煙草

 もともと、ちょっとした憧れはあった。だからこそ、物語にも度々取り入れてきたのである。しかし同時に、たいへんに忌避もしていた。他者の被る迷惑が、その他者に属する私にはとても大きなものに見えていたのである。つまり喫煙というものは、私にとってかなりアンビバレントな対象物であった。

 まあ何にせよ、今後なかなかあるような経験でもないし、描写的な旨味は強いように思うから、こうして記録に残す。


 繁華街の飲食店で昼食を済ませ、どこへ行こうかという話になった。計画もなく、ただ街へ繰り出すことだけを目的にしていたから、ぼくは迷った。もともと、店をふらふら冷やかして回るような習慣がなかったし、買いたいものも特別思いつかなかった。正直に言えば、情けない話ではあるが金銭的な余裕もなかった。彼女たちと休日をのんびり過ごすことができれば、ぼくにとってそれが最良の時間の過ごし方で、それ以上に求めるものなんかないような気持ちだった。

 幸い、彼女たちは買い物が好きな部類であったようで、ぼくが何を言わなくとも、じゃあ、と乱立する商業ビルの一つへ、迷いなく足を進めた。ぼくはそれに一歩遅れて従った。

 雑貨屋で、彼女たちはキャラもののキーチャームを買っていた。ぼくはその間、一緒にいても邪魔になると思って、同じ店の中、別の場所をふらふらと見て回っていた。彼女たちの、控えめな、けれども楽しげな話し声を聞いているだけで、こちらもなんだか楽しい気持ちになった……と言うとなんとも気持ち悪いけれど。

 彼女たちは、買い物を済ませると、上階へ向かった。屋上に喫煙所があるらしい。どちらも愛煙家で、ぼくもそれは承知していた。ただ、いつも、彼女たちが煙草を吸っている間、どうして時間を潰すかが悩みだった。ぼくが手持無沙汰にしていると、きっと彼女たちも遠慮をするだろうし。ぼくは煙草を好いていなかったけれど、だからといって彼女たちを嫌っているわけではなかったから、どう気を遣わせずに済ますかがちょっとした課題だった。まあ、といって、あのふたりはぼくにひどく遠慮するような性質ではないし、気にするだけ損だったかも知れないけれど。

 屋上は中央に芝生を敷かれて、花壇やベンチもある、ちょっとした公園のようになっていた。フェンス越しに街並みでも眺めていようか、と思った。ただ、何組も女学生のグループやカップルが和気藹々と過ごしていて、もっと言えば占領していて、ぼくがひとりでぽつんと立っているのも、なんだか肩身の狭い気がする。迷ううちに喫煙室まで彼女たちと一緒に来てしまった。

 先客があって、彼女たちは順番を待って立ち止まる。

 「……吸ってみる?」

 彼女たちのうち一方――仮にかずらさんとしよう――が振り返って、ぼくにそう問うた。冗談交じりの気味があったのは、ぼくがこれまでそういう誘いを断ってきたからだろう。

 ぼくは躊躇う。これまでのぼくだったら、すぐに断っていたに違いない。ただ、ちょっとした憧れのようなものはずっと抱いていた。子どもっぽい、「大人の嗜好品」への羨望がまずひとつ。あとは、物語における描写的な旨味をもっと引き出してみたいというのがひとつ。これまでにもお話に、何度か喫煙の描写を使ってはきたけれど、実際の経験は一度もなくて、なんだか説得力の薄いような気がしていた。もちろん、経験したことにしか説得力を持たせられないなら、ぼくのこれまで書いてきたものはほとんどが物語ではなくただの嘘っぱちになってしまうわけで、だから経験することに絶対的な意味があると考えているわけではない。つまり、たぶん、興味があったのだ。彼女たちや、他にも喫煙者の友人はあったから、抵抗が薄れてきていた、というのもあるかも知れない。

 だから、ぼくは思い切って、頷いてみた。「それなら、一本もらってみようかな」。すると葛さんはもちろん、もうひとり――こちらは本草ほんぞうさんとしよう――もちょっと驚いたみたいで、ぼくを振り返った。ほんとうに? 葛さんは念を押す。つまりそれくらい意外な返答だったのだ。ぼくは頷いて、苦笑いを返す。

 本草さんが、それなら、と電子タバコを取り出した。

 「こっちの方が、よくないですか」

 「そっちの方が、刺激は少ないの?」

 「まあ、そうですかね」

 本草さんは頷き、葛さんは肩をすくめる。

 「んー、でも、せっかくだし。普通のをもらってもいい?」

 よくよく考えたら、どちらにしたって人のものをもらうわけで、煙草なんて、このところ高騰に高騰を重ねている嗜好品だから、安易にもらっていいものでもないのかな、とちょっと尻込みした。でも、葛さんはすぐに鞄から箱を取り出して、一本ぼくに手渡してくれた。そのときに、ちょうど喫煙室にいた先客が、揃って出ていった。ぼくたちは入れ替わりに入っていく。

