第四章 最後に笑うのは(2)
昨日、治安維持対策課には、babiron関連施設やオーガのランギのアジト襲撃等の連絡は来ず、別の事件の対応をしていた。
朝の会議で刑事課から、babironの社用車が一台、商品として扱っているヘリコプターが一機、盗難に遭った。ヘリは墜落された状態で発見され、社用車は依然調査中だ。関連して交通課からは、バビロニアシティで五件の物損事故の報告が挙がった。
会議を終えて、今朝の報告と追っている襲撃事件との関連性を考えている内に、気が付いたらトールは自身のデスクの前に着いていた。
「ンッ?」
理知的な冷たい眼鏡の奥から、鋭い眼光を放つ。
荒らされている。一つ目の根拠は、デスクとチェアとの間に隙間が生じているからだ。退席する際は、シートが天板の下に隠れるよう、きちんと収めているにも関わらず。
二つ目は、引き出しが、ほんの数ミリ単位だが斜めに出っ張っている。開けた際は、水平になるよう閉めていたし、今日は開けていない。以上の二点から、そう結論付けたのだ。
トールは常日頃から掃除を怠らず、使った物は必ず定位置に戻す事を心がけている。離席中は戻るまでの間、部下を自身のデスクに近づけさせない程の几帳面だ。だから、些細な変化も見逃さない。
跪いて、引き出しに耳を近づける。真っ白なスラックスが汚れる事よりも、爆弾等の危険物が中に仕掛けられている可能性を考慮しての判断。
業務に関する通話、キーボードを叩く、ペンを動かす音等、どれも普段聞くものばかり。臭いも確かめたが、危険と判断できる異臭は一切せず。目を凝らしても、不自然な点は視えてこない。
慎重に引き出しを開ける。
出てきたのは、綺麗に整理整頓した資料。だが、その中に、しわくちゃでヨレヨレのメモ用紙が一枚。トールの目を引いた。
「親愛なる透ちゃんへ。お前にぜひとも話しておきたいことがある。白黒つける戦利品の山で待つ。一人で来い。お前のたった一人の親友ロキより。PS俺が恐いからって、誰かとおててつなぐとか、別の奴をよこしてみろ。オモチャを全部壊しちゃうぞ」
眉間にしわを寄せ、忌々しそうに低く唸る。手に取ったメモ用紙は立派な証拠。衝動的に電流で炭化させたり、握り潰したりしないよう、腕を振るわせながらポケットに突っ込んだ。
自動ドアが開くと、真っ白なコートを羽織ったトールが中へ。
警察機構ヴァルハラ証拠品保管庫。犯罪の証拠として押収した物品を厳重に保管しておく為の場所。
入ってすぐ、無機質で巨大な壁がそびえ立つ。表面には、小さくて頑丈そうな保管庫が格子状に広がっており、その数は千や二千を軽く超す量。
本来静まり返った筈の空間に、あちこちから針を鳴らす音が聞こえてくる。
「なっ」
驚愕し、青ざめたトール。
証拠品の盗難を防ぎ、持ち出した者を管理記録する為、扉のそれぞれに設置したカードリーダー式の錠。その上を被さる様に、時計と剥き出しの配線が目を引く、手作りだろう怪しい装置が。保管庫の全てでは無いが、あちこちに取り付けられているからだ。
「よぉ」
ロキの大声がノイズ混じりで反響してきた。
直後、トールの背後で小さな爆発。出入り口を制御するカードリーダーが突然の電子的な負荷により壊れてしまった。これにより、自動ドアは機能しなくなってしまう。
「ロキ!!」
吼えたトール。既にミョルニルを携えて臨戦態勢。
「よぉ、ノックも無しに入ってくるたぁ、ずいぶん失礼だな。カワイイ女の子が着替えていたらどうすんだ? まさか、そのまま襲うんじゃないだろうな。ハハハハハハハハハハ」
忌々しい嘲りを、トールは猛る怒りを声にしてかき消す。
「貴様、こんな無駄話の為に呼び出したのか。ならば、今すぐ見つけ出して、二度とその無駄口を叩けないようにするぞ」
巨大な保管庫の両端には吹き抜けた通路がある。通っていくと、一定間隔で巨壁がそびえ立ち、大規模な建物の果てまで続く。それでもヴァルハラには、今の数でも足りないくらいで、いかに膨大な事件を扱っているかが分かる。
「透ちゃん。かくれんぼマスターである俺をひがんで、シリンダーカバーに手を出すなよ。もし、なにかあったら全部がボーン。ボーンだ。箱は無事でも、フタを開けられなきゃ、ドラマの撮影に支障が出るんじゃないかい?」
声はすれども肝心のロキは見つからず、カードリーダーに貼り付けられた怪しい装置ばかり。
仮に、ここを消し飛ばそうとする程の爆発が起きても、オルハリコン製の保管庫は原形を保つだろう。それと比べれば、錠そのものは脆いもの。壊れてしまったら、大切な証拠品を無事に取り出すのは困難を極める。
「そんな脅しに私が屈すると思っているのか」
「透ちゃん。俺は水入らずで話がしたいだけだ。肉体言語じゃプロトコルが違い過ぎるからなぁ。同じテーブルに着く為の手段にすぎない。昔みたいに仲良くやろうぜ」
怒りを抑え切れなくなってきたのか、トールの体から電光を発す。
「なぁ、ギルガメッシュって奴を知ってるか?」
「貴様が襲っている会社babiron。その通販事業部を担当する執行役員の名だ」
「ご名答。そいつが、俺の友達のマクスウェル家をいじめてんのさ~。不憫な話しだぜ。父ちゃん、母ちゃんは寝たきりだってのに、息子はインターンって名目で監禁生活。娘は娘で専属料理人って名目でVIP監禁生活。今じゃ会社が家だぜ。会社員より社畜じゃねぇか」
長い話しに眉をひそめながら、トールは保管庫の一角に張り付き、向こう側の様子を窺う。
「初めて聞く話しだな」
