1ー2

             ※


 みんな、頼むから幸せであってくれ。

 何に憂えることもなく、何に傷つけられることもなく。

 僕が普通に生きるために、僕のために心安らかでいてくれ。





 昇りかけた太陽が顔を照らしてくる冬の日。

 僕は日光を避けてうつむきながら、高校の門をくぐった。遅刻寸前の時間とあって他の生徒たちはみんな足早だ。余計なことを話す人間もいないし、ただ流れていくだけ。気楽な空気で実に助かる。

 僕もその流れに乗って昇降口に向かうと靴を履き替えた。ばこを閉めたところで知らない女子の声が聞こえてくる。


「別に、なるのこと無視したわけじゃなくて……気づかなくて……」


 ──しまった、まずいところに出くわした。


 これが通学路だったらイヤホンをめてはんにやしんぎようを聞きだすところだけど、校内だとそれも無理だ。できればさっさと通り過ぎたい。

 彼女たちは皆が通る階段脇で、惜しげもなく自分たちの感情を振りまいている。


「別にいいよ。言い訳とか聞きたくないし」


 そう言い捨てて一人が立ち去ると、残された女子は途方に暮れた顔になった。彼女の横顔をつい見てしまった僕は、ポケットの中で右手を握る。

 どうしてみんな、幸せでいてくれないんだ。

 胃がきりきりと痛くなる。僕の意思に反して体が反応するのはいつものことだ。僕は、取り残された女子よりよっぽど青い顔で教室に向かう。本音を言うと早退したいけど、本音通りに生きているとあっという間に留年する。

 そんな風に僕が胃を痛めているのは、自分のおかしな性質のせいだ。


『他人のマイナス感情に同期してしまう』


 多分これ自体は、ほとんどの人間が多かれ少なかれ持っている性質だろう。

 同期を共感って言い換えてもいいかもしれない。大抵の人は誰かが怒られているのを見れば憂鬱になるし、嘆き悲しんでいれば同情する。恥ずかしい目にあってれば羞恥でいたたまれなくなるだろうし、それを共感性羞恥とも言うらしい。

 で、僕はそれが……人よりもずっと強烈だ。

 家族や親しい人間はもちろん、通りすがりの見知らぬ人間であっても、誰かが悲しんでたり悩んでたりするのを見るとたちまち憂鬱になる。その人の感情を勝手に想像して、自分の中で増幅させてしまうんだ。おかげでその度に胃が痛くなったり気分が悪くなったりで、中学時代のあだ名は「早退のデパート」だった。

 そんな体質を、体を鍛えて克服できないかと試してみたけど、残念ながら変化はなかった。おかげで胃薬は手放せない。

 ああ、今すぐさっきの女の子がダッシュで戻ってきて「やっぱり仲直りしよ!」って言ってくれないだろうか……。僕が胃を押さえたまま二年四組の教室に入ると、近くにいた男子が手を上げて挨拶してくる。


「おはよう、にいづか。今日も顔色悪いな」

「おかげさまでね……」


 中学の時から同じ学校の人間は、これが僕の平常運転だって知ってる。特に気遣いもされないけど心配されないのは気楽だ。その分、校内には僕に関する色んなうわさが流れたりもしたんだけど。無茶やって大で入院したとか、胃潰瘍の吐血でトイレを血の海にしたことがあるとか。血の海ってなんだ。さすがにこわい。

 僕は窓際にある自分の席に座る。机の上に突っ伏していると、クラスメートの女子たちの笑い声が聞こえてきた。明るい声に胃痛がいや増す。


「本当、なんで共学になったんだ……」


 正直、僕は同世代の女子が苦手だ。彼女たちは機嫌が変わりやすくて、怒りやすくて、傷つきやすい。僕がこの高校を選んだのも、そういう彼女たちの傷心から距離を取れるように、男子部と女子部が分かれてる学校を探したからだ。

 けどそんなちっぽけな防衛本能もむなしく、あろうことか去年から完全共学になってしまった。理由は「長年にわたる生徒たちからの希望」らしいけど、僕はまったくじんも希望した記憶がない。おかげでクラスの半数は女子だし、人間関係が複雑になったせいか違うのか、さっきみたいな場面にちょくちょく遭遇している。策士策に溺れるってこういうことを言うんだろうか。いや、言わないな。誰が策士だ。

 机に突っ伏して胃痛と戦っているうちに、朝の乾いたチャイムが鳴る。それに呼ばれるように生徒たちが席につくと、ホームルームが始まった。

 教壇に立つ若い女性の担任が口を開く。


「急な話ですが、本日から転校生が来ます。みなさん仲良くするように」

「え、先生それ本当?」

「転校生とか久しぶりー」


 口々に騒ぎ立てるクラスメート以上に僕は驚いた。今は十一月、学期はじめでもないし、正直言って季節外れの転校生だ。

 今のクラスは、幸い大した問題もなく感情面で安定している。仲のいグループはあるし、付き合いの乏しい間柄や苦手な人間同士もいるけど、イジメもなければ強い衝突が起こるわけでもない。影薄く生きていくのに絶好の場だ。

