第六話 覚悟した日


  おはようございます。私は今、トイレにいます。




 こうやって言うと、ひどくおどけて聞こえるかもしれないけど、実際の私は、とっても困っているのです。こんなふうにでも言わないと、どうにかなってしまいそうなくらい。

 何がどうなるかすら、わからないんですけど。


 それは、紙がないとか、生理用品が切れていたとか、そんな物理的な事ではなく、至って真面目に。


 精神的にしっちゃかめっちゃかになっているのです。


 それというのも、今朝、通学路にて偶然(偶然という事にでもしないと今の私には耐えきれそうもない)彼−−−正確にいうと、元カレ。

 八色悠。改め、月岡悠に接触した事に去来するものです。


 中学時代に付き合っていた彼と私は、それはもうすっぱりとお別れをしたのだ。

 そんな彼のことを、私は確かに嫌いになった筈だった訳で。

 でも、そんな彼が進学した高校は私と一緒で。


 八色。だった苗字が、月岡。に変わっていることを本当になんとなーく、なんとなくだけど気になった私は、親友であるところの黒磯千秋ちゃんに報告した。


 すると今朝偶然。


 ……偶然に彼と会い、ほんの少しばかりの会話をして、彼の顔を見て。会話ではなかったけど、ある言葉を投げかけられ(彼は私が聞いていたなんて思ってもいないのだろうけど)その結果。


 その結果として、止むに止まれぬ事情により、まだ登校時間には少しばかり早い校内。その一角にあるトイレに篭る事になったのでした。



 このままでは、不味い。何が不味いって、私は今、人様の前にとてもではないけど出られる状態じゃない。


 朝の予鈴が鳴るまでは、幸いまだまだ時間に余裕はある。


 校内でも隅っこの、教室がある棟とは違う棟にあるこの場所なら、少しは冷静に慣れるのではないかと思った私は、こうして籠っているのです。


 薄くだけど施していた私の、ほんのすこーしだけ崩れてしまったメイクも直さないといけないし。



 だから私は考えるのだ。乱れてしまった心を落ち着かせるために。

 

 いつぶりになるかは良く覚えていないけど、でも中学校を卒業してからはおそらく初めて。


 自分の感情を見つめ直すために。


 私は努めて覚悟して、昔のことを思い出す事に決めたのです。



 中学時代、まだ彼と私が付き合っていた頃と、終わってしまった後のことを。





※※※





 中学2年。12月。

 いわゆるクリスマスシーズンである。



 当時交際を始めてから半年と少しばかり経過していた私と八色くんは、終業式間近の学校、その放課後の空き教室にて向かい合って会話をしていた。


 つい先日まで行われていた期末試験の答案用紙をお互いに広げながら、ああでもないこうでもないなんて、本当にたわいもない会話を行なっていた。


 彼はきっと真面目に私の答案用紙を見て、間違った箇所の解き方なんかを真剣に教えてくれていたのだろうけど、その時の私は、彼には本当に申し訳ないのだけど、全く、これっぽっちもその内容なんて頭に入って来てはいなかった。



 もっともらしく、「あーなるほどねえ」とか、「あ!こうやって解けば良かったのかあ!」なんて言葉がポンポンと出てくる自分自身に、何を隠そう私が1番驚いていたのだから。


 ……すごいじゃん私!全然違う事考えちゃってるのに普通に返事してる!


 ならそんな私が何を考えていたのかと言えば。



 そう、迫る25日。クリスマスである。


 私と八色くんは順調に交際を重ねながら毎日楽しく過ごしていたのだ。

 過ごしていたのだけど、この時の私は放課後に彼に勉強を教えてもらえる事、言葉は少ないけれど、帰り道に手をつないで歩ける事。

 たったそれだけの毎日にこれ以上の幸せなんてないんじゃないかって程に、満足していたのである。


 だからそんな私は2学期も終盤。あと数日で学校が冬季休暇に入ってしまうこの日まで、彼のクリスマスの予定を聞き出すことを忘れていたのだった。



 「笑美さあ、八色の奴とクリスマス過ごすのー?」


 私の数少ない友人である(今では親友だと思っている)黒磯千秋ちゃんにより発せられた一言により、私の時間はフリーズした。時間だけじゃない、私自身もフリーズした。



 「……っど!」


 「ど??」


 「ど、ど、どうしよう千秋ちゃーーーーん!!」


 悲しいくらいポンコツであった。



 そうして千秋ちゃんに泣きついた私は、しばらく慰めてもらった後、まだ日程的に聞けるチャンスが残っているから、と諭されてこの放課後に至るのである。





 

 机を挟んで向かい側。私の答案に目を落として、ゆっくりと間違いがあった箇所を解説してくれる八色くんの顔を盗み見ながら(答案を見ろなんてことはここには言う人はいなかった)、いつその話題を切り出すかだけを。


 クリスマスの話題を出すことだけを!


