第7話

その日私は、滝に打たれて座禅をしていた。


「お前が真に自由になるために、あらゆるを捨てねばならぬ

それ故に、瞑想よ。

古典的な修行だが、古くから伝えられるものは、それだけ有効なものであるということ 」


天狗のその指示に従い、水に打たれ続けていた。

かれこれどのくらい続けているのか、もはや把握してはいない。


降りかかる水の冷たさ、重さにも段々と慣れてきたように思う。

けれども、慣れたとしても、辛いという事実に変わりはない。


「諦めよ。

お前では、剣を極められぬ 」


父の声が、聞こえた。


いや、声ばかりではない。

その顔すらも、ありありと見えてきたではないか!


「失せろ、幻

ここに、あなたがいるはずがない! 」


「幻であれ、お前にとっては本物と同じ事。

お前にとって、最も深い心の傷の象徴だからな 」


幻覚が返事をする。

いや、理屈では分かっているんだ。


これは、自身の頭の中で作り出された、父親ならこう返すという虚像に過ぎないと。


「多少剣が巧い小僧に教えを請うたとて、なんになる?

アヤツはただ、お前をからこうて遊んでおるだけよ。

現に何度、お前は窮地に陥った? 」


「違う、天狗はそのような人物ではない!

父親としての責務さえ放棄したお前のような人間の尺度で、天狗を測るな 」


父の嘲笑う声が、耳に響く。


「どのみち、お前の語る自由の剣なぞ、存在せぬ

精々の垂れ死ぬるがいい 」


息が詰まる。

意識が遠退いていく刹那、痛みで呼び戻される。


「あれほど、瞑想中に現れる物にとらわれるなと言っただろう!

死ぬところだったぞ!! 」


確かに、瞑想を始める前に、くどいほど何度も言われていた。


「申し訳無い、幻と知りつつも、父の嘲笑に腹が立って仕方無かったんだ 」


「あれほど胆の座っているお前ですら、父の呪縛からは容易く逃れられぬか

これ以上続けるのは危険だな、今日は止めにしておくぞ 」


天狗が予め起こしていた火に当たり、身体を暖める。


「飲め、多少は芯から暖まる 」


葛粉にカラシ(※今の和カラシ)を入れた物を渡される。

私は、ありがとうと言って、それを飲み干した。


「さて、どうしたものかのう。

おのが心と向き合えねば、壁を打ち破る事は出来ん。

しかし、今の方法を継続すべきか、別の方策を取ってみるべきか…… 」


天狗が悩んでいる。


「すまぬ、私が至らぬばかりに」


「お前が謝る事はない、如何なる方法も合う合わないはあるのだ。

だからこそ、世の学問や武芸は、多様な流派と体系を作り上げるに至ったのだ 」


天狗が、魚に棒を突き刺しながら語る。


「最後に行き着く境地は同じかもしれぬし、違うかもしれぬ。

だが、少なくとも境地に至るまでの過程は違って当然。

だからこそ合う方法が見つかるまで、試し続ければ良いだけの話よ 」


私は、眼から鱗が落ちた気分だった。


「以前の師には、自分のやり方が正しい、自分以外のやり方を求めるな!と言われていたので。

そう言った考え方はしてきませんでした 」


「そうさな、流儀のある場合は、特定のやり方を元に体系が組まれてる事が多いからなぁ。

師の言うことに従うのが、最も効率が良いし、正しいと言えるかもしれんな 」


棒を持って、地面に何かを書き出す。


「しかしだ、山に登るに道が一つという訳ではない。

反対側には、別の道があるだろうし、なんなら、危険ではあるが正規の道を通らずとも、辿り着ける可能性はある」


山の絵に描かれた、幾つもの道。

私は、それに深く感銘を受ける。


「今いる道が合わないと感じたならば、別の道から登り直すのも、ありなのですね? 」


「そういうことだ。

俺の場合は目の前の人物にあったやり方を、その場で確かめるのでな、柔軟性がある。

反面多人数に向けた指導には、向いていないやり方だかな 」


体が暖まってきたので、私は差し出された魚を食べる。

この世の物とは思えぬくらいに、旨かった。


塩のみの簡素な味付け、魚も普段と同じ川で取ったものだというのに、何故?


「旨かろう。

生命力が極限まで削られると、何とかしてそれを補おうとして、原始的な欲求が大きくなるのよ 」


手元の魚を見る。

なんだか、輝いてすら見える。


「同時に、生き残る方策を探ろうとして、五感も鋭くなる。

今のお前は、しがらみの無い剥き出しの生命、自由の生命だ。

なあ、大自然に比ぶれば、我らのなんと小さな事か、今のお前になら感じられるだろう? 」


天狗の言うとおりだった。

川のせせらぎ、滝の落ちる音、獣の遠吠え、その全てが感じ取れる。

それだけに、その大きさに圧倒されそうになるのだ。


「そうですね、なんだか悩んでたこと、自分の憎しみが。

今は、取るに足らないとさえ感じます 」


「そうだ、それさえ分かれば、今日の修行とて完全な失敗ではなかったと言える。

今はまだ一時的な物に過ぎんが、その精神を完全に会得したとき、お前の剣は真に自由を得る。

その時を楽しみに待っておるぞ 」


カラカラと、いつものように笑う声が聞こえる。


「ねえ、師匠」


「なんだ? 」


「貴方はどうして、私にここまで教えてくれるのですか?

私には、貴方に返せる物がない 」


天狗は、空を見ながら答える。


「そうさな……強いて言えば、俺の趣味よ。」


私は、じっと小さな師匠を見る。


「お前は将来、大きく成長する大木よ。

しかしだ、それを育てるには、普通の木より多少手間がいる。

それが育ちきるのを見るのが、楽しみなのだ 」


「期待に添えるよう、精一杯努力するつもりですが。

仮にもし、私が大木にならなかったならば?」


天狗は、横に首を振る。


「頭が固いぞ、お前

頑張るのは、返って逆効果よ。

前にも言うたように、それこそしがらみ、純粋に剣に向き合い楽しむものが一番強いのだ 」


そして、いつもと変わらぬ調子でこう答える。


「仮に成らなんでも、それはそれで構わぬよ。

育てている盆栽の一・二本枯れたところで、別の盆栽を探せばよい 」


背筋に、ヒヤリと冷たいものが走る。

見慣れたはずの相手が、まるで得体の知れない怪物のように思えた。


「無論、枯れないように尽力するし、大木に成った時今までの労苦は報われると感じるものだがな。

叶うなら、俺の想像を越える成長を果たして欲しい 」


得体が知れない、という感覚は未だある。

けれども同時に、この人に認められたい、この人を喜ばせたい、という思いも芽生えたのだ。


いや、芽生えたのではないのだろう。

今まであって、気が付かなかった感情に、漸く目を向けられたのだ。


「いつか必ず、あなたの想像を私は越えましょう。

その時を、楽しみにしてください 」


「まだ固いが、今はよいか

気長に待っておくぞ 」


硬く、握手を結んだ。

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