第346話 ブレーキ

 俺はアリサと一緒に魔導書の翻訳を始めた。

「この単語はどう訳せばいいんでしょう?」

「主語の熱に掛かるものだから『吸収する』じゃないか」


 アリサが納得したように頷いた。アリサと二人で作業している時間は何だか楽しい。但し、部屋に二人きりという訳ではなかった。俺の横で為五郎が寝そべっており、その背中でタア坊とハクロが相撲をとっている。


「今頃、千佳たちはどの辺でしょう?」

「四層くらいかな。砂漠の上を飛んでいるんじゃないか。彼女たちなら心配ないと思うよ」


「そうですね」

 作業部屋のドアが開いて、トシゾウがコーヒーを持ってきた。

「一休みされては、どうですか?」

 トシゾウの話し方や仕草が執事の金剛寺に似てきたように思える。アリサはトシゾウが化粧しているのに気付いた。


「トシゾウは化粧をしているんですか?」

「エルモアと一緒に、外に出ても不自然に思われないような化粧を研究しているんだ」

「プロのメイクアップアーティストに頼んで、教えてもらうのはどうです?」


「そうか、そんな職業もあったな。考えてみるよ」

「ところで、<反発(地)>と<反発(水)>を金属に付与して、試してみたんですか?」


「まあね。<反発(地)>だけを付与した蒼銀で板を作って実験している。特性付きの蒼銀板に流し込む魔力の量によって、浮力が変わる事が確かめられたよ」


「その蒼銀板を見せてもらえませんか?」

 俺は収納アームレットから取り出して、アリサに渡す。長さ七十センチほどの楕円形の金属板である。その蒼銀板の先端には導線が繋がっており、アリサが導線を握って魔力を流し込むと板が浮かび上がった。


「乗ってみるのなら気を付けて、バランスを崩すと転ぶよ」

 アリサが慎重に片足を乗せて体重を掛ける。その重みで少しだけ蒼銀板が沈んだが、流し込む魔力量を増やすと元の高さに戻った。


「思っていた以上に、浮力が強力ですね」

「そうなんだ。だけど、高度が四メートルを超えると急激に浮力を上げるのが難しくなる」


 アリサは<反発(地)>のパワーを確かめられて満足したようだ。

 その後、魔導書の翻訳を続けて一日が終わった。この作業を一緒に続けた事で、俺とアリサはお互いを身近に感じるようになった。


 その翻訳作業で未登録の付与魔法の一つが、ホバービークルに使えそうだと分かった。それは『フォーストブレーキ』という魔法だ。これは対象とするもののスピードを強制的に減速させる魔法である。


 この魔法には魔導素子も存在しており、その魔導素子を刻み込んだものをホバービークルに組み込めば立派なブレーキとなりそうだ。


 次の日、俺たちは天音が必要だと言っていた機材や魔導基板を購入するために出掛けた。買い物をする前に冒険者ギルドへ寄る。


 受付の誰かが、俺が来た事を支部長へ連絡したらしく、支部長室へ行くように言われる。アリサと二人で支部長室へ行くと、近藤支部長が待っていた。


「アリサと一緒で構わないですか?」

「もちろん、構わんよ。蟠桃がオークションで落札されたので、結果を知らせようと思ったのだ」


 蟠桃は一個だけで一億円を超える値段で落札されたという。十一個の蟠桃を出品したので、手数料を引かれても十一億円ほどの金額が俺の口座に振り込まれる事になる。


 それを聞いたアリサが驚いていた。蟠桃がそれほど高いとは思っていなかったのだ。

「蟠桃を取りに行ったら、皆で一個ずつ食べるつもりだったんですけど」

「いいんじゃないか。蟠桃を食べるという経験は貴重なものになるから」


「でも、一億円を超えるものを食べるというのは、勇気が必要です」

 近藤支部長が、その気持ちが分かるというように頷いた。

「ところで、モンタネール氏は戻って来ましたか?」


 支部長が頷く。

「ああ、蟠桃八個を採取して戻ってきた。どうやら蟠桃の森で何日か野営して熟した蟠桃が増えるのを待ったようだ」


「段々と少なくなっていますね」

「それは仕方ないと思うぞ。モンタネール氏が到着したのは、グリム君が蟠桃を採取した直後だったようだからね」


 モンタネールは神話級の魔導武器である『フロッティ』を使って、一撃でランニングスラッグを凍りつかせナメクジ草原を突破したようだ。


 俺は新しい魔法を開発して、やっとナメクジ草原を突破したというのに、ランキング百位以内のモンタネールは楽々と突破している。それを考えると、ランキングは実力差を反映しているようだ。


 その後、魔導職人が利用している店で買物をしてから屋敷に戻り、二日間ほど翻訳作業を続ける。


 魔導書の翻訳が半分ほど終わった頃、天音たちが戻ってきた。今回は五十キロほどの白輝鋼が採掘できたようだ。


 特性を付与した白輝鋼は二十五キロほど有れば十分なのだが、アリサたちは自分たち用のホバービークルも作るつもりなのだろう。


 アリサが魔導書にあった『フォーストブレーキ』について説明する。それを聞いて天音が目を輝かせる。この魔法の魔導素子なら、応用範囲が広いからだ。


「どんな応用が考えられるの?」

 由香里が尋ねた。

「そうね。乗り物のブレーキに応用できるし、パラシュートの代わりにもなるかもしれない」


 そのアイデアを聞いて感心する。落下スピードを減速してゆっくりと落ちるようにする魔道具は需要が多いかもしれない。但し、高価なものになるので、個人というより企業が購入して、従業員に使わせるという形になるだろう。


 それから五人でホバービークルの構造について話し合った。基本は浅瀬で使われるエアボートのような形にしたが、大型のプロペラで推進するのではなく、『エアコンプレション』の魔導素子を使った圧縮空気推進を使う事になった。


 推進装置とブレーキの開発は天音とアリサが担当し、俺と千佳と由香里は機体の設計を担当する。大体の設計が終了したところで、エアボートのメーカーに作れるか打診した。


 メーカーから作れるという返事が来たので、正式に発注する。フレームはアルミ合金を使って軽くして、そのフレームの外側に、<ベクトル制御><反発(地)><反発(水)>の三つの特性を付与した白輝鋼の薄板を貼り付けるという構造になる。


 <ベクトル制御>を追加したのは、<反発(水)>の反発力が人間の体内にある水分にも反応する事が予想できたからだ。その反発力を<ベクトル制御>を使って下向きにだけ働くように制御したのである。


 推進装置の試作品が完成した。外観はジェットエンジンに似ているが、中はスカスカである。内部は『エアコンプレション』の魔導素子を組み込んだ魔導基板がいくつか設置されているだけなのだ。後は魔力バッテリーと魔力の流れを制御する装置だけだ。


 地下練習場で試してみると、ゴーという低音が響き推進装置の噴射口から凄い速度の空気が噴出した。その推進力はホバービークルを時速五十キロほどに加速させるのに十分な力があった。


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