第二話『眠気―1』

 気絶という名の就寝を果たし、無事に早朝に目覚める事ができた仄音。後は夜更かしする事無く、きちんと夜中十時に就寝できれば昼夜逆転は治るだろう。結果的に、二人が添い寝をしたのは正解だったのかもしれない。

 しかし、神は引きこもりを見放しているのか、仄音に最大の危機が迫っていた。


「ね、眠いよぉ……どうしようロトちゃん……」


 それは眠気だ。人間の三大欲求である睡眠欲が限界を訴えている。

 いつもは十時間以上寝ている仄音だったが、今回の睡眠時間が四時間くらい。コップで例えるなら睡眠という液体が半分も満たされていない状態だ。

 そんな状態で昼食としてカップ麺を食べて満腹中枢を刺激し、炬燵でぬくぬくとリラックスして過ごす。急激に眠気が襲ってくるのは必然だろう。


「寝ちゃダメよ。折角、起きられたのに……寝たら殺すから」


「ぶ、物騒だなぁ。でも本当に限界なの……何とかしてよロトえもーん」


「いちいち腹が立つわね……」


 間延びした仄音に声にぴきぴきと苛立ったロトは額に青筋を作るが、それは仮面によって隠される。


「魔法で何とかならないの?」


「直接眠気に左右する魔法は使えないけれど、遣り様によってはなるわね。でも基本的に悪の欠片を根絶させる以外の用途に魔法を使うな、と上から厳しく言われているの」


「えぇ? だったら、そのかめ――なんでもいいや……」


 仄音は脳裏にロトの仮面が過ったが、悪寒がしたため指摘せずに胸の内に留めた。


「それに、もしも使ったとして、仄音が魔法頼りになってしまったらそれこそ駄目人間よ」


「う……確かに……」


 既に駄目人間なのに、ロトの魔法頼りになったらもっと駄目人間、いやクズ人間になってしまう。そんな自分を脳裏でイメージした仄音はロトの魔法を当てにするのは止めようと心の中で密かに誓った。

 しかし、そうなると眠気を失くす手段はなくなってしまい、諦めた仄音は仮眠を取ろうと炬燵に寝転がる。


「だから寝ちゃ駄目よ」


「仮眠をとるだけだよ。三百分で起きるから」


「いや、それ五時間じゃない。絶対にダメよ……そうだ、コンビニか何かで眠気が覚める飲み物でも買ってきたらどうかしら?」


 今のご時世、コンビニなどに行けば眠気覚ましのドリンクが売ってある。もっと言えば自販機でもコーヒー類が置いてあるくらいだ。

 ロトは良い案だと思って勧めるが、仄音は既に同じ考えを持っていた。


「私もそう思ったけどむ、無理かな……外に出たら私、死んじゃうよ……」


 自分が買い物をする光景を想像して、凍り付いた仄音の脳内は魔境。もはや家の外を地獄としか思っていない。

 呆れたロトは溜息を吐き、平坦で冷めた視線を仄音に向けた。


「死ぬって……ただの人見知りでしょ。引きこもりを脱却できるチャンスじゃない。いい機会よ」


「無理ったら無理なの! せめてロトちゃんが一緒についてきて!」


「私? 面倒だけど、それで仄音の引きこもりが改善され「やっぱりいい!」――はぁ……」


 とある事に気づいた仄音は自分から頼んだと言うのに、声を荒げて断った。

 意味が分からないロトは不服そうな表情を浮かべたが、どうしても仄音は受け付けられない。服装が普通ではないロトを連れて外に出るなんて、羞恥心という海に身を投げるようなものなのだ。


「仄音の人見知り……どうにかならないの? 私とはすぐに打ち解けたじゃない……」


「た、確かにそうだけど……」


 仄音は引きこもりで、人見知りで、無職という負の三連コンボだ。

 そんな自分には絶対友達ができない。そう思っていた筈なのに出会って二日目のロトとはまるで以前から親友だったように仲良くなっている。自分が知らないような何か強い繋がりがある気がしてならなかった。

 そういう心情があった仄音だがぎゅっと唇を結んで、何も語らない。その人に対する想いを打ち明けるのは誰だって恥ずかしいものだろう。


「それじゃあどうするの? コーヒーとかはないのかしら?」


「私、苦い物はちょっと……甘いものが好きだから林檎ジュースなら常備してるけど」


「そう……私はコーヒーが好きなのだけど……」


 仄音はコーヒーのような苦い物は嫌いなので、家に置いてある飲み物はいつも林檎ジュースかお茶だ。

 単純にフルーツの中では林檎が好きなので林檎ジュースなのだが、それでも糖分で頭が冴えるだけであり、カフェインが入っていないので眠気は冷めないだろう。


「それなら何か気を紛らわせるような事をしたら? ほら、そこのギターを弾くとか……」


 部屋の隅に追いやられたギターを指し、ロトは仄音に訊いた。

 仄音は寂しそうにしているギターを一瞥したが、直ぐにロトに視線を戻す。挙動不審気味で、肩を丸めて、手を弄っていた。


「どうしたの? 音楽学校を卒業しているそうだし、ギターで成功するのが夢なんじゃないの?」


「そ、そうだけど……ってどうして知ってるの?」


「事前にターゲットの情報は調べるものよ。天使の情報収集能力を舐めないことね」


「天使って……まあいいや」


 スマホを弄りながら言うロトを見て、仄音は天使という伝説上の存在はスマホでやり取りをするくらいグローバルなのか? いや、そもそもスマホという人類の技術を駆使して連絡を取るのか? といった疑問を抱いたが、頭を振って掻き消した。今はそんな事はどうでもよく、大事なのは眠気について、だ。


