰ってくるのだけれど、それでも忙しい時なんかは会社に泊まり込みで仕事をしている、なんて母さんが前に話しているのを聞いた事があった。


 名実ともにうちの家計を支えてくれている父のことは、当時の僕は普通に尊敬していた。

 けれど、あまり顔を合わせることが無くなったからといって、寂しいだとかは感じたことは無かった。

 それはやっぱり、家に母さんが居てくれるから。というのも理由の一つにはなっているのだろうけれど。


 でもそれは僕に限った話であって、兄目線からみても、両親のことが大好きである水月にとっては、なかなか父親の顔を見ることが出来ないというのは何か感じる部分があるのだろう。


 「ちぇー……お小遣いもらおうと思ったのに」


 なんて唇を尖らせてから朝食へと向き直る水月だが、それが完全に照れ隠しであることは見ずともわかったので、僕も母さんも特に突っ込んだりはしなかった。

 未だ拗ねたように朝食をぱくつく水月の顔を、慈しむように見ている母の目が、今にして思えば僕は確かに好きだったのだ。



 そんな家族3人での食卓。すっかりいつも通りとなった景色を見遣りながら、コーヒーの注がれたカップを手にとる。






 もうもうとしていた湯気はなく、飲みやすい温かさへと変わっていた。








※※※







 日が昇り始めたのか、先ほどよりも幾らか明るくなったリビング。


 その椅子に腰掛けてぼうっと机を眺めていた僕は、ありもしない湯気を見たような気がしてそっと息を吐いた。



 感傷的になりすぎているな……



 ここ数日の自分の精神の不安定さを改めて自覚した僕は、気分を入れ替えるためにコーヒーを淹れに向かう。


 時計は見ていなかったのでわからないが、しばらくじっとしていたため身体が冷えていたのだ。


 コーヒーを淹れ終わり、先ほどと同じ椅子に腰掛けた僕は、体力測定から数日経過しても未だに少し痛む腕をさすりながら、ため息が出てしまっていることに気がついた。


 「……感傷ついでか」


 口について出てしまった。

 

 でもきっとそれが今の僕の気持ちなのだろう。


 だから、感傷ついでに、もうしばらくだけ思考をしてみようと思った。


 何か整理が付くかもしれない、なんて。言い訳を自分にするかのように、僕一人しかいないこのリビングで、ここ数日の自分について考えることにしたのだ。





 僕がここまで精神的に不安定になっているのは、きっと彼女−−−厳密にいうと元彼女。

 水原笑美、彼女と偶然にも進学先の高校で一緒になったことが何より大きな原因だろう。


 そこまでは認めることが出来た。

 たった数日ではあるが、散々精神を揺さぶられることになったのだ、今更彼女が理由ではないなんてどうやったって言えっこない。



 一つ目の問題は、そもそも彼女が同じ学校にいた事だ。これは、その日のうちに水月に相談をして、解決した筈だった。

 入学式翌日の朝の僕は、確かに冷静だったと思うのだから。


 しかしその解決策であった「お兄ちゃんがいることがバレなきゃいいじゃん」という水月の助言は、学校にたどり着く前に悲しいかな。雲散霧消したのである。


 他でもない、水原笑美その本人と通学路で対峙するという形で。





 ここまでを思い出し、疑問を抱える。



 ……そもそもなんで水原はあんなところに居たのだろうか。


 彼女との会話内容から察するに、なんらかの方法で僕が同じ高校に居ることがわかった彼女が、自分と僕が関わっていたことがあることを。もっというと、付き合っていたことを周囲に知られたくなくて、釘を刺しに来た。……ってことで良いんだよな?


