熱帯魚

 暗い部屋の奥で、水槽ばかりが照らし出されて煌々と輝いている。水面に反射した光が壁に映り、時をおかず形を変えてはうねり、ちらちらと揺れている。小さなモーター音が、気泡の弾ける微かな音と共に辺りを揺蕩っていた。僕はその広くて、暗くて、冷たい部屋を、まっすぐ水槽目掛けて歩く。

 弱っている熱帯魚が一匹いて、気になっていたのだ。体が小さくて、尾や背のひれがドレスのように大きな、鮮やかな翡翠色に黄色い斑点を散らしたグッピー。最近、そいつが逆さ泳ぎをしたり、腹がずいぶん膨れていたり、明らかにおかしな様子だった。もうすぐ死ぬのだろうな、と経験則で知っていた。だから帰り支度も済んでいるのに、疲れをおして見に来たのだ。

 心配していた、というのとは違うのだと思う。むしろ死んでいてもよいとすら思っていた。そうすれば、先輩と話す口実ができる。きっとそんな邪な思いでいた。

 水槽には他にも何匹か魚やエビがいて、そんな中でも目当てのグッピーはすぐに見つけることができた。なぜなら、そのグッピーに小エビが群がっていたからだ。底に沈み、横たわるグッピーを、二匹のエビが小さなハサミでつつき回していた。尾びれを裂き、腹をつつき、興奮したように無心にハサミを口元に運んでいた。周囲には剥離した鱗が漂っている。

 ふと、グッピーが砂の上を転がった。エビにつつかれたせいではない。エビは慌ててグッピーを追いかけている。グッピーの尾が弱々しくうねった。グッピーはまだ生きていた。

 僕は思わず、水槽に顔を近づけていた。口がぱくぱく動いている。胸びれにもまだ微かな意思がある。ほとんど意味を成していないが、グッピーはエビから逃れようとしている。それに構わずエビはグッピーを生きたまま貪っていた。あの小さなハサミがグッピーの膨れた腹を突き破ったらどうなるのだろう。慌てているみたいにあちこちへ向けられている目を突き刺したらどうなるのだろう。内臓が弾けて血が漂い、あっという間に水に溶けていく様を想像した。細い管みたいな内臓を、エビは一層興奮して食べるだろう。そのときグッピーはまだ動いているのだろうか。

 これを、ひとりで見届けるのはもったいない気がした。先輩にも教えてあげたくて、僕はスタッフルームに走った。

「先輩! あのグッピーが、生きたままエビに食べられています!」

 僕の声は、馬鹿みたいに昂ぶっていた。

 先輩はかわいい。ちっちゃくて、でも大人びていて、いつだって落ち着いた声音で話す。そんな先輩も、僕の言葉に驚いて、うそっ、と目を丸くして、ぱたぱたと水槽へ駆けていった。僕はそんな先輩を見ているのが楽しくて、わくわくしながら後を追いかけた。

 グッピーはまだ破裂していなかった。エビは夢中になってグッピーをつついている。また一匹、別のエビがご飯のにおいを嗅ぎつけて入り込んできた。三匹が争うようにハサミを伸ばしている。

 僕は宝物でも紹介するような気分で、「ねっ」と先輩を振り返った。先輩は言葉に詰まって水槽を見ていた。

 少しの間があって、先輩は、かわいそう、と小さく呟いた。これは、助けてあげるべきなのでしょうか、と窺うみたいに僕を見上げた。

 それはきっと「助けてあげたい」という意思表示だった。僕は躊躇う。ここで先輩に同意すれば、グッピーからエビたちを追い払うことになるだろう。しかしそれにどれほどの意味がある? もう、グッピーに泳ぐような力は残っていない。どのみち死ぬ。それは「助ける」ことになるのか。

 人間のエゴだろう。なんてわかったようなことを思いもした。しかしほんとうのところは、ただ、生きたまま食べられていくグッピーをこのまま見ていたかっただけだ。いつ死ぬのだろう、そのときグッピーはどんな様子なのだろう。その瞬間を先輩と一緒に見たかっただけなのだ。だって、きっとそれは劇的な画になるだろう。堪らなく興奮するに違いない。それを先輩と共有したかった。しかしそれはきっと、いけないことなのだ。僕の思いと比べれば、先輩の気持ちはたぶん、正しい。

 結局、僕はグッピーを小さな紙コップに掬い上げた。もうほとんど泳げず、ひれを動かしても、コップの底を転がるだけだった。

 安楽死させてあげましょう。先輩は言った。僕たちは以前、病気になってカビみたいなのが体についた熱帯魚を殺したことがあった。他の魚に感染したらいけないからと、どうやったら苦しまずに殺せるか思案したことがあった。そのときは僕の提案でその魚を冷凍庫に入れて殺した。きっと眠るみたいに死ぬのではないですか、とさも人道的なことを言いながら、僕の脳裏にあったのは乙一の『夏と花火と私の死体』だった。先輩はそのときのことを言っているのだ。

 僕は神妙に頷きながらも、内心ではほくそ笑んでいた。先輩の選択はやはりどこかエゴを含んでいるのだ。冷たく暗い冷凍庫の中でひとりきり、徐々に動けなくなって死んでいくことが「安楽死」などと言えるものだろうか。そんな残酷なことを口走り、僕に実行させる先輩のその無自覚さに、僕の心はうきうきした。それに、生きたまま氷らせた熱帯魚は、泳いでいるときそのままに固まることを、以前の経験で知っていたから、楽しみだった。美しい姿のまま氷らせるだなんて、人間でやったら大変なことになるけれど、熱帯魚なら誰も怒らない。それどころか先輩が背中を押してくれる。

 先輩も氷らせたならきっと綺麗だろうな。そんな想像をしながら僕はグッピーを冷凍庫に仕舞った。先輩は残った仕事を片付けに、もうスタッフルームに戻っていた。そこにさしたる感慨はなさそうだった。熱帯魚一匹に向ける感情なんて、そんなものなのかも知れなかった。

 あとになって冷凍庫を見に行くと、すっかりグッピーは凍りついていた。けれど、エビに食べられたひれがボロい扇子のような残念な有様で、あまり綺麗ではなかった。泳ぐこともできなかったせいだろう、横倒しになったグッピーは、ただの死骸と変わりなかった。僕は溜息が漏れた。前回のときには「きれいですよ!」と先輩に見せに行ったものだけれど、これは、わざわざ見せるものでもないか。そう思って、僕はそのままグッピーをゴミ箱に投げ込んだ。

 グッピーさん、ご臨終です。先輩にそう報告して、ふたりで手を合わせた。ほんの一瞬だけの黙祷だった。

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