第七話 ふれたねつのこたえかた

 入学してから初めての実力試験。

 前日にそれをある程度満足する形で終えた僕は、未だどこか他人の部屋のように感じてしまう自室にて、身体の節々に痛みを感じながら、僕の妹である−−−月岡水月に湿布を貼ってもらっていた。


 古来より伝わる言葉の一つに、『火事場の馬鹿力』なんていうものがある。

 一応、念のため、僕がこれから言いたいことをいう前に、この言葉の意味が正しいのか調べてみようと思う。

 確認は大事だからね。

 痛む腕を動かし、あまり使っていないスマホを手にとった。

 『火事場の馬鹿力』−−切迫した状況に置かれると、普段には想像できないような力を無意識に出すことの例え。


 大丈夫だ、僕の認識は間違っていない。


 詰まるところ何が言いたいのかというと、人間誰しもが言葉を使う。

 でも、その言葉の意味そのものは理解していても、その言葉を実体験として体感することなんていうのは、そうそうないんではなかろうか。


 例えば、鬼に金棒。

 意味はわかる、けれど実際そんなものは見たことはないし、現に見れてしまったとしたら世界史に乗るほどの大発見になってしまうだろう。

 その前に生きて帰れるかどうかすら定かでは無い。そもそも鬼が本当に凶暴かどうかさえ分かってはいないのだけれど。


 例えば、藪から棒。

 意味はわかる、けれど実際そんな状況には遭遇しないし、そもそもある程度区画整理された現代日本では、それなりに郊外もしくは山にでも行かない限り、藪なんてものにはなかなかお目にかかれないのではないだろうか。

 まあ、藪があったとしても、わざわざその中に入り、棒を突き出してくる人間がいたとしたら間違いなく変質者のそれだ。


 現に今偉そうに語っている僕も、今日この日になるまで、自分がそう言った言葉を身を以て体験することになるなんていうことは、全くもって想像すらしていなかったのだけれど、どうやらこの身体の痛みからするに、確かに僕は『火事場の馬鹿力』ってやつを体験したらしいということだけは、疑いようもないのだった。


 全てはそう、本日行われた体力測定のせいである。





 「お兄ちゃん次背中貼るから横向いて!」



 バキィ……!



 「っぐうぅ……っ!!」





 ……体力測定のせいである。







※※※




 体力測定の日に、いったい僕に何があったのか。それを語るに当たり、どうしても僕には紹介しなければいけない男がいる。

 まずはその男と関わることになった、体力測定の前日、つまり実力試験当日のことを思い出してみようと思う。







 本日一日をかけて行われた入学後初の実力試験を終えた僕は、椅子に深く腰掛け、疲れを吐き出すように天井を見上げていた。


 疲れた頭に、新鮮な空気を取り込むため、しばしそのまま深く呼吸をしていると、今日一日ずっと考えない様にしていた、昨日の放課後の一件が首をもたげて来た。

 


 水原本人から手渡された飴玉と、鞄のそばに置いてあった飴玉。



 今も鞄の中に仕舞ってあるそれを。……二つの飴玉が同じだった意味を考えようとした所で、誰かが上から顔をにゅうっと覗かせた。

 思わず体が仰け反り、椅子からずり落ちそうになる。


 「ッハハ!悪ぃ月岡!まさかそこまで驚くとは思ってなかったんだわ!」


 そう言って姿勢を直した僕の背中をバシバシと叩いてくる男。


 席順で言うとちょうど僕の右隣に位置する−−−小高大樹こだかたいきである。

 

「……次は死ぬかもしれないからな、殺人犯になりたく無いのならもうやめてくれ」


 身長は僕より5センチほど高く見えるから180センチ位だろうか、茶色く染め上げた短髪と浅く吊り上がった瞳が印象的な男である。

 

 昨日までは何の会話もしたことが無かった筈なのだが、今朝僕が学校に登校するともう既に席についていた小高は、まるで僕が親しい友人であるかのように気さくに話しかけて来たのであった。


