特に起承転結を考えるでもなく
特に起承転結を考えるでもなく、つらつらと文字を連ねることもたまにはよいかと思って、物語ですらない、ただわたし自身の思うところについて言葉を並べてみる。幾らか……かなり、ダレると思うから、それを承知で読んでほしい。いや、そもそも、こんな文章をアップロードしたところで、誰が読むわけでもないのだろうが、無駄なことをうだうだと語ることを許してくれる友人や知人に心当たりはなく、さりとてツイッターでは自由度が低い気がして、だから長文を好き勝手に投稿できるこの場を活用するわけである。さしたる知識もない者が反論に耳を貸すこともなく狂ったカラスみたいにカァカァ騒いで無知を晒していると思って遠巻きにしてもらえばよい。あとから自分で読み返し、恥ずかしくなって投稿を削除することまでがワンセットだ。そうしてまたひとつ思い出したくもない過去が形作られていく、その過程を端から見て楽しむために、失笑混じりに目を通してもらったらどうだろう。
最近、職場の部署内で立て続けに結婚の報告があって、なるほどめでたい話だなあと素直に祝福を送っていた。わたし自身も適齢期にあって(もしくはもう過ぎているのかも知れなくて)、それでありながらそういう浮いた話が自分にないことで、焦りや嫉妬のような感情がないわけでもなかったが、あまりにも縁遠いためかそんな気持ちは具体的な質感を帯びることもなく、いっそ他人事のようにも思えたから、それとは別に、恐縮して控えめな言葉で入籍の報告をする彼女たちに対して言祝ぎ拍手を向けることができた。
しかし、やはり少なからず何か引っかかるものがあったらしくて、わたしは「結婚」というイベントについてぐるぐると考えた。
そもそも恋愛というものをしたことがないから、全くの見当違いだったら笑ってもらいたいのだが、恋愛ってやつは、一緒にいたい相手とするものなのだろう? その末に結婚に至るわけだから、一緒にいる、ということの苦痛と快楽を比較したときに、快楽が勝ってよいはずだろう? いやさ今日にあっても恋愛結婚ばかりと言い切ることもできなかろうが、仮令お見合いなどの場合であっても、何かしらの利益と不利益(これは個人の感情という枠組みだけでなく、経済的、社会的な利不利なども含め)を勘案した結果、利益が見込めると判断したからこそ(誰が判断したかもさておいて)結婚に至るはずだろう? こうした利益や快感は我々が生き物である以上はよりよい繁殖成績を見込める物事によって喚起され、それだからこそ我々は、これと決めた相手と番う、はずだ。この相手とであれば後世に自身の遺伝子を残すことができると、様々な知覚を通して意識的或いは無意識的に判断し、繁殖行動を起こすのだろう?
交尾をすることだけが目的ならば、恋愛や結婚など必要ないではないか。優秀な雄が様々な雌のもとを巡った方が繁殖効率はよいではないか。であらばこそ、我々が他者を愛し契りを交わすのはより人間的な理由によるもで、獣と同じに扱ってもらっては困る。……とこれは些か揶揄しすぎだろうが、それらしき高尚な意見も聞かれるかも知れない。しかし、繁殖行動は交尾のみで完結するわけではなくて、そこには子育ても含まれる。生まれた子を放置して、何事もなく育つのならば、雌雄ともに子が生まれた時点で次の遺伝子を獲得しに行くがよかろう。雌のみで育児が可能ならば、雄は交わった雌のところへ留まり続けるのは非効率だ。だが実際はそうではない。少なくとも現時点では、番で子育てにあたった方が、経済的に余裕が生まれ、子は社会的な地位を向上させる。社会的地位の向上が優秀な個体であることを示す条件ならば、雌雄が揃うことで良い繁殖成績を残しそうな個体が育つようだ。結婚という行い、夫婦という単位、ひいては愛するという感情に至るまでも、繁殖する上で重要な価値がある。いやむしろそれ以外の価値などない。とはいえ、それら生物的、本能的な価値判断を理性や人間性などという美しい言葉で糊塗して、人間とそれ以外を隔てるような考え方も、今の社会に強く根付いている以上は人間という生き物が繁栄するには必要なものだったのだろうから、全く否定はしないけれど。
なあんて、それっぽく単語を並べて思索の真似事をしていたら、不思議に感じることがあった。
夫婦という単位を形成することが繁殖するうえで有利にはたらくのだとしたら、どうして人間は「結婚」するのだろうか。
