苦手なこと

 私は、自分の気持ちを表出することが、苦手です。といって、表情がないとか言葉少なであるとか、そういったことはなく、どちらかというとお調子者であると、周囲の人たちには理解されています。冗談ばかりを口にするし、他者をおちょくる口上ばかりが頭をよぎる、そういった性質を持っているのだろうと思います。

 他人のことは、表現するに苦労のないことなのです。ひとの言葉を切り返して、或いは引き取って、お追従や反駁、批評、まぜっかえし、そういったことはできるのです。しかし、私自身の意見を求められると、途端に口が重たくなって、たどたどしくなります。自分の意志とか、意見とか、感想とか、そういうことを言葉にするのは、とても難しいことです。

 言葉にするより前、自身の気持ちを感ずる、その段で躓いているように思います。提示されたものごとに対して、理解はできても、共感できているのか不安になります。自分の中に沸き起こるものが、自分に由来しているものであると、確信を持つことができません。

 幼少期から、読書が好きでした。中でも物語を読むことが、とても好きでした。今、こうして、文章を書くことが趣味であるのも、この読書好きのおかげでしょう。物語の登場人物たちは、様々な出来事を経験し、様々に心情を動かして、生き生きと物語を駆け抜けていきます。それぞれに決められた役割があって、その善悪に関わらず、役柄を全うします。彼らひとりひとりが、物語を構成しています。

 私は、自分が、彼らを手本にして行動しているように感じられることがあります。こういった出来事があったなら、きっとこのように感じるべきなのだろう。こんなことを言われたなら、きっとこのように返答すべきなのだろう。そうした引用や参照の継ぎ接ぎが、辛うじて私自身という形をとっている、そんなふうに感じられるときがあるのです。感想や意見を求められたとき、つまり、他でなく私について尋ねられたときに、その感覚はより強く私を動揺させます。どこかで聞いたような話しか口にできないのです。こういうとき、自分が、途轍もなく浅薄な人間性しか持ち合わせていないのだと実感します。

 それでありながら、私は、私が尊重されないことを非常に嫌悪します。私を尊重しない他者に対して、非常に攻撃的な悪感情を抱きます。それを表現することにだけは、苦手意識どころか、迷いも躊躇もありません。或いはそれは、今にも破れて形を失いそうな自分自身を守るために、過剰にはたらいた防衛機制なのでしょうか。そして、またもそれでありながら、私は、他者を尊重することがとても苦手なのだろうという気づきがありました。他人のことを考えて行動するとか、他人を思って身の振り方を考えるとか、そういうことができません。

 ひとの気持ちがわからないのかも知れません。ひとの気持ちを優先できるほどの人格を持ち合わせていないのかも知れません。「あなたは他人に興味がないのだ」と、公的な場で全く他人の年長者に言われたことがありますから、そういうことなのかも知れません。いずれにせよ、私には、自分の気持ちも、他人の気持ちも、適切に取り扱う能力を養いそびれたまま社会人になってしまったようです。


 ええっと、何を主張したくてこんなものを書き始めたのでしたか。とりとめもなく、ただ、文章を書き綴りたくなっただけというのが本当のところですが、誰に吐き出したらよいのかもわからないことを、それでも誰かに聞いてほしくて、書いています。


 つまるところ、自分の気持ちというものの扱い方を知らないために、より一層、私は、借り物の言葉、借り物の気持ちをそれらしく整えて表出するのだろうと思えるときがあるのです。

 社会に出てから、こういった私の特性が、より煩わしく思えるようになりました。自分の気持ちがわからないために、自分で何かを選択することができないのです。思えば私は、部活動や進学先すら自分で決めたことがありません。親に言われるまま進学し、周囲に合わせて国家資格をとり、ゼミの教授に言われるまま今の職に就いたようなものです。そして今になって、何に興味があるか、どういったことをやりたいのか、突然に決めなければならなくなったのです。今はもう、誰も、私の代わりに私の進路を決めてくれません。レールを敷いてはくれません。自由に選べることが、まるで誰にとっても最善であるかのように、世の中は私に選択肢だけを突き付けてきます。私にはそれが苦痛で、苦痛で、仕方ありません。

 興味のあることを誰しも持っているものなのでしょうか。やりたいことがあるものなのでしょうか。だとしたらどこでそれを醸成したのですか。どこで教えてもらったのですか。興味の持ち方って、誰に聞けばいいのですか。誰が私に興味を持たせてくれるのですか。

 物語を読んでいる瞬間だけが、私を癒してくれます。お話の中に身を浸している限り、誰も私に選択を迫りません。物語は決まった通りにのみ進み、決まった形で終わってくれます。登場人物たちが恨めしいです。彼らは自分で悩み選び取っているようでいて、その実、著者の掌の上で踊っているだけなのですから。彼らは何一つ選択しないまま、それでありながら物語の役柄を立派に勤め上げるのです。それが許されるなんて、うらやましい限りです。


 なんだか途轍もなく矮小な自己開示をしている気がいたしますけれど、私のことを知っているひとはここを読むことはないでしょうし、だいたい、私のお話の読者がほとんど皆無と言って等しいわけですから、その中でこれを読むひとなどいるわけもないので、構わないでしょう。


 最初に書きたかったことは、日記ばかりが読まれることについての不満だったのですが、気づけば全く関係のないことを書いております。

 日記はどうして反応をしてもらえるのでしょう。子どもっぽい語り口だからでしょうか。希死念慮や自己否定を多く盛り込んでいるからでしょうか。そういう、かわいくてかわいそうな「茶々瀬」を見て、思わず声を掛けたくなってしまうのでしょうか。

 だとしたら目論見通りと言って差し支えないでしょう。

 やっていることは、BPDの試し行為と同じです。手首の傷を見せつけて、他人の気を引こうとしているのとまったく同じです。私は容姿に恵まれてはおりませんから、私自身が手首を切りつけたところで誰も見向きもしないことは自明で、だからこそ、文章などというまどろっこしい経路でもって、自傷行為を行っているわけです。まあ手首を切ることも、あるのですけれど。でもそれは、他人には見せていません。自己満足で今のところ留めています。

 しかしあそこで綴られているのは、ほんとうに、ただの日記でしかありませんから、常日頃から希死念慮を持ち合わせていない私は、すぐに飽きられてしまうのでしょう。毎日毎日、自己否定的な文章を書きつけるほど追い詰められていない、中途半端な自分にがっかりします。自分の感情の表現が苦手な私は、強い感情を保ち続けることも得意ではないのです。ポジティブなことだろうと、ネガティブなことだろうと、感情の起伏を維持するのは苦手です。


 このあたりで、満足したので、終わりたいと思います。眠くもなりました。

 ありがとうございました。

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