第三章 反撃に向けて(2)
四十九階にある厨房。ピカピカにきれいで広々としている。本来は大勢のコックがもっと大勢のお客に、料理を提供する事を想定しているから、リザと時雨の二人だけではがらんとしすぎている。
「さて、道具を揃えてもらおうかな」
時雨はコック帽に収まるよう長い髪をまとめ。フリルとリボンを使った丈の短いピンクのワンピースから、制服にエプロン姿だ。
「なにを揃えればいいの?」
「出刃二本、ボウル三つ。フライパンは二個。鍋、バット、ざる、ミキサーを頼む」
頷いた時雨は、頼まれた道具を揃えに行く。
その間にリザはタブレットを操作する。
babironのショッピングサイトと、社内の一部にアクセスできる専用設定。ギルガメッシュのディナーに使う食材を注文していく。
「揃えた」
「どれどれ」
時雨はリザに言われた通りの道具と、まな板やフライ返し等の必要になる道具。それに計量スプーン、カップ、計りを用意した。
「そうそう、それそれ。でも、スプーンはいいけど、カップと計りはいらないかな」
「計らなくていいの?」
「そう言うのは覚えた」
リザはさらりと言う。
すると、広い板場に、サバ一尾、海老が十尾、しめじ、エリンギ、シイタケ、キウイが、どこからともなく現れる。
驚いた時雨が一歩退く。
「テレポーテーション?」
「いや、このタブレットさ。babironのサイトで、在庫がある商品で『今すぐ注文』をクリックすると、こんな感じに現れるんだ」
「ギルガメッシュやエンキドゥが武器を取り出した時みたい」
リザは急かすように手を叩く。
「はいはい、そんな事はどうでもいいから」
真剣な様子で見られる時雨。
「指示は出すけど、野菜は任せていいか?」
「五分五分」
弱々しく言う。
「じゃあ、任せた」
そう言って、サバを業務用の大きい冷蔵庫にしまいに行く。
任せられてしまい、時雨はシイタケの汚れを取ろうと、傍にあったクッキングペーパーに手を伸ばす。
「オニオンをスライス」
強い指示に、たじろいでしまう時雨。
「戦いだったら、死んでるぞ!!」
喝を入れられ、時雨は動揺したまま、最優先である玉ねぎ二つの皮を剥き、言われた通り薄切りにする。その間にリザは、ミキサーにかけた海老を器に入れていた。
「次、きのこ全部、形を残す感じで細かく」
時雨はシイタケの軸とかさを分けている間に、指示を出したリザは薄切りにした玉ねぎと三人分の米をフライパンで炒めていた。
きのこ類を下ごしらえして、ある程度形を残すように細かくすると「早く」と催促されたので、間に合わなかったエリンギ以外を持っていく。
それを奪うように、リザがフライパンに入れて炒め合わせる。
「次、カブをくしにして塩茹で。終わったら、アスパラも同じで」
頷く暇も無い。時雨はカブの皮を厚く剥き、くし形切りにした後、塩茹で。既にリザはフライパンにチーズと牛乳を投入済み、蓋をし煮詰めていた。
アスパラガスの硬い部分を取り除き、鍋に新しく入れた水が沸騰したら、塩を入れて根元から茹でる。
リザがサバを鮮やかに三枚おろし、手早く丁寧に骨を抜いて、四つに切り分ける。
「時雨。ニンニク刻んどいて」
別のフライパンにオリーブオイルを敷き、時雨が刻んだニンニクを炒める。食欲のそそる香りがしてきたら、下味し、小麦粉をまぶしたサバを入れ、こんがりキツネ色になるまで両面を焼いていった。
「ラスト。キウイを輪切りにしてくれ」
洗い物を止め手をすすいだら、時雨はキウイを均等な厚さで輪切りにする。
小エビをのせた海老のムース、キウイ添え。
チーズときのこのリゾット。
サバのムニエル(付け合せは、塩茹でしたカブとアスパラガス)。
「お疲れ」
時雨は小さく頷く。
「時雨。ギルガメッシュに料理を出すのと、後片付け。どっちがいい?」
「後片付け」
即答。