保管庫の遥か上部に人影、ロキだ。構造上できる僅かな溝をつかみ、落下しないよう握力だけで体を支えている。人間には至難な業だが、神の身体能力なら容易にできる芸当。
「そうか? 伏線なら張ったぜ。ちょいと前に、ヴァルハラのネットワークを見させてもらったんだが」
一度だけ、ヴァルハラにロキの存在を感知していた。だが、追求しなかった。そんな後悔にもトールの狙いはブレず、唸り声を上げながら、得物であるミョルニルを投げる。
雷撃を纏い、目にも留まらぬ速さで飛んでいく。攻撃の軌道はカードリーダーに当たらないよう調整済み。そして、ロキに避けさせる間も与えず命中。耐えきれずに一瞬で破裂する。
差し違えるかのように、カッターの刃がトールに命中。布一枚も切れていない。
「バーン。俺の心臓が破裂したかと思ってヒヤヒヤしたぜ。まったく、そんな荒々しい攻撃じゃ、オモチャが全部台無しになっちまうぞ」
計ったかのように聞こえてきたロキの声。
破裂したのは人型をした風船。トールがロキだと思い込んでいたから、そう見えた。飛んできたカッターの刃は、予め仕込んでおいたもの。そして、両方とも魔法道具だ。
「余計なお世話だ。私の心配よりも、貴様自身の心配をしていろ」
さっきのは偽物のロキだったが、本物が隠れているだろうと踏んで、そびえ立つ保管庫と保管庫の間を突き進んでいくトール。
「信じてくれよ。なら、これは知っているか。ギルガメッシュは役員よりも、武器をしこたま集めて、悪そうな奴を集めてギャングを率いてんだぜ。代理のボスの名は、オーガのランギことエンキドゥ。目的は俺達神々をブッ殺すこと、らしいぜぇ~。オーっ怖ッ」
コケにされ、ふざけた話しっぷりにイラつき、荒々しい歩調になる。それでも、ある程度歩を進めたら止まり、上下左右を確認してロキを探索するくらいは慎重だ。
「荒唐無稽な話だ。貴様の方こそ、babironに勤める多くの人間を殺し、施設を壊しまわり、世界中の利用者が迷惑を被っているんだぞ。自覚しろ、社会のゴミめ!!」
電光を発しながら、ミョルニルを強く振り、床を踏んで、抑えきれない怒声を上げる。その様子は苦虫を噛み潰したようだ。
ロキの探索を再開。
「知ってんだぜ」
挑発的な言葉。ほんの微かな殺気に振り返ったら、トールの腹部にロキのパンチが命中。
「ヴァルハラがbabironと裏で武器を取り引きしてんのをよぉ。俺、見ちまったよ。隠し部屋にお前ら宛ての拳銃、魔法道具をなぁ。こんなの、JKでも知ってる常識だぜ」
ワイヤレスヘッドセットを付けて、得意気に話しながらロキによる連続パンチ。その後ろには、無機質な背景と同化できる布が。
トールにとって、ロキのパンチなぞさほど大した事ない。それよりも。
「デタラメを言うなッ」
ミョルニルによる反撃。ロキは欲張らずに跳び退いて回避。トールは追いかけようと踏み込んだ。
「残念」
不敵な笑み、トールの眼前にハートの香水瓶。強酸を噴射。
トールが叫びを上げる。眼鏡は無事でも、飛び散った液で目が溶けてしまった。ロキ、お決まりの手だが、攻撃に転じた瞬間を効果的に狙われ、引っかかってしまう。
調子に乗ったパンチが飛んでくる。トールは焼ける苦痛に喘ぎながら、全身に雷を纏って防御。
「あ~あ。悲しいけどこれ、事実なのよね~」
陽気にロキは踊っている。既に退避していた。
「私も、ききたいことがある」
「なんだい、俺の引きこもり生活の話しでも聞きたいのかい? あれは退屈だったなぁ」
「貴様は女子高生まで使って、何故babironを襲う」
目が再生し、闇へと逃げるロキへの追跡を再開。それを阻むように、風の刃が体中を切り裂こうとする。
「使われてんだよ、俺ぇ。あの娘にゃあ家族がいたんだが、ギルガメッシュに家族を殺されたんだよ。しかも、お姉ちゃんは連れさらわれちまったときた。悲劇だねぇ~」
「貴様がやったんだろ」
力強い怒気と共にミョルニルを投げつける。
勢いよく直線的に飛んでいくミョルニルが、空中で停止。今度はトールの方へと、山なりになって飛んでいく。
「俺は無実だよ」
トールの頭上をロキが全体重で踏み付ける。
直後、主の意趣返しをしてくるミョルニルを、ロキは回転しながら跳んで距離を取り。ハイな笑い声を上げて、腕を振り全力で逃走。
倒れていたトール。ミョルニルに軽く叩かれ、すぐに起き上がる。
「逃がさん」
トールが床を蹴ると同時に飛び出し、雷光の如き速さでロキとの距離を詰めていく。
後少しで後頭部にミョルニルを叩き込める。
革靴が弾力のある異物を踏んだ。標的にばかり気を取られて、足下がおろそかになっていたのだ。
「グゥォッ」
真っ白いコートにスーツ一式が黄色いベトベトした液状に塗れる。
「どう言う事だ」
生理的嫌悪を覚える粘っこさが体に絡み付く。抜け出そうと電光を轟かせ、何者をも打ち負かす怪力を発揮するも、電気を吸収しているのか拘束は強くなってしまう。
動けないところに針が飛んできて首元に刺さる。傷口に紫色の液体が流れ込むと、麻痺を覚え、力を発揮できなくなる。
「貴様ァッ」
「なるほど、神でもフグは当たる、と」
殺気立つ咆哮を、ロキは遠目で聞きながら吹き矢をしまう。
「さっきの続きだが、俺はやってない。むしろ、命を助けたし、手袋も用意したんだ。誓っておくが、レーティングにも引っかからない健全で退屈な生活だ。我ながら、警察よりもイイ仕事してるぜぇ」
ヴァルハラへの侮辱に腹を立てる。だが、拘束を引きちぎる程の力を取り戻していない。