 それだけを私は考えていた。



 今日もまつ毛長いなあ〜……。


 色が白くて、八色くんは冬が似合うなあ〜。雪なんてもっと似合うかも……。


 私が見やすくするために、わざわざ問題文に指を添えてくれるんだよね……。


 指も女の子みたいにほっそりしてるけど、関節とかはやっぱりちょっと男の子なんだよね……。


 繋いだときなんかはもっと男の子だなあ〜なんて感じるし。なんでだろう……?




 ……それだけを考えていた筈の私であったが。



 結局その日、家に帰り着く直前、八色くんの方から「水原さ……クリスマスとかの予定って、もう決まってる?」そう彼が聞いてくれるまで、その話題を私から出すことはなかった。



 「八色くんは?……何か決めちゃった?」


 自分からその話題を出せなかったことを、心の中で千秋ちゃんに謝りながら、私は八色くんに聞き返した。

 しかし、内心では彼の方からクリスマスの予定を聞いてくれた事に狂喜乱舞していた。


 「あー、いや……。うちは、25日の夕飯に家族でご飯食べるくらいで、それ以外だったら、空いてるかな」


 そうちょっと照れ臭そうに話す八色くんの顔を脳内に収める。

 わたしのかれしがいけめんすぎる。


 「そっか!そしたら24日は私は千秋ちゃん達と出かける予定だから、25日に、その……えっと」


 この後に及んでまで、恥ずかしさから言葉が出ない。


 「あー、うん!25日ね。……そしたらその日、どこか行こうか」


 それでも私の気持ちを汲んで、柔らかく微笑んでくれる八色くんの顔が嬉しくて。


 「……うん!よろしくおねがいしますっ!」


 

 ああ、幸せだなあ。って、心の底から思った。

 確かにこの時の私は、幸せだったんだ。



 

 結局、私のポンコツさ故に。八色くんとのあれやこれやを思い出して生返事してしまったばっかりに。家族で出かけるなんて約束をすっかりぽっかり失念していた私のせいで、25日に。

 初めて彼氏と過ごす筈だったクリスマスに、私と彼が出かけることは無かったのだけど。


 それでも彼は怒らずにいてくれた。優しい。

 それだけじゃなく、クリスマスに大層落ち込んでいた私が家に帰ってから、家族と過ごしている筈だった家を抜け出してまで、彼が私に会いに来てくれた。嬉しい。


 近くの公園で、時間にして30分にも満たなかったその時間と光景を。


 きっと私は一生忘れないのだろう。



 この時交わした、「来年は一緒に過ごそう」



 叶うことは無かったその約束も、きっと私は一生忘れられないのだろう。





※※※






 中学3年。12月。

 いわゆる受験シーズンである。



 当時、一月と少し前に八色くんとの交際を終えた私は、終業式間近の学校。その図書室にて1人、とある用紙を眺めていた。


 なんてことはない、期末試験のテスト結果である。

 出来は過去最高だった。


 2学期が始まってからすぐ、八色くんから「受験勉強にも本腰を入れないとだろうし、少し会う頻度を下げようか。」そんなことを言われていたことを思い出した私は、数々の友達との会話、学内に広まる彼の噂をぼんやりと考えていた。



