嘘の手紙

 それから5年生、6年生と、私は自分の性格を探すように、いろんな人格を演じながら過ごしました。

 どれもうまく自分に合わず、迷いながら生活していきました。

 そして6年生の三学期。もうすぐ卒業です。


「今日は卒業式の日に渡す、親への手紙を書いてもらいます」


 学活の時間に担任から告げられた言葉。

 そうして配られる、長方形の真っ白い紙に黒い縦線が引かれたシンプルな便せん。


「書き終わったら先生に見せて、オッケーだったら封筒に入れるから、そこまで終わったら静かに過ごしてください」


 じゃあはじめと、先生が言うとすぐに騒がしくなる教室。

「だるいー」「なに書こう?」「一緒に書こー!」

 いやいや言いながらも楽しそうに鉛筆を手に取ったみんな。


 この教室内でこの時間を一番嫌に思っているのは私だと思いました。

 親に手紙? あの、親に? ありえない。

 しかし、先生にチェックもされるし、書かないわけにもいきません。

 そこで私は、これまで小説をたくさん読んで得た知識、そして書いてきた自分の文才と想像力を使って、あたかも「素晴らしい親にいつもは言えない感謝をこの日だけ伝え、そして中学生になってからもどうぞよろしく」という完璧な内容の手紙を書き終えました。


「お、高杉、早いな、一番だぞ」


 先生に見せに行ったとき、そう言われました。そりゃそうだ。想像で書いただけなんだから。


「よし、よく書けてる。おっけー!」


 そして私の嘘で塗り固められた手紙は綺麗な封筒にしまわれました。


「はやーい! なんて書いたのー?」


 クラスメイトの何人かが、私の周りに集まってきました。


「大した事、書いてないよ」

「えー、でも参考にしたい! 教えてよー」


 それでも私は教えませんでした。全部嘘なんだから、マネするところなんてない、そう思いながらなぜかどんどん悲しくなっていきました。


 親への感謝は本当に、お金しかないと改めて認識してしまったからでしょうか?

 いっそ、「お金ありがとう」なんて厭味ったらしく書いてあげればよかったでしょうか?

「親に感謝なんてありません」と、あの時担任に伝えていれば何か変わったでしょうか?


 今でもあの手紙のことはよく覚えています。それだけ大きなひとつの出来事でした。

 親への感謝の手紙、やめませんか?

 なんであの時強制されたのでしょう?

 なんで親への手紙を先生が確認するのでしょう?


 親への感謝を強要することで傷つく子もいるってことを、少しは考えてほしかった。


 あれは小学生最後の悲しい記憶として、今もずっと忘れられません。

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