「家族を殺して姉妹を連れ去った挙句、洗脳までしたんだな。ロキ」
口をあんぐり、頬に手を当て、信じられないとアピールするロキ。
「ちょ、待てよ。ハイライトならあったじゃん。頭にアンテナは付いてないし、薬臭く無いだろ。だいたい俺のせいにしたいからって、テキトーな捜査をすんじゃねぇよ。透ちゃん」
ロキが大袈裟に驚きながら物言いに入る。
逆鱗に触れられた、いや胸の内に落雷。かつての仲間だった者に指摘され、加速度的に増していく怒り。電流が体中を駆け巡り、ヴァルハラに弓を引いた裏切り者を倒せと、再び無双の力を発揮させる。
「黙れ!!」
轟雷と呼べる激怒が保管庫中を震わした。
黄色くベッタリした拘束を引きちぎり、猛る雷光と共にトールが走り出す。
「ぃヒぇぇぇッ」
それを見たロキは、恐れおののいた様子で通路へ逃げようとする。
まきびしが走っている先に撒かれている事を認識。逃げているのは踏ませるための芝居にすぎない。先ほどと同じ戦術だ。怒りはしているが、今のトールは冷静な方でもある。
圧倒的な跳躍力でまきびしを飛び越えると、ロキが罠に引っかからなかった事に気づき、振り返る。
不敵に弓を引きしぼり、飛びかかってくるトールに狙いを。
「俺、ケイロンから弓矢を習ったんだぜ」
至近距離から放たれた矢、トールが空中で身を翻して避け。剛腕を振るい、ロキを頭部からミョルニルで殴り倒す。
「だぁぁぁぁぁぁぁ」
戦車で殴られた激痛にロキの情けない呻き声。馬乗りになったトールが、トドメを刺そうとミョルニルを振り上げ、稲妻を溜め込んでいく。
「私が貴様を封印する!!」
響き渡る怒号と雷鳴。鮮烈な光りを放つ雷激と化したミョルニルを以って、まだニヤける面を終わらせようとした瞬間。
ロキの体から勢いよく煙幕が噴き出し、トールの意表を突く。
白んだ視界。躊躇したトールは背中を蹴られ、溜め込んだ力を消失。全身に電流を纏い殴ろうとすれば、頬を拳で強烈に殴られてしまう。ロキよりも一手遅れるから、煙を切り裂く跳ね起き蹴りが腹部に強襲してきた。
すぐ態勢を立て直し、突き当りに出て周囲を確認。
トールが見た方向の反対側から、風きり音。振り返ると、矢が飛んできて肩に刺さってしまう。
「ガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ」
断末魔。膨大な禍々しい力が真っ白いトールを毒々しい緑に染め上げ、いかなる攻撃にも耐える堅牢な肉体が痺れる責め苦に苛まれる。
「ハハハハハハハハハハ。これで俺も、ロビンの仲間入りだな」
ロキが動けないトールを覗きこんでから、ちょんと触れる。強烈な電流を浴びたみたいだ。ほんの一瞬でも長く触っていたら、仲良く一緒に動けなくなってしまうほどの強烈な魔法。
「なぁ、自分の頭で物を考えずに、命令通りに動くだけなら、捜査官って言うより暴力装置じゃねぇのか? 前に法と理性がほにゃららだったか。笑わせてくれるぜ。家族を皆殺しにするくらいは、成分が足りてないんだからよぉ。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
黒い笑みを浮かべ、調子づいてしゃべるロキを、トールが束縛してくる激痛を押して睨みつける。
「そうだ、ヴァルハラなんか辞めて、転職とかどうだ? 電気も滴るタフガイなんだから、ボディガードはどうだ? それとも、バカ力が使えるガテン系も悪くねぇよな? あっ、それこそ昔みたいに、また一緒に旅でもしようぜ。透ちゃんの退職金でな。イシシシシ」
相手は言いたい放題なのに、トールは魔法でしゃべる事すらままならず、悔しさを吼えるしかできない。
肩をすくめて同情してみせるロキ。
「そう怒んなって。今のお前、チョ~ツマンなそうだぜ。巨人をブッ殺して、俺と遊んでいた頃の方が輝いていたぞ。さっきのくり返しになるけどさ。ヴァルハラ辞めて、透ちゃんと俺の不死身のコンビで、自由に人助けでもしてみないか?」
ロキが茶化しながら決めつけ、ズカズカ内面へ入ろうとしてくる。
神をも封じ込める魔法が弱まっていく。また、トールの体もそれに順化していく。下らぬ戯言を一刻も早く消さねば、それが力となって湧き出してくる。
「下らん!!」
魔法を打ち破り、気迫に満ちたトールが笑えないロキを捕まえると、電撃を浴びせながら疾走。別の保管庫へと投げ飛ばした。
床に叩きつけられる直前、ロキはその勢いを利用して器用に体勢を立て直す。
「自由の結果が、世界の終りか」
瞬雷。ロキの懐に、激雷と化したトールの絶大なボディブローが炸裂した。
沈む寸前。もう一撃叩きこもうとすると、ロキの痩せたお腹がぷっくり出っ張っていく。着ているベストが膨張しているのだ。
「なっ?」
突拍子も無い事態。急速に気球となったベストが保管庫に迫り、行き場の無い空気が戸惑っているトールを押していく。飛行船と呼べるまでには、そう時間はかからず、ロキの姿を見失ってしまう。
破裂。
アルベルトが作っていた衝撃で膨らむベスト、その改良版で端の通路まで逃げたロキ。仕込んでおいた紙吹雪が舞う中、探しているトールに居場所を教えてやる為、ナイフを投げる。
「俺の頼みは簡単だ。透ちゃんに人助けを手伝ってもらいたい。ただそれだけだ」
「断る」
即行拒絶にロキは「ぇえーッ」とドン引いた。交渉の余地の無い相手に、これだけは使いたくなかったんだがと、胸ポケットに手を突っ込み。もったいぶった様子で、グリップ状のリモコンを掲げてみせる。