 曰く、八色悠は私と別れてすぐに別の女と付き合っていた。


 曰く、夏頃に水原ではない女と歩く姿を目撃した。


 曰く、水原と別れた時にはもうすでに、別の女と付き合っていた。


 曰く、実は水原と付き合う前には、今付き合っている女とすでに付き合っていた。



 もちろん、そんな噂を全て鵜呑みにするほど、私は彼のことを信用していないわけでは無かった。

 無かったけど、こうして実際に彼と別れて1人になると、嫌でもそんなことばかりを考えてしまっていた。


 私が不安に思うことの中の一つに、彼が−−八色くん自身が、これらの噂を何一つとして否定していないらしい。ということがあった。


 考えれば考えるほどに、彼の嘘……。

 別れる際に彼が私についたであろう嘘。


 −−−もう私のことが好きじゃなくなった


 その言葉を。

 それを嘘だと感覚的に理解した、私の『感覚こそ』を疑い始めていた。



 当時の私の彼に向ける感情は、不安や戸惑いこそあれど、変わらず好意が先頭に立っていたと思う。


 だからこそ、周りに流れる嘘を信じようとはしていなかったし、噂が流れるに連れ、彼に報復をしようかと提案してくる周りの人たちを宥めることもできていた。

 そもそも、彼の噂が流れてから急に私に寄って来た人たちを、私は信用していなかったのだけど。


 それともう一つ。

 私が彼を信じようとしている、根拠とも呼べない代物が、私の鞄には入っていた。


 そっと取り出したそれは、とある高校のパンフレット−−−


 別れてから少し経ったある日、私の下駄箱に入っていたものだ。


 最初はそれは誰かの悪戯かな?なんて思って捨てようとしたのだけど、念のため目を通すと、県内有数の進学校であることがわかり、今にして思えば本当に愚かとしか言いようがないのだけど、それを私は彼からのメッセージではなかろうかと思ってしまっていたのだ。


 このパンフレットを私の下駄箱に入れたのが誰だったかなんて、今でも分かってはいないし、今更犯人探しをしようとも思ってはいないけど。

 でも確かにその時の私は、手にしたパンフレットの高校を目指すことを、不安に揺れる心の拠り所にしようとしていたのである。


 放課後の図書室にて、何度も何度も繰り返し見て来たそれを広げる。

 不思議ともやもやとしていた心が晴れ、この学校に行く為にも、もっともっと勉強を頑張らねば!と、気合を入れ直して再度机に向かうのであった。



 辺りが暗くなり、ふと肌寒さを感じた私は、時計の針が随分と進んでいることを確認してから帰り支度を整えた。


 本日は12月の23日。明日の終業式が終われば、中学生活最後の冬休みに突入する。

 それはつまり、受験までもう日数がないことを示していた。


 私は鞄をギュッと胸の前に抱え込み、胸の内に蟠る様々な感情を押さえ込むようにして家路についた。



 中学生活最後のクリスマスは、イブも含めてどこにも出かけていなかった。

 受験シーズンで周りの友達もピリピリしていたこともあるし、何より私が1番ピリピリしていたのだと思うけど。

 だから誰とも会う予定は入れていなかった。


 25日の夜。夕飯を終えた私は、窓の外に雪が降っているのを見て、なぜだか無性に外に出たくなった。

 確かその時は、勉強漬けで疲れていたからとか、珍しく雪が降ったからとか、そんな当たり障りもない嘘を親に言って家を出たのだと思う。

 たとえ私のついた嘘がばれようが、構わないと思っていた。



 足は自然と『その場所』に向かっていた。

 傘を持ってくるのを忘れていた事に途中で気付いたけど、引き返そうとは少しも思わなかった。


 −−−もうすぐ会える。


 そんな突拍子もない想いだけで、私は歩を進めていた。



 事実、その公園に−−−ちょうど1年前に、彼と短い時間だけ過ごしたその場所に、彼はいた。



 ……でも、彼は1人では無かった。



 傘を差していて、表情は良く見えなかった。けれど、傘を差しているから、私が彼の視界に入ることもまた、無かった。


 彼の傍にそっと立つ女の人が、手にした鞄から何かを取り出そうとしているのを見て、私は踵を返した。



 −−−そこからのことは、今でも正直あまりよくは覚えていない。


 

