第二話 それが再びわかった日

 昔から、嘘を見抜くのが得意だった。


 元々引っ込み思案な正確だった私は、物心ついた頃には、人の顔色や仕草を見るのが、息を吸って、ご飯を食べて、夜になったら眠る。それと同じくらい当たり前の事になっていた。

 それがたとえ、血の繋がった家族に対しても、である。

 

 そんなことを、当たり前の様に行っていた。

 

 何で人がついた嘘がわかるのかなんて、自分にもよく分かっていなかったし、そんなことを人に話すのはおかしいことだと、幼いながらに感覚として理解していたのだと思う。 


 だからこのことは、家族を含め誰にも話したことはなかった。


 自分以外の人間も皆、私と同じ様に人の嘘が見抜けるのかと思った私は、ある日、母親に小さな嘘をついてみた。人生で初めてつく嘘。


 それはとても些細な嘘だったけれど、しかし母親には僅かな逡巡を与えただけで、実にあっさりと見抜かれた。


 今にして思えば、人生で初めて意識してついた子供の嘘なんて、親からしたらわからない筈もなかったのだと思うのだけど。母は偉大、である。


 それでも、当時の私は少なからず救われた気になったのだ。


 −−−ああ、おかしいのは私だけじゃなかったんだ。って。


 そうした思いが裏切られるのは、案外すぐにやってきた。


 両親が共働きだった我が家で私は、幼稚園ではなく、保育園に預けられた。


 嘘をついても、すぐに皆にバレてしまう。

 そうした思いを強く持っていた私は、どうせバレて怒られてしまうのなら、ガッカリさせてしまうのなら、嘘なんていうその場しのぎにもならないものは辞めて、正直に何でも話そうと思い、生活していた。

 

 しかし、保育園での生活は嘘に塗れていた。お昼寝の時間に狸寝入りをする同級生。おねしょをしてしまったのに、していないと言う同級生。


 子供の面倒を見る保育士さんならそんなことはきっと日常茶飯事で、むしろ小さな子供のつく可愛い嘘。

 そんな認識だったのだろうなと、後になってから気づくのだけど、だとしても当時の私にそれらが与えた衝撃は大層大きかった。

 

 人は嘘をつく生き物。


 どこで差が出るのかはわからないけど、嘘を見抜けない人もいるし、見抜ける人もいる。

 嘘を見抜いた上で、その嘘に騙されてあげる人もいる。


 きっと普通の人であれば成長するに連れ、いちいち頭で考えずとも感覚として理解し、それらをそっと自分の糧にしていく。

 その工程を、私は言いようのない恐怖と共に、意識して行ったのだ。


 まだ精神的に発育する前の、保育園児という段階でそれを学べたことは私の心を守る上できっと正しかったのだと思う。

 保育園を卒業し、小学校に上がり、卒業し、中学校に上がる。

 

 普通に学校に通える程度には恵まれた家庭で育った私は、周りの人たちと同じ様にその階段を登った。



 私にとって、学生生活はストレスそのものだった。

 園児の時に気持ちの整理を付けられた事が大きいのだと思うけど、小さな頃よりも、人の嘘に対して思うところが少なくなった私ではあるが、それでも身体の発育と共に大きく育っていく自意識。その塊である思春期の学校は、それはそれはもう夥しい数の嘘で溢れていた。


 そういった身体面、精神面での発育は、例に漏れず私にも訪れており、些細なことで頭に血が上り、ぞんざいな態度を両親に向けてしまうことも多々あった。


 そんな風に、学校でのストレスと、自分の中に出来上がっていく自意識との板挟みに遭って、疲弊した私はとうとう一年を乗り切った中学一年の春休みに、高熱を出して倒れたのだ。

 


 −−−もう、疲れたな。



 そんな事を思いながら深い睡眠を繰り返し、熱が引いた時には、幼い時からずっと私の中にあった、人の嘘が見抜ける。なんて言う特異な代物はさっぱりとなくなっていた。

 何でかはわからないけど、目が覚めたときにそれをはっきりと感じたのだ。


 自分には特別な能力がある。なんて、俗に言う中二病めいたものをずっと抱えていた私は、図らずも中学二年に上がると同時に、普通の女の子になった。




 嘘が見抜けなくなったからと言って、じゃあ何もかもに騙されるのかといえばそんな事もなく、これまでの人生で培ってきた人の顔色を伺う、挙動を測る。そういった私に染み付いた癖と、見抜けなくなるまでに重ねてきた、人が嘘をついている時の動作。

