一本目 向日葵のような


 初めて美誠みことに出逢ったのは九月、高校一年の二学期が始まってから一週間が過ぎた頃だった。


 当時のわたしは学校が終わってもすぐには家に帰らず、通学途中にあるこの駅に寄り道していた。今にして思えば、それは一種の逃避だったのだろう。思い通りにいかない現実に対する、わたしなりのささやかな抵抗だったのだ。


 その日も駅のベンチでぼんやりと時間を潰していた。三十分おきに停車する列車が駅を去っていくとき、声が聞こえた。


 「ねえ」


 まさか自分が呼ばれてるとは思いもしなかったので、初めはその声を無視していた。

 だけど声の主が頭を小突いてきたものだから、わたしはびっくりして振り向く。歳の近そうなショートボブの女の子が口角を上げてこっちを見ている。


 「…………わたし?」


 困惑しながら、わたしは訊ねる。


 「そうだよ。ほかに誰がいるのさ」


 確かにホームにはわたしたちの他に誰の姿もない。でもどうして?面識はないと思うけど。


 相手はおかしそうに笑うと、端っこの席にどさりと座った。細く引き締まった太腿ふとももがグレーのパンツ越しからでも分かる。背もたれに肘をかけてわたしを見る。


 「あんた、よくここにいるよね。いつも何してるの?」


 言葉の意味を理解するのに、頭のなかで二回ほど反芻はんすうさせる必要があった。途端に顔が熱くなる。


 「な、なんで!?」なんで知ってるの!?


 相手はわたしの急な大声に一瞬顔をしかめるも、まったく疑問に思うことなく。


 「いや、だってここ電車から普通に見えるし」

 「あ……」


 言われて気づく自分の鈍さに愕然がくぜんとする。

 眼と鼻の先で列車が横切っているのに、どうして安住の地だと信じたのか。


 「電車が来てもずっと座ったままだから、前から気になってたんだ」

 「そ、そんなに目立ってましたか、わたし……?」

 「うん。かなり」

 「うあぅぅう……」


 わたしはたまらず頭を抱えた。あまりの恥ずかしさに顔を見られない。


 「え、何?そこまでヘコむようなこと?」

 「泡になって消えてしまいたいくらいです……」

 「人魚姫かっ」女の子がカラカラと笑う。「ていうか、そんなセリフ平気で口にできるとか。あんたってロマンチストなの?」

 「おかしい、ですか?」

 「少なくとも、初対面を相手にするにはハードル高いと思う」

 「うひぁああぁぁぁ……」


 ますます落ち込むわたしに、女の子は笑って肩を叩いてくる。


 「それで話戻すけど、どうなの?」

 「えっと……なんの話でしたっけ……?」

 「だから理由だよ。こんなとこで何やってるの?」

 「あー、えぇと……」


 言葉に詰まる。

 どうしよう。ぼーっとしていただけで、特になにもしてない。


 ちら、と相手の顔を見る。


 「ん?」


 遠慮のないまっすぐな瞳がわたしの言葉を待っていた。

 逃げ出せるものなら全力でそうしたかったけど、夏の光を溜めた好奇心の眼は簡単には解放してくれそうにない。


 端から端へと視線を往き来させてから、やがて投げやり気味に答えた。


 「そ、空を……」

 「空?」

 「そう、空を見てました。この空のどこかにいるかもしれない誰かを想像しながら、ずっと……」


 深く息を吐きだして、わたしは広大な晩夏の空に眼をやる。


 「見上げるたびに、毎日違う空が広がっている。だけど、空はいつだって繋がっていて、知らない誰かも、同じようにこの空を眺めているんです……そう思うと、なんとなく気持ちが楽になるんです」


 適当なことを言ったつもりだったけど、口にしてみるとなんだか本当のように思えてきた。


 「たとえこの世界でひとりぼっちでも、遠く離れた場所から同じ景色を見ている人がいる……ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、力がもらえるんです。現実はなんにも変わらないし、空っぽのままだけど、それでも、もう少し頑張ってみようかなって、思えるんです……」


 家でも学校でも、わたしは心の安らぐ場所を持てずにいた。居場所がないと感じていた。

 だけどこの空の下には、わたし以外にもそんな人たちがいるはずなのだ。彼らが見ている世界はきっとわたしと同じで、わたしたちは見えないなにかで繋がっている。


 視線を戻すと、彼女はいつの間にか顔を伏せていた。座席に肘を乗せたまま、黙り込んでいる。


 「あ、あの……どうしました?」


 反応がない。眠ってるわけではないようだけど。


 「もしかして、暗い話で嫌な気分になったとか……?き、気にしないでくださいねっ。辛いのは本当だしすごく哀しいけど、べつに大丈夫というか、もう慣れっこというか……仕方のないことだって思ってるのでっ!わたし、ちゃんと諦められてます!だから同情とか本当に――」

 「く、くく……」


 突然、彼女は声を漏らしだした。肩をぷるぷる震わせて必死に耐えるように……って、これひょっとして。


 「あーーはっはっはっ!」


 ついに我慢できなくなり、大口を開けて笑いだした。お腹を抱えて、バンバンと背もたれを叩く。


 「やっぱロマンチストだ!何なの、『この空のどこかにいるかもしれない誰か』って。ほんと誰それ!口下手かと思ったら、いきなり喋りだすし……くくっ……」

 「ひ、ひどいっ!!わたし真剣に悩んでるのに!」

 「ごめんごめん。でもさ、ほんとおかしくって」


 怒るわたしを片手であしらいながら、彼女はもう一方で目尻の涙を拭う。


 「挙げ句に諦められてるとか……いや諦めちゃダメでしょ、自分の人生なんだから」

 「そんなこと言ったって……」

 「後ろ向きに生きてるんじゃ、そりゃ何にも変わんないし、つまんないよ」

 「…………」

 「ひとりが嫌なら、そう言えばいいじゃん。ほんとの気持ちなんて、本人にしか分かんないんだから。ちゃんと言葉にしないと、伝わるものも伝わらないよ」


 梅雨の晴れ間のような笑顔を向けられ、わたしは眼を背ける。


 わたしだって分かってる。声に出さなきゃ意味がないことくらい。

 だけど、みんながみんな思ってることを素直に口にできるわけじゃないんだ。こうなればいいああなればいいと、曖昧で漠然とした願望ばかりを胸のなかにため込んで、現実にすることも前を向く勇気もなく、眼を逸らすしかできない。


 しばらく俯いたままでいると、列車の到着を告げるアナウンスが駅構内に流れた。彼女に話しかけられてからもうそんなに経っていたのか。


 「あたし、小音琴美誠さねごとみこと


 黙りこむわたしの頭に声が降ってきた。はっと顔を上げると、眼の前には差し伸べられた彼女の右手。


 「できないなら、せめて応えなきゃ。殻に閉じこもってるだけじゃ、誰とも繋がらないよ」


 彼女は笑っていた。馬鹿にしてるわけでも楽観的な風でもなく、透き通った硝子がらすみたいな表情だった。


 「夕凪ゆうなぎ、ゆらぎです……」


 わたしはこわごわと手を握った。力がこめられる。他人の体温。手のひらを通って胸のあたりがぽかぽかしてくる。


 直後、列車が駅に停車した。プシュゥとエアーの抜ける音が上がると、彼女は列車へと駆けていく。


 その背中を見つめるわたしに、彼女は扉のそばで振り向いて告げた。


 「それじゃ、またね」



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