第三章 反撃に向けて(1)

 爪を手でゆっくりと剥がす。肋骨の辺りにノミを一本刺す。きれいな指をペンチでぎりぎり潰す。のこぎりを腕の半分まで引いていく。膝の皿を金槌で割る。舌に硫酸を垂らす。肩に太い鋲を打ちこむ。生きたまま皮を裂き、うるさかったら万力で頭を締め、臓物を摘出する。


 最初は聞くに堪えない罵声も、途中から呻きと懇願の涙声に変わり、終いには声も枯れてくると喉を生き血で潤された。


 血の滴らない手、常闇の肉体を持った存在。なのに髪だけは赤黒くべったりしている。黄金に燃える眼からは感情を読み取れない筈なのに、嬉々として拷問に興じている。


 弄ばれているのは凛陽だ。


 時雨はその様子を見させられていた。真黒く巨大な腕に頭をつかまれ、強引に「見ろ」と。

 受けてもいないのに、拷問を受けた苦痛が襲う。耳もとには、嗜虐を喜びとした嗤いがしてくる。


 髪をあちこちむしり取られ、眼球を失い、口元は焼けただれた。腕と脚を切断して、入れ替え釘で接合。無造作に切られた身体は、札束をぎゅうぎゅうに詰め込まれ、変わり果てた凛陽の姿。

