第四話 それに再び気づいた日


 夢を見た。




 中学3年の11月。もうすぐ12月になろうかというその日の放課後、ある事情により意気消沈(意気消沈×10000くらいは意気消沈)していた私は、学内でも数えるほどしか居ない友人の中の1人−−−黒磯千秋くろいそちあきちゃんによってもたらされた情報に、どうしようもなく打ちのめされていた。


 「八色のやつが女子と一緒に空き教室入るとこ見たって、今連絡あったんだけど!笑美!!あいつ良いかげんぶちのめしてきて良い!?」


 千秋ちゃんは、八色くんと私が別れたその日に相談した数少ない、信頼できる友達ではあるのだけど、こうしてたまに暴走気味になるというか、血の気が荒くなってしまうところが玉に瑕な少女であるのだ。


 「え?八色くんが……。うん……でも、大丈夫だよ、千秋ちゃん。私たちもう別れちゃったんだし、や、八色くんが何をしてたとしても、私に何か言えたことじゃ……ないから……。ありがとね……」




 嘘だ。



 本当はめちゃめちゃ気になったし、千秋ちゃんに頼んで、誰と一緒にいるのか。どんな子なのか、見てきて欲しいと本気で思った。

 同時に、そんな事を、自分で頑張るのではなく、千秋ちゃんに頼もうと思ってしまった心の弱さを、猛烈に恥じた。


 八色くんに何か理由があるのは、別れたときの言葉でも、恐らく私に嘘をついたであろうことからもわかったつもりだったけど、でもそれを確認しなかった私には、本当に嘘だったのか、自信がなくなっていた。

 ……それにしたって、別れてすぐに別の女の子と2人っきりで会っているという事実は、やっぱり正直腹が立ったりもした。


 ……もう別れているのだから、そんな事を私に思う権利はないのにね。


 そんな事実が、今更ながらに襲ってきて、間近に迫る冬のせいだけではなく、私の体温が一気に下がった気がした。

 それに、八色くんの本心を聞き出すことも、別れを引き止めることも、何にもできなかった、ただでさえ弱い私が、その上何もかも、全部人任せにするような、友達にスパイの真似事をさせるような、そんな卑怯な人にはどうしてもなりたく無かった。


 千秋ちゃんは、相変わらず眉を立て、怒っているぞ!と声だけでなく全身を使って表していたけど、私の困った様な表情を見遣って、一度だけ頭を撫でてくれて、それ以上は何も言ってこなかった。

 粗野なところもあるけど、最後は私の気持ちを組んでくれる。決して無理強いしてこない千秋ちゃんが、私の友達で良かった。それだけは紛れもなく、八色くんと別れてから再発見できた良いことの一つだったのだ。


 

 −−−八色悠が、水原と別れてすぐに別の女と付き合っている。



 そんな情報が流れたのは、八色くんが他の女の子と空き教室で会っている。と、千秋ちゃんに聞かされた翌日の出来事だった。





※※※




 カーテンの隙間から漏れてくる朝日がちょうど顔に当たり、薄らとした明るさに誘われるように、私は目を覚ました。

 年が明けてから見ることが少なくなっていた、中学時代の夢を久々に見て、朝から少し憂鬱な気分になった。まだ5月病には早いのに。


 枕元にあったスマホを手に取り、アラームがセットしてある時刻まで、まだ幾ばくかの猶予がある事を確認した私は、けたたましい音がなる前にアラームを解除した。

 春になったとはいえ、朝方はまだ冷え込むこの時期。薄手のキャミソールと、上に羽織ったそれなりに暖かいパーカーと就寝用の厚手のキュロットパンツを脱ぎ、制服に着替える。


