第三十三話『人体実験―2』

 何故、ロトはマッサージ(自称)を仄音へと施したのか?

 それはリラクゼーション効果を期待しての事で、悪の欠片に良い影響が出ればいいな。程度の期待値だった。

 しかし、何も考えがない訳ではない。

 古来よりマッサージという行為は存在し、それらは按摩と言われ、人々の健康を保っていた。勿論、現代社会でもその仕来りは続いており、マッサージ機なる物が発売されるような世の中だ。

 マッサージによって得られるリラクゼーション効果が悪の欠片に影響を出しても何も可笑しくはない。そもそも悪の欠片に関する知識は天使全体から見ても浅く、その考えを完全に否定できるほどの証拠を持ち合わせていない。

 客観的に見なくても馬鹿みたいな考えだって分かる。そんな方法で悪の欠片が消えてしまってはこの世にロトは存在してない。

 これは人体実験なのだ。まだ誰も到達していない場所へ届くための第一歩。それを踏み出すためにロトが選んだ道は虱潰し。思いついた方法を片っ端から試していく事だった。


「さ、寒い……ロトちゃん? 此処はどこなの? ず、随分と山奥らしいけど……」


 仄音は寒気のあまり身体を震わせながら、辺りを見回す。

 周りに人工物はなく、ただ草木が広がっている。一見すれば美しい景色で、都会と違って空気も美味しいが、少なからず危険を感じてしまうものだろう。

 もしも熊や猪、動物でなくても危険な草や虫に出逢ってしまったら仄音では対処できない。財布やスマホは家に置いてきてしまったので、余計に状況が悪化している。


「此処? ここは……まあ日本の山よ」


「いや、それは見れば分かるよ。何県なの?」


「さあ?」


「えぇ? 物凄く不安なんだけど……」


 何も言わずに仄音を連れてきた張本人であるロトすら、この場所は分からない。いや、正確には場所は分かるのだが土地の名前を知らず、確かなのは自宅から北東、それも結構遠い山という事だ。


「漸くマッサージから解放されたと思ったら……それにしても急過ぎるよ。防寒対策どころか何も用意してないし……」


「分かっているだろうけれど、今から行うのも実験よ。必要な物はこっちで用意するから」


「不安だなぁ……」


「安心しなさい。あまりマッサージと変わらないわ」


 マッサージは中止に終わったが実験を諦めた訳ではない。失敗に終わったのなら、それを糧にして次へ進むだけなのだ。

 そして、次なる実験の正体は森を少し進んだ先にひっそりと建っていた。


「温泉……? どうしてこんな所に……」


 湯気で全貌が分からないが熱湯を中心にごつごつとした岩が円状に並べられ、恐らくそうなのだろうと仄音は息を呑んだ。

 何故なら、その温泉はアニメや映画に出てきそうな静謐な雰囲気を漂わせ、身体を温めてあげると誘われているようだろう。冷え切った身体に天然の温泉。心地よいに決まっているのだ。


