わたしのわたし
茶々瀬 橙
カッター
なにか、いやなことがあったのだと思う。
わたしはそれを言語化できない。違うかな、したくないのだ。
いやなことがあった、ということを認めたくない。
あれはいやなことではなかった、わたしの心はあの程度で傷つくほど繊細にできていない。わたしは大雑把で、無頓着で、馬鹿で、道化なのだから。誰かと比較されたとき、その誰かにとって「あいつよりはマシ」と思えるような、そんな人間なのだから。
だからわたしは、傷ついてなどいない。
ともかくもわたしはスタッフルームを抜け出して、ひとりになれる薄暗い場所に身を移した。いらない本の処分を任されていた、それを思い出したのだ。喫茶室に積み上げたままになっていたはず。まとめて、ゴミ置き場に持ち出さなければならなかった。
スズランテープとカッターを携えて、荷台を押して、ひとり喫茶室へと向かった。
仕事柄、リストカットをしている人とはよく顔を合わせていたし、その傷痕を見たことだって幾度もあった。その度に、あまりの痛々しさに思わず目を背けてしまいそうになった。自分のことのように痛みを覚えて、うっと身を縮めてしまった。
それだというのにいつからか、それが選択肢のひとつとして、妥当であるように思われてならない。つまり行き場のない感情を押し流す方法として、頭から離れなくなっていた。
痛いのは、きらいだ。だからまさか、やろうとは思わなかった。
でも、好奇心で、カッターの刃をめいっぱい出してみた。キチキチキチと鳴る音が、たまらないほどわたしの胸を震わせた。
手首にあてがった。普段日に晒されぬ手首の裏側に、青い静脈が鮮明に映った。
生き物にあるべき、根源的な恐怖。いけないことをしている愉悦。それらが入り混じる、名付けられ得ぬ興奮が肺を満たしていく。やがて深い呼気と共に吐き出された。
ほとんど力は込められなかったけれど、手を引いてみた。ささやかながら、鋭い痛み。血は出るだろうか。そんな思いは、もはや不安であるのか期待であるのか、区別がつかなかった。
しかし、人の肌とは丈夫なもので、その程度では出血などしないらしい。仄かにミミズ腫れのような赤いすじがついただけだった。
もう一度。
結果は同じ。
わたしはそれで、なんだか満足してしまって、もしくは怖じ気づいてしまって、カッターの刃を仕舞った。おとなしく本の整理を始めた。大きさで本を分けながら、ふと手を止めて、手首に目を落とす。
赤いすじがふたつ、平行に走っている。それを見ていると、自然と頬が緩んだ。その瞬間だけは、いやなことを全て忘れられるようだった。
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