キーホルダー

 先輩から連絡があったのは、今から三日前のことだった。それは部署を異動した先輩が、古巣であるうちのスタッフルームに顔を出す予定を伝えるもので、社内メールに届いた文面を何度も読み返しながら、僕は今にも踊り出しそうになっていた。何故なら単なる訪問の日取りを伝えるだけでなく、件の文章の中には僕の予定を確認するものも含まれていたからだ。これではまるで僕に会いに来てくれるようではないか。勢い込んで、社用メールであることも忘れて歓迎の言葉を返信した。

 僕は先輩を好ましく思っていた。どれくらいって、偶然ネットで見つけたかわいらしい髪ゴムを、なんの節目でもないのに思いつきで贈ってしまうくらいにはバカになっていた。だからもし先輩が僕を訪ねて来てくれるならば、そんなに嬉しいこと、これをおいて他に、この世のどこにあるというのか。

 こんな恋情は、端から見たらきっと児戯にも等しいものだろう。今日に至るまで失敗に怯えて恋愛から縁遠い人生を送ってきた僕に対して、その評価はとても正しい。そして僕はそれに強い劣等感を抱いていたから、浮き足出す僕の心を指さし嘲うのは、いつも通り僕自身なのだ。高慢ちきな顔をした理性が得意げに語る。

 そもそも、どうして社内メールなのか。お前たちはメッセンジャーアプリでアドレスを交換しているじゃないか。それはつまり、お前と距離を置きたがっている証左に他ならない。アプリで連絡をとったら、きっとお前はだらだらと会話を続けようとするから、相手をするのが面倒だろう? それにな、この部署で先輩と年齢が近いのはお前だけで、そのうえ後輩だったから、連絡先として選ばれたに過ぎないさ。つまり消極的なうえ消去法だよ。

 僕にとって都合の悪い内容のために嫌味な声音で再生されたそれらの指摘は、しかしひと呼吸おいて考えると真実であるようにも思われた。なるほど、完全に私用であるにも拘わらずメールを使った理由としては、妥当じゃないだろうか。

 そうか、残念だ。先輩には恋人がいるという噂もあるし、明け透けでガキ臭い僕の態度を先輩が疎ましく思っても仕方ないのかも知れなかった。

 とはいえ、それはそれとして。恋情も興奮も理性の管轄外なので、僕は先輩が来るという週末をウキウキした気持ちで待った。そしてようやく、その日が訪れたのである。

 その日の仕事終わりに姿を現した先輩は、なんだかいつもと違っていた。思えばこれまで先輩が遊びに来るとき、わざわざ事前に連絡などなかったのだから、そこから不思議と言えば不思議だったのだが、それ以上に違和感があった。

 先輩は年齢以上に大人びたところのある人だったから、普段あまり、自分の内心を他者へ悟らせるようなことはしないのだけれど、今日の先輩はなんだか見るからに元気がない。まず、笑みを絶やさないことが常の先輩には珍しく、声音に明るさを欠いている。落ち込んでいるのか、何か気がかりがあるのか、気もそぞろな話し方だった。そしてどうにも、その語り口さえぎこちない。当日僕はすっかり理性の軍門に降り、或いは臆病風に吹かれて、先輩の来訪の目的が僕かも知れないなどという期待はおくびにも出さず、あくまで先輩と他スタッフの交流の中継ぎに徹していたのだけれど、時折その語らいに数瞬の沈黙が挟まった。何かの話題を避けている気配があって、会話の歯車の廻りが鈍かったのだ。それならば異動先で大変なことがあったのか、悩みでもあるのか、そのためにここへ来たのかと、いっそ直裁に尋ねてみても、これまた曖昧な返答しか得られない。

 やや不可解に思いつつ、僕個人で言えば、どんな先輩であってもただ顔を見て話ができるだけで楽しい気持ちでいっぱいだった。先輩の一挙手一投足、僅かな視線の動きに至るまで、一々僕の目を楽しませて飽きが来ない。自分が気色の悪い笑みでも浮かべてやいないかと、手鏡を脇に置いておきたいほどだった。しかしそれでも、段々と不安が首をもたげてくる。頭の隅でどっしり腰を据えていた理性が、大儀そうにも立ち上がる。他のスタッフがぽつぽつと帰り始めると、僕の不安は一層増していった。僕と会うことが目的でない以上、先輩は既に会話に飽きてきているのではないだろうか。それでも僕があんまり楽しそうに話しているのがわかって、仕方なく付き合ってくれているのではないか。

 冷静を装いつつ何気なく時刻を口にして、帰宅する方向へ水を向けてみた。しかし先輩はこれにも言葉を濁す。普段の先輩だったら惜しむ言葉を口にしつつ頷くか、そうでなくとももっとはっきり答えるはずで、後から考えればこれが今日一番の不可解な態度だったのだが、このときの僕は両腕いっぱいに抱えた幸福感と猜疑心を押し隠すことに必死で気づけなかった。