 泣き疲れて眠ってしまったのか、夜中に目を覚ました私は、ぼうっと部屋を眺めていた。

 脱ぎ散らかしたコート。そのポケットの僅かな膨らみを見て、視界が滲んだ。


 ……プレゼント、渡せなかったな。


 ぽつりと呟くと同時、枯れていたと思っていた涙がとめどなく溢れ出した。


 信じていた。


 疑いそうになっても、信じていた。


 好きじゃなくなったなんて、嘘だって確信していた。


 きっとまだ気持ちは確かに通じ合っているんだと、勝手に思っていた。


 そのどれ一つとして、私は彼に確認なんてしなかったのに。


 確認は大事だからね。そんな彼の言葉が脳裏をかすめる。


 バカだ。


 私は、大馬鹿やろうだ。


 勝手に希望を抱いて、とっくに終わっていた筈の関係にみっともなく縋り付いていた馬鹿だ。


 嫌いになった。


 くだらない幻想ばかりを抱いている自分を、嫌いになった。


 思い出ばかりを大事に抱えて、何一つとして前進しない自分を、嫌いになった。


 彼に何一つ確認もせず、勝手にわかったつもりになっていた自分を、嫌いになった。


 心が壊れそうなくらい。私は私が嫌いになった。


 だから私は……




 ああ、そうか−−−




 そこまで思い出して目を開く。


 過去に向けた意識を今に戻す。


 遠くから少しだけ聞こえる人の喧噪。朝の活気が満ちていく学校。


 その外れにあるトイレの片隅で、私は私を思い起こした。


 もう、瞼にたまった熱は引いていた。


 私は本当に嫌な女だ。


 容姿を磨いた今も、決してそれは変わっていなかった。



 簡単なことだったのだ。

 



 私は結局、自分の心を守るために、彼を嫌いになったのだから。






※※※





 こんにちは。私は今、ファミレスにいます。


 今朝、校内のトイレにて自分の過去を思い返していた私は、自分の『業』とも呼べるものには気づいたのだけど、結局それ以上を考える余裕が無かったのだ。

 主に、始業時間が迫っているという点において。


 クラスメイトとの会話の中で、いつまでもそのことだけを考えているわけにもいかず、放課後に絶対に千秋ちゃんに報告する!と、心に誓って、クラスメイトとのコミュニケーションも、カリキュラムも乗り切った。


 放課後を迎えた私は、新しくできた友達に別れを告げて、休み時間に交わした千秋ちゃんとの約束の場所へと向かったのである。


 千秋ちゃんとの待ち合わせ場所は、私の高校がある駅の線路を挟んで向かい側にある『プレミアムホスト』というファミリーレストランだった。

 中学時代は、お小遣い制だったということもあり、こういった場所に友達と来るという事には不慣れな私だったが、相手は親友であるところの千秋ちゃんである。

 変に取り繕う必要がないことは、私が1番よく知っていた。



 千秋ちゃんよりも先に着いた私は、お願いされていた通りに、2人分のドリンクバーと、自分の昼食を頼み、千秋ちゃんの到着を待っていた。

 昼休みを挟んで1時間程度学校に残る用事があると言っていたので、私は昼食を1人で食べつつ、明後日に待ち受けている入学後初の実力試験の勉強を行なっていた。


 あまり注文もしていないのに、長く居座る事になってしまいそうで、迷惑かな?なんて思っていたけど、注文を取りにきた店員さんが「今日は他に誰もいないから、ゆっくりしていっても大丈夫だよ」と声を掛けてくれたため、ほっとしていた。

 誰もいないのは嬉しいけど、経営は大丈夫なのかな?

 ……ていうか、そんなに顔に出てたかな?


 勉強もひと段落が済み、千秋ちゃんから《もうすぐ着くね》とメッセージが来ていたことを確認し、お手洗いと、ついでにメイクの確認を済ませておこうと席を立った。

 今朝目を腫らしたばかりだったし、あまり心配を掛けたく無かったのだ。


 お手洗いとメイクを済ませてトイレから出ると、さっきの店員さんがレジに立っていた。私以外はお店にいなかったので、誰か来たのかな?と目をやると、私が座っていたテーブル席に、懐かしい後ろ姿が見えたのだ。千秋ちゃんだ!