 そんな経験値によって、周りの人たちと軋轢を生む事なく平穏に過ごすことができる様になっていた。


 それに、大なり小なり、女の子というのは人の顔色を伺う術を、時には嘘を利用して、中学校という、ある種閉鎖した空間を渡り歩くために、当たり前の様にそれらを身につけるものなのだと、周りの女の子たちを見て学んでいたのもある。


 まあ、当時の私は地味な容姿もあってか、数人の友達を除いては特に親しくする人もいなかったので、ある意味ではこれまでと同じ生活を送っていたのだけど。

 いつも周りにビクビクと怯えた私が、中学二年に上がったと同時に中二病めいた自意識(散々語っておいて何だけど、人の嘘が見抜ける!なんて言うのは乙女にとっては黒歴史以外の何者でもない)を取り除かれた私が、恋をするなんて露ほどにも思っていなかった。






 そう、私は中学二年の春に、初恋に堕ちたのだ。






※※※




 高校の入学式当日、校内の下駄箱へと続くロータリーの真ん中に張り出されている紙を、私は眺めていた。クラスの振り分け表である。


 中学時代にとある理由があり、それはもう鬼の様に受験勉強に取り組んだ私は(母には大変サポートしてもらったし、心配を掛けた。)県内有数のこの進学校において主席で入学することとなっていた。


 主席での入学にあたり、事前に新入生代表としての挨拶などを学校側から頼まれていた私は、わざわざ入学式当日にこの紙を見なくても自分が振り分けられているクラスなんてとうに把握していたのだけど、そんな私がじゃあなぜここに立っているのかといえば。


 まあつまり、私の目当ての名前は私の名前では無かった。

 

 自分でもどうしてその名前を探しているのか、いまいちはっきりとしなかったのだけど、それでも何故か、半ば無意識にその名前を探してしまっていた。




 −−−八色悠。




 中学時代の私の元カレであり……。


 初めて好きになった人であり……。


 初めて嫌いになった人である……。




 彼と別れたのは受験を控えた中学3年の11月であり、夏頃に彼と交わした会話では、私と彼はこの学校とは別の学校に進学する予定を立てていた。


 今にして思うと甘酸っぱくも苦々しい記憶ではあるのだけど。


 「一緒の学校に行こうね」なんて、そんな直接的な言葉は無かったにも関わらず、彼と私は同じ学校を目指している。

そんな、通じ合っている感じがあの頃の私にはたまらなく嬉しかったのだ。

 

 まあそれも、彼の心変わりによって、彼の言葉によって、それに何より、私の意志の弱さによって、あっけなく崩れてしまったのだけど。



 「お前も1組なの?俺もなんだよね、よろしく!」


 「おう!よろしくなー」


 「っ………!」


 いつの間にか隣にやってきていた新入生と思われる男子の会話によって意識を戻す。

 いつまでもクラス表の前に陣取っているわけにはいかないよね。


 そもそも、あいつがこの学校にいる訳がないし、居たところで今更あんな奴と話すことなんか何もないし……。


 ただまあ……あいつが居ると色々不都合とか?出てくるかもしれないし?確認は大事っていつも言ってたし。


 そんな誰に対してなのか分からない言い訳をつらつらと並べながら、クラス表を順に見ていく。


 ……良かった、同じクラスにはいない、か。

 

