終章 カミサマの退屈(2)
「おはよう」
治安維持対策課の明るいオフィスに正義を体現した真っ白いコートがなびく。部下の仕事ぶりに目を光らせつつ、自身のデスクへと向かうトール。
カラフルポップでキュートなキャラクターでいっぱいの箱。
不意打ちを喰らった様に思考が停止する。常日頃から掃除を絶やさず、定位置を守り、提出する書類だとしても勝手に置く事を許さなかったデスクの上が、侵攻されているからだ。
「あーっ、ピリーウィギンじゃないですか。捜査官もこういうの買うんですね」
ヴァルキリーの黄色い声に、トールが我に返る。ピリーウィギンとは、ダグダをCEOとする食品会社ブルー・ナ・ボーニャ系列のドーナッツ専門店の名前だ。
「離れろ」
「そんな。自分へのご褒美なんて盗みませんよ。ただ、どんなのを買ったのかなって、ちょっと興味があるんですよ」
「離れろ」
厳然と手をかざし、ヴァルキリーに退避を促した。気落ちする声と一緒に離れたのを確認した後、ドーナッツの箱に手を伸ばす。
砂糖や乳製品等の甘い匂いからして、生物兵器の類である可能性は薄い。歯車や電子音は聞こえず、爆弾の可能性も低い。漂う自然の流れは青や黄色の雷属性ばかりで、異常は見られない。
現状、本物のドーナッツである可能性は八十八パーセントだ。
慎重に箱を開けてみる。
「ッ」
ケバケバしい赤、ドロドロした青、グチョグチョな緑。
普段から口にしていなくても分かる異常。食欲失せる毒々しさを極めたクリームと甘ったる過ぎる悪意が、本来の美味しそうなドーナッツを塗りたくっていた。
クリームで汚れたメモを見つける。
「お疲れ~、ヒーロー☆」
あの日、トールはロキの作戦に単身で協力した。犯罪者からの情報提供のみで大勢の部下を動かす訳にはいかなかった。
最初にマクスウェル家へと向かった理由は、夫妻が植物状態の為、情報が嘘だとしても万が一に備え、優先順位を高くした。案の定、張り込んでみれば、植物状態になっている夫妻を殺しに銃を携えて上がり込んできた輩がいたので全員逮捕。
話に信憑性を得たトールは、babironシュメール区画支店に向かった。地下三百メートルにあるギルガメッシュの神器保管庫でエンキドゥと交戦。下劣な手段で殺害された為、逮捕はできなかったが、その場でロキを倒し、グレイプニル・イプシロンで拘束。
三十階の製品試験場を一番最後にしたのは、本来助けるべき筈の真吹凛陽と時雨が、ビルに到着した時点でギルガメッシュによって既に殺害されてしまったと諦めていた。
トールが試験場に入ると、凛陽とギルガメッシュは交戦中だった。
率先して凛陽を無力化したのは、法を犯しただけの無意味な仇討ちの阻止だけではない。盟約により百人までの殺人ならば、神であるギルガメッシュは書類一枚の提出とメディアへの公表で済む。しかも、babiron関連施設の襲撃者を返り討ちにしたと言う、もっともな理由で殺されてしまう。だから、この場を警察として制圧するつもりだった。
だが、神としての力に覚醒した時雨に敗れてしまった。
トールは見逃さなかった。冷徹な仮面の下で、家族を助けたいと泣いている少女を。
ヴァルハラが信じるに値しない組織だから、躊躇無く斬られたのではないだろうか。時雨と凛陽は本来守るべき市民の筈。被害者にも関わらず、どこかで犯罪者だと見捨ててしまっていた。守るべきものを守らず、正義を声高にするだけの怠慢が招いた裁き。
警察が警察としての在り方を失っている以上、かつて戦士だった頃にまで立ち返り、決着をつける事を黙認した。これがトールにできる唯一の贖罪。刑事課同様、好き勝手にさせてもらったのだ。
発した電撃が、ドーナッツの箱ごと忌々しいもの全てを消し炭に変える。
ただ動かなかったにも関わらずトールは、神々に反旗を翻そうとしたギルガメッシュを、後一歩のところで逃がしたものの、集めていた神器や武器、麻薬や禁制品の押収。裏で組織していたギャングの壊滅。その他の不正を白日の下に晒した。
作られた英雄になってしまった。
「なんてことをしてんですか。食べ物を粗末にするなんて、いくら捜査官でも最低です。いらないんだったら、せめて私に下さいよ」
咎めるヴァルキリーだが、おもいっきり本音が漏れている。
警察機構ヴァルハラはbabironとの癒着を揉み消した。主導した刑事課の責任を持ち出したが、盟約で守られた神を摘発する為に接近し、証拠を積み重ねていく捜査の手法だと主張。オーディン警視総監も、少し考え込んでから問題無いと流してしまった。
「愚か者!! あれはテロリストの置き土産だ。食ったら死ぬぞ」
緩んだ態度に喝を叩き込んだ。
今も横行しているかもしれない警察内部の不正、演じなければならないピエロ、行方不明のギルガメッシュ。どれも腹立たしいが、一番釈然としないのは。
「気を抜くな。今この瞬間も、テロリストがヴァルハラを我が物顔で歩いていると知れ」
仕事をしている部下にも聞こえる様に怒鳴ったトール。
「すいませんでした」
「分かったら、仕事に戻れ」
ヴァルキリーは委縮した様子で頭を下げてから、デスクへと戻っていった。
これでオフィスへの侵入を許したのは三度目。いい加減、誰か気付いてくれないものだろうか。
正義を為し遂げる為とは言え、昔と同様ロキの思惑通りに動いてしまった。
人間や怪物、神だろうと弄び、世界を滅ぼした危険な存在を野放しにしてしまった。
皮肉にもロキがいなければ、トールはデスクで燻っていたままだろう。正義を為し遂げる事ができたのは、偶然、悪辣な存在と利害が一致していただけにすぎない。だから、腹が立つ。
ヴァルハラは引き続きロキの捜査をしながら、噂を武器にされるのを防ぐ為、存在を隠蔽工作している。内部にも箝口令が敷かれているので、今は気を引き締めろとしか促せない。
例え、ヴァルハラの襟を正しても、膨大な事件を全て解決しても、ロキが野放しな限り、魂を封印するその日まで。トールの心が安らぎを得ることはない。
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