 ぼくはもらったそれを、恐々と指先につまむ。

 「えっと、どうしたらいいのかな。吸いながら火をつけるの?」

 「そうだよ」

 手本とばかりに、葛さんは自分の煙草に火をつけた。本草さんは電子タバコを咥えて、すでに吸い始まっている。

 葛さんからライターを受け取る。息を吸いながら、煙草の先に火を近づける。思いの外あっさりと火がついた。想像では、火をつけるのもなんだか工夫のいるような気がしていたから、呆気ないような感じがした。

 ちょっと、息を吸ってみる。抵抗はあんまり感じない。特別変わった味もしない。拍子抜けして、溜息交じりに息を吐きだす。その途端、鼻にも喉にも、感じたことのない刺激を受けた。しみる。痛い。堪える間もなく咳が出た。

 「大丈夫ですか?」「へいき?」

 ふたりが言う。ぼくは涙を滲ませながら、切れ切れに「大丈夫」と答える。

 「ほんとに初めてだったの?」

 「うん。初めて」

 「はは。わたしの中学生だったころ思い出す」

 「わたしも、初めはそんな感じでした」

 「中学生って。……どうやって持つのが正解?」

 「こうじゃない? こっちは渋い感じ」

 そんな会話をしながら、ぼくはちょっとずつ煙草を吸う。初めの衝撃は薄れたけれど、やっぱり咳は出た。それも少しずつ落ち着いてくる。鼻や口から煙が立ち上る、その不思議さに意識を向ける余裕も出てきた。葛さんが、上の方に煙を吐いていて、そうか、そんな気遣いもいるのだなって気づきもあった。

 なんだかぼーっとするのは、ニコチンの作用なのか、経験値を処理しきれていないからか。舌がピリピリしたり、肺がごろごろしたり、そんな違和感も覚えていた。

 見よう見まねで灰を落としたり、また吸ってみたり。そんなにたくさんは吸えないから、手を下ろしてぼーっと感慨にふけってみたり。すると隣から、ふいっと手が出された。

 「こっちも試してみます?」

 本草さんが、電子タバコをぼくに向けていた。

 「いいの?」

 「はい」

 それなら、と受け取った。どれくらい違うものなのだろう。普通の煙草より、へんな臭いがある、なんて言うけれど……。などと考えていて、気づくのが遅れた。口に咥えるその寸前で、やっと思い至った。あれ、本草さん、いつの間に二本目に入れ替えたんだろう。吸い口が、微かに赤いような……? しかしそれを意識するのも失礼に思われて、だいたい子どもというわけでもないのだからと、ぼくは気取られぬよう思いきって咥えてしまった。

 ちょっと吸ってみて、びっくりした。油断していた。

 「わっ、冷たい! なんだこれ!」

 「あはは、メンソールですよ」

 「あと、いい香りもするでしょ?」

 「……ほんとだ、ベリーみたいな匂い」

 試みにもうひと吸い。メンソールの冷たさは、慣れるとちょっとおもしろい刺激だった。ベリーの香りもほんわかして、おしゃれな感じがする。あんまり煙草を吸っている……体に悪いことをしている感覚がなかった。

 こんなにも違うものなのかあ。ちょっとした感動を覚えていると、葛さんがぼくの手から、ひょいと電子タバコをかっさらっていった。

 「わたしにもちょうだい」

 ……これはさすがに隠し通せず、目が泳いだ。或いは、さっきの躊躇いにも気づかれていたのかも知れない。だとしたら恥ずかしいなあ、と思いつつ、強がらなければならない相手でもなし、仕方ないか、と内心で溜息をつくだけにする。「ありがとう」と本草さんにお礼を言った。

 本草さんは先に喫煙所から出た。自販機でお茶を買っている。ぼくは、葛さんと向かい合って、とくべつ言葉もなく、煙草に専念した。息を吸うと、煙草の先が明るく光る。口から出た煙が、ほわっと広がる。シロイルカの動画で見たような、丸い煙は出せなかった。

 「これ、どこまで吸っていいの?」

 「ここまで」

 「この……線のところ?」

 「そうそう」

 そうして、ぼくたちは灰皿へ煙草を入れて、喫煙所を出た。最後、煙草をもみ消すのを忘れてしまって、煙が静かに立ち上っていた。

 本草さんの飲んでいたお茶を、葛さんが「ちょうだい」ともらっていた。ぼくも口の中が煙いような気がして、自販機を見上げて財布を取り出す。もしかしたら、無意識に、ぼくは本草さんのお茶を目で追っていたのかも知れない。いや、たぶんそうだろう。本草さんは「飲みますか?」とこれもぼくへ渡してくれた。さっきのこともあって、過剰に反応している自分が情けない。でも、断る気持ちにもならず、受け取った。ふたりの目が見られなかった。

 そのあとは、また繁華街を練り歩き、お買い物を続行した。彼女たちの買い物に付き合っているだけだったけれど、ぼくひとりでは絶対に行かない場所ばかりだったから、目新しくて、面白かった。ただ、彼女たちがどう思っていたのかはわからない。ぼくがいてもいなくても、それほどやっていることは変わらなくて、ぼくがいるぶんだけ余計な気を遣わせているわけで、そうすると申し訳ない気持ちになった。でも、ぼくはぼくが楽しいのを、今日は優先してしまった。

 その間、ずっと頭がくらくらして、体が火照っていて、たぶん、それは煙草のせいだったのだろう。

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