「私が作ったのよ。態々サトウを脅し……ごほんっ! 協力を仰いで、この温泉を引き当てたのよ」


 つまり温泉の原水を見つけたのはサトウで、それを整備したのがロト。そして、サトウがロトに脅されていたという事だ。

 憐憫の眼差しを温泉に向けた仄音は心の中でサトウという天使に謝罪する。同時に、感謝の念も抱いていた。


「それじゃあ実験開始よ。はい、タオル」


「あ、ありがとう……」


 まだ一月の上、何処かも分からない山の奥。いくら実験と称されても、冷えついた空気から天然の湯船へと逃げられる。吝かではない、否、仄音は乗り気だった。


「ロトちゃんは入らないの?」


「そのつもりよ。これは貴方のために作った温泉だもの」


「えぇ勿体ないよ……そうだ。折角だから一緒に入ろうよ?」


 純真な仄音の気持ちを聞き、ロトの耳はほんのりと赤くなった。尤も、湯気の所為か、仮面のお陰がバレていない。


「……それじゃあちょっと用意してくるから先に入っていて」


「え? ちょっ! こんな山奥で一人にしないでよ!」


「大丈夫! 五分くらいで帰って来るわ!」


 仄音の必死な叫びは山へ響き、ロトは手を振って高速で移動した。あまりの速さに瞬きの暇はなく、瞬間移動のように見える。


「もう、しょうがないなぁ……」


 ロトが見えなくなったことで諦めがついた仄音は一人ごち、温泉へと足を向ける。

 何処かも分からない山に一人は怖い。もしもロトが帰って来なかったら、と恐ろしい想像をしてしまう。

 そんな辛い現実、寒すぎる気温から逃げるためにも目の前の温泉は最適だった。


「えへへ、ロトちゃんは実験だと言っていたけどただの温泉だよねー!」


 自分に言い聞かせるように大声を上げながら仄音は服を脱ぎ、温泉へと足をつけた。

 つま先から感じる温度はお風呂にしては少し熱いくらいだが外気が寒いため丁度良いだろう。つまり、この天国を独り占めできる。

 瞬間、仄音は一気に浸かった。空腹時にご馳走を並べられた犬のようだろう。


「あちち……はぁ~……温泉なんて何年ぶりだろう……」


 久しぶりの温泉は至高の領域で、身体の芯までぽかぽかと温まる。静寂とした空間に、自然特有の綺麗な空気。粗を探しても見つからず、強いて言えば景色が良かったら完璧だろう。


「……? 誰かいる?」


 草木が掠れる音に反応した仄音は息を凝らし、湯気をじーっと睨みつける。

 そうしている間にも影が浮かび上がり、その形は大きく、少なくとも人ではない。何かしらの獣であることは確実で、湯船に浸かっているというのに仄音は拳銃を向けられたように血の気が引いていく。


「あっ……熊? ッ!」


 湯気の中から現れたのは熊だった。単純な力では人を遥かに超える、猛獣だ。人間が熊に襲われるニュースなんてごまんとあるだろう。

 仄音の行動は早かった。

 普段あまり使われていない脳がこの場を切り抜ける方法を高速で導き出し、その結果――


「うっ……うぐっ……」


 死んだふりという何とも古典的な方法に走った。

 それも窒息死という設定で、首を抑えて息が出来ないアピールをしてから倒れ込む。果たして効果あるのか。


「がおー……ってあれ? 仄音? どうして此処にいるの?」


「……えっ?」


 バシャッと水飛沫を上げ、立ち上がった仄音が見たのはアリアだ。

 熊の着ぐるみ姿で、不思議そうに首を傾げ、ヘルメットのように熊の顔を右腕で挟んでいる。


「えっ熊の正体ってアリアさん? どうしてこんな場所に……」


「私はサトウ君からロトの奴が温泉を作っているって聞いてね。こうして来たわけよ」


「そうなんだ……どうして熊の着ぐるみを?」


「そりゃロトの奴と鉢合わせになったら脅かそうと思って……」


「へ、へぇ……」


 悪い笑みを浮かべるアリアに、相変わらずだと仄音は苦笑いを浮かべながら再び湯船へと浸かった。


「それでロトは何処にいるの? 仄音が居るという事は居るんだよね?」


「ロトちゃんなら用意があるとかで……多分、タオルを調達してるのかな? そろそろ帰ってくると思うよ」


「へぇー……って言ってるそばから来たね。私のことは秘密でお願い!」


「え、ちょ!」


 慌てて岩陰へと隠れたアリアの言う通り、入れ違いでタオルを調達してきた天使が舞い降りた。


「近くのコンビニでタオルを調達してきたわ」


 両手の上に五枚の白いタオルを乗せたロトは悠然としていて、アリアに気づいていないように見える。

 一瞬、仄音はアリアがまた良からぬことを考えていると伝えようと、そんな思いが胸に去来する。


「あ、うん。じゃあロトちゃんも一緒に――危ないッ!」


「え?」


 硬直するロトの背後にはドロップキックを繰り出す熊。否、今がチャンスと飛び出てきたアリアである。

 逡巡としていた仄音がいち早く察知したが、声を出した頃には遅かった。


「きゃあっ!」


「あはは! ざまあないわね!」


 油断していたこともあり、背中から諸にキックを喰らったロトは女性らしい悲鳴を上げながら温泉へと落ちた。勿論、調達してきたタオルも一緒に、だ。


「ああ……」


 仄音はこの後の展開を悟って憐れんだ。

 軽い諍いが起こり、それに負けたアリアがお仕置きを受けて花火になるのはいつものパターンである。

 びしょびしょになったロトは気色ばんで、熊の格好をしたアリアに啖呵を切った。しかし、未だにしたり顔なアリアは腹を抱えて笑っている。その品の欠片もない笑い声が、さらにロトの苛立ちを加速させた。