「だよなぁ。でも、アイツのお気に入りみたいだし。また呼び出しがあったら、イヤだろうけど、顔を出してやってくれ」
気が重い話に時雨は、お願いするリザから顔を背けてしまう。
五十階の食堂は暖色の照明に包まれている。
片付けを終えた時雨はギルガメッシュに呼び出されて、制服から
ギルガメッシュがディナーに手を付けずにいると、ドアがゆっくりと開く。
角刈りにサングラス、スーツをはち切れんばかりに着ているエンキドゥが入って来た。
「ドゥーカ。詐欺師とヤキトリはどうだ?」
ギルガメッシュに促されて、エンキドゥは右側に座る。
「ギッシュ。ここで話す事じゃない」
「かまわねぇ。リザとノロマにできる事なんてねぇよ」
そう言って、ムースをスプーンですくう。
エンキドゥがリザと時雨を一瞥。
「ニュー・ユグドラシルまで範囲を広げたが、情報は昨日と変わらない」
躊躇い。
「……今は、オルメカ・インカの方まで範囲を広げている」
「妥当だな。オリンポスや高天原は遠すぎる」
ニュー・ユグドラシルは、ヴァルハラ警察機構が影響を及ぼす区画全体を指す。その南にbabironの本社等があるバビロニアシティ。その更に南に、オルメカ・インカと言う名前の都市が存在する。
大洋を隔てて、東にオリンポス、西に高天原がある。
「いっそ詐欺師とヤキトリは放置して、ビジネスにでも目を向けるか」
「極端だ。サムライだけならまだしも、詐欺師がいる。潜り込まれたら厄介だ」
エンキドゥの懸念。
「見つかるまで追跡するさ。一週間経って成果が出なかったら、減らせ。時間の無駄だ。その代り、潜り込まれないように防御を固めんだよ」
ギルガメッシュがナイフでサバのムニエルを切っていく。
「ヴァルハラがどこまで協力的か」
エンキドゥの大きな指に挟まれたスプーンがリゾットを小さくすくう。
「野菜の切り方がいつもより大味だ」
リザは「ゲッ」と動揺してしまう。
ほんの少し厚く切られた玉ねぎ。時雨が急いで切ったものだ。
ギルガメッシュが笑う。
「よく気付いたな。俺はムニエルにしか眼中になかったぞ」
その後、ギルガメッシュはエンキドゥに、朝の時雨の話しやメモ帳をネタにしながら、ディナーを食べていく。
時雨はギルガメッシュが食べ終わるまでの間。多く出てくる笑い声のせいで、ただでさえ不快な時間がいっそう不快だった。
板場には、里芋、ニンジン、ごぼう、ディナーで使ったカブが置いてある。
「時雨おまちかね、料理の修行だ。口出しするけど、お前一人で作ってもらおうかな。私らの夕飯は失敗しても『マジィ』で済む。リラックスしてやろう」
笑いかけるリザの隣には、強制されたガーリーな服から制服にエプロン姿の時雨。
「何を作るの?」
冗談を笑うことは無かった。
「今日の夕食は、サバのアラと海老の殻もあるし、高天原系の時雨に馴染みのあるアラ汁とカツオのたたき丼にしよう。ってか、食べたい」
本音ダダ漏れのリザ。
冷蔵庫に向かおうとする時雨。
「どうした?」
止まって時雨は振り返る。
「カツオ、冷凍庫に保存している筈」
「ないよ。そろそろ来るかな」
リザの言っている事を理解できていない時雨は首を傾げる。
「まさか、パックだと思ってたんだろ。時雨」
板場にカツオ丸々一本が現れる。
「時雨、今日のメインだ。捌いてみろ」
流水に冷やされるまな板の上のカツオ。
対峙する時雨の顔色は青白く、包丁を握った手を震わせ、動けないでいる。
魚の調理なら、アジ、サンマ等の大衆魚だが、過去に何度もやっている。やり方が間違っていたら、リザが口を出すかもしれないし、出さなくても、捌くと言う行為は可能である。
ただ時雨には、まな板の上のカツオが凛陽と重なる。
そこに包丁を入れるとは。
ギルガメッシュになぶり殺され、バラバラになって、血だまりになった凛陽を。まな板の上のカツオで再現しなければならない。
発作的な息苦しさと目まいに襲われる。
