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            ※



 十年前のことだ。

 僕は、自分のどうしようもない性質のせいで不登校児だった。

 そんな僕に、両親はあまり多くを求めなかったように思う。大体僕は部屋に閉じこもっていて、二人は必要最低限の接触しかしてこなかった。それは彼らが淡白な人間だったって可能性もあるけど、もしかしたら必要以上に接触すると僕が同調してしまうから、それを避けたのかもしれない。今となってはもうわからない。

 ただ両親は両親なりに僕のことを心配してくれたんだろう。僕はその夏、家族でフリースクールの体験キャンプに参加することになった。

 小さいイベントだったから、参加者は僕のところを含めて六家族。そのうちの一家族が、静葉のいる葛城家だった。

 僕はずっと部屋で引きこもってたから、参加者の自己紹介を聞いてなかったんだけど、葛城家は静葉のお兄さんの方が問題を抱えてたらしい。彼女は両親と兄に付き合って、キャンプに参加した。

 付き合い、っていっても彼女は彼女で、兄をなんとか支えたいと思ってたんだろう。他の子供たちが消極的で及び腰だったのに対し、必死でみんなの間を取りもとうと奔走していた。と言ってもこれも全部後からひとづてに聞いたことだ。

 静葉を含めたみんなは、一日かけて簡単なゲームやバーベキューをした。最後の方には大分空気も和やかになっていたらしい。何もなければこのイベントは成功で終わって、何人かの子供の背中をいい方に押すことになっただろう。

 ──けどぎこちない平穏は、その日の夜に破られた。

 時刻は、二十三時過ぎのことだ。

 参加していた家族のうち、二つは夕飯の後に帰っていった。それで僕や静葉の家を含めて四家族が、合宿所でもある大きなコテージに泊まったんだ。

 そのコテージから火の手が上がった。





 気を張っていたイベントの後ということで、早々にベッドに入っていた人間が多かったのも悪かったんだろう。みんなが気づいた時には既に、建物のほとんどが火と煙にのまれていて、逃げ出せた人間の方が少なかった。僕の両親も逃げられなかった側の人間だ。

 そして──葛城静葉もまた、あの一晩で家族を失った。

 彼女にとっては、一晩で人生がひっくり返ったんだ。その時の衝撃を想像すると、ひたすらあんたんとした気分になる。不登校じゃなくなった今の僕でも、同調すれば三日は寝こめるかもしれない。

 実際のところ、静葉はこの一件の後、しばらく入院して……この街から引っ越していった。新幹線で数時間の距離だ。本当なら、こんな風に再会することは一生なかっただろう。そのはずだ。

 けど今、彼女はここに戻ってきている。

 ただ一つ予想外だったのは……彼女が僕にまったく気づかないことだ。




             ※





 昼休みの教室は、プライベートな話と感情が飛び交う地雷原だ。だから僕は基本、誰もいない非常階段で昼飯を食べることにしてる。

 ここ数日は静葉の様子を見るために教室にいたけど、彼女は昼休みになるとどこかにいなくなってしまう。校外へは出られないからそれは安心なんだけど、何をしてるかはわからない。だから僕も迷った末、人の来ない非常階段に戻った。

 僕がここにいることを知っていて、なおかつ訪ねてくるのは一人だけだ。


「良くん、話しかけてもいい?」


 その声に振り返ると、二組のすみが菓子パンの袋を手にのぞきこんでくる。ふわふわと癖のある茶色い髪は、横に流して一つに結んでいる。子供の頃はもっと癖が強くて、それが原因でいじめられてもいたらしい。

 僕はノートを閉じるとカバンにしまう。隣に座った奈々はメロンパンを開けた。


「なに考えてたの? また無?」

「無でいたいとは思ってるな。いつも」

「じゃあ、静葉ちゃんのこと?」

「…………」


 沈黙は大体の場合が肯定だ。僕のそんな反応を知っている奈々は笑った。


「静葉ちゃん、相変わらず綺麗だったね」

「顔立ちはまあ、そうだな」


 気のない同意は思考の上を滑っていくみたいだ。僕はちらりと奈々を見る。

 ──江角奈々は、あの日のサマーキャンプに参加していた家族の一人だ。

 彼女の場合は父親が単身赴任で、母親と二人で参加した。その母親は火事でひどい火傷やけどを負い、今も心身ともに回復しきれていないのだという。奈々は、そんな母親の面倒を見ながら暮らしている。葛城静葉を知っているのもそのせいだ。