「ジャ~ン。こいつは、ガンコな透ちゃんを思い通りに操る、魔法のリモコンだ。俺が右っつったら右。左っつったら左。眼鏡をクイッつったら、クイッだぞ。もし、言う事を聞かなかったら、自爆ボタンをポチッ。オメデトウ。二階級特進だ」
ロキはしゃべりながら、いかにもな赤いボタンに親指をかけ、ブ~ン、ブ~ンと、リモコンを飛行機に見立てて遊んでいる。
ボタンを押される。止めさせようと、つい手を伸ばすトール。
「やめておけ。貴様もただでは済まんぞ」
動けなかった。ロキの手癖の悪さが、ずば抜けている事を知っているからだ。保管庫の真ん中から、相手のいる端まで距離があるのも災いしている。最高速で詰めても間に合わない。
「ハハハハハハハハ。じゃあ、俺の頼みを聞いてくれるって事でいいのかな。透ちゃん」
「断る。犯罪者とは取り引きしない」
「せめて、あらすじくらい聞いてみない? 表紙買いしろって言うよりは良心的だぜ」
「貴様の本なぞ読みたくもない」
「マジで、どうしてもダメ?」
「ダメだ」
しつこいからトールが首を振ってみせた。あまりに平行線だから、ロキは呆れた様子でため息をして、額に手まで当てた。
「じゃあ、聞き分けの悪い子には、おしおきでちゅね~」
リモコンを掲げたロキ。
「よせ」
親指が、プラスチック製のボタンを押し込んでいく。あと半押しのところで、足下の死角から、高速回転するミョルニルが燕みたいに急上昇して、リモコンを持つ腕をへし折った。
宙を舞うリモコン。不意打ちで骨折したにも関わらず、ロキが執念で前進。だが、それよりも早く、ミョルニルが電撃を放ち、交渉のカードを打ち砕いた。
「ノォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
悲鳴を上げて落胆するロキを尻目に、ミョルニルが持ち主であるトールの許へと戻る。
「大人しく投降しろ。その方が楽に封印されるぞ」
「うっせェ。二対一なんて卑怯だぞ。武器なんかに頼りやがってぇー」
トールが持つミョルニルを指さし。完全に拗ねている。
「貴様にだけは言われたくない」
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう」
冷然と言われてロキは地団太を踏んだ。
「だったら」
ヤケクソになって走り出したのか、あれだけ避けていた真正面からトールに戦いを挑む。
「愚か者め」
眼鏡をかけ直す余裕。応える様にトールも飛び出し、迅雷の速度で間合いを詰めていく。ロキがパンチを放ってくる。素人みたいな大振り、当たる義理もない。僅かに体を逸らせば、やり過ごせる攻撃だ。
「ん?」
拳に違和感。なにかを握り締めている。目を凝らしてみると、リモコンだ。トールはロキが万策尽きたと思って油断していた。押される前にミョルニルによる最速の突きを放つ。
手応えが軽い。姿が消えた。ロキが引きつけるだけ引きつけ、一気に跳び退いたからだ。
「バぁ~か。さっきのはフリだよ、フリ」
嘲笑、ボタンの即押し。その笑い顔は、殴り潰しても潰し足りないくらい憎ったらしい。間に合わなかったトールは来たる衝撃に備えて身構える。
パカッ。
予めロキが天井に同化させておいた、仕掛け箱のフタが一斉に開いていく。
ゴロゴロゴロゴロ。
保管庫中で鳴る時計の針に転がる音が混じる。傾斜になったフタから、黒いラメ入りのボールが大きな雨粒となって降り注ぎ、床にぶつかった瞬間破裂。辺りに黒い液体が飛び散り、どぎつい臭いが鼻を突く。
「重油か」
真っ白い格好が黒で汚れていく。トールは服の事など一切気にも留めず、ただ不愉快そうにロキをじっと睨む。
「ハハハハ。オリンポスエナジーのおかげで、プラスチックより安いからなぁ。有効活用させてもらったぜ」
油に塗れているのに、ロキは楽しくてしょうがないのか、イキイキと踊っている。
「俺はオーブンのスイッチを持っている。床には、たぁっぷりのブルーベリージャム。いつでも、トーストが食べられますぜ。透ちゃん」
ロキは勝った気になり笑っている。確かに、電撃を放てば引火し、保管庫を大爆発させてしまう恐れがある。なら、ミョルニルを手早く投げるしかない。
トールが腕を動かすと、黒いボールに紛れて深緑のボールが降ってきた。床にぶつかっても破裂せずにはね返り、得物を握る手を強打する。
「ンッ」
気付けば、黒い雨は止み、ロキの姿を見失ってしまう。代わりに周囲を無数のボールが床や天井、保管庫にぶつかっては、跳ね回って狂喜乱舞。
「ヘェイッ」
威勢のいいパンチがトールの頬に命中。ロキだ。不規則に飛んでいるボールと一緒になって縦横無尽に動き回っているのだ。今度は後頭部を膝蹴りが強襲。あまりの勢いに倒れてしまいそうになるが、どうにか踏ん張り、笑いながら逃げていく奴にミョルニルを放つ。
高速で回転しながら追いかけていく。分かっているのか、引きつけるようにしてロキが保管庫を蹴って跳躍。
ミョルニルが追跡を続行する。トールは気付いた。このままの勢いで、回転する鎚と金属でできた表面が擦れ合えば、そこから火花が生じてしまう可能性が高い。
「止まれ」
命令に従い制止するミョルニル。その間に、またロキの姿を見失ってしまう。
「ハハハハハハ。ビリビリもねぇミョルニルもねぇ透ちゃんなんて。イチゴのねぇショートケーキ、特典の無いCD、俺のいねぇ世界とおんなじだ。物足りねぇぜ。ッハハハハハハハ」
