第三十三話『人体実験―1』

「ねぇ仄音はいつになったら働くの?」


 子供は学業に専念しているであろう頃、自宅でダラダラとギターを弾いている仄音にロトは物申した。


「寝正月を過ごしてもう六日……年末年始は見逃していたけどいくらなんでも遅過ぎよ。亀かしら? いや、それとも鶏で就職を忘れちゃった? 鳥頭?」


 さらに辛辣な言葉を追加するロトだが、コーヒーを嗜んで優雅さが窺える。

 それとは裏腹に、ギターに熱中することによって就職という辛い現実から逃げていた仄音はギターを置き、ゆっくりと立ち上がった。その目は焦点が合っておらず、まるでこの世に絶望した蜃気楼のように揺らめいている。


「そ、そんなことないよ。ただ、なんというか……覚悟していたんだけど……薄れているというか……」


「……まあいいわ」


「へ?」


 思わず仄音は拍子抜けした声を漏らす。

 天使であるロトのことだ。てっきり引き摺ってでもハローワークに連れて行かれると思っていたのだが、当の本人は何食わぬ顔でコーヒーの香りを楽しんでいる。


「本当にいいの?」


 その言葉は不安の末に出たモノ。

 心理的には見捨てられた子供だ。親に何度も注意されたにも関わらず、その度に破って挙句、最後には『勝手にしろ』と見捨てられるアレである。

 まさか自分は居候、いや家族であるロトに見捨てられてしまったのでは? と極度の不安からちゃんと就職活動をしておくべきだったと後悔してしまう。


「その方が都合良いのよ。貴方が働くのも大事だけど、それよりも先ず悪の欠片の除去方法を探らないといけないから……いくらアルバイトを始めても悪の欠片をどうにか出来なかったらお終いよ」


「そ、そうだけど……うん?」


 嫌な予感がした仄音は後退った。しかし、場所は自宅。つまりはアパートであり、直ぐに壁へと辿り着き、逃げ場がない。


「何処へ行くのかしら?」


「え、えへへ、そろそろハロワに行こうかなーって……」


「良い心掛けね……でも、今日は私に付き合ってもらうわよ」


「い、イヤー!!」


 密室空間。否、そうでなくとも人間が天使から逃れられる筈もなく、仄音は網に掛かった魚の如くあっさりと捕まってしまった。





 捕獲された仄音は部屋の中央に置かれた椅子に縛られて、まるで監禁されているようだろう。

 背中辺りで両手を縛られているが、それほどきつい縛り方ではない。少しの努力で脱出は出来そうだが、そうしたところであっという間にロトに捕らえられるのは目に見えている。


「な、何をするの?」


「さあ? 取り敢えず、手探りで悪の欠片を除去する方法を探すわ」


「えっと……つまり私で実験するという、ことですか?」


「そうね。人体実験というやつね」


 ロトは髪を掻き上げると抑揚のない声で言った。それはまるで人体実験は慣れている口ぶりだろう。

 人体実験という倒錯的なモノを施されるとは誰しも思わないことで、嫌な予感が当たったと仄音は死を覚悟した。


「そ、そそれで何をされるのかな? で、できれば痛いことはやめて欲しいなって……」


 身体はガクブルと震え、生まれたての小鹿のような仄音。すっかりと恐縮してしまっている。

 それも仕方ないだろう。世間で言う人体実験とは道徳に背いた残酷なものだ。歴史上で行われた人体実験の殆どは被験者の命を二の次にし、ただ目的のために狂奔する。非常に惨い事だが、そのお陰で人類の技術は飛躍的に進化した。つまり人体実験、否、実験は人類にとって必要不可欠なのだ。更なる発展を望むために、不可能を可能にするために、実験という努力を積み重ねる。

 それを仄音は分かっていた。だけど自分の中に植え付けられた人体実験という怖いイメージが働き、解剖といった痛々しい想像が脳裏に過ってしまう。


「そんなに怖がらなくても……私が貴方に酷いことをすると思う?」


「以前、私にエンジェルパウダーを盛ったでしょ?」


「……さあ?」


「目が泳いでるよ! 絶対憶えているよね!」


 子犬のように吠える仄音を無視し、ロトは彼女の背中へと回り込む。


「ちょ、な、何をするの? い、痛いことは止めて――え?」


 果たして何をされてしまうのか?

 視界にロトを捉えられない仄音は身構えていた時、肩に何かが当たった。巧まずして手だと分かり、動揺を隠せない。

 そんな彼女を置いてけぼりにするかのように、ロトは肩を揉む。滑らかな力加減を意識して、優しく肩の凝りをほぐしていく。


「え、えっと……これは何なの?」


「何ってマッサージよ。まさかそんなことも分からないほど非常識なの?」


「マッサージくらい分かるよ! 私が言いたいのはどうしてマッサージを今――んあっ!」


「え?」


 享楽に耽っているかのようななまめかしい声に思わずロトは手を止めてしまった。

 声の主である仄音自身も、どうやって出したのか分からない声に困惑し、それを聞かれてしまった事実に恥じらいで身を捩っている。


「ふ、ふふふ、余程私のマッサージが気に入ったようね」


「ち、ちが! 私、昔から肩揉みが苦手で、何だかくすぐったいの! だから止めて欲しいなって……」


「これは実験よ? もしかしたら効果があるかもしれないし止める訳にはいかないわ」


「ちょ、やめっ! 止めてっ! お願いだから……んぅっ……やあっ……ぁ……や、止めてって言ってるでしょッ!」


 調子に乗ったロトは肩をほぐすだけでなく、仄音の脇腹、それも服の内柄に手を入れ始めた。明らかにセクハラ行為だろう。いくらマッサージとしても度が過ぎる。

 案の定、度重なる羞恥心と理不尽から怒りの頂点に達した仄音は拘束を無理矢理解き、ロトの頬へビンタをかました。


「これが若さか……」


 頬に綺麗な紅葉模様を浮かばせて倒れるロトの脳内には実験という単語は消えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る