142、バルクライ、その感情を理解する 前編

* * * * * *


 耳を叩く雨音に、バルクライは目を覚ました。ふと温もりを感じて腕に視線を落とせば、小さなモモが鳥の雛のように丸くなっている。その眠りは深いようで呼吸が安定していた。無防備に小さな両手を握る仕草は幼く、そのあどけなさに心が凪ぐ。久しぶりに同衾したからか、良質な睡眠を得られたようでいつもより身体が軽い。バルクライはベッドの上に静かに起き上がると、片膝を立てて僅かに目を伏せた。


 ディーカルを気に入っているという賭けの女神が、まさかバルクライが留守の時期に、モモに脅しまがいの頼みごとをするとは予想外の事態だった。……軍神が阻止しなかったのは、それほどの危険がないと判断したのか。モモから聞いた限りでは、彼女は賭けの女神の頼みを断れないながらも、結果は保証できないと条件をつけて受けたようだ。それをしたという意識はないようだが、賢いやりかただろう。それは、モモが生きていく上で身につけた処世術なのかもしれない。


 今朝は少し早く屋敷を出る必要があるため、モモに気を引かれながらも、バルクライはベッドを降りて洗面所に向かった。

 

 鏡の横に彫られた紋章に手を翳し、セージを与えて水を出すと、顔を軽く洗う。タオルで濡れた顔を拭い、メイドが棚の上に用意していたズボンを身につける。そしてハンガーからシャツを取り袖を通していると、ベッドで動く小さな気配を感じた。


「……起きたか」


 そう呟いて、気配だけを探る。ベッドの中にバルクライがいないことがわかって慌てて降りようとしているようだ。……落ちないだろうか。気にかけていると、危なげなく下りたようだ。次になにをするのかと思えば、今度は立ち止まっている。洗面所か一階に下りたのか迷っているのだろう。


 あえてモモの耳には入れていないが、加護者を馬車で攫った男達はその後の捜索で道から離れた草陰で絶命しているのが発見された。胸元の心臓部分が黒く焦げており、医務局では炎の魔法で心臓だけを焼かれたのだろうと判断された。


 不可解な死因だが、それをたやすく可能にする存在がいる。モモに加護を与えた軍神だ。男達はまさしく神の怒りに触れたのだろう。男達の死は捜索の上で痛手となったが、それを補ったのは、貴族の尋問をしていたカイだった。……モモは知らない方がいいだろう。知れば、酷く傷つくことになる。

 

 モモは五歳の精神に引っ張られているとはいえ、十六歳にしてはあまりにも無垢な思考をしている。亡くなった祖母を恨まず、両親を恨まず、息を潜めるように我慢をしてきた子だ。それを得意だとさえ言う姿に、バルクライが出来たのはただ腕の中に抱きしめてやることだけだった。


「バル様……?」


「早起きだな、モモ」


 壁から顔だけ覗かせるモモはまだ寝惚けまなこだ。バルクライが同衾していないために、あまり眠れていないようだと聞いている。本人は見送りをしたがるだろうが、今日くらいは深く眠らせてやるべきだろう。バルクライはボタンを締めるのは後にすると、目を白黒させているモモを抱き上げてベッドに戻るために足を進める。


「あ? え? バル様?」


「まだ早い。もう少し眠っていろ」


「眠くないよ? バル様の、お見送り」


「そんなことはないだろう? 瞼がくっつきそうになってるぞ」


「だいじょうぶ、ねむく、ない」


「我慢はよくない。ゆっくりお休み」


 ベッドの中に優しく下して、シーツをかけてやる。耳元で囁きながら、とんとんと胸元を叩いてやると、言葉が不明瞭になり、やがて呼吸が深くなった。しばらく様子を見て眠ったことを確認すると、バルクライは再び踵を返した。





 打ち付ける雨の中、バルクライはカイを伴いある場所に馬を向けていた。そこは、モモも深く関わりを持った孤児院である。人身売買され行方がわかっていなかった子供達のことについて、一つの報告をするためだった。


 元請負屋で施設の経営者となった夫婦、ナターシャとヨドンが二人を出迎えてくれた。ヨドンの先導に従って廊下を歩けば、「こんにちは、だんいんさん!」と子供達が笑顔で挨拶してくる。その表情は明るく、雨の日でも楽しげだった。


 接客室に案内されたバルクライ達は、夫婦と対面してソファに腰を下ろす。


「団長さん方、急なお越しだが今日はどういったご用件で」


「人身売買されていた子供達の中で保護されていなかった者について、報告にきた。カイ」


「はい。オレから説明させてもらいます。子供達を買い取っていた貴族の証言に従い、森の奥深くを捜索したところ、子供の骨や服の切れはしが複数見つかりました。五年ほど前から人身売買は行われていたのが確認出来ているので、おそらく骨も残っていない子もいるかと」


「あぁ、やっぱりそうなのかい……っ」


 口元を押さえて嗚咽を堪えるナターシャの背中を撫でて、ヨドンが大きく溜息をつく。


「ルーガ騎士団の団員の方が保護してくれた子供達の様子を見て、わし達も覚悟はしとったが、大人の欲に巻き込まれて抵抗も出来ずに売られていった子供のことを考えると不憫でなりません。骨と遺留品だけでも孤児院ここに帰してはやれませんか?」

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