 まだまだ真新しい制服の袖に腕を通しながら、こんな夢を見てしまった原因を考えた。

 まあ、考えるまでもないんだけど。



 −−−八色悠。改め、月岡悠。

 中学時代の私の元カレであり、私の初恋だった人だ。



 ……あの頃の私は、あいつにも何か理由があったんじゃないかって、本気で思っていたんだよね。

 何か理由があって、一時別れるだけ。時間が立った頃に、きっとまた八色くんが理由を話しに来てくれる。

 そうしたら、その時はもう一度付き合えば良いのだ。

 なんて、我ながら飛んだお花畑少女である。


 そんな当時の私のバカバカしい願望はついぞ叶うことはなく、むしろより悪い形となって帰ってくるのだけど、まあそれは今は良い。思い出せば思い出すだけムカつくし。

 ……落ち込むし。


 当然、中学時代の私も、今の私と同じ様に、これは私の都合の良い願望だったんだって。別れてからそう経たずに思い知ることになる。

 その結果、あんなに好きだった気持ちが嫌いにまで落っこちて行ったのだけど。


 でも。


 ……果たして本当に、当時の私と、今の私は同じ気持ちなのだろうか。





 夢を見た。


 それは間違いなくあいつが、月岡悠が私と同じ学校に進学していると昨日、発覚したからだ。

 久しぶりに本人を目にして、認めるのは癪だけれど、少しだけ感情が揺れてしまった結果に過ぎない。

 

 私は……厳密にいうと、昨日までの私は、フラれた時の彼の言葉に嘘なんてやっぱり無かった。そう思っていた。

 全ては私の都合の良い思い込みだったんだって。それで納得していた筈だ。

 現にその怒りを主たるモチベーションに、受験勉強も、ファッションセンスも、メイクも、女の子として必要な何もかもを、この数ヶ月で学び直してきたのだ。勉強以外は主に千秋ちゃんに従事した。


 しかし、昨日入学式で見た彼は、彼であるけど、彼では無かった。

 入学式後、生徒会の先輩方に頼んで、放課後のクラス表の回収などの作業を手伝った際に、しっかりと彼の名前が月岡に変わっていることは確認した。

 幸い『悠』という漢字の新入生は、彼しかいなかったのだから間違いない筈。



 −−−名字が変わっている。


 たったそれだけを理由に、やっぱり彼には何か理由があったんじゃないか……なんて、そう考えてしまう自分が居るのは確かだった。

 そこだけは何度否定しようとしても、否定しきれなかったから、仕方ないけど認めることにした。

 だって、そこを認めない事には、この先に思考が進まなかったのだ。


 昨日名前を確認してから、家に帰って、朝起きるまで。


 何度も何度も−−数えきれないほど考えた。


 だからなんだっていうの。


 それこそ私の都合の良い思い込みじゃない。


 今更、仮に理由があったとしても、傷付けられた事実は変わりようがない。


 そんな風に、彼を気にしなくて良い理由ばかりを、私は探していた。



 そうしてまた、終わりの見えない思考の渦に嵌っていると、不意にスマホに着信が届いた。

 こんな朝早い時間から誰だろう?クラスの子かな?なんて手に取ると、予想していたメッセージ。とかではなく、電話の着信だった。


 スマホに表示されている名前を見て、迷わず通話に出た。



 「おはよー笑美〜。起きてた?」


 なんだか眠そうな声で呼びかけてきたのは、千秋ちゃんだった。


 今朝見た夢の登場人物の1人ということもあって、少なからずびっくりしたけど、高校の入学にあたって、お互いになかなか連絡を取り合う時間も取れていなかったこの頃を思い出すと、純粋に千秋ちゃんと話せることが嬉しかった。


 「おはよう。千秋ちゃん。起きてたから大丈夫だよー」


 「へへ。よかった!……んー!久々の笑美の声だぁ!今日は良い日になりそう!」


 さっきまでの眠たげな声はもう見当たらず、いつも通りの溌剌とした声音でそう告げてくれる。

 照れるけど、やっぱり嬉しい。


 お互いに早起きしたこともあってか、登校にかかる準備から逆算して、電話を切る時間を確認し合った後、会話はお互いの学校についての話にシフトしていった。

 寂しいけど、千秋ちゃんは私とは違う高校へと進学しているのだ。


 学校の話になると、嫌でも意識してしまうのが、あの男の事である。

 今朝見た夢のせいもあってか、本当に失礼なことに千秋ちゃんと話しながらも、私の脳裏に浮かぶのはあの男の顔ばかりであった。

 ごめんね千秋ちゃん。あいつが悪いの。


 当然千秋ちゃんには私の調子のおかしさを感じ取られ、結果。


 昨日からずっと考え続けていた何もかもを、友達に。


 いや−−−親友にぶちまけることになった。



 ありがとう、千秋ちゃん。




※※※





 まだ登校時刻には少しばかり早い、学校へと続く住宅街の、人二人がやっとこさ通れるくらいの狭い小道に、私は立っていた。


 なぜ学年主席であるところの私が、入学してから二日目にしてこんな不審者めいた事をしているのかというと。

 