 だから、この話ができるのも、きっと奈々だけだ。

 そんな僕の内心を読んだわけでもないだろうに、奈々はさらりと切り出す。


「静葉ちゃんは、わたしたちのこと忘れちゃったのかな」


 いくらか寂しそうな言葉は、僕が考えていたことと同じだ。


 すなわち──葛城静葉は僕のことも奈々のことも気づいてないのではないかと。


 転校から一週間、挨拶で剛速球を投げた静葉の周りには、最初こそ人が集まっていたが、彼女の態度が変わらないと察すると、みんな適度な距離を置くようになった。

 静葉は、誰にでも話しかけられれば答えるし、笑顔も見せる。

 けどそこまでだ。それ以上踏みこむことはないし、後にも続かない。毎日挨拶を重ねても、彼女と距離が縮まることはない。静葉はいつも同じように、笑顔で「おはよう」と言うだけだ。「前に誘った件だけど──」と話を振っても、困ったように曖昧にほほむだけ。

 そんな反応を目の当たりにすれば、誰でも「人付き合いしたくないんだ」と察する。どんな人間にも踏みこまれたくない距離はあって、葛城静葉の場合は、それが人よりずっと広いのだと。

 彼女のそんな態度は僕に対しても同じで……いや、僕は彼女に話しかけたりしないんだけど、だから僕たちの関係は無のままだ。ありがたいと言えばありがたいけど、不審さはある。けど僕は、あえてその不審を隠して奈々に返した。


「奈々のことはともかく、僕はあのキャンプ引きこもってたからな。どう考えても覚えてないだろ」

「あ、そっか」


 僕は、ゲームをする子供たちには加わらないで、ずっとコテージの中にいたんだ。静葉と顔を合わせたのも、ほんのわずかな時間だけだ。

 あの燃え盛るコテージの前で、何もかもから取り残されて二人きりで立ち尽くしていた。そんな時の記憶は、できれば彼女に覚えていて欲しくない。

 僕は広げた弁当箱からたまごに刺したようを摘まむ。


「大体、十年も経ってるんだ。覚えてて楽しい話でもないだろ」

「そうなんだけど」

「僕に至っては名字も変わってるしさ」


 新塚という名字は、両親の死後、僕を引き取ってくれた親戚のものだ。その親戚からは両親の名字を残さなくていいのか、と再三念を押されたが、僕自身が希望して変えてもらった。

 その名前の子供は、あの炎の中で死んだ──そう思った方が、きっといい。

 どこかで火事のことを聞きつけた人間から詮索されるのも困るし、いざという時動きにくい。だから僕は、十年前から新塚良だ。それが静葉に対しても功を奏しているというならラッキーだけど……多分それだけじゃないんだろう。

 僕は食べ終わった弁当箱の蓋を閉めた。隣では奈々が二つ目のメロンパンを開けている。メーカーが違うのは食べ比べでもしてるんだろうか。


「十年前はすごく仲良くなれたんだけどな……」

「子供だったからだろ」

「良くんと友達になれたのは、あの火事の後だったよ」

「引きこもりだったからな」


 奈々と顔を合わせたのは火事の直後、消防隊が駆けつけてきた時が初めてだ。

 すすだらけのエプロンをつけた母親が担架で運ばれていくのを、奈々は呆然と見送っていた。どこかに心を落としてきてしまったような空虚な目は、このまま死んでしまうのかもしれないと思ったほどだ。

 その後は一緒に警察に保護されて……縁があって同じ境遇同士、接触するようになった。だから僕の知るキャンプについての話は大体、事件後しばらく経って奈々から聞いたものだ。