下らない話しを聞きながらトールは動かずにいた。絶え間なく跳ね続けるボールはロキと怪しい装置にはぶつからない。こっちに襲ってきても構えていれば我慢できる痛みだ。はねてくる油は目にさえ入らなければ問題無い。後は戻ってきた相手を迎え撃つだけ。
「なぁ透ちゃん。JKにヴァルハラの正義を熱く語ってたんだろ? ついでに、俺にも教えてくれよ?」
「いいだろう。盟約で神々を律し、法で人間を見る。虐げる者からの盾となり、弱きを守る。これが、ヴァルハラの正義だ」
トールは自信満々に言ってみせた。
「エッ、マジで? 他の神々に尻尾をふんのが正義だと思っていたぜ」
「貴様ッ」
馬鹿にされた怒りが隙となって、側面からロキの襲撃に遭い。ミョルニルを振るよりも早く間合いを離されてしまう。
「透ちゃん。バルドルのメモ帳を見て、デカ気取りじゃ、ダサすぎるぜ」
パソコンに残したファイルを見られたかもしれない。離席する時はスリープにし、パスワードはメモに残さず頭の中。
だがロキは、babironの関連施設を襲撃した時も、爆発するまで発覚しないよう外部との連絡を遮断する工作をしていた。ヴァルハラのシステムにどこまで侵入しているのかも不明だが、証拠品保管庫のセキュリティは掌握されている。アクセス履歴を覗くのは簡単だ。
「スキありッ」
正面から腹を殴られ、ミョルニルを離しそうになる。
「目をつぶってジグソーパズルなんてできるかよ」
不意にロキが言い放った。
目を閉じた状態で、ジグソーパズルを完成させる事ができるか。ピースに触れる事ができても、絵柄は見えず、はまり具合で合っているかを確かめるしかない。だが、はまりそうと力を加えてしまったら、変形し、完成とは程遠いものになる。思考の段階で手詰まりだ。
見透かされた様なジョーク。そんな恐怖で背筋が凍りついた。トールは今、ヴァルハラの警察官として、犯罪者に毅然としているかさえ危ぶまれる。
思考と戦いの狭間で、殴る蹴るに加え、飛んでくるボールまで、トールは受けるがまま。反撃しようとしても、ロキの方が素早く一撃離脱。動揺し鈍った判断力を突かれて、また翻弄されてしまう。
「ノロい、ノロいぜ。ノロすぎる。まるで警察の捜査みたいだな。コックはちゃんと相談したんだぜ。そんなんだから、俺に仕事を盗られんだよ」
「黙れ!!」
茶化しを、トールが怒声で無理矢理払いのける。ミョルニルを振り回すようにして離し、周囲を旋回させてロキを近づけさせない。
「ワオ、衛星か。なら俺は月へ行くとするぜ」
背を向け、ロキは脱兎の如く勢いで逃げ出す。トールはすぐさまミョルニルをつかんで、戦意を失いかけた自身に代わり追撃させる。
ロキは俊敏で、狙いをつけられないよう蛇行しながら走る。ミョルニルの行く手は、向こうに当たらない分のボールがぶつかってくる事で、僅かだが進行を妨げてくる。その上、保管庫の安全を守らなければならないので、本来出せる速度が出せず、その差は広がっていく。
ロキが保管庫に向かって跳躍、宙で身を翻しながら、たどり着く先を蹴りつけ、反対方向に向かって跳んでいく。ある程度の高さにたどり着いたら、今度は斜め前方に向かって跳び、ジグザグに移動しながらトールの方へと向かう。狭い間隔を利用した離れ業だ。
目まぐるしい移動について行けないのか、ミョルニルは宙で静止。
落下して襲いかかるロキと構えるトール。
「透ちゃん。考え直してくれたかな?」
ロキが左腕を突き出し、緑色の魔法陣を浮かび上がらせる。トールは不意打ちを食らったように呆然。発生した無数の風の刃に全身を切り刻まれていく。
魔法を使うと言う証言はあった。同時にトールは、神であるロキが魔法を使えない事も知っている。だが、目の前で魔法使いと同じ事をしてみせたのだ。
「貴様ぁッ」
怒号と一緒にトールが瞬息の蹴り上げを放つ。ロキは笑みを浮かべたまま、跳び退いてやり過ごす。
「その魔法はどうやって身に付けた!! フェンリルか」
かわしきれず、腹部を痛そうに押さえながら答える。
「っテテテ。お前らが隠ぺい工作に勤しんでいる間、babironのサイトで魔法使いの腕をダウンロードしたんだよ。そしたら、これがピッタリ馴染んじゃって、星三つだね」
左腕が切断されたbabironの魔法使い、ギャングやホームレスの死体。これは全て、ロキが魔法を使えるようになる為の悪趣味な実験。その自供だと、トールは判断。
「外道め。何が人助けだ」
今度こそ倒すと走り出した。当たってくるボール共は頑強な肉体が全て弾き、猪突猛進の勢いでロキとの間合いを詰めていく。
「そうカッかすんなよ。透ちゃん」
緑色の魔法陣が盾みたいだ。躊躇わずにそのまま突進。風の刃が何本飛んでこようが、竜巻が襲ってこようが、トールの行く手を阻む事はできない。
「凶風(フォーチュンテラー)」
技名を叫びながら、蹴りでぎらつく油を跳ね上げ、トールの顔面を真っ黒にする。
「ミョルニル」
咄嗟に距離を取ったトール。真っ白いハンカチで顔を拭いている間、迫ってくるロキの頭上に待機していたミョルニルが襲いかかる。
床を叩きのめす衝撃、はねる油。頭をかち割られるギリギリのところをロキが回避。このまま一気にトールへと肉薄。
眼鏡をかけたと同時に抉るようなパンチが鳩尾へと命中する。
「そうやって、警察が仕事をしないから、こうなったんだぜ」
二発目が鼻っ柱をへし折る。
「人がよけいに死んだのは、正義のふぃーロォーが、上っ面だからいけないのさ~」
攻撃自体、何発叩き込まれたところで大した事ない。それよりも、言葉の方が突き刺さってくる。
