【2】
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【2】
燃える炎が全てを支配していた十年前の夜。
赤く燃え上がる炎を見つめて、彼女は呆然と固まっていた。
その横顔に見入っていた僕は、我に返ると額の汗を拭う。
熱い。押し寄せる熱で身が焼けそうだ。僕は散り散りになってしまいそうな意識を押しとどめようと肩で息をつく。
静葉は、起きていることの何もかもが信じられないんだろう。無理もない。ただ必死で手を引かれて逃げ出して、振り返った先の光景がこれだ。
着の身着のままの彼女は、何も持っていない。家族でさえもあの炎の中だ。
静葉はがくがくと震えながら、火にのまれていくコテージを見上げる。
そうして永遠に続いていきそうな忘我の中で──けど彼女は不意に動いた。コテージに向けて走り出そうとした静葉の手を、僕はかろうじて摑む。
「ちょ、何やってんだよ!」
「でもお兄ちゃんが、まだ中に……」
それを聞いて、僕は胃の中に石をねじこまれたみたいな気分になる。
まだ中に人が取り残されてることなんて僕もわかってる。でもだからって、もう一度戻るなんて無理だ。僕たちは子供で、できないことの方がずっと多い。
「駄目だ。今行ってもなにもできないし、近づけないよ」
「そんなの……」
「きっと自分で出てくる。僕たちが逃げられたんだから」
楽観的過ぎる言葉だと、自分でもわかってる。でもそうとしか言えない。
静葉は、ぶるぶると震えながら立ち尽くす。そんな彼女の手を僕はきつく摑んだ。触れた箇所から激情が伝わってくるみたいでめまいがする。でもこの手は離せない。ここで彼女を行かせたら、僕はきっと生きてる価値さえなくなる。
けどその時──燃え盛るコテージの手前に、きらりと輝くものが見えた。
火熱を反射して紅く光る何か。
僕と同時にそれに気づいた静葉が、ぽつりと
「あれ、わたしの……お兄ちゃんにもらった……」
大きな瞳に、みるみる涙が浮かんでくる。僕はそんな静葉の顔と、今にも火にのみこまれそうな位置にある何かを見比べた。
迷ったのはほんの一瞬だ。僕は静葉の手を離す。
「ここで待ってて」
近づけない、と自分で言ったはずの炎へ、僕は飛び出す。
押し寄せる火熱に、全身がたちまち痛んだ。無数の針で刺されてるみたいな激痛は、既に衝撃だ。頭を抱えて逃げ出したい。肉体の苦痛なんて最悪だ。
それでも、行かなければと思った。
そうでなければ──僕はきっと愚かな自分が許せない。
息を止め、体を伏せて、僕は光るそれに右手を伸ばす。
「痛ッ……!」
摑んだ瞬間、掌に激痛が走った。
けどそれよりも迫ってくる熱気の方が問題だ。僕は転びそうになりながら引き返すと、彼女の前に戻る。
彼女は、呆然と帰ってくる僕を見つめた。
僕は無言で右手を差し出す。
そこに握られた古銀貨のペンダントを……彼女は今でも持っているのだろうか。
※
生きるってことは、罪悪感を重ねていくことに似ている。
──なんて思っても過去は書き換わらないし、やってしまったことは戻らない。
昼休みが終わって教室に戻った僕は、机の上で頭を抱える。
「なんであんなバレ方するんだ……」
今までの一週間、ちらちら顔を見られても気づかれなかったのに、掌の火傷痕で僕があの火事の時にいた子供だとバレた。その場は「人違いです」って言いきって逃げてきたけど、これは後で尋問は免れないかもしれない。ああもう、最悪だ。だから右手は人に見せないようにしてたってのに。
僕は、自分の右掌を一瞥する。
そこにある赤黒い変色痕は、あの日の古銀貨の形そのままだ。火傷してすぐはチェーンの痕もあったんだけど、そっちは十年の間にすっかり薄くなってしまった。
真円の傷跡は、僕にとっては一生背負っていく