 正直それ以外は考えられなかった。


 たかがそんなことの為に待ち伏せまでするか?とは思うものの。中学時代より随分と垢抜けた容姿に変わっていた水原にとっては、きっと大事なことだったのだろう。

 「女の子には色々あるんだよ」なんて。いつだったか言っていたし、まあそもそも僕みたいなのと付き合っていたことがあるなんて、普通に知られたく無いのかもしれないしな。

 彼女が話しかけるなという前に聞いてきた、なんで僕の名字が変わっているのかという問いは本命の前のクッションみたいなものだろう。

 学年首席という聡明な彼女だ。名字が変わる理由なんてそう何個もあるものじゃない事くらい、わかっているはずなのだから。



 ……うん。納得できた。



 過去の食卓を夢想してしまった感傷ついでに始めたここ数日の反芻であるが、早くも有意義なものになった気がした。

 こうして一つ一つ確認して、自分の中で整理していくことはやはり重要だ。



 次に移る。






 確か、次は……ああ、これだ。

 

 入学してから3日目。初めて1日を通して授業があった日。

 僕にしては本当に珍しく寝坊をしてしまい、昼食を用意できないまま登校した日だ。


 翌日に控えた実力試験の勉強を放課後に行っていた僕が、女子生徒数名に絡まれている?詰め寄られていた水原に声を掛けてしまった後の出来事だ。


 詳細は省くが、その日水原に飴玉を一つもらった。

 帰ろうと思った僕が見つけたのは、机の上に全く同じ飴玉がもう一つあるという事だった。





 ここまでを思い出し、疑問を浮かべる。



 ……なぜ彼女は怒らなかったのだろう?


 いや、昔から優しかった彼女のことだ。僕の完全なお節介ではあるのだけど、

女子生徒に詰め寄られていたところに声を掛けたお礼のつもりなのだろう。というのはわかる。なんでお礼で飴玉?とは今更言うまい。

 そもそも話しかけるな。と言われていたのにそれを破ってしまったのだ。彼女からしたら噴飯物だろう。

 けど、義理堅いところもある水原のことだ。それはそれとしてお礼は伝えたかったのではないか?

 まあ、単純に僕に話しかけるよりも昔のように物を渡す方が感謝を伝えやすかったのだろう。

 何度もいうが、わざわざ出向いてまで話しかけるなと言われた僕だ。水原としてもそこまで嫌っている相手に「ありがとう」とは言い辛かったんだろうから。

 そこまでは、良い。


 だけど、じゃああのもう一つの飴玉はなんなのかって事だ。


 考えられるのは、僕に飴玉を手渡した際に、偶然かわざとかはわからないが、机の上にもう一つ置いて行ったとかか……?

 いや偶然ならまだしも、わざとはないか。

 だったら最初から2個渡せば済む話なのだから。


 だとすれば、一体なんなのだろうか。


 ……いや待てよ?そもそも机の上に置いたのが水原だと決まった訳ではなくないか?

 彼女がたまたま、同じ飴玉を持っていたってだけで、あれが女子の間で物凄く流行っているとか?

 いやしかし、情報通を気取る小高の話の中にはそんな情報はなかったし……。



 ……なら、やはりあれなのだろうか。



 意識的に可能性から除外していたことが一つだけ残っていた。

 掌に嫌な汗を感じる。

 

 



 ……ひょっとして、プリンのお礼のつもりか?


 だとしたら、不味いな。

 それは恥ずかしすぎるだろう……!

 水原が甘いものに目がないのは知っていた。だから彼女にプリンを譲ってやる為に、確かに僕は列を離れたさ。

 今にして思えば自分でもなんであんなことをしてしまったのか分からないけれど、やってしまったものは仕方がない。

 しかしごく自然に離れた筈だし、残り5名という数を聞いて瞬時に計算したくらいには素早く動いた筈だ。

 もし、それが理由であの飴玉を水原が置いたのだとしたら、ちょっともう。

 恥ずかしいなんてものではない……。



 ……いや、これは推測がすぎるな。

 それこそ気持ちの悪い勝手な思い込みってやつだ。


 だからおそらく、たまたま机に落ちただけなのだろう。

 僕が水原に声をかける前には、机の上に置かれていただなんて、都合の良い妄想も甚だしい。何より気持ちが悪い。

 だって、彼女が僕にそんなことをしなければいけない理由なんてもうないのだから。





 ……うん。完全とは行かないまでも、納得はできた。



 しかしこうして考えると、たった数日でここまで彼女と関わることになるとは。

 最初は心底驚いたし、現在進行形で精神を乱されてもいるのだけど、こうして冷静に考えれば考えるほど、認めるしかない事実が残っていた。






 −−−そうか、僕は、嬉しかったのか。


 

