怪獣幼女と困憊研究員

ミルクココア氏

怪獣幼女と困憊研究員

「う〜〜〜、がーーーッ!」


 カーテンの隙間から差し込む白い日差しの中で、不知火元気しらぬいげんきは怪獣に食べられた。


 ガブリ、彼女の鋭い八重歯が鼻頭に食い込む。


「――!」


 今日はその痛みで目覚めた。

 とりあえず頭に乗られているのでまともに声も出せなければ抵抗もままならない。


「……ふむふ(痛い)」


 手を伸ばし、頭部に張り付く怪獣を引き剥がす。


「うー! がー!」


 ご機嫌な尻尾が顎を叩きまくる。

 なぜ横ではなく縦に振るのだ。


「……ん、おは――」


 ペチン。


「おはよ――」


 ペチン。


「お――」


 ペチ、と次に尻尾が顎に触れたタイミングで彼女を自分の腹に下ろした。


「…………おはよう」


「おーあーよ!」


 そう口にして怪獣幼女ウガは腹の上で跳ねる。

 推定2歳の女児、金髪、オレンジ色の瞳、ミディアムの姫カットヘア。

 ここまでならばただの人間だった。

 腰から生えた若葉色の太めの尻尾、異様に鋭い八重歯。


 そう、この子は怪獣。

 今は元気が買ってあげた恐竜のポンチョを被っているが、恐竜ではなく怪獣だ。

 怪獣ではあるが同時に人間でもある。

 しかし間違いなく一般的な人間ではないのでやはり怪獣である。

 曖昧なのでいっそどちらも取ってウガは怪獣少女だ。


「パー、ごーはー」


 寝ぼけ眼の元気を揺すりながら尻尾で脇腹辺りを叩いてくる。まったく器用な子だ。

“パー”とは元気のこと、恐らくだがパパと呼びたいのだろう。

 それと朝食をねだられている。


「ウガ、降りて」


 と言って素直に降りる子ではない。

 そもそもこちらの言葉を理解しているのかすら怪しい。


「……やれやれ」


 ウガを持ち上げながら体を起こす。

 そのまま抱きかかえキッチンへ向かった。


 ◇◆◇


 怪獣幼女ウガとの出会いは2ヶ月前、元気が勤める生物研究所を退職しようと決意していた時だった。

 どうにもブラックぎみなこの研究所で溜まるストレスと疲労。

 募る不満に遂に退職を決意し、数日間悩みまくって書き上げた至高の退職届を上司に突きつけようとしていた日。


 怪獣が現れたのだ。


 上司の部屋の扉をノックしても返事が無かったので元気はその場を去ろうとした。

 だがその直後、部屋の中から物音がしたので居留守を使われたと思い、若干キレながら扉を開けた。


「失礼します。少しお話があるのですが」


 静まり返る部屋。

 居留守がバレて上司は今頃あの机の下で焦っているのだろう。

 何かやましい事をしていた証拠だ、最後にそれを暴いて脚色して嫌な感じに広めてやる。


 震えながらも勇み足で奥に構える机に向かう。

 わざと足音を立てて、この机の下に潜む上司にほんの少しでも圧力をかける。


「えーこほん、お話というのはですねこれなんですけど。出てきてもらえませんか」


 いつもなら絶対こんな反抗的な口調になれない。くどくど叱られるからだ。

 退職を決意すると強くなる元気であった。

 パシパシと退職届の封筒を指で弾く。


 しかしそれでも上司が動き出すことはなく、痺れを切らした元気は思い切って回り込もうと考えた。


「どーも」


 勝ち誇った気味の悪い笑顔をしている自覚があった。

 ニンマリと机の下を覗いたらそこには丸まったあの髭面の男が――いない。


 代わりに視界に入ってきたのは金髪の裸の幼女、寝息のようなものに体を上下させて時折ピクリと動く。


「――んなッ!?」


 元気は目を疑った。

 ヒト、それもこんな子どもがなぜ。まさか上司の娘なのか?

