第4話

side/akane


 私たちは居場所を小さなピアノ室に移しただけで、変わらず過ごしているようでいながら、やっぱりどこか焦っているような感じがしていた。授業のない日々はすごくゆっくりと時間が過ぎていくようで、他の大勢の生徒たちの動きに流されて集団生活を送っていた毎日とはまるで違っていた。

 私はと言えば、毎日熱心に言葉の勉強のために本を読んだりピアノの練習をしている彼女を見て、自分もちゃんと自分のための勉強をしなくちゃと、進学後に受けようとしている検定や資格の勉強をしていた。受験勉強をしている生徒でぴりついていた図書室や自習室も、この時期利用者が減っていて、勉強する場所には困らなかった。

 彼女はいつでも来てもいいよ、と言ってくれたけれど、私は決まって昼休みの時間にだけ、ピアノ室に顔を出していた。時々私を引き止めるようにおしゃべりを続ける彼女につられて、昼休みが終わってからも入り浸っていることもあったけれど。


 彼女は軽いタッチで、私の知らない曲を弾いていた。この部屋に来るようになってから、初めて彼女の弾くピアノを聴いたけれど、私は相変わらずピアノのことはよくわからないままだった。きっととても上手なのだとは思うのだけれど、私は彼女以外のピアニストを知らないから、比べようがない。でも、それでいいと思えた。

「茜ちゃん、好きな曲はある?」

「ええ、あんまり音楽は知らないよ」

「なんでもいいから」

「うーん……あ、あの、夕方にかかるやつ。ほら、五時になったら流れるの」

 私がそう言うと、彼女はああ、と思い当たった顔をして、そっと細い指で鍵盤に触れる。そして密やかに、ゆるやかに、その曲を奏で始める。

「『家路』でしょう? 私も、これ好きよ」

「そう、これ。遠き、山に、陽は落ちて……っていうやつ」

「私はもうひとつの歌詞のが好き。それとは違うの」

「え、知らない。歌ってみて」

「私、歌はそんなに得意じゃないのよ」

 私がねだると彼女は少し照れくさそうに笑いながら、もう一度始めから曲を弾き直し、歌ってくれた。彼女は得意じゃないと言うけれど、私はやっぱり、初めて彼女を知ったときにも聴いたこの歌声が好きだった。


 他愛もない話をして過ごす時間が、何よりも得難く感じる。よく聞いたフレーズが、今ならとても理解できる。卒業を間近にしたら、私もそんな風に考えるだろうかと思ったことはあったけれど、いざそのときになってみると、こんなにも切ないものなのかと、胸の痛みにめまいがする。

「……ずっと、ここに来てもいいのに」

 彼女がつい、ぽつりと漏らす。

「息抜きにはすみちゃんのピアノを聴きに来るくらいで、ちょうどいいの、きっと」

 そうでなければ、もっと寂しくなってしまうから。

「嫌よ、そんなの」

 彼女はわがままを言う子どものように、首を横に振る。彼女の動きに合わせて揺れる髪が、光に当たってキラキラと眩しい。

「もっと寂しくなって、ずっと私のことを忘れられなくなっちゃうように、茜ちゃんのこと、傷付けたいの、私」

「……もう、寂しいよ。忘れるなんて、できないよ」

「本当に?」

「はすみちゃんのせいだよ。チャイムが鳴るたびにね、怖くなるの。はすみちゃんのことを必ず考えるよ。あと何回、あと何回って、必ず数えてしまう」

 私のことを傷付けたいと彼女は言う。ともすると、ひどい言葉のようにも思えるのに、私はそれを、嬉しいと感じてしまう。

「……私も、怖いよ」

「うそだ」

「本当だよ。だから、そばにいて」

 そう言いながら、彼女は私のほうを見ない。ずっとピアノに向かったまま、今度は少し聞いたことのある曲を弾いている。昼休みが終わるチャイムが鳴り響いても、その音を無視するみたいに、彼女は弾くのをやめようとはしなかった。



 * * *



side/hasumi



 三年間過ごした校舎が、桜を模したピンクの花飾りであちこちを華やかに彩っている。私たちの巣立ちを祝福するように、誇らしげに。

 卒業式の日は、当たり前のようにやってきた。私がいくらそのひとつひとつを惜しみながらカウントしていったところで、その速度を落としたりはしない。わかっていたことだったけれど、悲しいほどにあっさりと、やるせないほどに当然に、まるでなんでもない日かのように、その日はやってきたのだった。

 考えてみても、私は学校というものにあまり執着はしていなかった。この高校を選んだのも、自分の学力で無理のないところで、家からも通いやすく、部活や学校行事にあまり熱心でないところを、と選んだだけだった。自分の夢や進むべき道を確定させるための期間を過ごす場所でしかなかった。だから正直、この学校に思い入れはなかったのだ。


 けれどその日は、少し違っているように感じられた。

 ほんの短い、今にして思えば、まばたきのあいだに起きたような出来事。退屈で欠伸でも出てしまいそうな毎日の、目を閉じている間に見た、すごくあたたかな夢のような、そんな時間だったように思う。過ぎ去ってしまおうとしているそんな日々が、とても愛おしい分だけ、寂しくもある。

 卒業式の日に、自分がこんな気持ちになるなんて、彼女と出会うまでは考えたことがなかった。その彼女とも、私がなんとなくこの学校を選ばなかったなら、知り合えることもなかったのだ。

