カッター2
わたしがカッターナイフを手に取ったのは、そうすることでしか、わたしがわたしを定義できないように感じられたからだ。その鋭い刃で切り裂いた先にこそわたしがいるような気がしたからだ。
他者に共感することなどなんと容易いだろう。相手の語り口に合わせた調子で頷いていればよい。そのうちにまるで相手のことがわかったような気分になって、その人の気持ちがわたしの中に入ってきたように錯覚して、わたしは誰かと繋がれたような安心感を得る。それが仮令ただの幻想だったとしてなんだと言うのか。独りきりでないと思える、安心できる、幸せになれる、その感覚まで否定される謂われはない。しかしその幸福は長くは続かない。繋がれたように思うほどに、他者と接近するほどに、自他の間に落ち窪む深く広い谷間までも輪郭を明瞭にするのだ。ああ、確かにわたしは誰かと近づけたはずなのに、故にこそ他者との断絶を思い知らずにはいられない。
そのときになって初めて、己が空虚さをいやと言うほど自覚する。誰かに認めてもらうほか、誰かの気持ちを共有するほか、わたしの中にわたしを構成するものが何一つとして見出せないのだ。誰かの気持ちに共感した気になって、オウム返しに同じものを表出してみせる。そうすることで、まるでわたしは自我を得たような気になっていただけだった。
だからわたしは、カッターナイフを手に取った。これを手首にあてがうのは、他の誰でもない、わたしの意志だ。わたしがわたしとしてこの場に存在している、何よりの証明だ。……手首に傷がつくと、何かの拍子に誰かに見られてしまうだろうか。もう少し上、肘に近いところにしておこう。鋭い痛み。時間をおいて、僅かに滲む赤いすじ。眩暈がした、笑みが浮かんだ、涙が滲んだ。この愉悦も、この痛みも、わたしだけのものだ。よく目にする、彼女たちの腕に刻まれた傷ほどに痛々しいものではない。あんなに深く、たくさんの傷を作ることは、怖くてとてもできやしない。ほんのちょっとした、子どもの遊びみたいな傷だ。それでも今わたしは、確かに他の誰とも共有し得ない感覚を享受していた。
きっとまた明日から、誰かと混じり合うことになるだろう。それはわたし自身が求めているものでもあったし、それが嘘であれ真であれ、他者に対して共感を示さざるを得ない環境に身を置いていることも事実だった。望むと望まざるとに拘わらずわたしはあの幸福感と直後の空虚感を行き来しなければならない。だけれどそのとき、この傷は、押し流されてしまいそうな薄弱なわたしを繋ぎ止める楔になろう。わたしがわたしとして存在を許されるための助けになろう。そう思うと、この傷がとても誇らしく、愛おしいものに感じられた。
そうすると一つでは物足りなくて、加えて幾度か、カッターを走らせた。
眩暈が止まらない。もしこれが誰かに露呈したならば、その誰かは「何をしているのか」と馬鹿にするのだろうか。構ってほしいだけだろうと嗤うだろうか。或いは死にたいならば死ねとあしらうだろうか。もしそうならば、わかっていない、何もわかっていない。むしろ問い返してみたいものだ。それならばどうしてあなた方は。自分が自分であると無根拠に信じていられるのかと。あなたはほんとうに思考しているのか? ほんとうにあなたはあなたとして、感情を抱いているのか? そしてその結果あなたが世界に受け容れられいてるなどと、どうして脳天気に信じていられるのか。これは生きていくための必要に迫られた手段であって、あなたにはそれに相当する何かがあるというのか?
もしくは優しげな声でもってわたしに寄りそうだろうか。そんなことをする前に話してくれたらよかったのにと尋ねてくるのだろうか。馬鹿を言ってはいけない。共感などされてたまるものか。どうせそんなものは、わたしが他者に対して抱くのと同じ安価な物でしかない。土台ひとはわかり合えない、などとつまらないことは言うものか。共感なんていとも容易い。ひととひとがわかり合うことなど造作もない。その程度のことで、その足許に穿たれた亀裂に気づくこともなく他者を慰めた気になっているならば、おめでたい、失笑ものだと思わないか?
あはは、ちょっと痛い、ピリピリする。袖の内側に擦れて、熱を持っている。
……それでもやっぱり、心のどこかで、誰かに気づいてほしいと思っていることも、自覚はあるのだ。慰めてほしい。優しい言葉をかけてほしい。それを信用できるかどうかは別の問題だけれど。
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