 若葉色の尻尾が机の天板を叩いた。

 なるほどさっきの物音はこれだったのか。

 ではなく! なぜ尻尾が生えているのだ!

 待て落ち着け不知火元気。

 まずはこの子をどうにかしなければ。


 元気は白衣を脱ぎ、幼女を起こさないようにゆっくりと白衣で包みながら抱きかかえた。

 尻尾だけは上手く包めなかったが今はどうでもいい。

 ひとまずここは退散して……どうすれば良いのだろうか。

 この研究所内で、白衣に包んだだけのほぼ裸体の幼女を抱えて歩き回るわけにはいかない。

 しかし外に連れ出したところで自分が不審者になるのは火を見るよりも明らかだ。


 この状況、まさか詰みなのでは?


「不知火?」


 幼女を抱きかかえる元気と部屋の入り口に立つ上司の目線ががっちりと衝突した。

 今更隠せない。言い訳も思いつかない。

 いよいよ通報されて刑務所生活、自分はこれからの長い余生で社会に復帰出来ず腐れ死んだように生きるんだ……

 目尻に浮かぶ涙、諦めから脱力する身体が浮いたような感覚に陥り失禁しそうになった。


「ぁい……」


 情けないうめき声が喉を通る。

 もう視界がどこを写しているのかすら分からなくなってきた。


「お前の子なのか?」


「――は?」


 一瞬で現実に帰ってこれた。


「いや、だからその子はお前の子どもなんだろ? 結婚してたんだな不知火。ナハハハ。どれ顔をよく見せてくれ」


 なんだ、いつも小言ばかり言う上司がなぜか優しい。

 子どもの前だからなのか、やたら機嫌が良いように見える。

 というか研究所に子どもがいることには言及しないのか。


「おー可愛いお顔でちゅね〜」


 赤ちゃん言葉!? あんたそんな言葉使う人だったのかよ!