結婚、なんて儀式めいたことをしなくとも、ある雌雄ひと組が共に過ごすことを妨げるものなどない。むしろ、番で子育てをすることが、繁殖成績を上げるための必要条件ならば、「結婚」などというものを通して古くは神に、現代には世間様に誓いを立てずとも、少なくとも子が育つまでは一緒にいることが選択されるべきではなかろうか。何に強制されずとも、夫婦は共同して育児に参加するものではないだろうか。例えばカラス。彼らは基本的には生涯パートナーを変えないものらしい。しかし彼らは「結婚」をするか? 神に永遠を誓うのか? いや案外、人間の見ていないところで白無垢を着ているのかも知れないが(艶のある黒い羽毛に純白はさぞ映えることだろう)、まあ、今のところそういう例は報告されていない。生き物は、何に縛られずとも、特定の個体同士で長い時間を共に過ごすことができるのだ。
ところが、翻って人間はどうだろう。永遠の愛を囀っておきながら、そこここで不貞を働いている。不仲を起こして言い争っている。挙げ句の果てに離婚する。それらの道徳的是非は置いてしまっても、そういった事実が後を絶たないということは、人間が繁殖するためには、どうやら必ずしも夫婦という単位は重要視されるわけではないらしい。人間の子育ては雌雄揃わずともよいらしい。先に述べたように、雌雄が共に子育てに当たった方が繁殖成績はよくなりそうなものだが、それは繁殖の絶対条件とはならない。貧富の差は生まれても、富んでいようが貧しかろうが、どちらにしても子は育つ。社会的地位それのみが繁殖成績を担保するものではあり得ないようだ。
それでありながら、一般的に、離婚は忌避されるし婚外子などもってのほか、とされている。結婚して、夫婦円満に子育てをし、幸せな家庭を築くことが是とされている。どうして繁殖に必ずしも益しない観念が道徳的に良いものとされているのだろう。おっと、これこそが、人間の愛ってやつか。本能とは異なる人間性ってやつなのか。だとするならば、それは実現し得ない理想論、努力目標に留まるだろう。むしろそういう振る舞いが善良であると自らに枷をはめない限り、我々は容易に夫婦などという括りを逸脱するという証左ではないか。道徳的な善良さは、それが損なわれることが前提にあるからこそ大事にされるのだ。「本能のままに生きる」ことは、人間が言う性的な逸脱と等価ではない。本能に従い生きている野生動物にすら、人間の作った道徳に適う生き方をしているものがある。人間に備わった本能こそが、もっと言えば人間そのものが、まず道徳に反しているのだ。だからこそ、そんなものは存在しないからこそ、永遠の愛だなんていう道徳的規範が要請され尊重されるのだ。
……そろそろ自分でも何を言いたいのかわからなくなっている頃合いなのだが、まだまだ続くぞ。
道徳だとか愛だとか、高級食材を俎上にのせて一級料理人を気取っているのだなあ、と書きながら既に恥ずかしくなっている。しかし所詮は独り言の延長線上であるのだから、もう少しくらいぐるぐる考えてみたい。
人間という生き物が、子育てにおいて両親の存在を必須としないならば、なぜ伴侶を変えてはならないという価値観が根付いたのだろう。いや、そうか、多くの個体間で同じ考え方が共有されているならば、この道徳的な価値観も人間の本能と考えることができるのか。ある本能において積極的に多くの遺伝子を他者から受け取り、また自身のそれを広めたいと考える一方で、また別の本能ではそれを妨げようとしているわけだ。しかしこの二つの本能は真っ向から対立するものではない。後者を、優秀な固体の遺伝子を独占するため、と考えてはどうだろう。自分はいろんなひとと交わってたくさん良い要素を自分の血に取り入れたいけれど、競争相手には奪われたくない、何故ならそれら競争相手は今後自分の遺伝子にとって脅威となり得るのだから。と、これならば対立は解消される。種の存続の前に、まず自己の遺伝子の存続が個体にとっては重要なのだからこれは当然と言えよう。そしてその結果より優れた遺伝子が残り、種の生存確率を向上させるのだ。優秀な遺伝子を独占するために「結婚」という形で特定の固体を繋ぎ止めている。言い方を変えれば、束縛しなければ容易に他固体と交わってしまう可能性があるわけだ。いや、現実へ目を向けると、「結婚」が必ずしも遺伝子を独占し得ないことは明らかだ。それくらい人間という種は個体数を増やしているのだろうと考えさせられる。