 最初こそ、それなりに会話に付き合っていたものの、聞いてもいない話や学校の噂話、ひいては僕に対する質問責めなどであっさりと疲弊した僕は、早々におざなりな会話へとシフトしていったのだが、この男はそんなものどこ吹く風かのように、休み時間になる度、僕に話しかけて来た。


 放課後になってもそれは変わらないようであるし、仕方がない、もう少しだけ付き合うことにするか。

 別に僕だって、友人がいらないなんて、心の底から思っているわけではないのだ。


 「なあ、君は何で僕に構うんだ?」


 ふと、湧いた疑問を問いかけてみた。

 我ながらコミュニケーション能力が低い聞き方をしてしまった。


 「何でって、何で?」


 お前は質問に質問で返すなと教わってこなかったのか。


 「自分で言うのも何だけど、僕と話しても面白くないだろ?」


 「……いんやぁ?俺は面白いぜ?」


 「何だよその含みは……」


 「特に何もねーよっ。それより月岡、試験どうだったよ?俺はヤバイ!」


 どっちの意味のヤバいなのかは表情にありありと出ていた。


 「それはご愁傷様。僕はまあそれなりに出来たかな。勉強も続けていたし」


 「お、さすがだな。いやしかし先輩たちからは試験がきついって聞いてたけど、想像以上だなコリャ……」


 入学してまだ間もないこの時期に、先輩からの情報を持っているってことは、それなりに交友関係が広いのか、知り合いが上級生にいるのかもな。


 「今回のは春休みに配布されていた教材から出ていたからまだ範囲は狭かったけど、中間、期末になったら難易度は跳ね上がると思うよ」


 「げえ……まだ上があんのかよ……」


 「授業内容が難しくなっていくんだから、上がる以外ないだろ」


 自分の椅子にもたれるように座り、項垂れていた小高は、しかしすぐに気を取り直したのか、グワっと顔を僕の方に向けて来た。

 ……どうでもいいけど、それ首痛めるぞ。


 「ていうかよお、月岡。お前さ……綺麗な顔してるよな」


 −−−ザワッ


 小高の発言のタイミングが悪かったのか、ちょうどクラスメイトたちの喧噪が小さくなった瞬間に発せられていた。

 

 それまで各々のグループで会話していた生徒たちの視線が僕らに注がれる。

 くそ!これ何の羞恥プレイだよ!


 「……んな!おまっ……!」


 中学生以来まともにコミュニケーションをとってこなかった弊害が出た。やたらとリアクションがマジになってしまった。

 いや、しかし実際僕は酷く狼狽てしまったのだ。

 突拍子もないことをいきなり言われたから。とかではなく、それは。

 かつて水原にも言われたことがある言葉だった。それを思い出してしまい、変な反応になってしまっていた。


 教室内のざわめきがひとまわり大きくなった気がした。


 「ッハハ!悪ぃな月岡!まさかそこまで照れるとは思ってなかったんだわ!」


 さっきの会話をリフレインするかのような発言に、揶揄われたのだとようやくわかった。

 直前までまた余計なことを思い出しそうになってしまっていた自分に気付き、それを振り払うかのようにぞんざいに返答をした。


 「悪いな小高。君との関係は今日までだ」


−−−ザワッ


 またさらに喧噪がひと回り大きくなったことに唖然としていると、月岡はひとしきり笑った後、クラス中に聞こえるように弁解していた。


 「いやほんとごめんって月岡!お前突っ込みっぽいからどこまでふざけられるのか試しただけなんだって!」


 それを聞いて、波が引いていくのかのように周囲が自分のグループの会話へと戻っていくのを見るに、よく分からないが助けてくれたのだろう。


 いや、助けてくれたのだろうじゃなく、そもそもこいつが悪いんじゃないか。



 そんなことになったすぐ後に教室を出ていくのも何となく嫌な気がしたので、暫くは小高と話していた。

 少し前まで頭の中にあった飴玉のことは、もう考えない様にしていた。


 小高と話していて思ったのは、僕は高校を一人で過ごすことに特に苦痛は感じていなかったけれど、話し相手がいるというのも悪くないということかな。




 放課後の流れで、小高と駅まで一緒に帰っている際、自然と話題は翌日に控えた1年の体力測定へと変わっていった。

 ちなみに、本日は2年が行っていた様だ。


 駅で小高と別れた僕は、一人電車に揺られながら、小高との会話にもあった体力測定について考えていたのだが、テスト後ということもあり頭が疲れていたのか、体力測定に付随する、過去の記憶をぼんやりと思い返してしまっていた。