 ペチン。


「ん?なんだ」


 上司の目線は下へ、元気も同じところを見ると若葉色の尻尾が上司の腹を面白げに叩いていた。

 ぽよぽよと揺れる贅肉、眠りながら心地良さそうにうめく幼女。


「んがぁ……」


 元気の腕の中で顔の向きを変えた。

 なんだか可愛いな……


「にゃにー!!!!!」


 ムンクの叫びもきっと驚くほど上司の顔は歪んでいた。

 そうだ、ヒトにはあるはずのないこの尻尾を見ればその反応が普通なのだ。


「ししし、不知火。その子はなんだ」


 先程からの様子も含めて見れば上司はこの子を知らない。


「いや知りませんが」


「ほへぇ?」


 アホの子のヒロインか。髭面のおっさんがほへぇとか言うんじゃない。


「なんか、そこで拾いました」


「ちょっと待て考えさせろ」


 そう言って10分経った。


「不知火、その子はなんだ」


「いや知りませんって」


 漫才をやっているのではないのだ。

 不測の事態とはいえ、そろそろ対応を示してほしいのだが。


「ん……がぁ……あ」


 大きな欠伸、その直後幼女は目覚めた。

 目線が合った。


「…………パー?」


「え?」


 胸に顔を擦り付けられている。

 なんだ、なんなのだこれは。


「おおお、おい不知火! 上司としての命令だ。その子どもを今すぐこちらに渡せ」


 興奮してそれを言うのだから上司がとんでもなく危険な人物に見えてしまう。

 指をわきわきとさせ、気色の悪い笑顔でこちらに迫ってくる。


「ちょっと、待ってください」


「ええいうるさい! その子は俺の研究対象にするんだ!」


「その言い方だとますます悪い人みたいですけども!?」


 上司の手が伸びて元気から幼女を奪い取った。


「ふひひ、小さくて可愛いでちゅね」


「うわぁ……」


 言わずもがな、これはダメな光景だ。健康に悪い。目から濃厚な副流煙を摂取している気分だ。おえー。


「パー? んーん、パー、パー!」


 上司の腕の中で暴れ出した幼女はあらゆる力を用いて解放されようとしていた。

 そして口を大きく開き、その鋭い八重歯で上司の豊満な指に噛みついた。


「ぎいやぁあああ!?」


「あぶない!」


 上司の腕から抜け落ちた幼女は床に落ちた。

 元気は名前の割に絶望的に運動が得意ではない。それでも死ぬ気で幼女と床の間に滑り込んだ。

 体の節々が悲鳴をあげた。

 しかし、そのおかげでこの子が悲鳴をあげることが無く済んだ。


「んがぁ? パー?」


 元気の腹の上で呑気な顔をしている幼女。

 まるで今の出来事を他人事のように思っているようだ。


「……怪獣かよ」


 ばたりと、元気は全ての力を失いしばらく動けないでいた。

 それから少しして――状況を把握した女性研究員達がすぐに外出して子ども用の服を見繕ってきてくれたおかげで、この幼女は白衣から解放された。


「不知火。ひとまずその子どもはお前が預かれ」


「ええ! なんで僕なんですか」


「そいつは所内の誰に対しても噛みつこうとしたんだ。唯一懐かれているお前以外に誰が面倒を見れる」


 そんな事を言われても自分は今日ここを退職するつもりだったのだ。

 何を言われてもこの子の面倒を見るのは難しい話になる。


 しかし確かにこの子は元気の腕から降りようともしなければ、他人に触れられようものなら老若男女構わず八重歯を向けた。服を着せる時にどれだけ苦労したことか。


「それにこのままにしておくわけにもいかないだろう? お前が嫌だと言うならここに縛り付けて外に出さないようにしなければならないが」


「……つまりこの子を軟禁すると」


「ぅがあ?」


 この子は元気が見ると嬉しそうな反応をしてくれる。

 全く意味が分からないが懐かれているのは事実のようだ。

 それなのに元気の答えひとつでこの子を軟禁という目に遭わせるかもしれない。

 無理だ。そんなこと……

 この子の辛い顔を見たくない、その感情に突き動かされてか「この子は僕が預かります」と自然と口からこぼれていた。


「決まりだな」


 尻ポケットにしまっていた退職届はこの瞬間、単なる紙くずと化したのは言うまでもない。さらば数日間の努力の結晶よ。


「とりあえず今日はもう帰って良いから、明日までにそいつの身の回りの環境を整えてやってやれ」


「はぁ……」


「いいか。お前の家に連れて帰る権利を与えただけで、そいつが研究対象なのを忘れるなよ」


 上司の眼光が元気の心臓を掴んだ。

 先程の変態からは打って変わって、今はひとりの研究者としての真剣な面持ちだった。


「それでまあ、ヒトに近しいだろう生物であるのに“そいつ”とか“研究対象”だとかだとどうも呼び方に統一性がないし、何より可哀想だ。だから誰しもが馴染みやすい名前をつけてやってくれ」