 直後、飽きてしまった玩具みたいに捨てられた。


「や………めて…………」


 呟いたら炎が消え、暗澹とした世界へと変わる。ゴミ山と見間違えてしまいそうな程、積み上げられた死体の山。

 不快な光景に戦慄していると、一斉に時雨の方を見てくる。


「お姉ちゃん」


 凛陽である。その全てが「お姉ちゃん」と慕ってくる事に時雨はへたりこんだ。

 ぬうっと動き出す。

 撲殺、絞殺、斬殺、銃殺、毒殺、硫酸を浴び、斬首に遭い、全身に釘を打たれ、獣の餌、感電死、餓死、四肢欠損。等々、数え切れない方法で殺された凛陽達。

 その中でも先頭は、体中の切れ込みから、血でべっとりした紙幣をまき散らしながら、さっき見ていてくれた時雨の方へ、じわりと迫ってくる。


「助けて、お姉ちゃん」


 紙幣を吐き出し。手になった足を伸ばす。眼球の無い開かれた瞼に映るのは、闇では無く時雨だった。



 大きな窓から入る穏やかな光。調度品も含め全体を白系か艶のある色合いに囲まれ、洗練された高級感に溢れる空間。セミダブルのベッドが二つ並んでも余裕な広さ。

 目を覚まし、もがく様に体を起こした時雨。息づかいは荒く、体も汗ばんでいた。

 硬すぎず、ゆったりすぎない寝心地、じっとりしても分かる肌触りのいい毛布、頭にフィットした枕。ここが、六畳間のせんべい布団の上で無い事は理解。

 着ている服も、アーマーの下に着ていたインナーシャツではなく、制服に変わっていた。


「おはよう」


 リザが爽やかにあいさつする。鮮やかな柄の入ったワイシャツに濃紺のジーンズは、彼女が持つカッコ良さを際立たせている。

 なにも言わず肩を強張らせるだけの時雨にリザは舌打ちしそうになるが、少し目線を落として、優しく話しかけてみる。


「起きてくれてよかったよ。たった二日とはいえ、このままずっと寝ちまうんじゃないかと、ヒヤヒヤしたよ。まぁ、そう言う私も、昨日起きたばかりなんだけどさ」

「………二日…………」


 時雨は少し俯いた後、青い空を一瞥し、改めてリザの姿を見ることで、日にちの経過を納得しようとする。


「せっかくのお目覚めだ。モーニングティーをごちそうしよう。それに、ガールズトークとはいかないが、もっとくつろげる場所で話をしようか」


 頷く時雨。

 それを見たリザは指を鳴らして楽しそうに笑う。


「よし、決まり」



 高めの天井が広大なリビングをより広大にしている。窓も空や都市を余すとこなく見渡せる程大きい。

 ベッド並みに大きい丸太を楕円に加工したテーブル。その上には、二つのティーカップとティーポット。

 赤いL字型をした二十人掛けのソファ。時雨はそのはしっこに腰かけ、カップとソーサーを上品に持ち、香りを確かめ、か細い声で「いただきます」と紅茶をゆっくりと飲む。


 静かに気品溢れる佇まいの時雨。その横、赤い一人掛けの丸ソファに腰かけるリザは、見守るつもりでいたが、絵になりそうな美しい姿に少し見とれていた。

 口からカップを離すこと計六回。か細い声で「ごちそうさま」と言った後、音を立てずにカップとソーサーをテーブルの上に置く。


「気分はどうだ? 少しは落ち着いたか?」

「アッサム。濃い風味に、コクのある甘味。乾いた喉を潤してくれた」


 無機質に紅茶の種類を言う時雨に、質問が伝わらなかったリザは苦笑。


「アッサムな気分って、なんなんだよ。まぁ最後まで飲んだし、ウマイって事にしよう。それより、おかわりはどうする?」


 黙ったまま遠くを見るような時雨に、リザはちょっと困惑。


「いらない、と。じゃあ本題だ。アンタの知りたがっていた事を、私の知ってる限り全部話すから、ちゃんと聞いてくれよ」


 興味のある話題ならすぐ反応する時雨に、リザは少し笑ってしまう。


「げんきんな奴だな」


 話題を切り替えようと咳払い。


「まず、私達はギルガメッシュに捕まった。ここは、babironシュメール区画支店の四十九階。アイツん家の一部だな」


 応接室のドアの前にたどり着いた瞬間、不意にギルガメッシュが現れ、目の前が真っ暗になった。そして、今この豪華な広い部屋にいる。時雨にはつじつまが合う。

 その直後、時雨は怖気に襲われ、体中を震わせながら髪の毛から足先、着衣に不自然な点が無いか等。隅々を注意深く見ていく。


「ああ、お前美人だし。男だったら、ヤりたくなるカラダしてんもんな」


 リザから出たド直球の言葉に、時雨の白い肌は一気に赤くなってしまう。


「その点は大丈夫じゃないかな。私が下着姿でうろついても、アイツはずっとスマホを弄ってたからな。自信無くすよ」


 そう言って、リザは自嘲気味な笑みを浮かべる。男勝りな雰囲気ばかり目立ってしまうが、程よく締まった体に、時雨に負けずも劣らない胸を持っている。


「ありがとう」


 茶化した笑みはなく、改まった様子で見てくるリザを、時雨は理解できない。


「あん時は、アルを助けてくれたからな。その礼だよ」


 言われて思い出した。エンキドゥと部下達の集中砲火から、時雨が身を挺してアルベルトを守った事を。


「お礼を言われる事なんてしていない。あの時、私ができる最善手だった」


 謙遜でもなければ、自嘲でもなく、時雨は事実を述べた。


「ごめんなさい」


 頭を深く、深く下げたリザ。


「こうなっちまったのも、ウチのバカな弟が、ギルガメッシュにアタシ等を売ったせいだ」


 時雨はアルベルトが裏切りを示す前に、ギルガメッシュによって絶望のどん底に叩きのめされていた。


「リザ・マクスウェルとアルベルト・マクスウェルが、なにか言い争っていたくらいにしか…………そう……」


 応接室に入るまでの間、セキュリティに反応は無かった。それなのに入った直後、エンキドゥ達からの奇襲を受け、退路を断たれてしまった。ギルガメッシュは陽動に引っかかったふりをしてロキを出し抜いてみせた。どれも、予め作戦を知っている様な動きだった。


 アルベルトは作戦を発案したロキと接している。babironの内部にいるから漏れる可能性が一番高い。だから、内通者だったとしても、時雨には不思議でもなんでもない。

 優先度が低い筈のリザを二度も捕まえたのは、痛めつける制裁が目的。アルベルトは内通者だから捕まえる必要が無かった。

 それでもアルベルトにも攻撃してきたのは、凛陽と時雨に助けてもらえる事を見積もったのと怪しまれない為の偽装。死んでいなければ、最新の医療技術によって助けられるだろう、自信なのかもしれない。


「けど、悪いのは私だ。アルがこうなってしまったのも、あんたがこうして捕まったのも、ポニテちゃんが酷い目に遭ったのも、ロキの腕が吹っ飛んだのも、全部私のせいだ」


 リザは自分を責めて思い詰めた様子だ。


「関係無い。私と凛陽はギルガメッシュを追っていた。戦闘能力の低い私達では、マイナスの結果になる可能性の方が高かった。それが、早いか、遅いか程度の差でしかない」


 気を遣ったのではなく、論理的に分析して導き出した結論。己の非を認め、誠心誠意で頭を下げたつもりだが、謝罪は自己満足じゃないのかとリザは思い知らされる。


「ロキとあんたのいも――」


 咳払い。


「わりぃ、これから長い付き合いになるのに、あんたって呼ぶのは良くないな。こんな時だけど、改めて自己紹介をしないか。私の名前はリザ・マクスウェル。プロのコックを目指して修行中だったんだが、今はなぜかギルガメッシュ専属のコックだ」


 目を合わせてくるリザに怯え、時雨は伏し目がちになってしまう。

 待ってる間、紅茶のおかわりを注いでいると、ありふれた音に埋もれてしまうほどの微かな声で、時雨が自己紹介をする。


「…………時雨……真吹……時雨。妹の…………名前は凛陽」

「時雨ね、よろしく。ポニテちゃんじゃなくて凛陽ちゃんか」


 リザは時雨に目線を合わせすぎないよう注意する。


「凛陽ちゃんとロキなんだけど、今朝、ニブルヘイムでそれらしき二人を見た。かもしれない程度の、あやふやな情報だけで、どこにいんのか分かんないみたい」


 話している中、時雨は制服のポケット、その全てを血眼になって探っている。


「どうした?」


 時雨はなりふり構わず、ポケットを裏返しにしていく。はっきり声に出してなくても、その狼狽えぶりは痛々しく。凛陽がギルガメッシュになぶり殺されていた時に近い。


「だから、どうしたんだって」


 リザが時雨の腕をおもいっきりつかみ、一喝。


「いったい何があったんだ時雨」

「やめて!!」


 拒絶の悲鳴。時雨はまだ見知らぬ他人に触られ、力まかせに振りほどいた。

 リザはつかんだ自分の手と、身を縮め小動物の様に怖がる時雨を見る。


「ごめん。でも、見てられないんだ。あんた、困っているんだろ。私にできる事なんて、たかがしれてるけど、それでも力にはなりたいんだ。だから、話してくれよ」


 不器用に紡いだ言葉。

 時雨は恐る恐るだけど、リザの方を見てみる。どこか脆さを抱えているけれど、力強くて頼りたくなってしまう顔つき。

 時雨は話す事にした。口重そうにゆっくりと。


「メモ帳が無い」

「メぇモちょぉう!!」


 意外すぎて、リザは間の抜けた大声が出てしまった。


「め、メモ帳って、お前の大事なものって、メモ帳かよ。スマホとか、いや、それよりもっと大事な、凛陽ちゃんが持ってる炎の刀のような、そう言うんじゃないのかよ」


 心配して損したような、半ば呆れ、笑いたくなくても笑ってしまう。


「…………大事」


 ほんの少しだけ強調した時雨。


「悪かったよ時雨」


 リザが反省していると、急にドアが開く。


「ッハハハハッ、ハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ」


 下品な高い声を出さぬよう注意を払い、相手を見下すような太い笑い声。それが、豪華なリビングに響き渡る。

 声を聞いただけで時雨は引きつる。

 鮮血の赤髪、ユリの紋章に茨模様を織り交ぜ、自身の強さを誇示する黒衣。

 視界に入れば、惨劇を思いだし絶望が襲いかかる。


「ノロマぁ、久しぶりに笑わせてもらったぞ。ハッハッハッハッハッ。この俺を笑い死にさせる気か。ハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ」