 もちろん最初からこうだったわけじゃなくて、四月から多少の波風を経て今の形に落ち着いたんだけど、そこに今更、転校生っていう石を投じられても困る。

 だからできれば、転校生には無害で地味な、僕みたいな人間であって欲しい。人目につくような問題児はごめんだ。誰かの感情を強く動かすような人間も。

 そんなことを願う僕をよそに、担任は廊下に向かって声をかけた。


「じゃあ、入ってきて」

「はい」


 その声は、水晶に跳ね返る鐘の音のようだ。

 僕は息をのむ。

 違う色の制服を着た女子が一人、教室に入ってくる。





 彼女は──たとえるならば、硝子ガラスの花弁を持つ大輪の花だ。

 長い黒髪。姿勢のよい立ち姿。

 白い肌は、生まれてから一度も日に焼けたことがないのかもしれない。

 整った顔立ちは精巧な陶器人形みたいで、まるで現実味がなかった。高いりようの下、小さな唇の赤さだけが、彼女を生きた人間だと示している。

 そのたたずまいの持つせいひつな空気に、クラス中がしん、と静かになった。



「……静葉」



 僕は、その名を呼ぶ。

 どこにいても人目を引く姿は、別世界の存在のようだ。平穏に生きていたなら、一生縁がないだろう、「違う」存在。

 でも僕は……彼女のことを知っている。

 よく、知っているんだ。この十年間、一日たりとも忘れたことはない。

 僕は魅入られたように彼女を見つめる。

 季節外れの転校生に加えてれんなその美貌に、教室内は間を置いてざわめいた。彼女はクラス中の視線を浴びながら、綺麗な字で黒板に自分の名を書く。

 そして、言った。


「はじめまして、葛城静葉です」


 彼女の視線は、僕には向いていない。

 あの燃え盛る夜と同じく、何もない宙をぼうようと見ている。

 ただ一つ、あの時と違うのは、美しい顔に何の嘆きも見えないことだけだ。

 彼女の目に、あの炎は映っていない。

 何も叫んでいない。ただそれだけ。

 葛城静葉は、そうして誰にともなく深々と頭を下げた。


「人付き合いは苦手ですが、直す気はありません。よろしくお願いします」


 それは十年ぶりに聞く、彼女の自己紹介だった。





 ──美人だけど変な子が転校してきてしまった。

 クラスのみんながそう思ったのは無理もないし、僕に至っては完全に青ざめた。

 とんでもない挨拶を言い放った静葉は、誰に言われるまでもなく、自ら黒板に書いた名前を消している。集中するぜんとした視線を無視できるのは、なかなかの神経だ。昔はもうちょっとはかなげなイメージだったんだけど。

 けど、成長した静葉の神経に感心してる場合じゃない。

 なんで今更、彼女がこの街に帰ってきたのか。十年前のあの火事で家族を失った彼女は、遠い県へ引っ越したはずだ。少なくとも僕はそう聞いてる。だから、安心しきっていたんだ。「新塚りようは、葛城静葉にだけは再会することはない」と。

 右てのひらがじくりと痛む。喉が渇いて、全身がるみたいだ。

 混乱する僕に、無慈悲な担任の声が聞こえた。


「じゃあ葛城さん、窓際の後ろの空いてる席でお願い」


 しかもよりによって後ろの席か……。確かに朝来たら席が一つ増えてて怪奇現象かと思ったけど、これは完全に予想外だ。近づいてくる彼女を見て、僕はあわてて机の上に顔を突っ伏した。心の中で気づかれないようにと念じる。

 その時、担任が更に追撃をかけてきた。


「新塚君、教室で寝坊はやめなさい」

「ぐ……」


 頼むから僕の名前を呼ばないでくれ。彼女には、葛城静葉だけには僕のことを認識して欲しくない。顔も名前も触れないで欲しい。

 古傷をえぐられるのはつらい、っていうけど、加害した側もそれは同じなのかもしれない。彼女自身は僕の存在なんて認識してないかもしれないけど……僕にとっては十年った今も、塞がりきらない記憶だ。

 けど、悪あがきをして顔を上げない僕に担任はますます声を大きくした。


「新塚良くん。聞こえてますか?」

「……はい」


 最悪だ。何もかも台無しだ。

 僕はのろのろと顔を上げる。そのままさりげなく窓の方に顔を背けて……ちょうど横を通り過ぎようとしていた彼女と、窓ガラス越しに目が合った。



 大きな瞳。あの日と同じ、変わらない面差し。

 時が止まる。

 何かを言わなければ、と思う。でも言葉が出てこない。

 彼女は、感情のない顔で僕をいちべつした。



「あ……」


 言葉にならない声が、僕の喉元に押し寄せる。

 そして静葉は……視線をらすと後ろの席についた。

 椅子を引く固い音が聞こえてくる。僕は吐き気も忘れて石のように固まった。


 ──気づかれなかった、のか?


 ガラス越しだからよく見えなかっただけかもしれない。

 それでも拍子抜けしたのは事実だ。僕はゆっくりと肺の中の息を吐き出す。

 でも、これで切り抜けたはずがない。なんといっても同じクラスで、前後の席だ。

 頭を抱えたい気分で……けど僕は、怪しまれないように姿勢を固定する。

 最悪、隙を見て早退するしかないか。いや、早退するにしても毎日は無理だ。行き過ぎれば十年前と同じ不登校児に逆戻りだ。

 僕は目立たないよう、ひたすら気配を殺して空気に同化する。

 静葉は何も言わない。ただページをめくる音だけが時折聞こえてくる。

 そしてそのまま……何も起きないまま、一日が過ぎた。





 葛城静葉は、その日一日を、誰にも話しかけずに終えた。

 次の日も更にその次も、彼女は、僕に気づかず……思い出しもしなかった。

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