「名前、ですか」


 確かに元気もこの子を“幼女”としてしか見ていなかった。

 これから近しい距離で過ごすのにそんな感じでは信頼関係どうこう依然の話なのかもしれない。


「うがぅ?」


 元気と上司が言葉を発する度に顔をそちらの方に向けて首を傾げている。

 今はじっと元気の顔を見ているが、さてどんな名前が良いのだろうか。


「……これは今決めなきゃダメですか」


「そんなことは無いが、なるべく早い方が良いな」


 家に帰ってじっくり考えると言っても、その道中で何かが起きてなんだかんだでこの子の名前を呼ばなければならない状況になったと考えたら、今決めたほうが困らなそうだ。


「うが〜?」


 幼女の視線が横へ流れる。

 その先には上司がここで私的に飼っているトカゲの飼育箱があった。

 ホームセンターなどで普通に見る水槽、ただトカゲが生きられるように色々詰め込まれただけの殺風景な箱。

 その中でひたひたと歩き回るトカゲに全ての興味を惹かれたらしい。


「がぁ!? うがぁ! うーがー!」


「なっ、なに!?」


 突然暴れ出した幼女に体勢を崩されて元気は床に尻もちをついてしまった。


「ぐへえっ!」


 幼女が元気の腹を足場に立ち上がり、しかも跳びおりた。

 当然元気への負担は大きく、後日しっかり腹筋が筋肉痛になった。


「うーがー! ぐあ〜!」


 つま先立ちで机の上へ手を伸ばして飼育箱をバシバシと叩く幼女。


「にょわー!!! ゲーちゃん!!!」


 ゲーちゃん(トカゲのことらしい)は飼育箱の中で隅に固まって震えている。

 まるで蛇に睨まれた蛙。

 その瞬間ゲーちゃんは察した。

 自分は外にいる正体不明の脅威に捕食されるのを待つばかりだと。

 だから諦めた。ただでさえ短い命、これからどう生きようとどの道死ぬのだったら、それは今なのだ――

 コロリとゲーちゃんが天井へ腹を向けて転んだ。


「……ゲーちゃん?」


「あ」


 上司が飼育箱に近づく。

 元気は直感で全てを察した。

 この幼女、やりやがった。


「おわぁもうこんな時間じゃないですか! ではまた明日! 名前は考えておきますから!」


 不知火元気は幼女を脇に抱えて、上司の返事を待たずして逃げた。

 背後に「ぬおおおおん!」という上司の悲鳴が響く中、そして「きゃっきゃ」となぜか嬉しそうな幼女を見て大きなため息を吐いた。


 ◇◆◇


 これが怪獣幼女ウガとの出会い。

 ちなみに名前なんてゆっくり考えている時間が無かったのでほとんど「うーがー」としか話さなかったことからウガと名付けた。

 戸籍関係は詳しい人に丸投げしたので、こちらが気にすることはこの子は今は正式に“不知火ウガ”という名前であり、不知火元気の養子であるということ。


「ほら、野菜も食べなさい」


「うぅ! うがぁ!」


 育児経験2ヶ月。しかしある程度成長している場合からのスタート――

 ウガがミニトマトを掴んだ。


「おっ食べ――んぐぉおお!?」


 何が起きたのか……苦しい。

 ウガを見ると身を乗り出して元気の朝食からウインナーだけを一心不乱に盗み食いしている。


「ごふぉっ!」


 鼻から息を吸い込み、全力で咳き込んだ。

 口の中に苦しさの原因が現れた。


「……トマト」


 ウガはミニトマトを掴み食べると見せかけて、油断した元気の口目掛けてこれを投げたと言うのか。

 もし外れていたら、もしくは窒息死していたらどうするつもりだったのだこの小娘は。


 そしてウインナーは全滅。

 元気の皿にはサラダとスクランブルエッグだけが虚しく残されていた。

 いっそ盗むなら全部盗んでもらいたかった。


「はぁ……」


 こんなのでは怒る気にもならない。

 半開きの目でじっとウガを見つめると、盗んだウインナーを口からこぼすまいと必死に押さえる。

 やがて全て飲み込んだら「があ〜」と満足げにこちらに笑顔を見せてきた。


「はいはい……もう顔がベタベタじゃないか……」


 ――ウガは外見的には一般的な2歳児だが、中身はまだまだ赤ちゃんと同じだ。

 元気は育児経験が無いし、幼児へ対するノウハウをほとんどネットで調べているので、それに当てはめた自論でしかないが。

 いやしかし全てがそうというわけではなく、やたら立派な八重歯なんかは乳歯かと疑うほどしっかりしているし、運動神経も驚くほど良い。


 ケチャップや油が、そしてウインナーを油まみれの手で押さえ込んでいたから微妙に髪まで汚れている。おまけに自信満々のドヤ顔である。その顔は誰かに誇れる事をした時にだけやってくれ。