 「だったらさ、もう一回会ってみれば良いんじゃない?私としては複雑だし、正直腹も立つけど!」との千秋ちゃんからの応援?助言?を貰ったからである。


 「でもどうやって2人で会ったらいいのかな……」


 など、意気地もなくうだうだと言い連ねる私に、学校説明会などで一緒にきてくれたこともあり、この辺りの地理を把握しているという千秋ちゃんにこの手法まで教わったのだ。

 私は地図とか覚えるの苦手だから、一回来ただけでこんなことまで思いついてしまう千秋ちゃんは本当にすごいと思う。

 正直ちょっと怖い。怒るだろうし、私のためにやってくれたのだから絶対に本人には言わないけど。


 小道と通学路の間にある電柱にひっそりと息を潜めながら、千秋ちゃんとの会話を思い出してはほっこりする。そんな風にでもしていないと、この後待ち受けるであろう彼との対峙の事ばかり考えてしまうのだ。


 いくら柱の影に隠れているとは言え、朝練のためなのか、ジャージ姿で通り過ぎる先輩と思しき人達の目に入り、ギョッとした顔をされたりもした。

 私が逆の立場でもびっくりしたと思う。朝からごめんなさい。


 手鏡でちょいちょいと前髪を直してみたり、やたらと乾燥している気がして、リップクリームを塗り直してみたり、もう一回手鏡で直してみたり、さっきと同じように何人かの生徒を驚かせてしまったりしているうちに、目当ての人物が歩いてくるのが目に入った。


 途端、全身が強張る。体中が暑いのか、それとも寒いのか、わからなくなる。


 そうして少しも体を動かせず、でも心は大慌てであたふたとしていると、もう目の前にまで八色くん、じゃなかった。あの男が迫ってきていた。


 一瞬のうちにあれやこれやと逡巡し、でも、昨日から感じていたモヤモヤを晴らしたい。その一心で腕を掴んで、えいやっと引き釣り込んだ。




 ……こ、転ばせてしまった!!!!!!!




 ど、どうしよう……怪我とかしてないよね?

 いや、あれだけの事をしておきながら、今まで一度も私から仕返しをされたことがないんだからこれくらい大丈夫!……な、筈!

 ていうか、久しぶりに腕に触ったけど、なんかあの頃より硬くなってた。

 や、ヤバイ。声かけたいけど、これ以上触るとか無理だし。というか緊張しちゃって身体動かないよ……!


 尻餅をつく形で転ばせてしまった彼を前に、いろいろなことが頭を駆け巡る。

 というか、今私どんな顔してる!?顔赤くなってないよね?大丈夫だよね!?

なんだか目も回ってきたし、脳が破裂するかもしれない。

 

 助けて!千秋ちゃん……!


 と、とりあえず。転ばせちゃったのは私だし……なんだかムカムカするけど、一応手とか、貸したほうがいいのかな?

 そんな事を考えて、彼の前に行こうとするも、思いとは裏腹に上手く身体が動かせず、つんのめってしまい、結果。


 

 −−−尻餅をつかせた彼の前に、仁王立ちしていた。




 な、な、な、なんでっっ!?




 パニックであった。




 すると、目の前に私が立ったことが分かったのか、彼は眉根を寄せて、訝しむように私を見上げ、立ち上がった。


 自然、見下ろす様に下がっていた視線が、見上げる様に上がった。



 時が止まった様な錯覚を覚えた。









 −−−あぁ…………八色くんだ……………。







 久しぶりに間近で見る彼は−−



 記憶の中の彼よりも、背と髪が少し伸びていて。


 記憶の中の彼とは違って、厳しい視線を私に向けていて。


 記憶の中のどの彼よりも、遠くにいるように感じてしまった。



 