※※※





 中学3年 4月。


 中学生活最後の体力測定を行っていた僕は、さくっと予定されている種目を終えた後、学内に設置されている自動販売機へと足を運んでいた。

 ちなみに測定結果は大したものではない。運動は苦手でも得意でもないのだ。



 100円で買ったどこのメーカーのものだか分からない安いお茶を飲みながら、人気の少ない休める場所を求めて校内を彷徨っていると、グラウンドに張られた防級ネット越しに、彼女−−−水原笑美の姿を確認した。


 僕と水原はおよそ後一月で交際を開始してから1年を迎えるのだけれど、交際を開始した当時の僕よりも、今の僕の方が水原を好きな自信はあった。

 まあ何が言いたいかというと、僕と水原はいまだ仲睦まじいカップル状態をしっかりと維持していた。


 水原の親しくしているごく僅かな数の友人を除いて、僕と水原が付き合っていることは周囲には秘密のままであった。

 まあ、秘密とは言っても特に隠しているわけではないのだが、そもそも僕にはそれを話す友人そのものがいなかったのだ。


 防級ネット沿いに設置されていた武道小屋の軒下にちょうどいい木陰を発見したので腰を下ろしつつ、持久走を行っている水原をぼうっと眺めることにした。


 今にして思うと本当に気持ちが悪いと思うし、まじまじと女子の持久走を観察する男子なんていうのは絶句ものだというのは分かっているのだが、当時の僕はそんなことも気付かずに、水原を見ていたいという細やかな欲を行使していたのだ。

 


 どうやら水原たちのところは持久走が最後の種目だったらしく、終わった者からぞろぞろと校舎の方に向かって歩いていた。

 運動がそこまで得意ではない水原も、持久走を終えて乱れた息を整えてから歩き出した所だ。


 そこで、違和感を覚えた。


 どことなく水原の様子がおかしいように僕には見えたのだが、周りの生徒も、測定していた先生ですらも、特に彼女に声を掛けたりはしていなかった。

 こんな時、水原の1番の友人を自称している黒磯がいればよかったのだが、3年に上がり、水原と黒磯は別のクラスへと進級していたため、この場には居なかった。


そうこうしているうちに、ゆっくりと歩く水原が一瞬ふらつき、すれ違った生徒に何やら声を掛けられているのを見て、少し安心した。

 しかしその安心も一瞬の後に、吹き飛んだ。


−−−水原が眼鏡を直す仕草をしたのだ。 


 彼女と付き合うことになって、しばらくしてから気付いたことなのだが、彼女は普段はそんなことないのだが、余裕がなくなって何かを誤魔化す際に、眼鏡を直す仕草をとることがあった。


 現に今も話しかけてくれた女子生徒に向かって眼鏡を直す仕草を行っていた。

 運動していたから、眼鏡は外していたのに、だ。


 言いようもない悪い予感を覚えた僕は、追いかけることにした。

 水原に追いついたのは、彼女が校舎へと続く道に入った所だった。


 「水原っ!」


 焦りが出てしまい、いつもより少し大きな声を出してしまった。

 その声に、水原の小さな背中が少し跳ねた。


 「っ!……え?八色くん?」


 普段滅多に会話しない場所で僕に話しかけられた事に驚いたのか、大きな目が少し見開かれる。


 僕は驚き戸惑っている水原に近づき、もう一度声を掛けた。


 「水原、間違ってたら気にしないで良いんだけど、具合悪かったり、どこか痛かったりしないか……?」


 その言葉に先ほどよりも大きく目が開かれ、少しして、ふにゃりと目尻が下がった。


 「うん、実はちょっとだけ気持ち悪くて……気付いてくれたんだね」


 水原が発した言葉の後半は、小さくてよく聞き取れなかった。

 早く水原を保健室に連れて行かなければという思いが先行して、多分喋りきると同時くらいには、その手を引いていたと思うから。


 