 ギルガメッシュは恐怖で蒼白になった時雨を見ただけで、あまりにおかしいのか腹をよじらせる程の大笑いになる。


「そのままくたばっちまえ」


 地獄耳がリザの悪態を逃さない。ただ、悪意ある笑みはそのまま。


「気にいらねェ『不快』な態度だ。テメェらが『石長姫』程度の価値だとしても、すけこましな『ゼウス』や『パロミデス』に売ってもいいんだぞ」

「ハァッ? そんな事してみろ。私ら、舌を噛んでやるからな」


 立ち上がって怒るリザ。

 ギルガメッシュの口から次々と出てきた、どこか覚えのある言葉を聞いて、ただでさえ蒼白な時雨の肌がいっそう病的に青ざめていく。


「テメェがドゥーカ、いやエンキドゥに体を殴り潰されて不快だった事も、テメェが天叢雲剣の鞘で、俺の大事な部下の頭をスイカの様に潰し、その後、トイレでぶちまけた事も」


 執拗に、嘲るように語っていく。巨躯を誇る黒い獣に五体を殴り潰された事、初めて自身の手を汚し、不快な惨劇を作りだしてしまった事。忌まわしい暴力が再演される。


「テメェが禁忌を犯した事もな」


 誰もが持つ大事なものさえ、暴君によって踏み躙られてしまう。それによる戦慄と再演される暴力で、時雨は言葉が出ない。


「いい加減にしろ」


 リザがギルガメッシュの肩をつかんだ。


「一昨日といい、アンタは一人の女の子を、どんだけいじめれば気が済むんだ!!」

「調子に乗んなよ。テメェの弟にゴキブリを喰わしても、かまわねぇって事だよな」


 弟を盾に取られ、舌打ちと共に肩から手を離す。


「……………………見たの…………」


 絞り出した弱々しい声。一笑に付されただけで、消えてしまいそうなほど。

 人間であるリザは結果として屈したが、不快の塊、邪悪そのものを目の前にして、知り合ったばかりの時雨の為に戦った。それに触発されたのか。あるいは大事なものを奪われ、暴かれた、それをどこまで知ったのか、その真実を確かめたいからだろうか。


「ああ」


 すっと、手の平に収まる青いキャンパスノートが、ギルガメッシュの手から現れる。表紙には特に書きこみ等は無いが、所々よれていて使いこんである。


「見たぞ。ゼウスと戦う時は、雷を防御しないで避けるのが一番効率的で、常に動き続けるとか。全身から雷を放つ光輝は天叢雲剣で防御できねぇとか。一番笑えたのは、全裸で不意を突く事を検討かな」


 神殺しに向けた戦術。知られたくない相手に知られ、時雨はがくりと俯いてしまう。


「ヘラクレスは懐に潜り込んでから居合で一撃。オーディンのグングニルは防御を固める事。ルーン文字による魔法は様々な事象を引き起こせるが、発動が遅いので、接近戦に持ち込んで素早い攻撃を叩きこむ。くくっ。ブラフマーは彼の創造物を、この世界にある物質以下の幻と見切り、くくフフっ。ひたすら斬り続ければ、やがて本体も斬れ。はははははははっ」


 堪えきれなくなりギルガメッシュは噴き出した。


「ハハハハ。悪魔、悪魔とウルセェ妹と変わらねぇー、イタさ。刀もロクに抜けねぇ負け犬の癖に、笑いの斬れ味だけはあるみたいだ。ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


 豪華なリビングにまた笑いが響く。

 笑い声がうるさい。時雨はその程度にしか気にしていない。

 笑いがやみ舌打ち。ギルガメッシュが乱暴に、すました時雨の顎ごと体を持ち上げる。


「んん」


 苦悶する時雨。それをギルガメッシュが引き寄せる。


「テメェ、クセぇなぁ。負け犬クセぇ、ゲロクセぇときた」


 時雨は軽く放られ、体を床に打ちつけてしまう。


「シャワーでも浴びてろ。そうすりゃ、汚物からメス豚くらいにはなんだろ」


 ギルガメッシュは時雨に意を介さず、スマートフォンを取り出してbabironの業務をこなしていく。



 熱いシャワーを全開にし、時雨はそれを全身に浴びる。足、お腹、胸、腕等よりも、まず優先すべきは触られた顎と首の辺り。そこを入念に、穢れを払うように洗っていく。


 優雅にくつろげる円形のバスを備えたバスルーム。ここだけで、ニブルヘイムにある六畳間よりも広い。


 出たら、忌まわしき存在に出くわす。髪の毛一本一本、細心の注意を払いながら、シャンプーですすいでいく。そして、リンス、トリートメントも同じくらい時間をかける。

 使い捨てのボディスポンジで、体のすみずみをゆっくりとゆっくりと洗うことで、時間を引き伸ばしていく。


 更に時雨は、髪に全身、触られた顎から首の辺りを、念には念を入れて二度洗いまでして時間を稼いだ。三度目も思考に浮かんだが、襲ってくる疲労に意識を失くす可能性と、それに伴う危険性がよぎり断念した。