「で、ギターは弾かないの? 私としても聴いてみたいのだけど……」


「ひ、弾くけど……その……」


 わざわざ温かい炬燵から出て、ギターの前に立っているにも関わらず、仄音は躊躇っている。表情は真剣だが、焦っているようにも見え、額からは汗が噴き出ていた。

 夢に近づくためにもギターを練習すればいい。それなのに何をそんなに渋っているのか? ロトには理解出来なかったが、仄音の感情は単純だった。


「は、恥ずかしいの!」


 そう、仄音は人前で演奏するのに慣れていない。だから失敗を恐れ、変に恥ずかしがってしまう。

 あまりにくだらない理由にロトは拍子抜けした。


「私と仄音の仲でしょ? どんなに酷くても笑ったりしないわよ。だから、ほら……ギターが好きなら胸を張って弾きなさい」


「……う、うん!」


 元気づけられて覚悟を決めた仄音はギターを手にして、近くの丸椅子に座る。手慣れたチューニングを済ませ、手首を軽く回して、深呼吸。


「いち、に、さん……」


 数えるのと同時にギターのボディを叩き、リズム良く弾き始めた。

 両手が細かく動き、まるでダンスをしているようだろう。奏でている音は低く、高く、心に透き通ってくるような優しい音色だ。弾いている仄音の表情は凛々しくて毅然とした態度であり、もはや羞恥心に左右されていない。真摯にギターと向き合っている事が分かる。

 そんな演奏を聴いているとロトは感慨深くなった。仄音はギターの弦を弾いているのではなく、仄音自身の琴線に触れている。そう言われても疑わないほどに、仄音の演奏で感動した。


「ふぅ……どうだった? 昔、作った『儚い空』っていう曲を弾いたんだけど……」


「素晴らしいわ……」


「ふぇ?」


 率直な感想を言われ、思ってもいなかった仄音は声を漏らす。


「う、嘘でしょ? そこまで難しくないし……気を使わなくてもいいんだよ?」


「いえ、本当よ。こう、胸にジーンとくるような感じで……兎に角凄かったわ!」


 ロトは今まで体験した事のない形容し難い感情に高揚感を抱き、燃えるような目を見開いていた。

 こうも率直に褒められたのは随分久しぶりな仄音は頬を朱色に染めて照れ、舞い上がってアコギとアンプを繋げ始めた。


「じゃあ、まだまだ弾くよ!」


 気分だけでなく音量も上げて、今度は好きなアニメの曲を弾き始めた。


 ――ドンッ!


 しかし、流石にアンプはやりすぎだっただろう。それなりの大きい音が鳴り響き、遂に隣から壁ドンをされてしまった。

 一瞬にして静まり返る空気に、ロトは不安を含んだ視線を仄音に向けた。

 仄音はまた隣人に怒られたという事実に泣きそうになるが我慢する。しかし、同じ過ちを繰り返した後悔は拭えないので、ギターを片付けては拗ねた子供のように炬燵へ潜り込んだ。


「す、素敵な演奏だったわ! ね、眠気はどうなったかしら?」


「いいんだよ……どうせ、私なんか、この世にいらないんだよ……社会のゴミなんだよ……」


 憮然とした表情で、息をするように毒を吐く仄音。それは仄暗い負の感情を感じさせる靉靆としたものだった。


「それにしてもお隣さんがネックね……いつもこうなの?」


「うん。まあ、ギターを弾いているこっちが悪いから何も言えないよ……」


「そうじゃなくて今は十三時よ? 普通の人なら働いている時間だわ」


 ロトが考えていたのは隣人が働いているか、否か。それが分かれば色々と対策を練れるだろう。例えば、ギターを練習するとして、お隣さんがいない時を見計らえばいい。

 未だに「どうせ私は無職だよ。ニートだよ……」と不貞腐れている仄音の首根っこを掴み、ロトは動き出す。


「な、何? 何処に行くの?」


「決まっているじゃない。隣人に挨拶と詫びよ」


「え!? 嫌だよ!? 絶対怒られるよ! 会いたくない!」


 今まで隣人に散々壁ドンされ続けたので、いざ顔を合わせると気まずい仄音は床にしがみついて抵抗する。


「あのねぇ……自分に弱くて、逃げてばかりで、情けない……仄音の悪いところよ……」


「う……ごめん……」


 呆れた表情でロトに指摘され、項垂れて謝る仄音。自己険悪に陥り、今にも泣きそうになっていた。


「今すぐ直せとは言わないわ。人ってそんな簡単に変われるものじゃないもの……だから少しずつ、前向きになりましょう。私が手伝ってあげるから……」


「ロトちゃん……ありがとう! 私、頑張るよ!」


 応援してくれる人がいる。傍に居てくれる人がいる。自分を想ってくれる人がいる。

 今までそういった人が身近にいなかった仄音は嬉しく思い、ロトに感謝した。今ならロトが本当に天使のように思える。


「じゃあ行くわよ」


「ちょっと待って!」


 仄音はロトの肩を掴んで引き止めた。

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