 保健室に着くと、中には誰も居なかった。

 普段だったら養護教諭がいる筈なのだけれど、外の種目で怪我でもあったのか、までは分からないが、どうやら出払っている様子であった。


 幸い水原は転んで怪我をした、というわけではなかったので、そのまま手をひいて奥のスペースにあるベットまで連れて行った。


 水原をベットに座らせて、靴を脱がせてあげると、水原の顔がすごく赤くなっていて、僕は更に具合が悪くなったのかと、つい詰め寄って聞いてしまった。


 「水原、顔凄い赤くなってるんだけど、熱とかあるか?いや、運動したから熱中症なのかな?……あ!なんか飲み物買ってこようか?」


 そう矢継ぎ早に質問すると、ベットに横になった水原は、顔を隠すようにシーツをあげ、か細い声で告げて来た。


 「……う、ううん。熱はな、ないと思うよ……えっと、そうじゃなくてね、えっと、その……くつ……」


 そこまで言われて、たった今まで自分が何をしていたのかに思い至り、慌てて弁明した。

 正直何を言ったかなんて覚えてはいないが、この時の僕の顔は水原と同じくらい赤くなっていたんだと思う。


 養護教諭に説明をしなければいけない。そんなことをもっともらしく建前とした僕は、先生が戻ってくるまでは、水原のそばにいる事にした。


 椅子を持って来たことでその意味が伝わったのか、彼女も相変わらず赤い顔で、「うん」と、頷いたのだった。


 その後、何となく何を話せば良いのか分からなくなり、お互いに視線を交わしたり、逸らしたりを繰り返していた時。


 不意に。


 ベットから人一人分の距離を開けて椅子に腰掛ける僕の手に水原が触れて来た。


 触れられた手から伝わる熱を感じ、手から水原への顔へと自然と視線が吸い寄せられた。


 熱を感じる瞳。熱中症ではないと言っていた。



 「……いっかい、だけ……」



 それは消えそうなくらいに小さな声だったけれど、でも。

 僕の耳にはしっかりと届いていた。

 まだ外で体力測定を行っている生徒たちの声。

 さっきまでずっと聞こえていたそれは、もう僕には届いていなかった。

 世界が水原と僕の二人だけになったかの様な錯覚。

 それは正しく錯覚で、きっともう少ししたらここには先生が戻ってくる。



 僕はそれ以上、言葉を交わすのが勿体無くて、返事の代わりにキスをした。




※※※



 駅に着いたことで回想を終えた僕は下げていたはずの左手が、自分の唇に触れていた事に気付いて顔を歪めた。

 

 本当に僕っていうやつは。


 度し難い。


 その一言で自分に喝を入れ、思いを馳せた過去も、思い出してしまったあの感触も、頭から振り払う様に足早に家路に着いた。


 玄関の扉を開けるなり、リビングから顔を覗かせた水月に「お兄ちゃんどうしたの?なんか変な顔してる」そう言われて僕は、ハッとした。

 それと同時に、今自分がしなければいけないことを、そうした過去を振り解いてまで決意したことを、改めて認識したのだ。

 僕の様子を見て不安になったのか、近付いて僕を見上げてくる水月の顔を見て、その意識を高める。


 今の僕には、家族が何よりも大事なのだから。



 

 

 ※※※





 実力試験の翌日、つまりは体力測定当日である。

 事前に確認していた天気予報通り、空は快晴で実に運動日和なのは間違いがなかった。


 中には雨を望んでいた生徒もいた様だけれど、もしそうなったら別日に屋外種目をやり直さなければいけないことは分かっているのだろうか?