 一方的な僕の都合で別れた彼女にまた会うことが出来て、結局は嬉しいと感じてしまったんだ。


 話しかけるなと言われたにも関わらず、どうしても彼女を意識してしまうくらいには。



 それはそうだろう。


 昔も今も、僕は水原のことが好きなのだから。


 結局はそこなのだ。


 感情が揺れ動くのも、変に昔の事ばかり思い出してしまうのも。


 初恋だった彼女のことを、未だに忘れられないでいるのだから、当たり前のことだったんだ。


 

 認めよう。


 ここを認めない限り、きっといつまでも苦しいままだ。




 僕は水原のことが好きなのだ。








 ……うん。納得した。


 

 しっかりと、確認もできた。


 でもそれは、好きなだけだ。


 僕が水原とどうかなる、なんていうことは無い。


 水原だけではないな。僕が誰かと付き合うなんていうことは無いのだ。


 これから先、水原以外の人を好きになるかもしれない。


 こればっかりは感情の問題だ。


 その都度認めていくしか無いのだろう。それが今ようやくわかった。


 でもそれは、好きなだけだ。


 僕は自分自身で決めたじゃないか。


 将来のことも、考えた上でここに来たんじゃないか。


 今一度、過去の自分の決意に触れる。


 何においても家族の事を1番にすると、そう誓ったあの日のことを思い出す。


 僕が家族を守るのだと、そう誓った決意を思い出す。



 自分の感情を認めた今、もうそれ以上、水原との出来事を思い返すことは必要ないのだから。


 たとえ思い返したとしても、それはいっときの悔恨。


 

 それ以上は先のない、ただの感情だと、決めたのだから。








※※※






 すっかりぬるくなってしまったコーヒーをちびちびと啜りながら朝のニュースを眺めていた僕は、リビングの扉が開く音で、水月が起きてきた事を知った。



 「おはよう水月。ご飯用意するから顔洗っておいで」


 飲みかけだったカップを置き、朝食を用意する為に台所へと向かう。


 「はぁ〜い」という眠たげな声を聞き、作り置きしてあった味噌汁に火を掛けた。





 

 「「いただきます」」



 家族2人の揃った声で、朝食を食べ始める。


 ここ数ヶ月、我が家の朝食のメニューはほぼ毎日変わらない。


 ご飯に味噌汁、ちょっとした和物に、目玉焼き。


 たまにそのどれかが欠けたり、どれかが入れ替わったりはするものの、基本のメニューはこれであった。

 それは今日も今日とて同じである。

 母さんからの教えである「家族が揃っている時は一緒に食べるのは当たり前です。」それを僕も水月も守っていた。


 

 「水月、今日9時半くらいに家を出るからね」


 「……うん。わかってる」


 昔よりも一人分量が少ない食卓。


 傍で流れるニュースの音が昔よりも大きく聞こえた。


 今はここには居ない埋まっている筈だった空席の主を想う。


 隣に座る水月もそこを見ているのがわかって、頭を撫でた。


 

 今日僕らは、およそ2週間ぶりに母に会う。

 






※※※




 