 「千秋ちゃーん!」


 思わず駆け寄り、声を掛ける。


 「やっほー笑美!会いたかったぞー!」


 そんな風に私を受け止め、頭を撫でてくれる千秋ちゃん。

 昔から千秋ちゃんは私の頭を撫でるのが得意だったのだ。


 挨拶も済ませて、席に着く。久しぶりに見る千秋ちゃんは、最後に会った時よりもバッサリと髪を切っており、綺麗なストレートロングだった髪は可愛らしいショートボブへと変身していた。

 性格も言動もさっぱりとしている千秋ちゃんだけど、その顔立ちはどこか小動物を思わせるような、そんな可愛い小柄な女の子だ。

 

 お互いに今朝の電話じゃあ喋り足りなかった分のあれやこれやを話し、本題に入ることとなった。


 「そんでー?笑美が泣いたのは、八色が関係してんの?……あ、今は月岡だっけ?言いにくっ!八色のままでいっか」


 「えっ……!?」


 「えっ?って、八色の話でしょ?今日のメインはー」


 どこか不機嫌そうにそう話す千秋ちゃん。だけど、


 「あ……いや、うん!八色く……じゃなくて、えっと。つ、月岡くんの話であってるんだけどそうじゃなくてっ……」


 「ん?何?どしたの?」


 テーブルに片肘をつき「八色でいいだろー」なんて突っ込みながら聞いてくる千秋ちゃん。


 「えっと……泣いちゃった、なんて、言ったっけ?私……?」


 そう言うと、一瞬だけぽかんとした表情をした千秋ちゃんは、その後すぐにニヤッと笑い。


 「ばかだなー笑美は。私が笑美が泣いた事にさ、気づかないわけないじゃん」


 そう、自信たっぷりに言うのであった。



 その後、今朝の彼に対してやってしまったこと、彼がぽつりと言っていた言葉、トイレで私が何を思い出し、何を考えていたのかをとつとつと語った。


 たまに相槌を挟みながら、最後まで聞いてくれた千秋ちゃんは「じゃあはっきり聞くけど」と前置いた上で。


 「笑美はさ。今もあいつの事、嫌い?」


 そう、聞いて来たのだった。

 


 ここまでの間、千秋ちゃんに今日起こった私のことを話しながら、改めて私もずっと考えていた。

 今の私が、八色くんのことをどう思っているか。


 昔から、人に話すと楽になる。なんてよく言うけど、それって本当なんだなあと千秋ちゃんの顔を見て実感する。


 ここまで間違って来た私だ。私は私の考えにもう昔ほどの自信は持てないけど、それでも今出ているこの結論を、彼と話して感じたことを、今だけは間違っているとは思いたく無かった。

 はっきりと告げる。


 「ううん。今はもう、嫌いじゃない」


 口に出してしまえばほんの3秒にも満たないことで。

 このたった3秒の結論を出すためだけに私が使って来た時間が、なぜだかとてもおかしく思えた。


 そんな私の考えが、表情にも出ていたのか。


 「……うん!その顔ができるなら、大丈夫だよ、笑美」


 そう言って千秋ちゃんも、笑ってくれたのだ。



 「まあー、そこは分かったとしてさ。ここからどうするかー何だけ…………え」


 話しながら唐突に黙り、ジッと一点を見つめる千秋ちゃんの視線を、無意識に私も追う。


 店の出入り口、ちょうど扉が閉まる寸前に私が見たのは、私と同じ学校の制服を着た男の人の後ろ姿だった。


 私が直接顔を見たわけではないけど、千秋ちゃんの表情を見て察する。


 確認を取るように千秋ちゃんへと目線を向けると、無言で彼女は頷いた。


 八色くんが、ここには居たのだ。



 「笑美。びっくりしないで聞いて欲しいんだけどさ」



 自分でも信じられないなんて感情をありありと出しながら、千秋ちゃんは続ける。

 彼女がここまで狼狽るところなんて、数えるほどしか記憶にない。



 「八色のやつ……たぶん泣いてた……」



 きっとこれを聞いた私の表情は、彼女とまるきり同じだったのだろう。


 だってそうなのだ。


 中学時代、私と付き合っている時も。


 中学時代、私と別れる時も。


 噂が原因で、学内の生徒からいじめに近い行為を受けていた時も。


 ……彼は一度も、泣いたことなんて無かったのだから。 



 八色くんが泣いていた。その言葉を飲み込むと、何かが胸に灯った気がした。




 この日私は決意する。


 彼への気持ちは未だはっきりしないけど。


 少なくとも『嫌いじゃない』ことだけは確認できた。


 だから私は決意する。

 

 これはただの私のエゴだって、自分でしっかりわかってる。

 

 だって私は、嫌な女なのだ。


 だから私は覚悟する。



 彼に何があったのか、確かめるための覚悟をした。

 




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