 こんなに厳しい目を向けられているのに、それでも見惚れてしまったことが悔しくて。

 本当は言いたいこと。言ってやりたいことがたくさんある筈なのに、そのどれもがうまく出てこなくて。

 昔みたいに、私が困っているのを見るといつも話しかけてくれたみたいに、今も彼から話しかけてくれる事を望んでいる自分が居て、それが酷く切なくて。

 今も昔も、勝手に期待して、勝手に落ち込む自分が、嫌になった。

 こんなに嫌っているはずの彼に、私は一体何を求めたいのだろう。

 もう何かを望める権利は私にはないって、散々泣いて、分かっていたのに。



 そんな自分の考えが浮かぶたびに、彼の射すくめるかの様な視線が、私の考えを肯定しているように思えて。

 その目から、逃げるように視線を外した。



 彼も、私が視線を外して安堵したのか、ため息をついて、お尻についた埃を払った。

 

 このまま何も話さなければ、彼がどこかに行ってしまう様な、そんな気がして。


 私は口を開いたのだった。



 「全然関係ないんだけど。あんたなんで名字変わってんの?あと、絶対に学校で私に話しかけないでよね」




 ち  が  う  !



 違う違う違う違う!こうじゃない!いやいや、聞きたいことはあってるんだけどこうじゃない!!

 これじゃ私がけんか売ってるみたいじゃない!うわーーん!

 千秋ちゃんに名字が変わった理由を聞けばいいって!それだけでいいよって言われてたのに!

 昨日から散々緊張させられたから、そりゃあちょっとムカムカしてたけど!!

 でもここまでキツく言ってやろうなんて思ってないし!

 ていうか、そんな目で見られたら普通に怖いし……!

 ああでも今更変に優しく話しかけるのも、なんか未練があるみたいに勘違いされたら嫌だし!!

 ていうか色々考えてるけどもう口に出して言っちゃったしーーー!!



 そんな風に完全にパニックに陥っている私をまっすぐに見つめると、彼は−−

 『見覚えのある顔』で告げたのだ。



 「それこそ関係のない君に話す義理がない。それと君から話しかけて来なければ、卒業まで君と僕が話すことはまず無かったよ」




 一気に、冷静になった。

 自分でも驚くほど、心が凪いだ。

 慌てている場合じゃないぞ。って、優しく諭す様に、心が凪いだのだ。

 私のトゲのある言葉に対する彼の皮肉めいた言葉は、けれど一寸たりとて私の心を動かさなかった。


 だって、私は知っているのだ。

 違う。正確に言うと、私は知っていたのだ。


 今の彼の顔と、あの日私に別れを告げた彼の顔は、声は。

 まるっきり、同じだったのだから。



 今のままじゃ、まだダメだ。

 何がどうダメなのか、正確な答えを導き出すまでには至らなかった私だけど。

 それでも今のままじゃ、『ダメだ』っていう私の考えは絶対に間違っていない気がした。


 そんな意味も理屈もわからない漠然とした根拠を抱いた私は、ここで話し続ける事を切り上げたのだ。



 未だ私を見つめる彼に簡単に別れを告げ、小道と通学路の曲がり角へと身を戻す。


 

 ……そう言えば、尻餅つかせちゃった事、謝ってなかったな。


 そんな思いが不意に頭をよぎり、たった今出てきたばかりの小道へ戻ろうとすると、声が聞こえた。

 



「……なんなんだよ、いったい」



 あ……怒っている。


 いきなり暴力振るったみたいになっちゃったんだし、無理もないか……

 でも、悪いことは悪いことだし、ちゃんと謝っておかないと。



 男の人を怒らせてしまったという事実に少し恐怖を感じながらも、身を隠している曲がり角から小道へ踏み出そうとした瞬間。







 「……勉強、頑張ったんだね。水原」







 −−−もう、だめだった。



 謝らなきゃっていう思いも。


 直前まで纏まりかけていた頭の中の考えも。


 怒らせてしまったという恐怖も。


 

 記憶の中の彼と同じ、優しい声によって紡がれたそのたった一言が、その全部を消し飛ばしてしまっていた。



 



 ずるい。



 ずるい。ずるい。



 ずるい。ずるい。ずるい。ずるい。



 



 …………嬉しい。






 それは、私がずっと欲しかった言葉だった。

 

 今、彼の前に出ていくのは私には無理だ。


 だって今、絶対ひどい顔してる。


 だから、謝るのは、また今度。


 曲がり角の向こう側から、彼が荷物を拾う音が聞こえて、慌ててその場を離れた。




 通学路を歩いている生徒達を追い抜くたびに、ギョッとした顔で見られたけど、そんなことは少しも気になりはしなかった。






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