 電車とバスを乗り継いで約1時間。


 市内の外れに位置する郊外に、母が入院している病院はあった。



 ここ数ヶ月で、通い慣れた道を水月と歩く。


 必要な日用品の他に、今日はシュークリームを持ってきた。


 病院に入ると、水月が僕の空いていた手を握ってきたので、柔らかく握りかえしてやる。



 母さんがいるのは個室なので、特にノックは必要ないのかもしれないけれど、3度軽く叩いてから病室に入った。


 カーテンの開いた窓から見える桜はそのほとんどがもう散っていた。


 僕たちに背を向けるように横になっていた母さんに声をかける。



 「母さん、来たよ」


 僕の声を皮切りに、水月が駆け寄っていった。


 入室する前に寄った看護ステーションで、今日の母の状態は悪くないと聞いていた為、僕も少しだけ肩の力を抜いて傍へと寄る。


 母に寄り添うようにしてここ最近あった出来事を話す美月を見て、母さんの眦が下がる。


 昔よりも弱々しい声で言葉少なに会話をする母さんを見て、僕は買ってきたシュークリームの準備をするのだった。



 「……そう、学校、楽しいのね」


 「うん!ちゃんと遅刻もしないで行ってるよ!」


 「それは僕が毎朝起こしてやってるからだろうが」


 「えー、お兄ちゃんだってこの間寝坊して慌ててた癖に!」


 「……あれは、たまたまだ」


 「ふうーん、たまたまですかあ〜」


 「なんだよ……言いたいことがあるなら言え」


 「べっつに〜?ありませ〜ん!」



 大丈夫だ。ちゃんと元気なところを見せられている。


 僕も水月も、お互いが意識して元気な声を出していることはわかっていた。


 でもお互い、それについて何かを言ったことはなかった。



 「こーら。けんかしないの」


 「けんかじゃないもーん!お兄ちゃんがいけないんですー!」


 「おいこら、喧嘩売ってんだろ水月」


 「売ってませーん!」


 「……ふふっ。元気そうにしていて、良かった。……ご飯はちゃんと食べてるの?」



 一瞬だけ、水月の肩が揺れた。



 「大丈夫。僕も水月もちゃんと食べてるよ。料理もできるようになったし。……心配しないで」


 僕は不穏を感じ取った。


 「……うん。……ごめんね。お母さん…………ごめん、ごめんね……」



 合図であった。


 看護師さんから言われている注意事項の一つに、「お母さんが何度も謝りだしたら無理せず病室から出てちょうだいね」というものがあった。

 重度のうつ病として診断されている母は、こうしてなんともない会話をしていても、いきなり落ち込んでしまうことが、多々あったのだ。


 きっとこういう場合の適切な返答の仕方なんていうのもあるのだろうけど、僕ら兄妹の年齢を鑑みて配慮してくれたのか、注意事項や心構えを言われるのみで、対応について特に何かを言われることはなかった。


 今にも泣き出しそうな目で、しかし笑顔で母の手を握る水月の肩を叩き、「本当に気にしないで大丈夫だから。そろそろバスが来るから行かないと。また来るね母さん」


 そうゆっくりと伝えてから水月の手を引いて病室を後にする。


 看護ステーションからこっちを伺っていた看護師さんに、深く頭を下げて、病院を後にした。




 バスを待つ間、一度だけ「よく頑張ったな」と水月に言い、頭を撫でる。




 コンクリートにポツポツと垂れる水月のそれを、ただ僕はじっと眺めることで、目の中にたまった僕のそれだけは、落とさないようにしていた。


 だって僕は『お兄ちゃん』なのだから。






 家に着くまで水月との間にほとんど会話はなかったけれど、玄関を開けて、ようやく離してくれた水月の手につかまっていたシャツの裾は、しわくちゃになっていた。


 「ありがとう、お兄ちゃん」


 小さく呟いて自室へと戻って行く水月を見届けて、僕も自室へと戻る。





 ここから先は、割愛させてほしい。








※※※






 夢を見ていた。


 母が入院してしまってから時折出てくる、夢を見ていた。



 そうだ、これは夢なのだ。


 夢とわかるからこそ、その終わりに何が待ち受けているかなんてわかっているのに。


 −−−何度覚めろと願っても


 −−−ついぞそれは敵わなかった。









 時刻で言うと07:20分

 この日も僕は、いつも通りの時間に朝の食卓についていた。

 リビングのテーブル。いつも僕が座るその場所には、あるはずの湯気が見当たらなかった。

 