このまま午後は早退してしまおうか。──そんな現実逃避をしていた時、ちょうど教室の前のドアから静葉さんが帰ってくる。こういう時、同じクラスで前後の席ってのは逃げ場がない。
席に戻ってくる彼女を見ながら、僕はかけられる言葉を待つ。
けど、予想に反して静葉さんは、一瞬僕の席の前で足を止めただけで、何も言わないまま自分の席についた。
「……あれ?」
まるで最初の日と同じだ。時間差で背後から攻撃でも来るんだろうか。
僕は緊張しつつ……けど結局、静葉さんから何もないまま午後の授業が始まった。そのまま次の授業も過ぎて、あっという間に放課後になる。
動けない僕よりも早く、さっさと静葉さんが下校してしまうと、ようやく僕は後ろを振り返った。空の席を見つめる。
「え……なんなんだ、一体」
肩透かしにもほどがある。僕のことを覚えているのか覚えていないのか、どっちなんだ……。いや、覚えていないならそれに越したことないんだけど。
いつの間にか、教室に残っているのは僕だけだ。誰にも帰りの挨拶をされないポジションは本当気楽で助かる。
僕はバッグを肩にかけると教室を出る。
けどそうして、一歩廊下に出た瞬間、ドアの陰から誰かに手を摑まれた。
「は!?」
思わず振り払おうとして、僕は
そこにいたのは……静葉さんだ。
って、ちょっと待って欲しい。これは完全に時間差攻撃だ。
彼女は摑んだ僕の右手を返すと、まじまじと掌を検分する。
「やっぱり……あの時の子、ですよね」
「人違いです」
「それ、さっきも聞きました」
「さっきって何の話?」
ひどい時間差攻撃には、見え透いた
日頃の作り物みたいな表情が噓のように、彼女は眉を寄せて僕を見上げる。
「さっきはさっき。私、今まで昇降口で張ってましたから。同じ髪型と体格の人は全員確かめました」
「なんでそんなことするの!?」
え、なんで。僕への嫌がらせか? っていうか、静葉さんがそんな奇行したとか信じたくない。胃が本領を発揮して痛みだす。
彼女はそこでようやく僕の手を放すと、自分の手を差し出した。
「生徒手帳、お願いします」
「いや、なんで!?」
「名札でもいいですけど」
静葉さんがちらりと僕のバッグを見る。うちの高校は、規定カバンの外ポケット部分に名札を入れるスリットがあるんだ。とは言え、個人情報の問題でほとんどの人間は裏返しに入れてて、縁の学年カラーしか見えないんだけど。
静葉さんは階段前の段差には気づかないくせに、そんな学校ローカルな知識はあるみたいだ。これは、生徒手帳を差し出すのと名札を差し出すの、どっちがダメージが少ないんだろう……というか、なんだこの二択。どっちも出さないって手もあるだろ。落ち着け、僕。
僕は静葉さんの顔をまじまじと見つめる。
そこに浮かんでいる感情は、必死としか言いようのないものだ。
「その痕、私のペンダントを拾ってくれた時についたんじゃないですか」
「……ただの偶然だ」
「あの火事のこと、覚えてますよね」
──ああ。これは、もう駄目だ。白を切るにも限界だ。
あの火事のことは、僕にとってはもちろん、静葉さんにとってもひどくプライベートな……表には出したくないことのはずだ。
それを口に出させてしまったのに、僕だけ逃げ続けるなんてことはさすがにできない。そうなった時の静葉さんの内心を想像するだけで、三日は寝こめる。
僕はじっと自分の掌を見つめた。
十年前の、消せない悔恨が
もし全ての人間に、一生隠し通すべき罪悪感が存在するとしたら。
僕のそれは、あの夜が始まりだ。
炎に照らされて、自失して、声もなく泣いている彼女。
そんな静葉の姿を見て──僕は、あろうことか「綺麗だ」と思った。
思ってしまった。人の感情に同調するはずの僕が。
