38、モモ、逃亡を開始する~努力した痛みは早めの勲章にしたい~

 時刻は深夜。大きな決断を下す時がやってきた。ベッドでうとうとして体力を温存していた桃子は、廊下の物音が聞こえなくなったのを耳で確認すると、ゆっくりと行動を開始した。


 もうすでにお腹はぺこぺこで、心なしか寒気もしているけど、構っていられない。頑張って2枚のシーツを引きはがしにかかる。それを結びつけると、今度はベッドの下に隠しておいたタオルを繋げていく。ぐっぐっと引っ張ってほどけないか確かめる。うん、大丈夫かな? 


 即席ロープが完成したら、それを窓から一番近い側のベッドの足に括り付ける。そして、仕上げだ。


「ふははははっ、余の為に破けるがいい」


 聞こえないように、ちっちゃな声で軍神様の演技をしながら、机の中にあったノートを破いて部屋の床に撒く。これで、即席ロープが多少は隠れるし、入って来た人が驚いて一瞬でも止まってくれれば時間も稼げるだろう。


 最後に、即席ロープを右手に持って、机の小さい引き出しを外す。その二つを持って、窓の下に寄せておいた椅子によじ登る。これで準備は完了。どうか、上手くいきますように!

 

 祈りながら待っていると、それは起こった。どこかでパンパーンという大きな破裂音と、騒いでいる声が聞こえて来た。お兄さんの合図だ! 桃子はその瞬間、机の引き出しを精一杯振りかぶる。


「いっくぞぉーっ!」


 窓に向かって投げつける。ガシャーンと甲高い音を立てて窓が割れた。桃子は破片を足で踏みつけて乗り上げる。窓の下は真っ暗だ。うぅぅ、高いよぅ。怖くて足が竦む。けれど、時間がないのだ。桃子は涙を堪えて、即席ロープで真っ暗な壁をじりじりと伝い降りていく。


 寒いし、自分の体重を支えるのが辛い。桃子は歯を食いしばって、必死に下へ下へと降りていく。二階部分に到達した頃、眼下の部屋に明かりがぽつぽつと灯り始めた。騒ぎで起き出す人が増えたのだ。


 大変っ、急がなきゃ! 焦りながら短い足を必死に動かしていた時だった。足元がもたついて、ザザザザッと身体が滑り落ちていく。背中が二階の窓に一瞬当たって、ガシャッと大きな音をさせてさらに下へと滑る。視界がクルクル回って、手の平が摩擦で焼けつくようだ。


 激痛に耐えて、桃子は死にもの狂いで即席ロープを掴んだ。落下がなんとか止まる。代わりに手の平がジンジンと痛む。心臓が大きく脈打ち、頭の中まで響いていた。


「はぁ、はぁ、はぁ……し、死んじゃうかと思った……」


 肩で息をしながら、桃子は両手に力を入れて再びじりじりと壁を降りていく。不幸中の幸いなのか滑ったせいで、もうすぐ一階の頭に到達しそうだ。


「なにしてるのよ、あんた!」


 その時、上から叫ぶような声がした。顔を上げれば、すんごく怖い顔をした侍女のお姉さんが桃子を睨みつけていた。あれは貴族の人だったはずだ。もう見つかっちゃった!


「あんたにどっか行かれたら私達が叱られるんだからね! 絶対に逃がさないわよ!」


 お姉さんの顔が窓から引っ込んだ。さすがに即席ロープを使おうとはしなかったが、中からこっちに降りてくるつもりなのだ。急がなきゃ。捕まったら苛められちゃう! 


 一階の頭に到達すると、桃子は思い切って即席ロープから手を離して飛び降りた。視界に迫る黒い地面に恐ろしくなるが、足から着地を決める。地に足がついたと思いきや、ぐぎっと嫌な痛みが足首にはしる。うぐっ、捻っちゃった。


「逃げないと……っ」


 左足を引きずりながら全力で走る。神殿の出入り口は正面だ。庭を抜けて必死に足を動かす。急げ、急げ! 後ろから足音が聞こえて来た。振り返られなくてもわかる。鬼が来てる!

 

 暗闇に浮かぶ白い門が見えて来た。後少し、後少しと、気持ちばかりが逸る。バル様、カイ、キルマ、レリーナさん、ロンさん、絶対に戻るからね! 15メートルくらいまで迫った時だった。突然後ろから襲われた。


「うわぁぁっ!!」


「この馬鹿っ、捕まえたわよ!」


 地面に突っ込んで、桃子は悲鳴を上げた。お姉さんに飛びかかられたのだ。打ち付けた身体も、火傷のようにひりつく両手も、ひねった左足も、全身が痛む。傷だらけで薄汚れた桃子はそれでも、足をばたつかせて必死に抵抗する。


「放して! 放して! 誰か!」


 もう少しで門なのに! 外側にいるはずの門番さんに助けを求めようとしたら、その行動を予測していたようにお姉さんに口を塞がれた。


「むーっ、むーっ! 止めて!」


「大人しくしなさい、よっ!」


 激しいもみ合いの末に、仰向けになった桃子の頬を、お姉さんがバシッと叩いた。じぃんと頬が熱を持つ。うぅ、酷いよ! なにも叩かなくてもいいのに。もうボロボロだよぅ。


「これ以上叩かれたくないでしょ? もう逃げられないんだから、諦めなさい」


「うぅ……」


 腕を掴まれて立たされると、お姉さんが冷たい顔で桃子を見下ろす。


「みすぼらしい恰好ね。いい気味だわ。この私に手間をかけさせたんだから、相応の罰は受けてもらうわよ。大神官の元に連れてくわ。覚悟することね」


 桃子は唇をかみしめて、せめての反抗としてお姉さんを睨みつけた。五歳児の睨みなんて、怖くもなんともないだろうけどさ。……バル様、お兄さん、ごめんね。頑張ったんだけど、失敗しちゃったよ。もしかしたら、このまま世界からもログアウトしちゃうかも。

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