 この時は、「とうとうあの悪戯もやめにしたのか」なんて思い、悪戯の主に挨拶をしようと視線を向けた。


 少しだけ離れたところにあるキッチン。そこにあるのは僕に背を向けて立つ女性の姿。


 僕の母親−−−八色湖悠である。


 「おはよう、母さん。あの熱いコーヒーはもう辞めにしたんだね」


 変な間があった。


 「おはよう、悠。……コーヒー。あっ……ごめんね、今から準備するから」


  寝ぼけているのかいつもよりも随分と小さい声で挨拶を返してから、母さんは慌てたようにお湯を沸かし始めた。


 「……い、いや、そんな謝ることじゃないでしょ。コーヒーくらい自分で淹れるよ?」


 珍しい母さんの態度に、ちょっと皮肉めいたことを言ってしまった気まずさから、自分でやろうと申し出た。




 「いいのっ!!!」




 悲鳴のように発せられた声に、思わず肩が跳ねた。


 「あ……ご、ごめんね。今淹れるから、今淹れるから少し待ってて」


 「……うん」


 この時僕は、言いようもない嫌な予感めいたものを感じていた。


 母さんのどこか焦点の合っていない目に、酷く不安を感じたのだ。


 待てど暮らせどコーヒーがこないことよりも、母さんの様子の方が気に掛かり、もう一度声を掛けようとした。


 「おはよー。なんかおっきい声聞こえたけど、何かあった?」


 先ほどの母さんの声で起きたのか、いつもより10分ほど早く水月がリビングへとやってきた。


 それを見た母さんの狼狽かたは尋常ではなく、何かがおかしいと思った僕は咄嗟に水月に「顔洗って、部屋で待ってろ」それだけを強く言い、リビングの外へと追いやった。


 何か文句でも言われるかと思ったけれど、水月も多分、何かおかしいと感じていたのだろう。大人しく僕の言う事を聞いてくれた。


 変わらず台所に立っている母さんの正面に回り込む。僕が視界に入っていることもわからないのか、酷く虚な顔で何事かを呟いていた。




 「ご飯作らなきゃ……ご飯、作らなきゃ……ごはん…つくらなきゃ……」




 言葉が出なかった。


 気付いたら身体が震えていて、何かしなければ、何か言わなければと本能で感じるも、見たことのない母さんの姿に、どうすることも出来なかったのだ。


 「…………どうしたの?……かあさん?」


 

 「……どうしたの、悠。もうじきごはんできるから、すわってなさい」



 僕を一瞥もしないで言われた抑揚のない言葉に、黙って従ってしまっていた。


 相変わらず身体の震えは治らず、何をどうすればいいのか。母さんに何が起こっているのかわからず、ただただ台所に立つ母さんの後ろ姿を見ていることしかできなかった。


 いつの間に戻ってきていたのか、酷く不安げな顔で僕の隣に座った水月が、無言で僕の腕を握ってきた。


 そこから伝わる小さな熱を感じて、やっと震えが治った僕は、母さんに声をかけようと前を向いた。



 

 ……けれど、遅かったのだ。




 これは今に通ずる僕の最大の後悔の一つである。


 たらればなんて意味がない。そんなことはわかっている。けれどどうしたって何度だって考えてしまう。


 ここで僕がもっと早く動けていれば、そもそも、僕がもっと。


 母さんがこんなことになる前に、僕がもっと母さんをよく見ていたら、きっと異変に気付けた筈なのだ。


 僕がもっと、家族を大事に思っていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのだ。





 僕がもっと、もっと……もっと……もっと…………。







 この夢の終わりはわかってる。




 焼かれていないパン。

 

 酷く不揃いに切られたサラダ。

 

 ほとんど火の通っていないウインナー。

 

 焼きすぎて茶色くなったスクランブルエッグ。


 いつもより遅く出され、ゆらゆらと湯気を出すコーヒーカップ。




 何を話しかけても返事がない母さんの顔。















 この日から、水月はパンを食べなくなった。









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