 あの一件に関して、僕自身が見聞きしたものは決して多くない。

 静葉のことも……覚えているのは全てをのみこむ火に照らされて、声もなく泣いている姿だけだ。僕が、綺麗だと思ってしまった、あの横顔。

 ──喉が渇く。

 昼食を食べたばかりの胃から、気分の悪さが上がってくる。

 日頃、人に同調して生まれる気鬱とは違う。これは、僕自身の悔悟の念だ。

 奈々はそんな僕には気づかず、三個目のパンを手元で開けた。


「じゃあさ、静葉ちゃんは、全部忘れたからこの街に戻ってきたのかな」

「いや……」


 静葉は……この呼び方はまずいな、静葉さんは、あの火事のことを忘れていない。そのはずだ。

 ならなんで今、この街に戻ってきたのか。僕たちのことには気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。

 単純に忘れてしまっているならそれでいい。今まで通り関わらないようにすればいいだけだ。そういう償い方もきっとあると、僕は思っている。


「ともかく、こっちから無理に接触する必要はないだろ。向こうも触れられたくないかもしれないし」

「それは……そうだけど、でも静葉ちゃんも同じ気持ちでいたら、わたしたちずっとこのままじゃない?」

「別に。このままでいいだろ」


 感情をこめない言葉は、思ったよりずっと冷ややかだった。その冷たさに、自分でもぎょっとする。奈々を見ると、彼女は目を見開いたまま固まってしまっていた。


「奈々、違う」

「あ……」

「違うんだ。──僕の言葉なんて無視しろ」


 それは、久しぶりに口にする「いつもの言葉」だ。

 放っておけば震えだしそうな彼女に告げる言葉。

 僕はそうして、奈々の不安を遠ざける。自分への嫌悪感と入り混じる罪悪感に、目を閉じて深呼吸した。

 奈々は奈々で、自分との付き合い方があるんだろう。ややあって、小さなためいきが聞こえる。


「……そうだね。わたしたち、このままでもいいよね」

「うん。ごめん」

「え、なんで謝るの!?」


 驚く奈々に、僕は肩を落とす。

 ──十年前の江角奈々は、人からの評価を異常に気にする人間だった。

 いじめられた経験からそうなったのか、そういう性質だからターゲットにされたのかはわからない。けどあの頃奈々は、人からの視線におびえて、学校に行くこともままならなくなっていた。人から勝手に影響を受ける僕とは似ていても反対だ。

 それでも……くだんのキャンプで静葉さんと仲良くなったことは、奈々にとっていい思い出だったらしい。

 自分に偏見のない相手、自分を知らない同世代の少女が好意的に接してくれる。そんな時間は奈々にとって久しぶりの安らいだ状況だったんだろう。

 その後にあんな事件が起こってしまったんだけど……奈々は結局、きよくせつの末、少しずついい方に変わっていった。今ではいじめられもしていないし、僕なんかよりずっと周囲とうまくやっている。

 これで変人のレッテル張りされてる僕と一緒にいるのをやめれば、非の打ちどころのない普通の女子高生になれるんじゃ、って思うけど……いや、やめよう。人の心配をしだすときりがない。特に親しい人間相手だとなおさらだ。奈々が十年後、二十年後、苦労せず、心穏やかに暮らせているか、不安になってしまう。

 きっと僕は、こういう性質である限り、恋人とか家族とか持てないんだろうな。

 親しい人間がいれば、その人間が一生穏やかに暮らせるか、どうしても心配になる。毎日のニュースを見て、同じ不幸に巻きこまれてしまわないか不安になる。

 そんな風に未来のことまで考えてしまう相手は少ないに越したことがない。もし両親が存命だったら、僕はこのとしから何十年も先の彼らのことまでを、想像し心配し続けることになっただろう。それが悪いとは少しも思わないけど、進んでこれ以上の気鬱を抱えこもうとは思わない。