 乾かした髪を整え、制服に着替えた時雨が、恐る恐るリビングのドアを開ける。

 苦さを濃縮し、そこにカラメルを微かに混ぜた臭いが鼻をつく。入って来た事に気付いたリザが、間が悪いと言いたそうに時雨を見る。


「よぉ、ゲロ臭さは取れたが、まだクセぇなぁ」


 丸太を楕円に加工したテーブル、そこに置かれた灰皿には五本の葉巻。十人掛けの赤いソファ、その真ん中にギルガメッシュが足を組んで座り、葉巻の紫煙を吐き出す。


「…………葉巻を吸っているから」


 時雨がボソリと言う。


「女の水浴びは長い。それくらい俺は理解してるし、待つ事においても俺はナンバーワンだから、ノロマがノロノロしてたって問題ねぇ。だが」


 銃声が二回。時雨は両脚を撃たれ跪く。


「時雨」


 心配で駆け寄るリザ。悲鳴を上げず苦痛に満ちた時雨、きれいな白い脚が滴る血で染まる。

 それを、ゆったりと座ったままギルガメッシュが見下す。


「テメェは俺に口答えをした。そして、俺がせっかく用意した着替えを着ちゃいねぇ」

「それで撃ったのか!!」


 怒るリザ。


「あれなら、すぐ立てるから問題ねぇ。だが、俺の所有物である自覚がねぇのは問題だ。今のは、そのオリエンテーションだ」


 リザは睨みつけたまま。


「テメェの両親の担当医には借金があってなぁ、俺が個人的に肩代わりして――」


 察したリザは睨んだまま目線を落とす。


「………………………………………………………着替える…………………………」


 そう言うって時雨は、ゆっくりと立ち上がる。傷は塞がっても、血が流れた跡はまだ生々しく残っている。

 まだおぼつかない足取りでリビングを出て行く。


 リビングのドアが開く。花のモチーフをあしらった真っ白い靴を履き、おずおずと出てくる時雨。丈の短いワンピースは甘々ガーリーなピンクで、フリルとリボンをふんだんに使っている。それに黒タイツと言う装い。

 時雨の肌は恥辱で今の服装以上に濃い。

 神々の宴で着る事になった青いドレスにも抵抗を感じていた。だが、この服装には、着る前から本人には説明できない生理的嫌悪さえあった。


 だけど逆らえば、拳銃で撃たれる以上の暴力。間近で見せつけられた光景を、凛陽が遭った様な暴力を、忌避している苦痛を味わう事になってしまう。


「ッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ」


 ギルガメッシュは、自身が用意した服を着ている時雨を見て、腹を抱えながら大笑いする。


「似合ってねぇ、実に無様だ。俺の見立て通り、テメェにピンク系は似合わねぇなぁ。ッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ」


 飽きたのか笑いが止む。


「ノロマ。テメェには、三流芸人くらいの価値はあるようだな」

「価値………………」


 時雨は弱々しく裾をつかみ、自分が言った言葉を呪文の様に反芻しながら、ギルガメッシュの方へと歩んでいく。

 ベッド大の丸太を楕円に加工したテーブル。それを隔てた距離。


「…………………………………………………………………………………………」


 時雨は口重そうに話しているが、静まりかえった今のリビングでも、聞き取るのが困難な微小な声。これが限界だった。


「メモ帳を返してやれよ」


 時雨のすぐ傍。一人掛け用のソファに座ったリザからだった。


「コイツは、もう俺の所有物だ。返す義理なんてねぇよ」


 現れ、すぐに消えたメモ帳。それを見てしまった時雨は辛くなり俯いてしまう。


「時雨には三流芸人くらいの価値はあるんだろ。それに、アンタから笑いをとった。ようは仕事をした。あのメモ帳をギャラにしたっていいだろ」


 リザの話しを鼻で笑うギルガメッシュ。


「ギャラ? ねぇよ。ノロマは汚ねぇ格好でベッドで寝て、汚ねぇ格好で廊下やリビングを歩き、ソファに座った。俺専属の料理人から厳選した紅茶を飲み。四十分間シャワーを浴び、俺が直々に選んだ人気のあるブランドの服を着た」

「つまり、ギャラは十分支払ったってか」


 言わんとする事が分かったリザ。それでも言わずにはいられなかった。


「だったらせめて、新しいメモ帳くらい渡してやれよ。本来なら返してやるべきだけど、メモ帳でメモ帳を交換した。そう考えりゃ別にいいだろ」


 家族を盾に脅されるにも関わらず、リザはギルガメッシュに食い下がる。


「ノロマにその価値はねぇよ」

「私に………価値があれば、新しいメモ帳くれるの?」


 やっと聞こえる声が出た。時雨がギルガメッシュと向き合う。


「ああ、俺にその価値があると思わせたらな」


 時雨がギルガメッシュの前で天叢雲剣を現す。


「時雨、それは大事な奴なんじゃ」

「ほぅ、この俺に差し出す気になったか」


 首を振る時雨。


「違う。天叢雲剣には神々の情報が入っている。高天原、オリンポス、ヴァルハラ、ケルト、天使、エジプト、ヴェーダ、インカの情報を教える」


 ギルガメッシュは一笑に付すと、肩まですくめてみせる。


「どうせ、メモ帳に毛の生えた程度だろ。そんな時代遅れの情報いらねぇよ」


 スマーとフォンを見ながら立ち上がり、リビングを出ようと歩き出す。


「本当に?」


 舌打ち。


「テメェのメモ帳の価値は、ッハハ、ヤキトリに関する事だ」


 それがどう言う事なのか。時雨は疑問に感じ、首を傾げる。


「どう言う意味?」


 ドアの前でギルガメッシュが振り返り、笑い出してしまう。


「ッハハハハ。お姉ちゃん、お姉ちゃんとバカみたいに慕ってくれる妹を、テメェのメモ帳では、うるさくてくっ付こうとしつこい、害虫として扱ってんじゃねぇか。ハハハハハハハ」


 時雨はなにも言わず、じっとしているだけ。


「ハハハ。テメェは蘇らせた妹に、汚れ仕事を押し付ける癖に、血に汚れた怪物、不快な存在だと、こき下ろしていたのは傑作だったぞ。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