刃先が揺れ、落ちそうな包丁。
震える手が力強く握りしめられる。
「危ねぇなぁ。ケガすんだろ」
声を抑え、でも強く時雨を叱るリザ。
「…………離して」
時雨がひ弱な声を出す。
「やだね。危なっかしいし、それに」
リザはぶっきらぼうに言うと、包丁を持つ時雨の手を握ったまま、強引にカツオの方まで引っ張っていく。
「料理を教えるって約束したしな」
くっ付きそうなくらい、近くで見つめ合うリザと時雨。
「今の方が危険」
「私を信じて、包丁を握ってろ」
不安でいっぱいの時雨に有無を言わせない。目を離してこないリザは、勇ましくも美しい一輪の薔薇の様に情熱的だ。
リザは包丁を持つ時雨の手を握ったまま、体を捻ってカツオを押さえ、鱗を取ろうと胸ヒレに刃を入れる。
「ぁぁっ」
時雨の小さな呻き。力が入って切れ味の悪い包丁なのに、がりがりと鱗が削り取れていく。
「よくそれで料理をする気になったな」
「…………メモ帳が欲しいから……」
カツオの頭を取ろうと、ヒレの下に包丁を入れていき、硬い背骨に切れ込みが入った瞬間。
「……血………………」
儚い悲鳴。止まる包丁。まな板に流れるカツオの血。
流水よりも冷たくなる時雨の手。
「今気づいたのかよ。それにしても、本当に血が苦手なんだな」
「だから、私は何もできない。無価値な存在」
「それなら、自分が血を流すのに、どうしてアルを庇ったんだ?」
リザが言ったのは、エンキドゥ達の集中砲火から、時雨がアルベルトを庇った事だ。
「誰かが……死ぬより…………はいいから………………」
時雨の言葉に、リザは握る手の力を入れ直す。
「本当に血が苦手だったら、自分が血を流すのが一番嫌いな気がするよ」
理解できてない様子の時雨。その隙を突いて、リザはカツオの頭を一気に切断した。
「凛陽」
さっきよりも大きい悲鳴。それでも、叫びにはほど遠い小さなもの。
すぐ視界からカツオの頭を消し、リザが時雨と肩をくっ付け、優しく耳もとで言う。
「凛陽ちゃんが生きてんのは、お前が一番分かってんだろ。きっと「お姉ちゃん」って元気な顔を見せるさ」
震えが治まらないでいる時雨。リザはまな板や包丁の血を洗い流す。
「本当に悪かった。お前に心が無いなんて言って、私はとんでもない勘違いをしてた」
どういう意味か分からず、不思議そうにリザを見つめる時雨。
「続きをやろう」
リザはそう言って、時雨と一緒にカツオの腹に、包丁で一筋の線を描く。
「包丁の峰を持ってくれ。今から内臓を取る」
躊躇いながらも時雨は、言うとおりに包丁の峰を握る。冷たくねちゃっとした感触に不快そうにすると。その上から、リザが優しく握ってあげる。
「よくできた。後もうひと踏ん張り」
励ましながら、リザが包丁をカツオの腹部に入れていく。内臓を取ろうと、リザの手が腹部に入っていく。
内臓のうにょっとしてぬめっとした怖気の立つ体液が、守られている時雨にも、じわりと伝わってくる。
内臓を取り出そうと、包丁が、リザの手が、時雨の手が更に奥へと入っていく。
臓物と血が触ってくる。ギルガメッシュになぶり殺され、あちこちに飛び散った凛陽の内臓とたくさんの血飛沫。ぬちゃぁっとした死を、今この手で触っている。その強烈な不快さで、時雨は悶え苦しんだ。
「拷問かもしれないけど、ここまで来れたんだ。最後までできるさ」
カツオの中から切り離されて、現れた血の滴る内臓。見た時雨は吐き気に襲われてしまう。
「この手を絶対離さないから、お前も離すんじゃない」
強く温かい言葉に時雨は少し楽になる。なんとか不快な感触に耐えながら、リザと一緒にカツオの内臓を取り出せた。
「おつかれさん。こっからは、さっきよりは楽だよ」
リザが時雨に笑いかける。
一緒に包丁をを握ったまま、カツオを三枚に下ろしていった。
その後リザから、アラ汁に使う野菜の調理を頼まれ、時雨は黙々と取りかかる。