 運命だなんて、むず痒いけれど。不思議なものだな、と私は考えた。


 式は順序よく、形式通りに、滞りなく行われた。お世話になった先生方に挨拶も済ませて、その日がやってきたのと同じくらいあっさりと、卒業式も最後のホームルームも終わってしまった。


 私はなんとなく、また一人、あの裏庭に来ていた。校内や教室、式が行われたすぐ近くの体育館はあんなにも色とりどりに飾り付けられていたのに、そこは相変わらずだった。

 落ち葉は簡単に片付けられたんだ、なんて思いながら歩き、一本の木を撫でる。ちょうど、この木を背もたれにして居眠りしていたら、彼女に足を蹴られたんだったな、と思い出した。そんなに痛くはなかったけれど、驚いたことを覚えている。


「はすみちゃん、やっぱりここに居た」

 出会ったときの木に同じようにもたれて座っていたら、なんだか彼女が来てくれるような気がして、待っていた。すると、あの日と同じように、けれど私の足を気付かずに蹴ることもなく、やって来てくれた。

「相変わらずだね、ここは」

「うん、ちょっと片付いてるみたいだけど……」

「いつも通り、辛気臭い」

 そう言って彼女も私も笑った。いつも通りとはいかない、少し不器用な笑い方だった。

 この場所は何も変わらない。変わったのは、私たちだけだ。こんなにも色のない寂れた裏庭で、制服の胸につけられたピンク色の花だけが色鮮やかで、すごく浮いている。ここに居ると、そんなものを身につけている自分たちは、もうここに居ちゃいけないんだな、と思った。


「……来週、日本を発つの」

「……そっか、早いね」

「向こうで色々、やること多くて」

「そっか、そうだよね」

 私たちは、こんなにうまく話せなかっただろうか。いつもは、どんな風に振る舞っていたっけ。そんなことさえ、もうあまり思い出せない。何も言わずお互い繋ぎ合せた手は、その日は二人ともあたたかくて、もう季節が春へと移り変わっていることを実感する。

「離ればなれだね」

「うん」

 寂しい? と、聞こうとしたけれど、聞けなかった。そんなの、彼女の顔を見ればわかることだから。それなのに、まっすぐに彼女の顔を見られない私が、聞けることではなかった。

 私たちは、もう何も交わす言葉を持っていなかった。何を言っても嘘になる気がして、何を言っても無責任になる気がして、何も言えなかった。繋いだ手も、もうすぐ離さなきゃいけない。

「……私たち、ここでお別れしよう。そのほうが、いいと思うの」

「……うん。私も、そう思う」

 私の言葉に、彼女も頷いた。きっと彼女とは、もうこれっきりなんだろうと、そう思った。

「じゃあ、私、行くね」

「うん。じゃあ、ね」

「……ありがとう、茜ちゃん」

「……私こそ、ありがとう。はすみちゃん」

 足は、予想以上に軽やかに動かせた。最後にへたくそな笑顔を浮かべる彼女の顔を見て、私もきっとすごくへたくそな笑い方をして、そして彼女に背を向けて、歩き出した。

 振り返ることはしなかった。したらいけないと思った。だからずっと前だけを見て、裏庭を後にして、校門からも出て、私は足を休ませることなく、歩き続けた。



 * * *



side/akane



 振り返ってみると、本当にそんな女の子と出会ったんだっけか、と自分の記憶を疑いたくなる。それくらい、彼女と過ごした時間は僅かだったし、彼女は夢と思うくらいに綺麗な女の子だった。もしかしたら、本当に幽霊か天使を見たというほうが信じられるのではないかと思う。


 今考えてみても、彼女とどうしてそんなに親しくなったのか、彼女をどうしてそんなに愛おしく思ったのか、わからなかった。私たちはあまりにも住む世界が違っていて、たまたま、ほんの偶然が重なって、同じ学校で出会って、言葉を交わした。

 彼女に近づくほどに遠く感じたし、離れたくないという気持ちが強くなっていくほどに別れの時は迫ってきた。

 彼女への気持ちがなんだったのか、私たちは本当に友達だったのか、もしかしたらあれは恋だったのか、そんな風にすら思う。



「あ、間宮先生、こんにちは」

「はい、こんにちは。今日は宿題忘れなかった?」

「大丈夫だよ!」

「あ、もう予鈴! 教室急ぎなさいね」

「はーい! あとでね、先生」

 今日もいつもと変わらないチャイムの音が鳴り響く。

 あの日を夢みたいに思う、大人になった私だけれど、チャイムの音を聞くたびに、胸の奥が騒ぎ出す。彼女のことを思い出す。

 きっとあれから教員を目指したのも、母校に赴任することになったのも、ほんの偶然だけれど、こうも胸がざわつくと、私はまだ彼女の言葉に囚われ続けているのかもしれないと思う。


 私は彼女があれからどうなったのかを知らない。

 高校三年生のときの冬休み、たったの一度だけ交わしたメッセージの宛先が、今でも使えるのかどうかもわからない。

 きっと彼女の名前を調べてみたなら、世界のどこかでピアニストとして活躍している情報などが見つけられるのかもしれない。そうは思うけれど、調べてみる勇気はなかった。きっと今の彼女を見つけることができても、できなくても、私はきっとひどく傷付くような気がしていたからだ。



「ねえ、私たち、この音をあと何回聞けるのか、考えたことはある?」


 カウントはゼロになったけれど、私は今、またここでひとり同じ音を聞いている。きっとこれからもそのたびに、彼女のことを思い出すのだろう。


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