 これは出社前に一度風呂に入れなければならない。


「後でお風呂だからな」


「パーも、はいる?」


「俺は汚れてないから入らない」


「うー」


 膨れっ面で見てくるが元気は風呂に入る理由が無い。

 さっさとサラダとスクランブルエッグをコーヒーで胃に流し込んでウガを風呂場に連れて行った。


 ◇◆◇


「ん〜が〜」


 タオルで髪を拭きドライヤーをかける。

 2ヶ月も同じ作業を毎日行えば手慣れたもので、どこから順番に乾かせば効率が良いかで無意識に手が動く。


「よしいいぞ」


「ぐわぁー」


 ウガは振り向き、元気の頭をくしゃくしゃとかき乱し始めた。


「いや俺は濡れてないから」


 きっと元気がウガにしていた動きを真似したのだろう。

 癖毛だらけの長髪がウガの手に引っかかり、それを強引に解かれるものだから毛根がいくつか死んだ。


「いたた……ほら早く着替えるぞ」


 着慣れた服とスカート、そして何よりウガの新たなチャームポイント。


「ん〜、うがー!」


 2本角のカチューシャ。

 昨日ウガと雑貨店に買い物に行った際にねだられて買ってあげたのだ。

 これを装着してウガはこれまでよりも“つよいかいじゅう”に変身するのだ。


「うが〜ぐあ〜!」


 テンションが一気に最高潮に達したウガはたまらず駆け出した。

 ドタドタと廊下を走り抜け、リビングのソファをトランポリンのように跳ねている。


「こら、下の人に迷惑だからやめなさい」


 飛び跳ねたタイミングで両脇に手を差し込み空中でウガをキャッチ。


「歯磨きもしないと」


 再び風呂場に戻り、洗面台の前に置いてある踏み台にウガを下ろした。

 メロン味の子ども用歯磨き粉を小さな歯ブラシに乗せてウガへ、自分はいつもの適当な歯磨き粉とブラシを口にする。


「んぺぇ」


「よくできました」


 ウガの健康や生活習慣には気をつけなければならない。

 これは元気が勝手に心配しているだけなのだが、もし病気や虫歯になって病院に行くことになったとする。

 街中ではコスプレで済ませられるが、検査をして尻尾が本物であるのが知られたら面倒になるはずだ。


 とにかく、その心配のおかげで今日もウガの八重歯はキラキラだ。

 元気いっぱいで尻尾も絶好調、これなら今日の測定もバッチリだろう。


「さ、準備出来たんなら行くぞ」


「うがー!」


 家を出る際には日頃からウガに関して書き溜めているハンドサイズのレポートノートだけは絶対に欠かせなく、何かほんの些細な気づきをすぐに記録しておく為に必須なのである。