「っシャア」
リザが楽しそうにカツオをバーナーで炙り。氷水にさっと入れ、水気を取ったら、たたきの完成。
たたきに使う分以外のカツオは、手早く皮を取り除いて保存。アラはアラ汁に使うから、細かくして塩に浸けていく。
「野菜の調理ができた」
「どれどれ」
上から見ると六角形に見える剥き方、六方むきをした里芋。いちょう切りにしたニンジン、ささがきにしたごぼう、薄く切ったカブ。
「野菜OK。今さらだけど、本当料理慣れしてんな」
リザは時雨に指でもOKを示す。
「両親が殺される前は、私が食事を作る機会が多かった。ロキと一緒に生活していた時も、作る機会は減ったけど、やってはいた。それしかできないから」
時雨は話していて俯き気味に。
「凛陽ちゃん、家事とか壊滅的っぽいもんなぁ~。ロキが家事をするなんてありえないな。むしろ、やって欲しくない」
冗談を言うリザだが、時雨の反応は無かった。
カツオにサバのアラ、海老の殻の湯通しが終わり。リザは生臭さの原因となる、ぬめりや黒い血合いを取っていく。
「おっ、もう触れるようになったのか」
おっかなびっくりな手つきで、時雨も一緒に作業をしている。
「なんとか」
弱々しく言う時雨をリザは爽やかに気づかう。
「無理すんなよ」
下処理が終わり調理した野菜と一緒に煮る。リザは時雨を休ませてアク取り、煮立ったら味噌を溶かして、アラ汁のでき上がり。
どんぶりに炊けたごはん、ショウガじょう油で味付けしたカツオのたたきを盛りつけて、刻んだ長ネギを散らしたら、カツオのたたき丼が完成。
リビングに移動するのが面倒なので、二人は厨房で夕食。
「いっただきま~す」
スプーンをつかむと、よほど食べたかったのか、リザは豪快にカツオのたたき丼をかっこんだ。
「ウマイ。毎日これでもいいな」
「それは飽きるパターンの台詞」
ボソリと言う時雨。
「なんだよ。こんなにウマイのに、全然食べてないじゃん」
リザがどんぶりの半分以上を食べているのに、時雨のどんぶりはあまり減っていない。
何も答えようとしないので、リザはアラ汁を口にする。
「おいしいけど、ちょ~っと生臭いかもな」
原因は湯通しの後に、時雨がぬめりや血合いをあまり取れなかったからだ。
「私のせい」
時雨が小さな声で言う。
リザは慰めるように笑いかける。
「しょうがないよ。今日は触れないものが触れるようになった。それで、いいじゃん」
時雨は俯き気味のまま。
「自信持てって。時雨は天才なんだぞ。その証拠に左利きだ。私なんか、一瞬で追い越されそうだから、焦ってるってのに」
「私は確かに左利きだけど、リザの話は流布された仮説の一つに過ぎない。それを無理に当てはめる必要もない」
大真面目に答えてくる時雨。どんなに慰めようとしても、まるで効果無し。
「あーーーっもう。アンタはよけいな事を考えんな」
リザはイラつき大声になってしまう。
「反省点がある以上、無視するわけにはいかない」
「お前は、まず飯を食え」
リザは自分のカツオのたたき丼を、時雨の口に押し込んだ。
「おい……しい」
驚き。
体が勝手に動いたように箸をつかみ、時雨はカツオのたたき丼を食べていく。
「そうそう。食事がウマイから、また料理を作りたくなるんだよな~」
ある程度食べた時雨は、どんぶりで口を少し隠しながら、リザに話しかける。
「……リザは……弱点は無いの?」
「は?」
不意の言葉にリザは戸惑ってしまう。
「リザは、大雑把さや人間である事を除けば、弱点はない?」
「大雑把って、失礼だな。疑問形だし、しかも、人間である事も弱点になんのかよ」
声を少し荒げるリザに、時雨は委縮しながら話す。
「神と人間の能力を相対的に比べれば、神の方が能力は高い。でも、リザは性質的に大雑把で短気である事を除けば、神にも立ち向かえる精神力を持っている」
