乱歩のまなざし

飯田太朗

第1話 大学三年、師走のある日。

 スーツはパンツスーツにした。元より、私はスカートが好きじゃない。


 大学三年、冬。具体的には一二月。母が私に、「あんたそろそろスーツがいるでしょ?」と言ってきた。予備校のチューターも、家庭教師もやったことがなかった私は、スーツとは縁遠い生活を送っていた。大学の入学式も、コロナでつぶれた。


 これが男子なら、成人式の日に着る服が必要で大学に入ってすぐスーツ、という話にもなっただろう。けれど立派な大和撫子である私にはそんな話は持ちあがらなかった。成人式は振袖である。むしろそっちの方が金がかかるという説もあるが。


「スーツ、欲しい」


 大学が三年生に配っている就活用パンフレットを見ながら私は母にそう応えた。母はいつもの、「ほら、やっぱりそうでしょう」というような顔をして私を見ると、豚の角煮を作るためにキッチンへと消えていった。


 その週末。私はスーツを買ってもらった。パンツスーツ。スカートはさっきも話したが嫌いだ。あれは、大事なものを守るためには少し脆弱すぎる。


 そして、就職説明会。大学主催の、就活を始める人たちに向けて何が必要か、を教えてくれる会だ。


 企業側の人間が来ているわけでもないのに、その会には全員スーツ姿で参加することになっていた。私も、例外ではない。中に数人、スーツを着ていない人がいたが……どういうわけか、みんな男子……、九割九分スーツ。真っ黒な集団の中に私はいた。


「ねぇ、卒論、テーマ決めた?」


 里見がそんなことを訊いてくる。私の隣に座っている女の子。大学一年の春。周りの女の子が一斉に茶髪にしていく中、一人だけ高校時代と変わらぬ黒髪を貫いている真性大和撫子だ。


「決めてない」


 私は素直に答えた。卒論なんて、まだまだ先の話だと思っていた。


「私、決めたよ」


 里見の顔を見る。フライングを決められたというか、抜け駆けされて好きな男の子を取られたような気分になったからだ。


「嘘。もう?」

「だって、文学部の卒論テーマ発表、来月だよ? そろそろ決めろってゼミの先生に言われなかった?」

「言われなかった」


 元より私の所属する椎名ゼミは自由派で知られるゼミである。研究も勉強も、学生の赴くままに任せている。しかしそれは裏を返せば、学生が自主的に動かなければ何もしてくれないゼミ、というわけでもあって……。


「うっそ。椎名先生信じらんない」

「私も信じらんない」


 そんな話をしている内に就職説明会が始まった。大学の就職センターの人が前に出て話を始める。


 大袈裟なぐらいに頷いて。話を聞いているアピールをしっかり。


 前以て配られていたパンフレットで予習した内容を実践する。けれど頭の中では、里見の言葉が響いていた。


 卒論のテーマ発表、来月だよ? 



「卒論のテーマ、決めなきゃ」


 私は椎名ゼミで配られた資料一式を座卓の上に広げた。私が生まれた頃から住んでいる家の、私の部屋。


 高校時代からの習慣で私の洗濯物は父のものと分けている。別に今は分ける必要性もそんなに感じてはいないのだけれど、何となく、分けている。だから私の部屋には洗濯物が干してある。それを畳みながら、座卓の上の資料を見る。


『蟹工船……当時の労働者は何を思っていたか。小林多喜二に学ぶプロレタリア文学』

『泉鏡花の純愛……外科室に学ぶ男と女』


 私の専攻は文学部の国文学科。専門は近現代文学だ。椎名ゼミのボスこと椎名総一郎先生は近代文学の研究者で、一応それなりに名の通った先生である。


 学生の自主性を重んじる先生で、面倒を見ている大学院生の影響で現代の文学にも通じている。だから、椎名ゼミが掲げるのは「近現代文学」なのである。もっとも、ゼミで現代文学を扱ったことなんて皆無に等しいが。


 椎名ゼミの私たちの代はあまり自主的ではない。だから、先生も自分の趣味を押し付ける作戦に出たのだろう。近代文学をテーマにした研究ばかり、この一年間はやらされていた。


 大学三年の初め、まだゼミに配属されたばかりの頃は、院生が自分の趣味を押し付けようとしてきたので現代文学を扱うこともあったけど……修士論文の季節になると、そんなこともぱったりなくなった。


 だから私が今座卓に広げている資料には近代文学のものが多いのだけれど……、正直、あまりピンとくるものはなかった。いくつかの資料……小説の文章を抜粋したコピー、当時の背景を知ることができる歴史資料など……を見ながら、私はため息をついた。


 卒業論文、どうしよう。

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