 僕は顔を上げると、自分に言い聞かせるように口にした。


「じゃあ、静葉さんとはこのまま接触しない方向で」


 それが、きっと平穏への近道だ。奈々は少し寂しげに、でも笑顔を見せる。


「わかった。わたしたち、十年前とは違うもんね」

「そう。それより奈々、メロンパン食べ過ぎじゃないか?」

「え、普通だけど……まだ焼きそばパンあるし」

「まじでか」


 さっきからメロンパン三つは食べてるんだけど、この細い体でどうしてそれだけのカロリーが必要なんだ。見てるこっちが喉が渇く……口の中がぼそぼそする……。


「良くんが食べなさすぎじゃないかな。あ、そうだ。駅前にデザートビュッフェのお店ができたらしいよ。今度一緒に行かない?」

「絶対ムリ。行かない。奈々が食べてるところ見てるだけで胃が死ぬ」

「良くんって胃が本当に弱いよね。毎日胃を押さえて登校してくるし」

「微妙に原因の違う胃痛を一緒にするな」


 普通にしてても痛いんだから、別の原因を加えようとしないでくれ。

 僕は弁当箱を片付けると立ち上がった。まだメロンパンを食べている奈々が腰を浮かしかける。


「あれ、もう行っちゃうの?」

「飲み物買ってくる。奈々の分も」


 なんでパンを四つ持ってて、水分の方は水筒もペットボトルも持っていないのか。気になるけどそこを追及するより買ってきた方が早い。

 僕は非常階段を上がると購買に向かった。ペットボトルを二本買って戻る。

 右手を制服のポケットに突っこんで、左手に二本ともペットボトルを提げる。

 もともとは右利きなんだけど、こうやって左手でなんでもやる癖がついてるせいか、最近は自分が左利きなんじゃないかって思うこともある。

 そのままぶらぶらと非常階段に戻りかけた僕は、廊下の先に見覚えのある女子を見つけて、反射的に足を止めてしまった。

 束ねていない長い髪。

 校舎内に浮き立つワンピース型の制服。遠いどこかの高校から切り取ってきたままの彼女は、校舎内の階段を前にぼんやりと窓の外を眺めていた。

 その手には、分厚いプリントの束がある。

 綺麗な白い横顔は、まるで漂白されてしまったかのようだ。そこには何も乗っていない。思えば彼女は転校してきた日からずっとそうだった。社交辞令で微笑むことはあっても、そこに感情が加わることはない。美しく描かれた絵画と同じだ。

 ──激情に壊れそうだったあの日とは、まるで違う。

 僕は、そんなことを思いながら……彼女のまなしに見入った。無意識のうちにポケットの中の右手を握る。

 静葉さんは、ふっと視線を外すと手元のプリントを読み始めた。

 そのまま一歩を踏み出し──不意に、がくん、と体勢を崩す。

 軽い体が階段の方へとよろめいた。


「っ……!」


 何を思う間もなく僕は駆けだす。

 ペットボトルが床に落ちて跳ねる。

 それでもきっと、左手は届かない。


「静葉!」


 僕は、とつに右手を伸ばした。落ちかける彼女の手をつかむ。

 落下を留める衝撃が、手すりを摑んだ僕の左手にまで伝わった。力を入れた両足と伸び切った両腕に痛みが走る。

 けど、それを耐えきった後に残ったものはあんだけだ。僕は肩で息をつく。


「あ、危なかった……」

「──ありがとう、ございます」


 微かに震える声。

 その声のかぼそさに、僕はぎょっとして手を離しそうになった。

 けど、それをしちゃ意味がない。僕は内心の焦りを隠して、静葉さんの体を上階に引き戻す。視線を床に逸らしながら言った。


「ここの階段、後から設置されたものなんだ。だから連結部分に段差がある」


 うちの生徒ならみんな知ってることだけど、静葉さんは転校生だからな。

 彼女を見ないようにして説明する僕は、突き刺さる視線を感じて逃げ出したくなった。というか説明なんかしてないで逃げればよかった。

 僕は摑んだままだった右手を離す。


「じゃ、次は気をつけて」

「待って」


 言うなり静葉さんは、ポケットにしまおうとしていた僕の右手を摑んだ。

 振り払おうとしたけど遅い。彼女は僕の右掌をまじまじと見つめている。



 そこにあるものは──コインを押しつけたみたいな、火傷の痕だ。



 僕はその意味を理解して絶句する。

 静葉さんはゆっくりと僕の顔を見上げる。

 人形みたいなかおに、驚きの感情が生まれた。

 彼女は、まるで初めて出会う人間のように……尋ねる。



「あなた、もしかして、あの時の子……?」



 十年前から追いかけてきた問い。

 それはまるで、僕への有罪判決のようだった。


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