繰り返しになるかも知れないが、個体数が増えたことで、人間は容易に他固体と交わることができるようになっている。少なくとも、その機会に恵まれる確率は高まっている。そしてそれは同時に、一つの固体に執着しなくともよいということでもある。ある固体と子孫を残すことに失敗しても、比較的低リスクで別の固体と番うことができる。先に話題にしたような、不貞や離縁は、そのあたりの事情もあるのではないだろうか。一昔前までは、離婚など言語道断という習慣だったような気がするのだが、離婚する人間は確実に増えているし、再婚するひとも増えている(厚労省の統計でそう言っているんだからきっとそうだ)。そう考えると離婚も再婚も、今後それほど重大なことではなくなるのだろう。そういった道徳的な価値観の変遷が、離縁などに伴う家庭内の不和を緩和するに至るのかはわからないけれど。両親の間、親子の間での関係の不和は、愛着障害なんて言葉も連想させる。価値観が変わるだけで、そういうものもなくなっていくのだろうか。
個体数……人口の増加と恋愛観に関連して、もうひとつ、こちらは完全な妄想だけれども、思うとろがある。そんなに長くはならないし、これでおしまいにしようと思うから、ここまで読んでくれているひとは(そんなひとがいるならば)もう少しだけお付き合いいただきたい。
今日の恋愛観においてよく騒がれている、LGBT。マイノリティを認めることは重要で、個人の価値観を尊重するという考え方は確かに現代的だけれど、どうしてこういった主張が今大きくなりつつあるのだろう。また、それとは別に、日本だけで見てみるとどうやら婚姻率が減少傾向にあるらしい(わたしみたいに、全然恋愛できない人間だって少なくない……と思いたい)。結婚して子どもを作ることは当然、という考え方は古くなりつつある。これらは、世界的な潮流と日本だけの事柄という全く枠組みの違うもので、本来ならば同列に語るべきことではないし、だからこそこれはただの妄想なのだけれど、この二つがもし、関連しているのだとしたら、それは人口の増加が原因だったりしないだろうか。
ぱっと妄想の主旨を言ってしまえば、人間という種は「もう増えなくても良い」と自ずから選択しているのではないかと思えるのだ。個々人という隔たりを越えて、人間という種それ自体がまるでひとつの生き物のように個体数の減少という舵取りをしているように見えはしないか。それぞれの個体は、別段、そんなこと考えてはいないだろう。己の信ずることについて主張し、己の幸福を追求しているだけだろう。それにも拘わらず、結果、種全体をあるひとつの方向へ導いている、……ように見える。これ以上の人口増加を抑制するため、アポトーシスを起こしているようではないか。もっと言えば種という生き物の思惑に従って個人の思考が紡がれているようではないか。そう考えると、わたしという個人の一挙手一投足が、己の意思によってではなく何か大きな力に強制されているようにも思えてくる。自分の意志であると思い込んでいるものの出所が、急に怪しくなってくる。意識と呼ばれているものも所詮は化学反応と物理法則の産物であるのだと割り切ってしまえば、個々の感情が個体などという曖昧な境界線を越え、緻密に反応し合ってひとつの流れを生み出すのも当然なのかも知れない。物語的に言い換えると、わたしがどう振る舞おうと、それは世界にとって想定内の出来事でしかないのだろう。
そう思うと、とても気持ちが軽くなる。わたしの意志もきっと大きな原因によって引き起こされた小さな結果でしかないのだ。なるべくしてなっているのならば、その責をわたしは負わなくてよい。わたしがこんな人間で、他者と上手に関係を作れないことも、きっと世界にとって意味があることなのだ。
さて、詭弁を並べ自分の至らなさを正当化することで、長々と続いたこの文章も終わろうと思う。結局何を言いたかったのか、自分でもわからないのだからここまで付き合ってくださった心優しい読者の方々もきっと首を傾げていることだろう。それを想像できていながらも、わたしは理解されるよう文章を並べ替えることも、さらには大した推敲すらすることもなしに、これを投稿しようとしている。こんなものはほとんど自慰行為と同義だ。第一、これ、読むひといないだろ……。とは思いつつ、読んでほしいと期待しているのも本音だ。さらに言えば「お前はバカかこれはこう考えるべきだろ」的な反応があったらいいなあ、などとわくわくしてもいる。友人知人がいたならば、その人たちに話してみたかった内容なのだから当然だ。
誰かしら何かしらの反応を想像して、わたしはふふりと独り笑みをこぼす。そして「公開」ボタンを押した。
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