 皮肉に歪み切った邪悪な笑みを浮かべ。無意識に気を配っていた笑い方もできなくなる程、ギルガメッシュの中ではおもしろかったのか、半ば狂気とも言える高い笑い声になった。


「ハハ。そう考えると、俺は優しさにおいてもナンバーワンの様だ。ハハ。なんたって、ノロマを自称妹すなわち『他人』から、ハハ。わざわざ隔離してやったんだもんなぁ」


 ギルガメッシュは、まだ笑いが冷めやらぬまま、そう言い残してリビングを出て行く。

 暴君が去り、その気配が遠ざかると、時雨は緊張の糸が切れ、絨毯にへたりこんでしまう。


 リザは動けなかった。声をかけることさえもできなかった。

 時雨は凛陽を嫌悪している。それを聞いたリザは、弟のアルベルトに姉であり家族である事を否定された瞬間を重ねてしまう。


 それ自体も衝撃的で、ギルガメッシュの嘘だと思いたかったが、本人は一切否定しようとしなかった。口数も少なく、恐くて否定できなかった可能性を信じたいが、本当である可能性を考えただけで背筋が凍りつくようだ。


 時雨は俯いたまま動こうとはしなかった。ギルガメッシュに強制させられた可愛らしい格好で膝を折って座る様は、美しくも退廃的な人形とも言える。


「大丈夫か。私はその服、似合っていると思う」


 面倒を見ずにはいられなかった。だが、とうの時雨は俯いたまま身じろぎ一つもしない。リザはやり方を変えて、あからさまに威勢のいい声で話しかけてみる。


「そうだ。腹減っただろ。ピザトースト食べるか?」


 時雨の無反応ぶりに、今度は耳元で囁くようにした。


「ふわっトロな天牛のモッツァレラに、カリッカリにしたトースト。それにはコクのある特製トマトソースを、た~っぷり塗ってあって。トッピングは香り豊かなサラミに、甘辛オニオン、それを引き立たせるピーマン。どうだ、ウマそうだと思わないか?」


 食欲をそそろうとする誘惑。だが、時雨のお腹は一切鳴らない。リザはじれったくなり、肩をおもいっきり叩く。


「よし、作るから食え。お前は腹が減ってる。腹が減ってるから、ソファにも座れないんだ」

「痛い」


 振り向いた時雨は上目使いで抗議してくる。

 かわいいと、リザは心奪われそうになったが、あざといと打ち消した。そのお返しに、シルクよりも繊細な髪をグシャリとしてから、このフロアにある厨房へと足を向ける。


 トロぉっとしたチーズ、トマト、きつね色に焼いたトースト。特製トマトソースの香りに、トッピングのサラミから生じるハーブが合わさり。かいでしまったら、子供の様にわくわくしてしまいそう。


 丸太テーブルの上には、リザが作ったピザトーストとサラダが並ぶ。でも時雨は一切手を付けようともしない。


「腹減っただろ。さぁ、食べた、食べた」


 チーズの美味そうな光沢。リザがはりきった様子で促すも、時雨はため息をこぼす。


「二日も食ってねぇんだ。飯を食わなきゃ体もロクに動かないし、心も元気にならないぞ」


 時雨は窓の外の方を眺めている。


「しぃ~~~ぐぅぅれぇ~~~~」


 唸り声。食べてくれず、とうとうしびれを切らしたリザ。


「いいから、食え」


 気迫。リザは作ったピザトーストを食わせようと、時雨の口をこじ開け、ムリヤリ押し込んだ。

 思わず食べた時雨。

 口の中に広がる、ふわっトロカリッの気持ちいい食感。芳醇な甘さとジューシーな塩気に、特製トマトソースの風味とコクが合わさって、よりジューシーに。後味のハーブが爽やかだから、また食べたくなりそう。