「やっぱ、オーディンの旦那じゃダメだな。アイツは研究以外に興味がねぇからよぉ」
雷激が内側から生じ、闘争心が全身を駆け巡り、トールが力を取り戻す。
「許さん」
正義を騙ってくるパンチ。潜り込むように手首と甘い脇をつかむと、トールは腰を落としてロキを床へと叩き落とす。そこから腕を捻って伸ばし、脚で挟みながら、首も絞め付けて押さえ込む。腕ひしぎ十字固めで拘束した。
「イッデぇぇぇエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ」
その上、ミョルニルがロキの脛を叩き潰し、強烈な電流を流し込む。
「グぅぅぅぅオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!」
電流は油塗れる保管庫には放電せず、ロキに流れなかった分をトールが引き受けたから、引火する事は無い。
「そもそも、貴様が事態をややこしくしたのだ。火災の後、すぐヴァルハラに被害者の保護を頼んでいればいいものを。独断で動きやがって愚か者」
「ッデデデデ。ふざ、けんな、どうせ皆ブタ箱に放り込んで、欲しいもの取って、ズドンじゃねぇの。あと、監禁ネタも忘れんなよ」
「貴様は封印だが、被害者達の安全は保障していた。法を犯していない限り、必ず保護していた。ヴァルハラは弱きを守る盾だぞ。絶対に手出しはさせん」
トールがロキに断言してみせた。
「ん?」
ミョルニルから電流が流れてこない。固めた右腕に抵抗する力、手応えが感じられない。ロキの姿は消え、腕が一本だけ。肩口からむりやり、肉と骨を引きちぎった無惨な痕が。
「ヘヘヘヘヘヘヘヘ」
怪しい笑い声。黒い油に生々しい紅が浮かび、一筋の川みたいに続く。細く点々とした上流まで辿っていくと、右腕を生やしたばかりのロキが気さくに手を挙げて挨拶する。
「よぉ、偽善者。アイツら、盾なんかお呼びじゃねぇぜ。ハンマーにしとけよ」
「ほぉ、何が言いたい」
トールは苛立ってしまうが、まずミョルニルを手許に戻す。
「あぁ、ギルガメッシュいや神を放置して、カワイそうな被害者達は無事なのかなぁ? どうせ、ヴァルハラは犬なんだ。ここ掘れワンワン、財宝の在りかを教えて、ご主人様から、ヨォ~シ、ヨシ、ヨシ、いいこでちゅね~。今夜はステーキだって、図式が見えんだよ」
嘲り。いや、それよりも不吉に歪んだ口許、邪悪に細めた目で笑ってみせた。
「ヴァルハラを潰せ」
速攻。ミョルニルを投げ突撃するトール。
ヒラリとかわし、ロキはポケットから深緑のボールを背後にばら撒く。床に叩きつけられて勢いよく弾むと、背後を襲いかかろうとするミョルニルに衝突し足止め。
「一人じゃ不安か透ちゃん」
邪魔物を排し、これで戦力差を一つ埋めた。迅雷の勢いで迫るトールにロキが素早く近寄り右パンチ。
顔面に迫ってくる攻撃。待ち構えたトールは当たる直前をつかみ、投げに入るつもりだ。
右、と見せかけて、ロキは左から踏み込んだボディブローを放つ。安っぽい小細工と既にトールが見切っていた。だから、半歩踏み出し、手首を狙う。
つかまれる直前、ロキが拳をパーにして緑色の魔法陣を展開。瞬時に風の刃が起こり、トールの体を切り刻んで僅かに動きを鈍らせる。
「愚か者め」
手刀を繰り出すトール。懐まで潜り込んできた相手を叩き潰す。
ロキが消えた。
そう錯覚させるくらい、体を黒い油塗れの床へと滑り込ませた。出遅れたトールの腹部に魔槍の如く強靭な蹴りを放ち、宙へと突き上げる。
「ロケットサンダーボルト。今、二段目を切り離しまぁ~す」
寝転んだまま、複数のボールを保管庫に投げつけると、吹っ飛ぶトールには容赦のない集中砲火となって襲いかかり、落下を遅らせた。
「ハッァ~ぃ、透ちゃん」
上からロキが、指を二本揃えてキザに挨拶。保管庫をピョンピョン蹴り跳んで追い越したのだ。
「魅植(ビオ)蛇(ラン)蔓(チア)」
若葉色の魔法陣が手から浮かび上がる。そこから、葉っぱを生やした蔓と蔓がいくつも絡み合ってできた一本の触手が伸び、落ちていくトールの腕を絡め取った。
「貴様、それで勝ったつもりか」
トールが電流を流し込む。だけど、植物で束ねた触手は電気を思うように通さず、ロキはどこ吹く風だ。
魔法陣の光りが強まる。ロキが捕まえたトールをたぐり寄せようと、急速に触手を引っ込めていく。
「
引っ張り上げられるトールに向かってくるロキの蹴りが炸裂。このまま一気に黒い油塗れの床へと叩きつけた。
馬乗りになったロキがありったけのパンチをお見舞いしていく。
「お前はなんにも分かっちゃいねぇ。盾だと言ったが、弱きを閉じ込める棺桶の間違いなんじゃねーの。正義の象徴ってツラしてるけど、JK二人を魔法で眠らせて、お持ち帰りしようとしてたんだぜ。そんな薄い展開をチラ見するだけの奴は、一万年間ボッコボコの刑だ」
眼鏡を壊し、顔面を潰していくパンチよりも、新たに聞かされる不正の方が痛い。ロキのデタラメだと否定したくても、見て見ぬふりをして抱えてしまった矛盾から生じる罪悪感がそれを許さない。
「だいたい、マニュアルか、子羊か、家族か、どれを守りたいんだ? どうせ、皆自由に遊んでんだし、お前も好き放題すりゃいいじゃねぇか。わざわざ一昔前の因縁まで持ち出しちゃってさ。やつあたりで俺を封印するとかやめてくれない。透ちゃん」
回転するミョルニルが説教を垂れるロキの後頭部に激突。