 結局それから、幾らかの言葉を交わし、最後のスタッフが帰る間際に別室の水槽を先輩と二人で短時間眺め――暗がりに水槽の照明で揺れる先輩の横顔を独り占めしてしまった――帰宅と相成った。更衣室の前で先輩と別れる。わかっていたことだったが、その途端に漠然とした不安と後悔が押し寄せてきた。他に話すべきことがあったのではないか、自分は何か先輩に対して不快な態度を取ったのではないか、僕などいなければ先輩は他のスタッフともっとたくさん話せたのではないか、僕はただの邪魔者なのではないか。自身が口にした言葉のひとつひとつを点検しては、もっと気の利いた台詞があったのでは、身勝手な言い回しだったのではと、これは先輩に限った話ではなくひとりになっったときのいつもの癖として、あれこれ考えて底なし沼に踏み込んでゆく。最後には、どうせ好かれちゃいないのだから関係ないか、ととどめを刺して自決するのであった。

 さて、着替えを終えた僕ことリビングデッドは、更衣室を出てふらふらと、死んだ心と腐った体を引きずって、幾つかある通用口のうち普段使うひとつへと彷徨い歩いていく。明日から始まる二連休を、孤独に押し潰されないためにはどうしたらよいのか、今日の後悔で既に致命傷であるというのに。そんなことをぐるぐる考えて、ふと顔を上げると、通用口の扉の前に人影があった。

 知らず、足が止まった。

「あ、鍵は閉めますっ」

 思わず大きな声を上げていた。

 直感の上ではほとんど確信に近い思いを抱きつつ、その名を口にしなかったのは、暗がりに私服の後ろ姿とあって勘違いである可能性を拭えなかったからだ。もし勘違いだったら恥ずかしすぎる。それに、あのひとはいつも別の通用口を使っているはずで、こっちで見かけることなどまずないことだった。僕の上擦った声に、人影はぱっと振り返る。

「っ、びっくりしました」

 その春雨のように温く柔らかな声は、聞き違うはずもない、先輩のものだ。どうしてか芝居がかった響きを感じさせる先輩の声音に気づきつつ、僕の足は勝手に動き出し、出口まで小走りに駆けていった。先輩は扉を開けながらも、こちらに身を向けて待っていてくれた。

「どうしたんですか、珍しいですね」

 僕は扉に鍵を掛けながら問いかけた。先輩の私服姿はユニホームよりも数段、いや数倍は魅力的だ。血圧が上がったせいだろう、比喩でなく目が回ってしまう。

 先輩は階段へ足を下ろしながらこちらを見て、言い淀む。夜闇に沈んで、その面差しははっきりとは窺えなかったが、息遣いには明らかな躊躇いを含んでいた。僕の中で切り刻まれていたはずの期待が息を吹き返し、それどころか力一杯駆け回り始める。スタッフルームで感じた違和感がひとつの結論を導き出す。やはり僕に用事があったのだ!

 ふたり狭い階段を下る間、先輩ははたと立ち止まり、後ろに続く僕を振り返ってようやく口にした。街灯は遠く、僕自身の興奮も相まってそのときの先輩の表情を見届けられなかったのは口惜しい。しかし僕もだらしない顔をしていただろうから、それで良かったのかも知れない。

「あの、渡したいものがあって」

「えっ。え、なんです?」

「いや、そんなあれじゃ……」

「なんですか? 先輩にもらえるならなんだって嬉しいです」

 早口になる自分が恥ずかしいが、止められるものではなかった。

 先輩は背負っていたリュックを前に回し、開けようとして手を止める。僕を見上げて苦笑いする。

 その理由がわかって僕も肩をすくめた。僕たちがいるのは職員向けの狭い階段の半ばで、まだ他の職員が出入りするかも知れなくて、そんなところで始める遣り取りではないだろう。「とりあえず、下りましょうか」。そう言い合って、僕たちは階段を最後まで下っていった。その途中、ぴょこぴょこと揺れる先輩の頭頂部が言う。耳に届く言葉は僕の感情に塗りつぶされて、文字列は追えても抑揚が聞き取れなかった。そのときに感じた緊張が、先輩のものであったのか僕のものであったのか、区別がつかなくなっていた。

「この前、髪飾りをいただいたじゃないですか。そのお返しに、と思って」

「うわ、ほんとですか? ありがとうございます!」

 はしゃぎすぎて階段を転げ落ちてしまうのではないかと、不確かに揺れる足許をなるべく慎重に探りながらも階段を降りきった。脇に避けてから、改めて先輩はリュックに手を入れる。僕は向かいに立って、そわそわと待った。なんだろう、何が出てくるのだろう。

 先輩はしばらくリュックを探っていた。知らず奥に入り込んでしまったらしい。いつも落ち着いた雰囲気を纏う先輩がリュックの深くにまで手を差し込み手間取っている姿はそれだけでいつまでも見ていられそうだ。焦らされてもどかしい気持ちもあれば、ずっとこのまま、先輩と向かい合っていたいような気持ちにもなった。