「美味しい?」

「なんで疑問形なんだよ」


 とぼけた様な時雨の反応にリザはツッコんだ。


「食べていい?」

「いや、お前んだし。冷める前に食ってくれよ」


 時雨は「いただきます」と手を合わせ、リザからピザトーストを貰い、口に運んだ。


 サクッ。


 ふわっトロなチーズに香り立つ特製トマトソース。溢れるサラミの旨みに、玉ねぎの甘辛さが絶妙に絡み合い。刻んだピーマンが引き締め、ハーブの香りが食を進めたくなる。

 無表情のまま何も言わず、でも食べていく時雨。

 完食すると、レタスにアボガド、さらにトマトを、マイルドなドレッシングで味付けし、クレソンを散らしたサラダも、きちんと食べて「ごちそうさま」。


「リザは本当にコック」

「まぁ、はしくれだけどな」


 少し照れも入りながら、リザは紅茶を淹れる。


「さっきは、どうして食べようとしなかったんだ?」

「食べたくなかった」

「食べたくなかったって、二日も食べてないのに、腹減らないのか? それとも、朝からピザとか重くてムリだったとか」


 時雨は少し間を置く。


「食べると言う状態になれなかった。ここにある全てが不快だから」


 少し言葉に詰まるが、リザは苦笑しながら話す。


「それって、私も、時雨の不快なもんリストに入んのかよ。こんなにがんばったのに、マジへこむわ~」


 わざとらしく肩を落としたリザ。


「リザは…………不快じゃない。この環境が不快」

「もういいよ」


 抑揚の少ないか細い声、繊細な美しさは不快以外では変化に乏しく。今のリザには時雨が何を考えているのか分からず、言葉通りに受け取っていいのか分からなかった。


「そんな事より、私から質問していいか?」

「いい」

「本当は、着替える前に話したかったんだけど、時雨が着ていた制服ってローズ・エルシー高校のだよな?」


 頷く。


「うはぁ、あったま良い高校だなぁ。まさか、凛陽ちゃんも同じじゃないよな?」


 また頷く。


「マジか。ありえねぇ。つか、負けた~~」


 頭を抱えるリザに時雨は首を傾げる。


「けど、アーマーを着てた時って、確か、中はシャツだったよな。いつ着替えたんだ?」

「あの制服は、私が神の力に目覚めた時に着ていたもの。体の一部に近い」

「一部? 神の力? さっきの着替えは脱皮みたいなもんなのか?」

「概念としては近いけど、もっと厳密に言えば初期(デフォ)設定(ルト)に戻って、今はこの格好」


 時雨の説明に、リザは「ふ~ん」と要領を得ていない様子。


「時雨の体が元に戻っていくのを見たけど、神の力か………そうなると、二人は大昔にもいたのか?」


 もしかしたらと驚いて、大きい声を出してしまうリザ。


「違う」


 静かに否定した後、時雨が天叢雲剣を出してみせる。


「私と凛陽は旧神々の時代からいた神じゃない。この天叢雲剣と、人間の私や凛陽が融合した事によって、神器が持つ力を神の様に使っている」

「どう言う事だ。つまり、時雨と凛陽ちゃんは、昔からいた神じゃない。人間って言う事でいいのか?」

「半分だけ」


 人間が神になる。何が起こっても不思議じゃない世界なのに、信じ難く。リザは言葉に詰まってしまう。

 天叢雲剣が消える。


「ロキとは、どこで知り合ったんだ?」

「……………………ギルガメッシュに家族を殺された直後、ロキが通りかかった」


 地雷を踏んだと、リザは神妙な顔つきになる。


「ギルガメッシュは、私が禁忌を犯したと言った。私は、死んだ凛陽を蘇らせるよう、通りかかったロキに頼んだ」

「待てよ。ロキにそんな力があんのか。アイツは、いったいなんなんだ」


 時雨は冗談なんか言ってない。


「ヴァルハラの神。発展に尽力した後、全ての勢力の垣根を越えて、神を引き抜き、人間や怪物を集め、軍隊を編成。後世に『ラグナロク』と呼ばれる世界規模の戦争を引き起こした」


 遠い時代のおとぎ話よりも、うさん臭い存在だった。なのに、冗談みたいな、守る必要もない約束を守ってくれた。

 攻撃を浴びても、浴びても、再生する肉体。それよりも、裏切られたって笑い飛ばしてみせる剛胆さ。結果的に失敗してしまったかもしれないが、アルベルトを助けてくれた。


「私と凛陽は神器とロキの力が融合して、神の力を得た。引き換えにロキの仲間になった」

「ごめん………………………」


 また頭を下げるリザに時雨は首を傾げる。


「どうして謝るの?」

「私のせいで話す事ない秘密を話させてしまった。それに、こうして捕まったのも、大事なメモ帳を取られたのだって」

「……違う……」


 取り乱してしまうリザに、時雨は小さな声だけど言った。


「私がリザに話したのは、中途半端に情報を持っているから。ギルガメッシュが天叢雲剣を欲している以上、私は殺される可能性の方が高かった。結果、軟禁され、メモ帳を奪われるだけの方が想定外」


 淡々と説明する時雨に、リザはまだ胸を締めつけられるが、さっきよりは楽になった。


「そうか、それならいい。だけど」

「私からも聞きたい事がある」


 自分から聞いてくれる時雨に、リザはどこか嬉しそうだ。


「いいよ。なにを聞きたいんだ?」

「どうして人間なのに、ギルガメッシュに反抗的な態度が取れるの?」


 意外すぎる質問に、噴き出してしまいそうだったが、腕組みして少し考える。


「前は、アルに魔法を作らせる為の人質だし、簡単には殺されないだろって余裕かな。まぁ今は、神なんかに負けたくないって意地かな」


 リザは覗きこんでいた。時雨の目を。


「時雨がいるからかな」


 少し赤くなったリザが時雨の目に映る。


「私はなにもしてない。ここにいるだけ」


 リザが時雨のおでこを小突いた。


「気にすんな」


 そう言って立ち上がる。


「できることをすりゃいい」


 時雨は見上げたまま考え込んでしまう。どうして、そんな事を言ったのか。


「時雨、私はそろそろ仕事に行くよ」

「仕事?」

「昼飯の準備だよ。メンドウにも、ギルガメッシュ様・・・・・・・・は、豪勢なのが食いたいんだとよ」


 皮肉な口ぶりとは裏腹に、リザは軽快な足取りで厨房へと向かう。

 時雨はリビングで一人。ソファに座ったまま、窓の方を眺める。いつ来るか分からないギルガメッシュへの恐れと、広大で華美な空間の居心地の不快さから、外へ出たいと強く望んだ。


 babironシュメール区画支店五十階、ギルガメッシュの私邸。その食堂には四十九階のリビング同様、下界を見渡せる巨大な窓から光を取り入れている。

 純白のクロスがかかった長テーブルには、リザの作ったランチが並ぶ。


「食ってやるか」


 ギルガメッシュはかったるそうにスプーンを取って、レンズ豆のスープを一すくい二すくい口に入れる。


「スープは飲めるな。で、このオードブルはなんだ」


 パプリカと厚く切ったニンジンを台座に、赤い瞳をしたぶよぶよの目玉が五つ。そこに、おどろおどろしい緑のソースがかかっている。


「弟にゴキブリを食わせたくない癖に、俺にはグロデスクなモンを出すのかよ」

「リザ、あの眼は?」


 食堂の隅っこで、リザと一緒に立っている時雨。ギルガメッシュに命令されて、ランチの様子を見届けなければならない。


「モノケロスのオスの眼さ。一本角を生やした魚。本当は角が良いんだけど、目玉も珍味として人気だ。それに栄養価も良い」


 自信たっぷりにリザは言った。


「食ってやるよ」


 緑のソースがかかった目玉にフォークを刺し、嫌そうに一かじり。マシュマロに匹敵するやわらかさに、程よい甘酸っぱさ。見た目からは想像できない味に、ギルガメッシュは少し動揺する。