相棒のおかげで我に返ったトールは、今の使命を全うしようと、力づくでロキを浮かすように離し、瞬時に足を相手の腹部に捻じ込み、巴投げの要領で投げ飛ばした。
ミョルニルを携え。急雷の動きで吹っ飛んでいくロキを追う。壊れた眼鏡を捨て、旧い時代の戦士に少し立ち返り、今度こそ封印しにいく。
咎められた事に腹は立てたが、決して無視するつもりではない。昔を知っているからこそ守りたいものを守る為。滅びの再演だけは未然に防がなければならない。そんな使命感だ。
逆さまのロキは蹴りが決まって気絶したのか、白目を剥いている。トールが手を伸ばすと、後少しで捕まえて床に押さえ込める。そんなところまで距離を詰めた。
赤い瞳が勝負を着けようと逸(はや)るトールを映し出す。
余裕をたたえた目が妖しく細まり、口元はダラリと醜く垂れ下がる。この瞬間さえも計算通りと、その邪に歪んだ笑みが物語っている。
手には拳銃、狙いは油塗れの黒い床。抜け目ないロキの業だ。
やめろ、と叫ぶ間も無く引き金を引いた。
トールは瞬時にロキへの追撃を諦め、撃ち出された銃弾をつかみ取ろうと頭から床へ飛び込んだ。油の滑りを借りて追いつこうとする中、指先を鉄の感触が掠め、着弾。
保管庫が一気に炎の海へと変貌する。カードリーダー式の錠にあちこち取り付けた、ロキお手製の怪しい装置が同時に爆発。
極熱と共に視界が白んだ。
気が付いたトール。全身が焼けるように熱かった。あちこちから鳴る時計の針が耳障り。手にはヌメヌメした気持ち悪い感触が絡み付き。甘さを含んだしつこい臭いに鼻をつまみたくなる。膝に力を入れて立ち上がると、見渡す限り保管庫に異常は無い。
黒い油の海を深緑をしたゴムの残骸が漂っている。未だ現実性は不確かなまま、足下の拳銃に気づく。
「笑えよ」そう書かれた旗が銃口から飛び出していた。
騙された。精巧に作られた模造(オモ)拳銃(チャ)から、聞こえない筈の銃声が聞こえ、撃ち出されない筈の銃弾を見て、それをつかもうとしていた。失敗し、トールの身に起こった大爆発は、受けた痛みも含めて全て思い込み。虚実の神ロキが見せる嘘だ。
「ロキ!! 貴様が成果も無しに帰るわけが無いだろ? 出て来い」
雷の如く落ちる怒声。逃げた仕掛け人を呼び付ける。
「はぁ~い」
かわいこぶった返事と一緒に延髄蹴り。
疾風を超えた速さで振り向く暇も与えず。その威力は、石頭を超えた鋼鉄の頭部を一回転。痩身ながら強靭な首を捻じった。
満点級の奇襲を喰らったトールは強靭な体を保管庫に叩きつける。
「一万年間ボッコボコの刑。まだ、一分も経ってねぇぜ~透ちゃん」
笑顔。楽しそうに拳を鳴らし、戦意を失った顔面をロキがおもいっきり殴る。次、次、次とパワフルでスピーディーなパンチのラッシュ。当然しゃべりながらだ。
「オーディンの旦那やゼウス、天上の主とか連合で戦争に勝利しただろ。で、負けた俺とその他を出禁にしようと、意地ンなって魂ごと封印して、力尽きたよな。たぶん」
「どうせ、いつかの時代に、アイル・ビー・バックするつもりなんだろ。てか、したんだし、死ぬなんて怖くねぇわけだ」
「正直、封印ライフはスゲー退屈だったね。ここにいるぞって意識はあるんだ。でも、砂嵐をずっと見てなきゃいけないんだ」
「しかも、眠れねぇ永パ仕様だ。おかげで今は大抵の事で笑えちゃうね。鉛筆が床に落ちて、カッ、カッ、コロコロ。それだけで、ハハハハハハハハハハ。もう大爆笑」
「まぁ、レクリエーションが全く無かったって訳じゃないんだ。極たま~になんだが、外の景色が見えるんだよ。あれが楽しみでさ~」
「人間と動物のガチンコバトル。俺みたいなイケメンが一人、軍隊相手に無双した時は、超エキサイティング。男が女に、こっぱずかしい愛の告白をしてた時は、笑い死にしたぜ。後、開発って言うの? 森が燃えた時はワンチャン期待したね。でも、出られなかったな」
「そうそう、お前らの復活も感じたんだぜ。自然の力がガンガン流れてきて、世界がビックになって、ルービックキューブみたいに変わったんだから、俺も混ざりたかった。あ~残念」
「一気に早送りするけど、ある日、俺で遊んでいるガキがいたんだよ。そいつは双子の姉妹でさ。だ~る~ま~さ~んが~転んだって遊んでたんだ。」
「後、かくれんぼもしてたな。俺の陰に隠れて、すぐ見つかるんだ。どうせ隠れんなら、冥界製の兜でも付けとけって、教えてやりたかったね」
「俺がほほえま~ってしてたらさ。ボーンッ、いきなり封印がブッ壊れたんだよ。そしたらどうだ。目の前でメソメソ泣いてる奴がいるじゃねぇか。驚いたよ。デッかくなっても分かるんだから、そいつ、俺で遊んでた双子の一人だぜ」
「それで俺ってさ、ヤベより優しいじゃん。色々ガンバったんだぜ~。双子のもう片方を助けて、家がダメになったから新居も探したし、両親を殺したギルガメッシュに復讐するんだって言うから、じゃあやる事ないし、手伝おうかって、手伝ったわけだ」
笑ったまま、しゃべりは途切れることなく、飽きもせずに殴り続けているロキ。
捻じり折れた首は神としての再生能力により、筋肉や骨を適正に調整し既に元通り。機関銃みたいに浴びせてくるパンチ自体、ロキにしては強力だが、無駄に長大な話しを聴くくらいの余裕がトールにはあった。
「他人の復讐なんて時間の無駄だ」
気の抜けた「ハァッ」と共にパンチが止む。
「同情する余地はある。だが、血で血を洗えば、破滅が訪れたのだ。ましてや相手は神。今からでも遅くない。ここは盟約と法律に基づいて、ヴァルハラが対処する」