 僕はできれば1日で終わらせたい派だ。


 それは僕の隣でストレッチに勤しむ小高も同じだった様で、「良い天気になってよかったな!」と爽やかな笑顔で告げて来た。

 君、朝から本当に元気だな……。


 中学時代の体力測定は基本的に、屋内種目は2人1ペアで行っていたのだがそれはこの高校でも同じ様であった。

 そう考えると、昨日のうちに小高とある程度話せる様になっていたのは行幸だったかもしれないな。


 当たり前の様に僕とペアになってくれる小高に少々の感謝を念じつつ、それでも昨日変なことを思い出してしまったのはお前との会話のせいだ。と、本人には絶対に伝わらないであろう恨みを晴らしていた。

 主に長座体前屈で。


 種目から種目へと移動する際にも、小高という男は黙って行動することがすこぶる苦手らしく、やれ何組の誰それが可愛い。だとか、何組の誰それが可愛い。だとか延々と僕に学年内の情報を垂れ流していた。

 というか君、女子の話しかしてなくないか……?


 その情報の中で−−−


 「まあとは言え、今のところ競争率が高いのは9組の水原さんだろうなあ」


 「そうなんだ」


 名前が上がるんじゃないかとは思っていたから身構えていて良かった。


 それまでの女子の名前の時と同じく、つっけんどんな返答が出来たことに安堵しながら、少しだけ走った胸の痛みを僕は意識して無視していた。



 事前の説明によると、奇数クラスは屋内種目から始まり、偶数クラスは屋外の種目から測定することになっていた。

 半分に割ったとはいえ、総勢で10クラスからなることから、それなりにどこの種目も混んでいる。

 僕も彼女も奇数組なので、どこかで鉢合わせてしまうんじゃないかなんて、最初こそ不安に感じていたのだが、屋内種目も屋外種目でも、女子との距離は一定以上離れていた為、その不安もすぐに僕の中から払拭されていた。

 

 屋外種目も残すところは長距離走を残すのみ。

 小高は体力に自信がある様だったので、僕に構わず先に行けと、スタート前から伝えておいた。


 「分かったぜ月岡!お前の代わりに1番は俺がとって来てやる!」


 そう言って颯爽と走り去って行った小高の姿を思い出しながら、僕はゆっくりと学校の敷地内の外周を沿う様に敷設されたマラソンコースを走っていく。


 まだ学校が始まってから日が浅いこともあるが、基本的に教室と下駄箱の往復しかしていない僕にとっては、敷地内の景色を見ながら走るのは案外退屈凌ぎにはなっていたのだ。

 

 景色に夢中になりすぎて、どんどんと追い抜かれていたのも自覚しているけれど、そこはまあ気にはならなかった。


 そんな風にして実に良いペースで(早いとは言っていない)走っていると、地理的にスタート地点からちょうど反対側に位置する実験棟?まあ、正確な名前は覚えていないがその棟の入り口にふらふらと一人の女子生徒が入っていくのが見えた。


 周りに誰か他の生徒がいた様子はなかったし、運動がさほど得意ではない僕から見ても明らかに千鳥足というか、よたよたとしていた事が気に掛かり、僕はコースを外れて、その女子生徒が入っていた入り口を目指す。



 授業で使っているクラスがどこも無いのか、電気も付けられず薄暗い廊下を歩く、探していた人物は入って少しして有った渡り廊下の隅に蹲っていた。


「あの、すみません。大丈夫ですか?」


 驚かせない様に、そっと声を掛ける。


 しかし、返事はこない。


 少しだけ近くに寄ってみると、発汗し、肩で息をしているのが見て取れた。


 慌てない様に意識しながら彼女に近付いて、もう一度声を掛けてみる。


 「あの、大丈夫?」


 すると蹲っていた彼女は顔を少しだけあげ


 「……はい。大丈夫、です」


 そう答えた。


 そう答えて、重そうな腕をあげ、眼鏡を直すかの様な仕草をとる。



 それを見る前には気付いていた。


 水原笑美が、そこにいた。



 僕に返事をした後、これ以上心配を掛けまいとしたのか、壁に手を添えて、立ち上がろうとするも、脚に力が入らなかったのだろう、立ち上がる事は敵わない。


 