 玄関を開けて、外の空気を肺いっぱいに吸い込んで会社までの道を歩き始める。


 ◇◆◇


「あっれー元気くん病み期過ぎた?」


「……え」


「あごめんね。デリケートなとこだったね」


 唐突にそんなことを言われてフリーズしてしまった。

 悔しいが正解だ。元気はついこの前まで育児疲れで人生と子どもに絶望していた。


「いや、そんな」


「んが!」


「きゃーウガちゃんおはー!」


「おあー!」


 病んでた元気なんていざ知らず、一瞬でこの空間の興味はウガへと向いた。

 最近では人にも環境にも慣れて、物理的に噛みつこうとしなくなったので、もはやみんなの癒しの存在になったウガだった。


「なにこれ角!? かっわい〜」


「へへ〜ん!」


 見事なドヤ顔。

 そうだぞウガ、その顔はそういう時にするもんなんだ。決してウインナーを盗んで好き嫌いをした時にする顔じゃないんだぞ。


「ねえ私の事ちゃんと教えたでしょうね?」


「あ、まあ」


「ねーウガちゃん、お姉さんの名前分かるかな?」


「んがぁ?」


 ウガがこの僅かな間で誰かに餌付けされていた。

 むしゃむしゃと個包装のミニケーキを食べているが……


「ちょっと誰ですか! 今日は測定だからウガに何もあげないでくださいよ」


 これは後で歯磨きのやり直しだ。

 全くなんでこうなるのだ。


「えーっと、お姉さんの名前……」


「あしゃあみゅり!」


「うーん……?」


 そいつは頭を抱えて難しい顔でこちらを睨んできた。

 浅葉あさばみゆり、元気の同期でありウガが来る以前から少しだけ交流のあった所員だ。

 一見どこにでもいそうな地味な女性ではあるが、人の心を読む力に関しては最強だ。


「ギリ落第点だよ」


「俺に言うな俺に」


「嘘、今一瞬目線が泳いだ」


「ウガに期待しすぎだ」


「ひっどーい! それってウガちゃんのお父さんとしてどーなの!?」


「誰がお父さんだ」


 いや戸籍上、血は繋がっていないが親子であるのだから何も間違ってはいない。

 しかしウガは飽くまで元気が面倒を見ている子どもに過ぎないし、何より大事な研究対象なのである。

 ある程度の線引きはあるべきだろう。


「痴話喧嘩はもういいか」


 と、上司がそこへ割って入ってきた。

 ゲーちゃんの悲劇以来、ストレスで見事に痩せた姿が未だに大きな違和感だが、今ではその髭面も様になっていてなかなかダンディなメンズである。

 その調子で部分的にブラックなこの職場もどうにかスリムにしてほしいものだ。


「痴話喧嘩って――」


「ちょっと何言ってるんですか」


 そうだみゆり、何か言い返してやれ。お前ならきっと最大級の反撃が出来る。


「元気くんがウガちゃんを見放した時にすぐに私がウガちゃんの親権を獲得出来るように今必死に刷り込んでただけなんですから」


 そう早口で言う。

 少し引いてしまった。


「なら訊くが、毎朝暴走するウガに起こされて食事の時には手もつけられないほど好き嫌いをして挙げ句の果てにこちらの栄養バランスが偏ってしまい尚且なおかつその一連の暴走のせいで毎朝晩ウガを風呂に入れなければならないとして。それに耐えられるのか?」