 もしかして家に置いてきちゃいました? などと茶化しているうちに先輩はようやくお目当てを探り当てたようだ。リュックから引っこ抜いたのは、掌サイズの紙袋だった。他の荷に押しやられ少し皺の寄ったそれを、名刺でも交換するときみたいに、互いに両手で受け渡す。ありがとうございます……と神様にでも祈るような心持ちでもって捧げ持ち受け取って、僕はすぐに開け口に手をかけた。先輩の顔を窺う。

「開けてみても? プレゼントはすぐに開けるタチです」

「どうぞどうぞ」

 許しを得て、焦り震える手で封をあけ中を覗いた。辺りが暗くてよく見えない。指をつっこむと、すぐに硬い手触りにぶつかった。それをつまみ上げる。

「……パン?」

「そう、パン、のキーホルダーです! かわいくないですか?」

「ほえー、かわいい……」

 出てきたのは、パンのミニチュアみたいなキーホルダーだった。雑穀を混ぜて円筒形に焼き上げたものを輪切りにしたひときれと見えて、向こうの明かりにかざしてみて驚いた。とても精巧にできているじゃないか。表面の焦げ具合はもちろん、中のスポンジ状に空いた空洞や、そこに混ざるゴマつぶなんかまで再現されている。もう一つ、こちらはフランスパンを模したマグネットで、やはり細部に至るまでよくできていた。

 僕が感心している間、先輩は楽しげに語った。

「パンのイベントがあって。それに行ってきたんです。本物のパンなんですよ! だから永久にはもたないんですけど……、それもいいですよね!」

「へえ、本物。……あ、ほんとだ、いい匂いする。食べられそう」

「いい匂いって。食べちゃ駄目ですよ、防腐剤が塗ってあります、お腹壊しますよ」

「なに、それくらい。もしものときは、食べましょう」

「ダメですって」

 そうやって僕のつまらない冗談にしばらく先輩を付き合わせ、ひと心地つくと、僕は改めて礼を述べた。

「ありがとうございました。それと髪飾りは、使えていますか?」

「はい、えっと、なかなか出掛ける機会がなくて」

「そうですか。気に入らなかったら申し訳ない」

「そうじゃないですよ」

「まあそれはどうでもいいか。いやよくはないですけど。ほんとにありがとうございます。大切にします」

「はい」

 それを挨拶に「それじゃあ」と手を振って、僕たちはそこで別れた。本音を言えばもっと話していたかったけれど、そこは自己否定を主業務とする理性くんの出動で、なんとか自らを律することができた。ヘタに長引かせては、むしろ僕の印象を悪くするようで恐ろしい。あれだけ喜んでおきながら、僕は逃げるようにその場を後にするのだった。

 帰り道、人目を憚らず歩道をスキップしながらも、やはり頭の中、耳の上あたりでは陶酔感と自己嫌悪とが対立を続けていた。ひとの感情やそれに付随する主観がいかに世界をねじ曲げてみせるのか、職業柄痛いほど知っていたから、これはもうどうしようもないことだった。僕が先輩を好いている以上、先輩の言葉や仕草、表情をどこまで信じたらいいのかわからない。いや、それらについての僕の理解は全て疑って掛かるべきなのだ。たとえばそう、先輩はキーホルダーを渡すために連絡をくれたのだろうことは間違いないとして、最後のあの瞬間まで渡さずにいたのは何故だろう。僕にとって都合がよいのは、緊張故の躊躇いという解釈。僕が先輩に髪ゴムを渡すときがそうだった。しかし僕と違って先輩は当たり前の青春を過ごしてきたはずで、それなのに僕のような人間に対してそう臆することがあるだろうか。今日、スタッフルームでの会話のうちで僕が粗相をするか何かして渡す気が失せてしまい、通用口で偶然居合わせなければそれまでにするつもりだった、とか。皺の寄った紙袋が、その仮定を後押しするような気がした。そうでなくとも。もらいっぱなしでは座りが悪いから何か返そうというだけで、そこに好感情が入り込む余地などないではないか。きっとそうだ。そうに決まっている。ああいや、それは考えるまでもないことなのか。僕が勝手に先輩を好いているだけで、先輩に僕が好かれる理由などないのだから。

 いやなことに気づいてしまった。ひとりで何を舞い上がっているのやら。僕が渡した髪ゴムも、きっと使いづらくて持て余しているのだろうなあ。

 あーあ。歩調を緩め、空を見上げる。お気に入りの歌を、無意識に口ずさむ。「僕の幸せは、君の幸せではないんだ」。歌詞全体のメッセージとはズレているけれど、この一節だけ抜き取れば、今の僕にぴったりだった。

 まあ、いいや、それでもいいのだ。先輩にどう思われていようと、先輩にもらったものは僕の手にあるわけで。それは確かに、先輩がわざわざ、僕にくれたものだから。その真意はどうあれ、それを眺めて幸せに浸るだけならば、誰も害しはしないだろう?

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