 僕は一瞬、迷ってしまった。


 彼女を助けるべきか、ほんの一瞬だったけれど、確かに迷ってしまったのだ。


 

 その一瞬の僕の迷いを嘲笑うかの様に、水原は僕の前で倒れた。



 発熱する。


 全身の血が全部頭に流れたんじゃ無いかと思うくらいに。


 僕は彼女を、水原を助けるか迷ってしまったことを無意識のうちに恥じた。


 頭がはじけて消えてしまうのでは無いかという程に、己を恥じた。



 でも。


 後悔は後だ。反省も後だ。


 そんなもの、今の水原には必要ない。


 迷いはもう無かった。


 膝を抱える様にして倒れ込んでいる水原に、腰に巻いていたジャージを頭から被せて、抱き抱える。


 不思議と重さは感じない。


 僕の知る水原よりも確かに成長しているのに。


 校内の見取り図を覚えていて良かった。

 

 そんなことを思いながら、最短距離で移動した。



 途中で何人かの生徒に見つかったが、そんなもの気にもならなかった。


 僕の顔ならばいくらでも見れば良い。


 でも、こんな姿の水原は、決して見せてはいけないと、それだけを強く思っていた。





 保健室に着くと、中には誰も居なかった。

 普通だったら養護教諭がいる筈なのだけれど、外の種目で怪我でもあったのか、までは分からないが、どうやら出払っている様子であった。


 それとも高校の保健室では中学と仕組みが違うのだろうか。


 

 中学とは違い、扉を隔てて設置されているベットスペースへと水原を連れて行く。

 1番奥のベットに水原を横たえ、靴を脱がせる。


 頭から被せていたジャージをそっと取り、顔色を伺った。


 ジャージを被せてしまっていたこともあるが、相変わらず息は荒く、発汗の症状も見られた。空調が効いている保健室に来たからか、先ほどよりも顔の赤みは薄れ始めている。


 「すぐ戻るから、少しだけ待ってて」


 聞こえているかもわからないが、安心させるために声をかけ、保健室の診察スペースへと戻り、許可は無かったが入るときに目にしていた冷蔵庫を漁る。

 

 1番の目的であった経口補水液と、冷えピタも拝借する。

 棚に入っている中でも清潔そうに見えるタオルを数枚手に取り、水原の元へと戻った。


 時間にして2分も経ってはいないだろうが、僕が部屋を出る時よりも水原の顔色は落ち着いている様に思えた。

 そのことに少しだけ安堵して、話しかける。


 「水原。聞こえるか?」


 閉じていた瞼がゆっくりと持ち上げられ、少し空を彷徨ったのち、僕の視線とぶつかる。


 水原の意識が僕に向いたことを確認して、言葉を続けた。


 「水原。飲み物持って来たから。起きれるか?水分をとった方がいい」


 「……八色、くん?」




 心臓が跳ねた。


 しかしすぐに、きっとまだ意識がぼやけているのだろうと結論づける。


 見覚えのある光景を思い出して記憶が混濁したのだろう。


 中学時代の僕の名字を呼ぶことで返事はしたものの、まだ力は入らない様子だった。水原の肩に手を貸して、上体を持ち上げる。


 水原を支えたまま、キャップを開けておいた経口補水液の飲み口を口元に持っていき、少しずつ傾けると、喉が動くのがわかりまた少し安堵する。


 飲み口から口を離した水原が、「ありがとう」と小さく呟いたのを確認して、またベットに横たえた。


 その後も、タオルを首元にかけてやり、額の汗を拭って拝借した冷えピタを貼ってあげたりと、応急ではあるが処置を続けた。


 水原はその間、何も言ってはこなかった。



 僕にできる処置を終え、その間も養護教諭が戻ってこない事に少しの苛立ちを覚えた僕は、このまま水原を一人にして側を離れることも躊躇われた為、苦肉の策として、普段あまり使わない僕のスマホについ先日登録したばかりの番号へと電話をかける事にした。