「貴女ねぇ! 仄音との時間を邪魔しないで――熊?」


「あはははは! そうだよ熊さんだよ! わざわざこの為だけに作ったのよ!」


「あ、あのアリアさん……う、うう後ろに……」


「なに今更驚いて……へ?」


 呆然としているロトに、怯えた雰囲気の仄音。辺りが陰に覆われ、不思議に思ったアリアは振り返った。


「ほ、ほほほほ本物!?」


 そこには本物の熊がいた。焦げ茶色の体毛を身に纏い、一見は愛らしい動物だが、時折鋭い牙が見え隠れしている。

 仄音は人間だが、アリアとロトは天使である。魔力という人智を超えた力を秘め、野生の熊ぐらい簡単に追っ払う事は可能だ。そう、野生、いや普通の熊ならばの話だが……


「ちょっと大き過ぎない!?」


「ちょっとどころじゃないよ! もはや怪獣だよ!」


 問題は大きさだった。近くにある木といい勝負で、四メートルは確実だ。そして、イレギュラーだということも。普通の熊はこうも大きくならない。古の秘境なら未だしも、日本の辺境でこうも巨大化するには何かしらの理由がある筈なのだ。


「うっ! うぅ……ぐぁ……」


「ほ、仄音!? 死んだふりしても手遅れよ! こうなったらこの天使アリアが――って何するのよ!」


「落ち着きない。この熊は温泉の水を飲みに来ただけだから」


「はぁ~? どういう事?」


 アリアは訝しそうで、その目は抗議で満ち溢れている。ロトの立ち振る舞いは事情を知っているソレだ。

 そんな二人を我関せずといった様子で熊は温泉に近づくと飲んだ。その表情はどことなく満足そうだ。


「……嘘。どうして分かったの?」


「私が温泉を作っていた時から色んな動物が飲みに来ていたからよ」


「わざわざ熱い水を飲みに来なくても近くに川くらいあるよね?」


「多分、私が温泉にエンジェルパウダーを溶かしたから、それを飲みに動物が来ているようね。身体が大きくなったのもそれが原因だと思うし……って、なによ。この雰囲気は……ひっ! ほ、仄音?」


 ただならぬ気配を感じて身体を翻したロトの目の前には仄音がいた。ロトが持ってきたタオルを巻いているので大事な所は隠されている。


「ロトちゃん? この温泉にエンジェルパウダーを入れたの? あれって私にとって毒なんだよね?」


「そ、それは……ほら! 少量だし、仮に効果が出ても死なないと思って……」


「この温泉、サトウさんっていう天使を脅して作ったんだって?」


「……それより温泉に浸かりましょう? 寒くて風邪を引いちゃうわ」


 何とか誤魔化そうと話を逸らすが、怫然とした仄音は収まらない。


「最近、妙に率先して仕事へ行っていると思ったけど、本当はこの温泉を作っていたの?」


「うぐっ……答えはい、いえすよ。でも違うの! 私は本当に、貴方のことを想って、この温泉を掘ったのよ! だから許して? ね?」


 確かに仄音に仕事へ行くと伝え、此処へ来ていたロトは白状するしかない。目の前の仄音は人が変わったかのようで嘘を吐いても直ぐに見破られそうなのだ。

 このままでは恐ろしいことになる。具体的に分からないが、少なくとも仄音は鬼に成ってしまったのだ。


(あ、アリア! 私を助けなさい! 助けてくれたらさっきの悪戯は免罪にしてあげるわ!)


「ロト……この山の生態系が変わっちゃったらどうやって責任を取るの? あの熊だって放置していたら人間でどう影響がでるか……」


「あ、貴女もなの!?」


 も、とはアリアが仄音と同じく怒っているということだ。

 それもそうだろう。アリアはロトと同じ、いやそれ以上に真っ当な天使である。目の前で禁忌を犯されたら咎め、嗜め、責任を負わせるのが仲間としての務めだ。

 鬼のような仄音と柄でもなく真剣なアリア。その二人に挟まれたロトは、正に前門の虎後門の狼だ。腫れ物を扱うような、緊張を孕んだ空気がピンと糸を張っている。


「ご、ごめんなさい!」


 やがて耐えられなくなったロトは綺麗な土下座を披露した。

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