「…………見た目以外は及第点か」


 そう言ってギルガメッシュは目玉を三つ、台座になったニンジンとパプリカをつまんだ。


「さて、メインか」


 メインのパイ包みを切り開くと、赤ワインの香りが広がる。中には、よく煮込んだラム肉と刻んだマッシュルーム、玉ねぎが詰まっている。

 黙々とギルガメッシュは、ナスのソテーとブロッコリーを無視して、パイ包みを崩しすぎないようにしながら、半分くらい食べた。


「こいつが一番マシだな」


 そう言いながらカットしたバゲットを千切り、口直しした後。リザが作ったランチを流麗な所作で食べていく。

 時雨にとって、その光景を見なければならないのも不快だった。嗜虐的に死をもたらす嫌悪すべき存在が、生きとし生けるものを飽きもせずまた喰らう。食事と言う当たり前の光景が邪悪な光景にさえ見える。

 メインの皿の上でフォークとナイフが揃う。


「腹は満たせた」


 ギルガメッシュが時雨を見て、鼻で笑った。


「負け犬クセぇが、食堂にラフレシアを飾るよりはマシだな」


 立ち上がり、食堂を出て行こうと歩き出す。


「ディナーは魚にしろ」

「はいはい、かしこまりました」


 ギルガメッシュはリザの不敬な態度を咎めず、出て行った。


「さて、今度は私達の飯の時間だ」


 リザの元気な声で時雨の緊張が少し解ける。


「時雨は先に下に戻ってなよ。付き合わされて大変だったろ」


 憂いを漂わせながら、ゆっくりと頷く時雨。リザに言われた通り、四十九階のリビングへと向かう。


 時雨とリザは四十九階のリビングでランチをとる。

 ウッドテーブルには、ギルガメッシュのランチで使用した野菜のラタトゥイユ。カットしたバゲットの上にレタスを敷き、軽くスパイスをまぶし、ミディアムレアに焼いたラム肉を上にのせ。アボガドディップを塗った。アボガドとラムのバゲット。それが二人分。


「どうだ、ウマイか?」


 一つ食べた時雨は二つ目に手を伸ばしていた。それを食べ終えてから、リザに話しかける。


「どうして、ギルガメッシュの為に料理が作れるの?」


 質問を質問で返されて、リザは「ぇえーっ」と戸惑う。


「そうだな………コックとしての私を必要としているから、かな」


 言ったリザは恥ずかしくなったのか、少し顔を逸らす。


「リザは今の生活に満足してる」

「ふふっ、ナンバーワンの傍にいるから、ナンバーワンのコックになれるってか。ない、それはないな」


 時雨の言葉を冗談まじりに返した後、ため息が出てくる。


「家族を人質に取られてんのに、満足もクソもねぇよ。外出なんて自由にできないし。料理だって未熟なのに、アイツ用の味付けが身に染みちまう。やんなっちまうよ」


 リザが胸の内にある不満を口にする中。時雨は無関心そうに、ラタトゥイユをゆっくりと食べていた。

 スープボウルにスプーンを置く。


「毒殺はできなかったの?」


 時雨の口から飛び出した物騒で容赦の無い言葉に凍りつく。

 それを乾いた声で笑い飛ばす。


「ずいぶん物騒な事を言うねぇ」


 拳を強く握る。


「ないな。私の流儀に反する」


 声を落とし、毅然とした態度で、リザは時雨に言った。


「分かったら、私の前で二度と言うな」


 鋭く斬りつけるように睨みつけた。

 殺意を感じた時雨は少しだけすくんでしまう。

 時雨の様子に気づいたリザは、とりなすように笑いかける。


「ま、まぁ、ギルガメッシュは、アイツの中で、なんらかの価値を見出したら、多少のワガママは聞く。ジムにサンドバッグを付けてもらったしな」

「……………………………………サンドバッグだけ?」


 弱々しく尋ねる時雨に、言ってるリザも自信を無くしていく。


「ああ、やっぱアイツ、ケチだ。ネットできねぇし、テレビは見れるけど、世界の料理に関する事か、モンスターチャンネル、ギガンテス式トレーニングプログラムくらいだからな……」


 ため息。話題が途切れてしまい、静まり返るリビング。その中で二人はランチを済ませた。


「ごちそうさま」

「ごちそうさん」


 時雨が手を合わせている間、リザはささっと食器をまとめていく。

 そして、そのまま立ち上がり厨房に向かおうとするリザを、時雨が小さな声で「リザ」と呼び止めた。


「なんだい?」


 呼んだものの時雨はなかなか言い出せず、口の代わりにもじもじと指が動く。

 リザはまとめた皿をテーブルの上に置いてから、目線を合わせる様にしゃがみこんだ。


「………………私に料理を教えて」


 聞き取りづらい微かな声。耳を澄ませていたリザは、時雨の言った事に耳を疑った。


「料理だと!! 時雨が料理」


 驚愕したリザ。唐突な話しに思考がついていけず、しゃがんだまま倒れそうになる。

 咳払い。


「ちょっと、座らせてくれ」


 頭の中を整理しながら、リザはソファまで歩き、ゆっくりと座る。


「マジ、どうしたんだ? 料理を習うだって、本気で毒を盛るつもりか?」


 時雨は首を横に振った。


「………毒は盛らない。ギルガメッシュは不死性に加え、反射の能力を持っている。それの対応範囲は不明。検証すれば、最低でも私が毒で苦しむ。最悪の場合は私とリザが、ギルガメッシュに死よりも恐ろしい目に遭わされる。検証した時の危険度が高すぎる」


 論理的な説明にリザは渋々納得する。


「それならどうして、私から料理を教わりたいんだ?」

「新しいメモ帳を手に入れる。ギルガメッシュは『俺にその価値があると思わせたら』と言った。リザは多少のワガママを聞くと言った。だから、サンドバッグを設置させる事ができた」