 電話をかけるために、少しだけ席を外そうと、椅子から腰をあげると、不意に呼び止められた。


 「……もう、行っちゃうの?」


 まただ……また、心臓が跳ね回る。


 スマホを持つ手に、力が入る。喉にこみ上げて来た何かを押し流す様に、唾を飲み込んだ。

 


 「……大丈夫だよ。水原のクラスの人に連絡して、鞄を取ってきてもらう様に頼むだけだから」


 「……それまでは、居てくれる?」


 「大丈夫。それまで僕は、ここに居るから」



 彼女は病人だ。誰かがいなきゃ不安に決まっているだろう。


 自分に言い聞かせる。


 それを聞いて安心したのか、少し喋って疲れたのか、水原の瞼はゆっくりと落ちて行った。




 

 診察スペースへと移動し、小高へと電話を掛ける。


 体力測定中に小高が話していた会話の内容を思い出す。


 「9組の三条さんって子もかなりレベル高いな!さっき話した水原さんといつも一緒にいるからなおさらな!」


 彼が情報通で良かったと、彼と友人になって良かったと思った。


 そのおかげで、いま水原の力になれている。


 無事に電話に出てくれた小高に、三条さんへの伝言を頼み、通話を切る。




 水原の元へと戻り、さっきまで座っていた椅子に腰掛けた。



 ある程度落ち着いたのか、安心した様に浅く呼吸を繰り返す寝顔を見て、僕も安心した。



 安心すると同時、処置のために考えない様にしていた感情の奔流が僕を襲った。


 

 もう僕がこれ以上ここにいる理由はない。


 小高が今に三条さんに連絡をつけてくれて、きっと彼女が来てくれるから。


 その時に僕と鉢合わせたら、きっと水原が困るから。


 頭ではしっかりと理解している。


 それなのに。


 なんで僕の足は、動かないのだろう。


 理性と感情と身体のバランスが、その境目が秒を追うごとに曖昧になって行く様な気がした。

 掌に、ぐっと爪を押し当てる事で、僕は僕の形を保とうとしていた。



 先ほどまでの一連の流れを思い出して、僕は水原を見捨てようか迷ってしまった自分に対する怒りを再認識した。

 

 けれど


 それとは別に、僕は水原にも言ってやりたいことがあったのだ。


 感情が声になって溢れた。


 「……あんなになるまで無理をして」


 一度でたそれは、もう止まらなかった。


 「……あんなになっても無理をしようとして」


 眠っている水原には決して届かないのに。


 「……君が頑張っているのは分かってる。僕が言えたことではないけど、君が頑張ろうとしてるのは分かってる。……でもな水原。無理をしてまで頑張らなくていいこともあるんだよ。体調が悪かったって誰も責めやしない。それくらいで誰も君を見捨てたりなんかしない。……辛かったら辛いって、言って良いんだよ水原。……君が優しい子だっていうのは、変に無理をしなくたって、きっとみんなに伝わるから」


 これ以上は、言ってはいけないことまで言いそうな気がして、それでようやく我に帰った僕は、そっと席を立った。



 不意に。



 ベットから人一人分の距離を開けた椅子から立ち上がった僕の手に水原が触れて来た。


 弱々しく掴まれた手からしっかりと伝わる熱を感じ、手から水原の顔へと自然と視線が吸い寄せられた。


 熱を感じる瞳。……まだ……まだ彼女は熱中症だ。



 「……いっかい、だけ……」 



 それは消えそうなくらいに小さな声だったけれど、でも。

 僕の耳にはしっかりと届いていた。

 外で体力測定を行っている生徒はもういないだろう。

 聞こえてくるはずもないその喧騒は、やっぱり僕にも聞こえなかった。

 世界が水原と僕の二人だけになったかの様な錯覚。

 それは正しく錯覚で、昼休み間近の校舎内には人の気配が漂っている。



 僕はそれ以上、触れた熱を感じる事ができなくて。そっと保健室を後にした。




 

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