それは、筆舌に尽くしがたい醜悪さだ。
思い出すだけで体の中が焼けるようだ。自分の全てを
だから……彼女には決して明かせない。己の絶望を、そんな思いで眺めていた人間がいるなんてことは、知って欲しくないんだ。
そして僕は、自分のこの醜悪さを
消えないものを消そうとし、償えない罪を償おうと
そのためにも──これ以上彼女を傷つけることはできない。
「……わかった」
僕はバッグのスリットから名札を取り出す。静葉さんに手渡すと、彼女は受け取ったそれをまじまじと見つめた。
「にいづか、りょう……新塚?」
「名字は変わったんだ。親戚に引き取られたから」
「ああ……」
大方、参加家族になかった名字ってことで不審に思ったんだろう。けど彼女はそれで全てを察してくれたみたいだ。薄い肩が消沈で下がる。
「そうだったんですね……すみません。今更辛いことを思い出させて」
「忘れたことはないから平気だよ」
「ご、ごめんなさい、無神経で……」
フォローをしたつもりなのに静葉さんは一層縮こまる。いや違うから。僕の言い方がまずかった。こんなことなら優しい会話通信講座でも取っておけばよかった。
「微塵も気にしてないから。怒ってもいない。むしろ言ってくれてよかった」
「でも」
「どんどん言っていいから! 大丈夫! もっと言っていこう!」
なんだこれ……。自分でもドン引きだ。無難な会話をしたいんだけど静葉さん相手だとうまくいかない。いや、誰相手でも大体うまくいかないんだけど。
僕は強引に仕切り直す。
「久しぶり、静葉さん。あの時以来だけど元気そうでよかった」
「私こそ、あの時は助けてくれてありがとうございます」
「……頼むから、お礼は言わないでくれ」
「え? どうしてですか?」
「いいから」
目に見える事実だけを列挙すれば、確かに僕は彼女を助けたんだろう。
でも僕の内心を暴けば、そこにあるものはひどい無神経だ。だから僕はせめて、彼女の思う恩と同等くらいには、彼女を助けなければならない。
顔を
「さんづけで呼ばれるの、なんだか落ち着かないです」
「じゃあ静葉ちゃん」
「それもちょっと」
「要求が多い……」
これ、何にも知らないふりして僕を試してるんじゃないだろうな。
僕は彼女の手から名札を取り上げると、バッグのスリットに戻した。
「じゃあ……静葉。これでいいか?」
久しぶりに呼ぶ彼女の名は、苦味と、いくらかの熱を伴っていた。
指先が
静葉はほっとしたような、迷子のような微苦笑を見せた。
「それでお願いします。良くん」
「ん……」
初めて彼女に呼ばれる自分の名は、妙な居心地の悪さがある。
十年前はちゃんと名乗らなかったから仕方ないんだけど、なんかこう、落ち着かなくて仕方ない。できれば彼女には一生個人認識して欲しくなかった。
それでも、起きてしまったことを後悔しても仕方ないってことは、この十年で嫌ってほど身に染みてる。僕は平静を装って返した。
「了解。あと僕からも一つ確認させて欲しいんだけど」
気になっていることは一つ。なぜ、彼女は昼休みの接触の後、真っ先に僕のところに来ないで、全校生徒から探したのか、だ。
いくら人付き合いが下手だからって、奇行にも限度がある。明日になったら全校中に噂が流れててもおかしくない。
──でももし、彼女にそうしなければいけない理由があるのだとしたら。
今までの違和感の数々を僕は思い出す。頭の中に、一つの可能性が生まれる。この可能性を確かめないと、こっちこそ落ち着かなくて仕方ない。
僕は、きりきりとした胃の痛みを感じながら、口を開く。
彼女の、今は火を映していない
「君はひょっとして……人の顔の判別がつかないのか?」
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