 時雨の言葉に納得しかけるが、リザは疑問を挟んだ。


「ん、新しいメモ帳? 奪(と)られたメモ帳を取り戻さなくていいのかよ。あれには、大事な事がいっぱい書いてあんだろ」

「いらない」


 なんの躊躇もせずに時雨は言った。


「いらないって、と、取り戻さなかったら、もっと酷い事になるぞ。凛陽ちゃん、お前が凛陽ちゃんを嫌いだって、証拠付きでバレるんだぞ。そ、それでいいのか?」


 リザの方がかなり動揺する。凛陽がメモ帳の中身を知ってしまったら、どれほど傷つく。大好きな姉から、実はとてつもなく嫌われていると知って、平気でいられるだろうか。気が気でない。


「火の無い所に煙は立たない。誰かに知られてしまったら、後は広まるだけ。それに真実である以上、変えようがない」


 諦めとは違う、結果から割り出した時雨なりの分析。そして、導き出した結論。それを流暢に感情の淀みなく言った。

 絶句した。時雨は凛陽が嫌い。あまりの無関心さに。

 静かに時雨が立ち上がる。


「リザ、私に料理を教えて、ください」


 たどたどしいのに、抑揚のない無機質な言い方。でも、背筋をきちんと伸ばし、上体を深々と丁寧に下げ、そのあと視線は少し前方に。

 それを美しくも自然な所作で時雨はリザに頼んだ。


「頭を上げてくれ。そんなにメモ帳が欲しいのか? また、ギルガメッシュに奪われるかもしれないんだぞ。それでも、欲しいのか?」


 リザは険しい表情で警告する。


「欲しい。私にとってメモ帳に書くと言う行為は、秘密が漏れる危険性よりも優先させたい、落ち着かない状態を安定させる為の手段。それが、できないと言うだけで、私はとても不快」


 譲れない。小さな声を聞こえる様に搾り出して時雨が、リザに窮状を訴えかける様に自身の胸を押さえていた。


「分かった」


 頷くリザ。


「その代り、時雨の口から、凛陽ちゃんが嫌いな理由を教えてくれ。それが、料理を教える条件だ」

「それと料理になんの関係があるの?」


 条件の意図が分からず、時雨は疑問を挟む。

 リザはどう説明していいのか、少し答えに詰まった様子。


「……そうだな。基礎はやってれば、遅かれ早かれ身に付くもんだ。けどな、ギルガメッシュとはいえ、客だ。お客に出せる料理となると、技術を越えて心意気が大事になる…………」


 説明のし辛さにじれったくなる。


「これは、私の問題だ。時雨はメモ帳欲しさに料理を作る。それは、それでいい。けど、教える私が、気持ち良くお前に教えるには、知る必要がある。お前の事を」


 歯切れ悪く、でも強く口に出したリザ。

 時雨は説明する。


「私が凛陽を嫌いな理由はメモ帳に書いた通り。凛陽は簡単に人を殺してしまう。私の前で傷つき、死にすぎる…………不快」


 理解するのに時間がかかった。凛陽は大好きな時雨を守る為に、命の限り献身的に戦っていた筈だ。なのに、それを不快の一言で片づけてしまう。身勝手な精神に堪えられず、リザはテーブルを殴った。


「ふざけんなッ!! 凛陽ちゃんはお前を守る為に戦ってたんだろ。今もお前を取り戻そうとしている筈だ。それを不快だなんて、酷すぎる」

「……………………話した。条件は満たした………………………………………」


 怒りに怯えながら、時雨は言った。

 リザは人間味の欠片も無さに激昂した。


「いいわけないだろ。アンタに心は無いのか!! アンタはギルガメッシュよりも、クソッタレだ!! なんで妹を、なんで凛陽ちゃんを蘇らせたりしたんだ。アンタにとって、凛陽ちゃんはチェスの駒なのか!!」


 持てる気持ちを全部ぶつけ。リザは息を絶え絶えにする。

 強い怒りに晒された時雨は、床に両膝を突いていた。全身に鳥肌が立ち、苦しそうな息づかいをし、青ざめてもいる。それは死を感じた時に近い。


「………………………………………………………………………………私は……」


 反論に詰まる。

 歯がゆそうに時雨は、口をわなわなと動かすだけで、声が出てこない。

 そして。


「……私は、凛陽を蘇らせた時に、言い表す事のできない、なにか大事なものを失ってしまった。それが、何かは分からないけど。ただ、蘇らせた時から、凛陽が凛陽に見えなくなった」


 無機質な話し方をしているのに、締めつけられる様子の時雨。


「それなのに、凛陽が傷つく姿を見る度。心臓の鼓動が異常に速くなり、吐き気が込み上げてきて、私まで一緒に痛めつけられた感覚になる。それが、不快」


 リザは黙って頷く。


「一昨日。凛陽がギルガメッシュに、再生できなくなるまで追い詰められた時。私はバラバラになった凛陽を見たくなかった。でも、私の内側で天叢雲剣とは違う、なにか別の、声とは違うざわめきが『見ろ』としつこく言ってきた。私は、それに従い見てしまった」


 時雨自身、何を言っているのか、分からなくなっていき混乱する。


「……私は……ざわめきの正体を知りたい」


 解けない疑問に、時雨はどうすればいいのか分からない。


「分かった」


 リザが傍にしゃがんで、苦悩する時雨を覗きこんだ。


「心が無いなんて言って、悪かった」


 謝られて、時雨は安心を覚える。

 怒りの感情を露わにしていたリザが、急に穏やかになり、あまり見てない表情の変化。


「約束通り。私が責任を持って、時雨に料理を教えるよ」

「皿洗いをすればいいの?」


 どこか無垢に尋ねてくる時雨。そのきれいな額をリザは軽く小突いた。


「まずは休んどけ。雑用ならイヤと言う程するさ」


 そう言って晴れやかな笑みを浮かべた。

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