鳩尾を突く蹴り。建前的なありふれた正義をロキが潰した。
「機能不全が寝ボケたこと言ってんじゃねぇ。こうなったのも、そのヴァルハラが、ちゃんとしてないせいだからな。俺達が好き勝手に遊んだっていいじゃねぇか」
トールは言い返せなかった。間違っているわけではない。ロキが全て正しいわけではない。
「それに、アイツ等がスッキリ片づけたら、もっと楽しく遊べん、じゃん」
力の籠った神速のパンチ。
はなっぱしらから顔面を陥没する一撃を、容易く片手で受け止めたトール。
「透ちゃ~ん。空気読んでくれる?」
カッコよく決められず、拳が握り潰されそうだから、ロキは苦笑いになってしまう。
「読んでいなかったら、こうして話す事はできないぞ」
正義を標榜し悪には怒れる鉄槌を下す。そんな厳しさを今は微塵も感じさせず、今にも崩れ落ちてしまいそうな脆さが顔に出ている。
「デレ期か、透ちゃん」
「…………武器なら見た。納入先がヴァルハラだった……………今は刑事課が……捜査中だ」
皮肉にも悪と断じたロキが自身に為しえぬ正義を貫こうとしている。話していいのかと躊躇いがちになりながら、トールは己の鬱屈とした無力さを聞かせてしまう。
「貴様が調べていたマクスウェル家だが、babironがアルベルト君に長時間労働、監禁をしているのではないかと、姉のリザさんがヴァルハラに相談していた。その数日後、勤めているレストランから、ギルガメッシュの専属料理人として派遣されている」
部下に変装したロキを追及できずにいたが、犯罪組織の関係者や、警護の対象でもない一般人を調べていた事に不審を抱き、念の為トールも調べていた。
「書類上では、babironとエドモンド高等学校には違法性を確認できなかった」
額面通りではなく皮肉気に言った。
「火災で死亡した筈の真吹凛陽とも交戦した。貴様の言う通り、捜査に不備があったな。それでも私は、今でも貴様がフェンリルで封印を解いて、殺したと思っているのだが…………」
ロキは捜査官らしい話を茶化さず興味津々に聞いていた。だけど、疑われているのが気に食わないので、その不満を声高にする。
「オーイ誰か、天秤を出せ。後、羽も忘れんな。最悪、カラスの羽でもいいぞ」
「火災の一件。貴様が例え無実だとしても、封印する事には変わりない」
「エッ、ヤダ」
頬を膨らましたロキが戦いで使った強酸をトールの顔面に噴射。
「やだ、やだ、やだ、やだぁ。俺にも、百人ブッ殺してイイ権よこせよぉ~。それがダメなら透ちゃん。ギルガメッシュを封印しようぜぇ~。アイツも立派な犯罪者だろぉ~」
駄々をこねるロキ。トールの顔を少し溶かしてみたが、腕を振っても、捕まれた手を離しそうにない。
「彼は同盟の神。まだ、犯罪の証拠も揃っていない」
「透ちゃん。ネタ集めは自分の足でするもんだ。使いっパシリに頼っちゃいけねぇ。曲がり角でぶつかったから、俺や凛陽とフラグが立ったんだぜぇ~」
トールがニヤニヤと笑いかけるロキを睨みつける。
「そう言えば、私と一緒に人助けがしたいんだったな。いいだろう。ならば、今夜起こる犯罪を全部教えろ。片づけるついでに貴様を封印する」
つかんだ拳を握り潰そうと、力を加えていく。
「ッテテテテテテテ、欲ばりさんめ。フルコンプがご希望なら、それに見合う投資をしなくちゃ、なぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
手首が
「勘違いするな。貴様の封印までの猶予が少し延びただけだ。ロキ、貴様は悪だ。真吹凛陽の復讐にも賛成できない。だが、原因を作ったbabironの神こそ裁かれるべきだ。当然、一緒になって守るべき者を踏み躙った、警察機構ヴァルハラも同罪だ」
己の正義を規定し直し、床を踏みしめて立ち上がったトール。悪に毅然と立ち向かい鉄槌を下す気迫を取り戻した。
「ヴァルハラが掟と法を守らないと言うのなら、私も、私の正義を果たすだけだ」
ロキは折られた手首に「フーフー」と息を吹きかけていた。
「はりきってるね~。まるで、出社初日のルーキーみたいな初々しさだ。このまま歓迎会にでも行っちゃう? もちろん透ちゃんのおごりで」
突然、保管庫中に雷鼓をめちゃくちゃに打ち鳴らした様なベルの音が。耳を塞いでも痛いくらいの騒音が一分も続いた。
「爆弾じゃなかったのか」
やっと鳴り止んで、耳から手を離した。カードリーダー式の錠に被せた、おびただしい数のロキの怪しい装置は全て、爆弾ではなく目覚まし時計だったのだ。神経をすり減らして戦った事が徒労だと分かり、自身の滑稽さに落胆してしまう。
「エッ、充分爆弾でしょー。寝ボケたお前を叩き起こすにはもってこいの威力だ。それに今じゃ、プラスチックはガソリンよりも高いんだぜ。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
嘆息。一瞬でも正義を見てしまった事を後悔。ロキは遊んでいるに過ぎないのだ。トールは耳障りなバカ笑いから距離を取る。
「ちょっ、手伝ってくれんじゃないのかよ~」
手放していたミョルニルを戻して、馴れ馴れしく近づいてくるロキを拒絶する。
「後片付けが先だ。貴様が黙って作業をする様な奴ではないだろ」
予備の眼鏡をかけて、冷然とした眼差し。それを見たロキは「ハイハイ」と肩をすくめてみせる。
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