「さり気なく短気を追加すんなよ」
リザは腕を組みながら考えてみる。
ため息。
「…………そうだな、魔法ができない事かな」
重苦しそうに打ち明けるリザ。力強く頼れる顔つきは、どこか陰ってしまう。
「魔法は料理人に必須ではない。魔法を使って、料理を更に美味しくできるコックは少ない」
時雨は真顔で言った。
「そうだな、魔法を使える料理人は少ないよな。使えても、必ず神を、食べる人を満足させるわけじゃ……ないもんな」
明るく振る舞おうとしたけど、なりきれず、リザは弱々しくなってしまう。
「できないの、ウチじゃ私だけなんだよ」
消えてしまいたくなるほど、リザは自身を否定した。
「魔法を使える人間と使えない人間だったら、使えない人間の方が多い。例え、使えたとしても、弟のアルベルトみたいに魔力が少なければ、魔法使いとして生計を立てるのは困難。技能が低いのも致命的。人の二倍、三倍以上の研鑽が必要。リザは料理の方に集中した方がいい」
時雨が述べた一般論は容赦無い。
「……ハハ………ハハハ…………てきびしいな………………」
打ちのめされたリザの虚しい笑い声。
「……それでも……それでも……私は、アルが立派な魔法使いになるって信じてるんだ」
辛そうなリザをお構いなしで、時雨は質問する。
「どうして、アルベルトがウィザード一級以上の魔法使いになれると信じているの?」
ウィザード一級は、アルベルトのメイジ五級よりも、遥か上の高位な魔法使いになる。
「さぁね、忘れちまった」
リザはうわの空で、どんぶりの中をスプーンでゆっくりすくう。そして、もしゃもしゃと美味しい筈なのに美味しくなさそうに、カツオのたたき丼を食べていく。
でもリザは、ゆっくりとだが、きちんと全ての料理を完食した。
「ごちそうさま」
少し気合いの入ったリザの声。
手を合わせていた時雨は、急な大きい声に驚き正面を見てしまう。
「リザ、どうしたの?」
「なんでもない」
リザが立ち上がり背伸びをする。
「時雨。いちおう弟子なんだし、後片付け頼む」
小さく頷き、食べ終わったどんぶりとお椀をまとめて、時雨は流しへ。
洗い物をしている様子を、リザは少し遠目から見る。文句一つ言わず、黙々と丁寧にこなしている。
「時雨は、悪くない」
一般論と見立てを述べただけ。そこに悪意は無い。
厨房を後にするリザは、疲れを取りたいからバスルームへと向かった。
四九階での生活は二週間が経った。
時雨はその間、リザに助けられていた。
メモ帳を手に入れる為に料理を始めた時雨だが、肉と魚を調理しようとして、過去の凄惨な場面を思い出してしまう時。天叢雲剣から一方的に発する憎悪と叱咤で苛まれる時。書き込みたい衝動や、自身には正体が分からないざわめきに襲われた時も、リザが傍で支えてくれた。
そのおかげで、肉と魚の調理もじょじょにこなせるようになり、ギルガメッシュに出す料理では、一品そのものこそ作ってはいないが、ほとんどの工程を携わるようになった。
五十階の食堂。ギルガメッシュのランチタイム。
「ハッ、チキン尽くしか。ここにヤキトリでもあったら完璧だな」
チキンサラダはそれぞれの素材と、ドレッシングがちょうど良く絡み。ふわふわ卵のオムライスは味わい深いデミグラスソースと、パラパラなチキンライスによる絶妙なハーモニー。チキンステーキは溢れ出す肉汁と、程よい辛さのマスタードソースが満たしてくれる。
それを無表情で食べ終えた。
「食いもんとしては、そこそこのクオリティだな」
「今、なんつった?」
端にいるリザが一歩出る。
「耳でもイカれたのか。そこそこだ。って、言ったんだよ」
めんどくさそうに言う。
リザがニヤりとする。
「それ、私じゃなくて、時雨が作ったんだ」
信じられない嘘だろと、ギルガメッシュの笑い。