「うん」


「2文字で片付けるな」


 しかも即答であった。


「だって元気くんに出来てるなら私にも出来るよ」


「それはどうかな。俺はまだ2ヶ月だから良いが、それが何年も続けばお前も根をあげて俺に助けを乞うてくるぞ」


「おいだから痴話喧嘩は後にしてくれ。先に測定をするから」


「「痴話喧嘩じゃないです!」」


 息の合った言葉に上司が涙ぐむ。

 心の弱いヒロインか。いい大人がすぐに泣くな。


「はぁ……ウガ、行くぞ」


「うがー」


 目を話した隙に口の周りにチョコレートがベッタリとついている。


「だから誰ですか!」


 憤慨し、急いで給湯室で歯磨きをさせて測定へ向かった。


 ◇◆◇


 測定とはそんなに難しくもなければ固いものでもない。

 一般的に小学校なんかで行われている健康診断や体力測定と同じことをするだけだ。

 もちろん内容は2歳児を目安に加減してある。


「身長が少し伸びて体重も僅かに増加、健康も問題なし。運動能力は前回より伸びた」


 大まかな結果はこうだった。

 ひとまずレポートノートに書いておく。

 あんなに好き嫌いが激しいのによくあれだけの好成績を出せるものだ。

 ウガが特別なだけで、きっと普通の2歳児ではこうはいかないだろう。


「んが〜ぁ」


 今はお昼時で周囲には誰もいない。

 のんびりした空間で、ひとしきり体を動かして溜まっていたものを発散させられて満足そうなウガは元気の膝で眠ってしまった。

 これでは起きるまで身動きが取れず、ウガ以外の仕事に着手出来ない。


「あ終わったんだ――って! え〜!」


 昼食から帰ってきてウガを見るなり興奮するみゆり。

 道端で日向ぼっこをする猫を発見したような、そんな反応に近かった。


「寝てるの?」


「起きるから静かに喋ってくれ」


「やーん可愛い〜」


 元気の忠告を聞いていなかったのか、もはや自分の世界に入り込んでしまっているみゆりはしたいがまま、ウガの顔をいじり始めた。


「ねえほっぺふわふわだよ! 鼻も小さくて可愛いし口も……」


「んぐあぁ……」


 ふと、何か夢を見ているだろうウガが大口を開けた。

 間の悪いことにそこにはみゆりの手があった。


「ぐあっ」


「あぶねぇ!」


「へ?」


 元気の手が一瞬早くみゆりの手を弾いた。

 次にウガの歯が迫るまでに手を引く、というのはどう考えても無理があった。

 ブチッと皮膚が貫かれた感覚と共に痛覚が手から電撃のように全身へ迸る。


「――ッく!!!」


 咄嗟に歯を食いしばり力で声を封じた。

 鼻と口で何度も粗くも深い呼吸をして暴れる鼓動を鎮めようと試みる。


 ウガの顎から血が滴る。さては夢の中でかじり付いているものを噛み切れない肉か何かと思っているな。(夢じゃなくて現実だが)


「元気くん……!」


 慌ててみゆりがウガの口へ手を入れようとする。


「バカよせ! 下手に触って乳歯が抜けたらどうするんだ」


「そこじゃないしウガちゃんまだそんな歳じゃないでしょう!」


 元気の静止を振り切り、みゆりは片手でウガの両頬骨を抑え、もう片方で下顎に力を加えた。


「……ぁ……んぐあぁ」


 ウガは心地悪そうな表情でみゆりの手から逃れようと頭を振る。

 そのせいで皮膚を食い破った八重歯が傷を掻き乱す。


「んんん!!!!!」


「もー我慢してよ! ここで泣いたらウガちゃんに合わせる顔が無いよ!」


 一体誰のせいでこうなっていると思っているのだ。


「ウガちゃん力が強いよ……!」


「大丈夫だ、ウガは三日に一回は顎を外して自分ですぐに直してる。遠慮するな。もし泣いても俺がどうにかする」


「……ごめんねウガちゃん!」


 色々言いたそうな目をしていたが、それよりもみゆりはウガの口を開く方を優先した。


「えい!」


 がぽっとウガの下顎が下がった。

 どうやら顎が外れることは避けられたようだ。

 それと同時に元気の手が解放され、即座に外へ出した。


「……いた」


「あれだけ痛そうなリアクションをしてたのにいざ事が終わって出る言葉がそれかい」


「まあ、みゆりが怪我をしなくて良かった」


「――えっ」


「ウガを持っててくれ」


 元気はみゆりにウガを預け、フラフラと救急箱を取りに立った。

 中から消毒液とガーゼと絆創膏を持って席に戻った。


「……はぁ、困った怪獣だ」


 噛まれていない方の手でウガの頭を撫でる。

 あれだけの事をしておいてまだ眠っていられるとは、どこまで自由気ままなのだ。


「待って。私にやらせて」


「いやいいって」


「責任、その怪我の」


 しゃがみ、ウガを腹に抱えて半ば強引に元気の手の治療をするみゆり。

 ガーゼに消毒液を染み込ませて傷口を拭きそこに絆創膏を貼っただけだ。


「これだけの為に責任どうこうってのは重くないか?」


「……本心でそれを言ってるのがなんかムカつく」


 頬を膨らませたみゆりに傷口をペチと叩かれた。痛い。


「じゃあ分かった。今度お詫びに……ゆ、遊園地に行こ」


「は?」


 だからそれが重いのではと言っているのだ。

 別にこれくらいの怪我でなぜ遊園地に行こうとなるのか不可解でしかない。


「私がウガちゃんと行きたいの! 本当は元気くんなんて来させたくないんだけど、でもそうしたらウガちゃんが嫌がるじゃん」


「まあそうだな」


「いつどう誘おうか迷ってたけど、元気くんが怪我をしてくれたおかげで言えたわ。ありがと」


「別にそんなのウガを貸してくれって言ってくれればどうとでも――んん!」


「ん〜ぐあ!」


 ウガの拳が元気の口に侵入している。

 なぜだ。なぜ今度はそうなる。


「――ほんと、心配ばかりさせるんだから。バカ」


 元気がウガと再び攻防を始めた騒ぎに混じって、みゆりはこっそりと呟いた。

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