37、モモ、選択する~カウントダウンはお腹の合図から~

「よはぐんしんである!」


「そう、その態度、その顔です! 絶対に崩してはいけません。夜眠るまではそれで過ごしなさい。そうすれば、少しは慣れるでしょう」


「……うむ」


 精一杯重々しく頷きながら、心の中ではバテた桃子が床に転がる。お昼休憩を挟んで、何時間こんな特訓をしていたことか。ようやくお許しが出たのだ。うへぇ、つかれたよー。


 幸いにもお昼はここで取れたので、劇物のような塩味を口にしなくて済んだ。しかし乾パンのように固いそれは、幼児の顎では食べるのに一苦労だった。そのせいであまり量を食べられなかったのだ。せっかく塩責めから自由になったと思ったのに! ぐすん。 


「では、今日はここまでとします。明日も朝食後はこの部屋に」


 お疲れ様でしたーと心の中で返して、退室していったおばさんの後ろ姿が扉の向こうに消えた瞬間、桃子はだらりと机に臥せた。やっと一人になれたよ……バル様達、今どうしてるだろう。


 五歳児らしからぬため息が漏れた。お腹がすごくスースーする。朝は気付かなかったけど、これセージが抜けてるせいじゃないかな? 一歳児になった時もお腹が空いたのと合わさって勘違いしてたけど、このスースーがたぶん予兆なんだね。もうすぐ一歳児に戻りますよーっていう合図。


 バル様からセージをもらってから二日目の夜が来る。明日の朝には一歳児に戻ってるかも。逃げるなら今夜だ。そのためにも、食欲はないけど何か食べないと体力が持たないだろう。さっきから身体が重いんだよぅ。このままコロコロしてたい。机に懐いてぐりぐりと額を押し付ける。うむ、固い。……はっ、練習の成果がこんなとこで出てる!? 


 ぷるぷると首を振って、軍神モードを追い出す。再会した時に余は、なんて言い出したらバル様達びっくりするだろうなぁ。これだけ長時間練習させられれば、咄嗟の時に出ちゃいそうだよ。出汁のしみ込んだおでんのように、演技のしみ込んだ桃子。全然美味しそうじゃないや。


 疲れてグダグダしていると、コンコンと扉がノックされて飛び上がる。


「し、心臓痛い……ええっと、はーい」


 跳ね上がった心臓が、バクバク言っている。桃子は五歳児らしく返事を返した。すると、眼鏡の青年が入って来た。んん? どこかで見たことあるような、ないような。


 困り顔になっていたのか、青年が気弱な顔でぎこちなく笑う。笑うと言っても慣れていない様子が丸わかりの失敗した笑顔だ。またおじさんから無理難題が出たのかなぁ? せめてまともなご飯をお願いしたい。


「僕がここに来たことはシー、だよ。内緒にして。これを君に渡したくて……」


 人差し指を立てて口元に当てた男は、扉を気にしながら神官服のお腹の部分に隠していた小さなリンガを差し出してくれた。


 桃子の掌に収まるサイズのリンガに、思わず喉が鳴る。キルマのお土産でバル様のお屋敷で食べた記憶がある。名前は一文字違っても、味は変わらないりんごだった。桃子は男の手の中から視線を剥がせないまま、恐る恐る聞いた。


「……いいの? おにいさん、あのおじさんにおこられない?」


「バレなければ大丈夫。侍女の方には大神官様からの差し入れと言ったからね。あの人達ならいちいち本人に確認はしない。なにしろ嫌ってるから。人が来ない内に、さぁ」


「ありがとう、おにいさん」


 感謝に震える手で桃子はリンガを受け取ると、即座に噛みついた。必死に喰らいつく。甘い! 美味しい! ちゃんとした食べ物だぁ!! 羊から人間に戻れたよぅ。泣きそうになりながら必死に食べつくす。小さなリンガを平らげると、少しお腹が落ち着いた。


 青年は残された芯を紙に包んで懐に隠すと、桃子の前で片膝を付いて、心配そうに尋ねた。


「酷いことはされてない? ごめん、僕にはこんなことしかしてあげられないんだ」


「ううん。おにいさんがリンガくれたから、モモ、おなかならなくなったよ?」


「……そっか。君、神殿に無理やり連れてこられたのか?」


 桃子はこの男を信用していいか迷う。けれど、真剣な瞳には誠実さだけが浮かんでいる気がした。頭の中で選択肢が示される。


 この人を信じてみよう! or 私は騙されないぞ! さぁ、どっちを選ぶ!? 右と左にふらふら揺れて、悩んだ末に桃子は選んだ。──よし、右でいこう!


「あのね、モモはバルさまのおやしきにいたの」


「バルさま? それはまさか、騎士団師団長のバルクライ様のこと、じゃないよな?」


「そう」


 こっくりと頷きを返すと、男が呻き声を上げて絶句した。顔色が真っ青になっちゃってるけど、大丈夫?


「……なんてことだ。大神官はあろうことか、バルクライ様のお子様を攫ったのか?」


「おにいさん、モモはバルさまのこどもじゃないよ。だけど、ほごしゃっていうのはバルさまがなってくれてるんだって」


「やはり大変な事態だよ。君を連れて騎士団まで逃げられればいいんだが……僕はあの人の行いに反対したから目を付けられている。だから僕が逃がすのでは駄目だ。逆に捕まりやすくなるだろう」

 

 疑ってごめんね。すごくいい人だ。初対面の幼児なのに、真剣に逃がそうとしてくれている。桃子はこの人ならば信用できると思い、今夜の計画を打ち明けることにした。


「おにいさん、モモきょうのよるににげようとおもってたの。おへやのシーツとタオルをつないでね、まどをわってそとにでるから、おにいさんはしらないふりをしてね?」


「君が一人で考えたのか? すごいな……」


 お兄さん、ごめんよ。五歳児だけど中身は十六歳のなんちゃって幼児なんだよ。騙しているみたいで申し訳ないです。そう思いながらも演技は続ける。バル様に迷惑がかからないように慎重に動かないと。


「うん! だから、しんぱいしないでいいよ?」


「いや、それなら僕も協力できるかもしれない。──こういうのはどうだろう?」


 お兄さんの耳打ちした内容に、桃子は驚いて目をぱちくりさせた。

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