第二十二話『痴話喧嘩―1』
「ロトちゃん遅いなぁー……連絡はないし、いつ帰って来るんだろう……」
仄音は炬燵でだらだらと寝転び、スマホを弄りながら呟いた。
知恵の都合でゲームは終わり、彼此三時間ほどニートを満喫しているのだが、何時まで経ってもロトは帰ってこない。
「最近、何だかよそよそしい気がするし、やっぱり何かあったのかな……」
具体的に三日ほど前からロトの様子が可笑しかった。朝食時、寝ぼけているのかコーヒーに塩を入れ、セイバーを視聴しながら上の空。いざ話し掛けてみると数十秒のラグが発生したかのように遅れて反応する。
仄音は率直に「何かあったの?」と訊いたが、ロトは「なんでもないのよ」の一点張りだった。しかし、目を伏せて心在らずといった風で、何か後ろめたさを覚えているように見えた。
「お腹空いた……」
現在の時刻は夜の八時だ。
晩御飯を食べていない仄音の腹は間抜けにも鳴いている。
「今日の晩御飯はオムライスかなぁ……先に食べても――いや、待った方が良いよね」
冷蔵庫の中身を思い出しながら献立を考え、今から料理して先に食べようかと思ったが止めた。
今から料理するとロトは冷たいオムライスを一人で食べる事になってしまう。いや、それならロトの分だけ後で作れば良い話なのだが、それはそれで悲しいだろう。やはり二人一緒に食べる夕飯の方が美味しいのだ。
「……いや! それにしては遅いよ!」
慮った仄音は思わず起き上がって、炬燵を叩いて八つ当たりする。
しかし、いくら叫ぼうが、苛立ちを積もらせて八つ当たりしようが、ロトが帰ってくるわけではない。ただ虚しさが残るだけだ。
「はぁ、待つしかないよね……ん?」
静寂とした部屋の中に響くのは微かな音。パソコンのモーター音でも、近所の公園からでもない、それは隣の部屋。つまり胡桃の部屋から発せられていた。
「胡桃ちゃん? 誰かと喋ってる?」
じっと聴いていると話し声のようだろう。
普段なら気にしないが、胡桃が誰かを部屋に招き入れているなんて珍しい。
不思議に思った仄音はそっと壁に耳を当て、盗聴し始めた。
『ちょ――そこ――あか――』
『いいじゃない――くる――』
壁越しだけあってよく聞こえない。しかし、誰と誰が話しているか仄音には分かった。
「え? 胡桃ちゃんの家にロトちゃんが? どうして……」
どうやら胡桃の部屋にはロトが居るようで仄音は訝しく思う。
連絡もしないで夜遅くまで胡桃と遊んでいるのか? 自分は仲間外れなのか……
悲しみの気持ちがふつふつと積もり、気持ちがどんどんと沈んでいくのに比例して、ロトへの不信感が深まる。
『ちょ――ほん――』
『あな――す――き――』
壁越しに聴こえたのは途切れ途切れだが、断片的なものを繋ぎ合わせるとまるでロトが胡桃を襲っているように聴き取れるだろう。
「な、ななななななななななななな……!」
仄音はこれ以上にないほど動揺して、顔を真っ赤にさせた。
帰りが遅いロトは胡桃と逢引していた。それも今、隣の部屋で享楽に耽ろうとしている。自分はお腹を空かせて待っているというのに……
仄音とロトの関係は一言で表せない。天使と人間の関係であり、家主と居候の関係でもあり、友達でもあった。
ロトが誰とどういう関係になろうが、何をしようが、仄音には関係ない事だ。しかし、胸が抉られたかのような疎外感を覚えてしまう。約束をした訳でもないのに裏切れたと思った。
ショックから眩暈がした仄音は居ても立っても居られずに胡桃家を突撃――しなかった。
「もういいもん……ロトちゃんなんて知らないから……」
ヒキニートという内気な仄音がとった行動は不貞腐れて眠ること。つまりは不貞寝だった。頭の中を闇がぐるぐると巡り、昼夜逆転を恐れていなかった。
仄音がベッドに包まって一時間が経った頃、玄関の扉が音を立てて開かれた。
「仄音、今帰ったわ……」
帰ってきたのはロトだったが、どこか落ち着きがない。ソワソワとしており、まるで他人の家に上がり込んだ時のように緊張していた。
「あら? 仄音……? いるんでしょう?」
いつもなら笑顔で「ロトちゃん! おかえりなさい!」と駆け寄ってくる仄音の姿がない。否、それどころか部屋の明かりが点いているにも関わらず、仄音の姿がなかった。
「仄音? ……ああ、そこにいたの」
ロトは部屋の中をきょろきょろと見回し、二階の布団で包まっている仄音と目が合った。
しかし、仄音は特に何も反応を示さずに、ただ布団の隙間からロトを見つめている。まるで草むらに潜む獣だろう。