「ノロマが作っただと、リザ。笑わせてくれるじゃねェか。あの、ノロマが、料理。突っ立ってるだけしか能が無い、あのノロマが、料理。ッハハハハ」
笑い声がすぐ治まり、静かになる食堂。
いつもは存在感を消そうと小さくなっていた時雨が、ギルガメッシュの方を見る。睨みつける程の強さはなく、むしろ、簡単に潰されてしまいそうなくらい弱々しい。だけど、確かに見ている。
「テメェが作った証拠がねぇ。リザが作った物を、ノロマが作った事にすればいいだけだからな」
うがった見かたをされて、リザは眉をひそめてしまう。
「ノロマ一人で一品作れ。デザートだ。特別にナンバーワンの俺が待ってやるから、出してみせろ」
ギルガメッシュの言葉に、恐る恐る頷く時雨。
「先に言っておくが、売ってる物を皿に盛ってみろ。殺すぞ。履歴を調べりゃすぐ分かる」
時雨は急いで食堂を出た。
二十分後。こだわった意匠の腕時計を眺めてから、文句を言うギルガメッシュ。
「食後のコーヒーに、二十分もかかってんじゃねェよ。ノロマ」
コーヒーカップに入ったコーヒームースは、ホイップクリームとミントで飾り付けた。
「………こ、ここ、コーヒー………ムー……ス…………」
震える声。極力近づかないようにしていた時雨。作ったムースは、落ちてしまわないようリザに運んでもらったが、結局「来い」と命令されて近づくはめになった。
「ムース、ねぇ」
たかをくくりながら、ムースをスプーンですくい、一口。
ふんわりとした食感からとろけ出す、コーヒーの芳醇な風味と滑らかなほろ苦さ。
スプーンを落としそうになるギルガメッシュ。
「………ハッ、買ったかどうか見てやる」
スマートフォンで注文履歴を調べる。この二十分の間に買ったのは牛乳とミントの葉のみ。
時雨はドリップしたコーヒーに砂糖を溶かしゼラチンを混ぜる。牛乳から作った生クリームに砂糖を加え、泡だて器で六分立てに。それらを均等になるよう混ぜて、冷蔵庫で急速冷却をしたらコーヒームースのできあがり。後はホイップクリームとミントで飾り付け。
「どうした。ご所望のデザート、食べないのかよ?」
煽ってくるリザ。ギルガメッシュは無視してムースを何口かした後、ホイップクリームと一緒に混ぜ合わせて全部食べた。
「俺がノロマに求める価値は、料理じゃないんだがなぁ」
「…………………………………私にも……価値はある?」
おずおずとギルガメッシュに尋ねる時雨。
舌打ち。
「ああ」
短い返事。
「新しいメモ帳…………欲しい……………………」
時雨は涙を流しそうになりながら、気難しく腕を組んだギルガメッシュをどうにか見て、深々と丁寧に頭を下げて懇願する。
四十九階ベッドルーム。薄明るいテーブルスタンドだけにして、時雨は窓際にあるサイドテーブルに着き、ギルガメッシュから料理で勝ち取ったメモ帳を広げて、これまで書きたかった事を次々と書きこんでいる最中だ。
この二週間、凛陽とロキが行方不明のままである事。アルベルトが別の場所で研究している事。リザから学んだ料理の事。リザとの生活。不快に感じた事。
「よっ、やってんなぁ」
「ヒッ」
覗きこんでくるリザに驚きながら、時雨は機敏な動作でメモ帳を閉じた。
「お前、どうせなら、もっとカワイイ感じのメモ帳にしとけよ」
時雨の新しいメモ帳は、以前使っていたのと同じ手の平に収まる青いキャンパスノートだ。
「デザインに意味は無い。メモ帳として使えるなら、以前使っていたタイプが落ち着く」
「まぁ、そりゃそうだ」
リザはため息をつくように納得する。
「じゃあ私、シャワー行ったら寝るわ。時雨、メモ帳に夢中で起きられないのは無しだからな」
リザが部屋を出た後、時雨は空いているページにリザがメモ帳を覗こうとした事と、明日の起床時間は朝五時である事を書き込んだ。
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