 何がどう良かったのかも分からないけど。

 私のクラスである1年9組を見てから、他のクラスへと目を移していく。

 何度も目にしてきた名字だし、それなりに珍しい名字だからあればすぐにわかる。

 自分でも気付かないうちに、クラス表を確認する目の速度は上がっていた。


 一クラス毎に、彼の名前がない事に安堵と、よく分からない感情が胸を過ぎ、その感情の不快さに目を向けようとした時に、それはあった。






 1年3組 38番 八色奏






 「………うん、良かった」




 居なくて、良かった。



 人違いで、良かった。



 それ以上、彼ではない人の、でも、彼と同じ名字を見るのがなぜか嫌で。


 あんなに嫌いなのに、そんな事を少しでも思ってしまった自分がすごく嫌で。


 私はそっと、だんだんと新入生で溢れつつあるクラス表の前から離れた。



 その日は桜が散る頃にしては珍しく、風も凪いでいた。でもなんでかな。

 ひゅうっとした冷たい風が、私の心を撫でていった様に思った。






※※※




 彼−−−八色悠が、この学校には進学していない。


 そんな当たり前の事実を再確認した私は、よし!これでもうあの男の顔を見なくて済む。


 あー、せいせいした!


 ……なんて事を思っていた時期が私にもありました。


 と言うか割とその時期は短かった。




 クラス表での確認を終え、入学式に望んでいた私は、新入生代表としての挨拶のために、登壇していた。



 いざこれから同じ学園で過ごす事になる、同級生たち、先輩たち、先生方、保護者の皆様に。

 そして何より、私をここまで支えてくれた両親のために。


 用意した代表としてのスピーチ用紙を開くその瞬間。



 見てしまったのだ。



 なんでこのタイミングで、とか。


 そもそもなんで居るのよ!とか。


 ただの見間違えで、人違いじゃないの?とか。



 一瞬の間に私に駆け回った感情はとても一口には語れなくて、でも、挨拶をするためにずっと黙っているわけにもいかなくて。


 ほんの一瞬の狼狽を周りの人たちに見せるわけにもいかず、私は挨拶を始める。



 途端に入学式の会場がより一層、静かになる。

 

 きっと今、私の挨拶に皆、耳を傾けてくれているのだろう。


 でもそんな事、私にはもう分からなくなっていた。


 嬉しいのか、悲しいのか。


 怒っているのか、落ち込んでいるのか。


 同級生の為、先輩の為、先生の為、お母さんお父さんの為。

 登壇するまで確かに私の胸の中にあったその思いは、しかしもう、どこをどう探しても、上手く見つけることができなかった。




 意識しない様にしても、嫌でも目が動いてしまう。



 自分の顔が赤くなっていないか不安で、持っている紙を無意識に顔の前に掲げてしまう。



 自分が今、どんな顔で、どんな声で話しているのか掴めなくなる。



 それでも私の声が届いているのか知りたくて、彼の方を見てしまう。





 クラス表には名前は無かった。



 確かに無かった。


 でも、そんなことよりも確かなことが目の前にあるのだ。


 記憶の中の彼よりもほんの少し凛々しく、でもちょっと眠いのか、少しぼうっとした顔で俯きがちに座っている。




 −−−八色悠が、そこにいた。




 見間違えることなんて、無かった。

 

 こんなに離れているのに、すぐにそこに居るって解った。


 あんなに好きだった人だ。見間違えるなんて無かった。


 あんなに嫌いになった人だ。見逃すはずが無かった。



 もう、会う事もないのだと言い聞かせていた。


 今朝だってそうだ。よく分からない言い訳を並べて、彼の名前を探してしまった。

 名前がない事を確認して、もう会わないで済むのだと、冷たくなった心で考えていた。


 それでもこうして会ってしまったのなら、どうすればいいのだろう。



 私は、どうしたいのだろう。


 私は、彼をどう思っているのだろう。


 私は、私をどう思っているのだろう。



 一瞬一瞬の内に、私の中を駆け回る感情ともいえない何か。

 それらを一つとして掴みきれないまま、私は入学式を終えるのだった。






 ……と言うか!なんで名前なかったのよ!!






※※※






 「水原、別れよう。もう君のことが好きじゃなくなった」




 下校時刻を間近に控えた、とある中学校の空き教室。


 私は目の前の彼の言葉に、唖然としていた。


 それは、彼の言った内容によってでもあるのだけれど。


 でも、それ以上の衝撃が私を襲っていた。






 だって−−−




 「−−−え?や、八色くん…嘘、嘘だよね……?」


 「僕が君に、嘘をついたことがあったか?」


 「……わかった」









 −−−その日初めて、彼は私に嘘をついた。










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