「どうしたの? 何かあったの?」
仄音から醸し出される靉靆とした雰囲気に、ロトは心配から声を掛けた。
すると、彼女は少しだけ布団の中でもぞもぞと動き、また布団の隙間から瞳を光らせた。
「何でもないよ。それよりロトちゃんは何処に行っていたの? 私、お腹を空かせて待っていたんだよ?」
そして、飛び出た言葉はどこか重々しい。いつもの可愛らしい声ではなく、平坦気味で棘が感じられた。
「く、胡桃と……ちょっと、ね? れ、連絡をしなかったのはご、ごめんなさい。本当は早く帰るつもりだったの」
初めて見る彼女の一面に、ロトは戸惑いを隠せずに辟易としてしまう。
「ふーん……胡桃ちゃんと何をしてたの?」
「そ、それは……」
「なに? 言えないの? 最近のロトちゃんは浮かれていたけど、やっぱり胡桃ちゃんと付き合っていたんだね……」
「……え?」
予想だにしていない勘違いをされてロトは一瞬思考が停止し、口をぽかんと開けてしまっていた。
「な、何を言っているの!? そんな訳ないでしょう!」
我に返ったロトは心外だと、声を荒げて否定する。
しかし、自棄になっている仄音は猜疑心で満たされ、捻くれていた。
「じゃあ何!? さっきまで胡桃ちゃんの家にいたんでしょ! 艶めかしい声が聞こえたよ!」
「た、確かに胡桃の家に居たけど! あ、貴方が思っているようなことはしていないわ! 誤解よ!」
ロトが胡桃の家にいた理由は仄音の誕生日を祝う準備をするため。遅くなったのも同じ理由で、艶かしい声というのはロトと胡桃が感性の違いから、部屋の飾り付けに悪戦苦闘したからだ。
「と、兎に角! 着いてきて頂戴!」
この場で弁明してしまうと折角のサプライズが台無しになる。
それを恐れたロトは手を伸ばし、仄音を胡桃家へと連れて行こうとした。
「嫌だよ! ロトちゃんなんて嫌い!」
しかし、仄音は拒んだ。それどころか酷い言葉を浴びせた。
ロトは鈍器で頭が殴られた時のような衝撃を受け、狂うような目眩の中、その言葉の意味を理解するのに十秒ほど掛かった。
「そう、私のことが嫌いなの……そうよね。仄音は悪の欠片を持った人間で、私は貴方を殺す天使……嫌いになって当然よ」
「あっ……ごめんなさい……」
俯いたロトを見て、我に返った仄音は自分の発言を反芻し、その愚かさを噛みしめた。後悔から力のない声で謝り、傷ついているロトから目を離せない。
部屋の中は静寂とした重々しい空気が包み込み、不意にロトは動き出した。
脱力しきった仄音の手を引っ張り、布団から一階へと下ろした。
「きゃっ!」
華奢な女性とはいえ、大人を片手で動かせるほど天使の力は凄まじいだろう。抵抗する間もなく仄音は無防備な状態で一階へ落ちた。が、ロトの腕の中で優しく受け止められる。
「だけど言ったでしょう? 私は仄音を更生させるって……悪の欠片が覚醒その時まで……」
仄音の耳元でそう囁いて、ロトは片手でムラマサを召喚する。
「ろ、ロトちゃん? 何をするの?」
ムラマサは天高く振り上げられ、仄音は太陽のように光り輝いた刃を仰いだ。
まさか殺されるのか? 否、発言に反しているだろう。
「下がっていなさい」
ロトは仄音を背に避難させ、子供とキャッチボールする時のような軽い感覚でムラマサを振り下ろした。そう、胡桃家と繋がっている壁に向かって……
「ちょ! いきなり何しているの!? ロトちゃん!?」
案の定、轟音と共にアパートが震え、壁には大穴が開通された。辺りには砂埃や破片が飛び散って、もはや壁が破壊されるのがデフォルトだろう。穴の向こう側には紙製のとんがり帽子を被った胡桃が諦観から頭を抱えている。
そんな彼女よりも、仄音は部屋の内装に釘付けになっていた。
「お、お誕生日おめでとう? えっ?」
部屋の壁に掛けられていた『仄音お誕生日おめでとう』と書かれた看板。それだけでなく折り紙で輪を作り、連結させたカラフルな鎖が部屋を一周しており、机には三人分のコップとお皿。近くに買ってきたであろうチェーン店のピザの箱が置いてある。
もしかして、と思った仄音は隣にいたロトを見つめた。
「そうね。こう言うべきかしら……」
仄音の疑問を含んだ視線に気づいたロトは彼女の手を取り――
「お誕生日おめでとう、仄音……」
その言葉で仄音は今まで自分の勘違いを理解し、恥ずかしさから顔を赤らめた。
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