2ー2
どうしてそう思ったのか、と言えば単純な話だ。
静葉は今まで、何度か僕の顔を見ても何の反応も見せなかった。それだけならまだしも、昼休みに階段で出くわした僕が誰か、あれだけ間近で顔を見たのにわからなかった。だから彼女は全校生徒にあたったんだ。
これはおそらく、どこかで認知の
そう思っての問いかけに、静葉は軽く息を止めたように見えた。
けどすぐに、表情を崩して笑う。
「やっぱり……わかってしまいますか?」
その答えに全身の力が抜けそうになる。僕は新たな罪悪感を隠して返した。
「ごめん、半分はあてずっぽなんだ。あのキャンプにいた子供って、みんな何かしらあっただろ」
「ああ、そっか……そうですよね」
静葉は言われて、寂しそうに微笑する。
人に聞いた話だけど……十年前の彼女は、可憐で、誰にでも優しく、頭がよくて気の利く、非の打ちどころのない少女だった。もちろん、多少のひいき目があるかもしれないけど、大体において静葉は、一分の曇りもない子供だった。
だからみんなは、静葉は兄のために付き合いで来ていると思っていて……でも本当はそれだけではなかったのかもしれない。静葉の兄の葛城
もし、火事が起きなかったなら、彼女と僕は、今頃どうだったんだろう。
一度も顔をあわせぬまま、言葉をかわさぬまま別れていったか。
それとも少し不器用に、それでも曇りなく、向き合うことがあったんだろうか。
静葉は、今までずっと背負っていた重荷を下ろしたように息をつく。
「こういうの、相貌失認って言うらしいですね。私は失貌症って言ってます。視力に問題があるわけじゃないんですけど……人の顔がうまく認識できない。だから、人の区別がつかない」
静葉は廊下に並んだロッカーを見る。その全てには、バッグと同様、生徒の名前が入っている。彼女にとっては、教室内にいる生徒たちよりよほど、このロッカーの方が判別がしやすいんだろう。
そんな彼女が、いきなり遠い場所で一人再出発をはからなければならなくなって、今までどれほどの苦労をしたのか。
あの火事の後の彼女のことをわかってるつもりで、今まで全然わかっていなかった。思わず口元を押さえてうつむいた僕に、静葉が首を傾げる。
「良くん?」
「いや、顔が
人の顔が認識できないってことは、多分表情も判別できないんだろう。それはお互いにとって幸いなことだ。僕はこみあげてきそうな胃液を飲みこむ。笑顔を作る必要はないかもしれないけど、ぎこちなく口の両端を上げた。
「人付き合いが苦手って言ってたの、その予防線か」
「はい。子供の頃はここまでひどくなかった気がしますし、正直なところ、これが当たり前だと思ってたんです。だからなんとなくごまかしてやってたんですけど……やっぱり限界があって。特に、あの火事の後からは」
「仕方がないよ」
なんて言葉をかければいいのかわからないけど、そうとしか言いようがない。
全ては彼女にはどうすることもできなかったことだ。僕は火傷の残る右手を握りしめる。あの時は、僕も彼女のペンダントを拾うくらいしかできなかった。僕たちはほんの子供で、ただ
それでも今に至るまで、静葉も、奈々も、そして僕も、きっとそんな自分をなんとかしようとしてきた。だからこうして、高校で再会できたんだろう。
静葉は、窓越しに外のグラウンドを眺める。
「でもこの学校、男女別学って聞いてたけど、違ったんですね」
「それ僕もやった。完全にリサーチ不足だった」
「女子高の方が、髪型とか持ち物とかで区別がつけやすいかと思ったんですけど」
「わからなくも……ないけど……ごめん、わからない」
むしろ僕からすると、女子の半数はしょっちゅう髪型とか持ち物を変えててよくわからない。ただ確かに、男子に比べると顔以外の外見に差異が多いから、そういうところで判別しようってことなんだろうか。
きっとこの十年間で、静葉は社会でなんとかやっていくための試行錯誤を重ねてきたんだろう。僕が、毎日早退しなくて済むよう自分用のマインドセットを身につけたように。
でも、それでも自分じゃどうにもならないことはある。
「人の区別については、よかったら僕がアシストするよ。必要なら、だけど」
「え、いいんですか?」
「もちろん。ただ僕も人付き合い悪い方だから、そんなに役に立たないかもしれないけどね」
「良くんって、やっぱり同じクラスなんです?」
「前の席の新塚です。よろしく」
僕たちの会話は、緩やかな坂を転がるビー玉のようだ。意図しないまま跳ねていって、どこに行きつくか少しもわからない。ただ表面だけを取り繕っている。十年ぶりの会話に
廊下に差しこむ光が、徐々に赤味を帯びていく。僕たちは長い廊下を歩き出した。どこかから部活の掛け声が聞こえてくる。
「良くんは、今は親戚の家で暮らしてるんですか?」
「一人暮らし。その方が気楽だし」
「あ、じゃあ私と同じです。本当はお兄ちゃんのところに行こうかと思ったんですけど、ここからじゃ結構遠いし、迷惑かと思って」
「相談してみればよかったのに。陽さんは元気?」
「お兄ちゃんのこと知ってるんですか?」
「キャンプの時、一緒にゲームしてたから」
みんなが外でゲームをやっている間、コテージに引きこもっていた僕は、彼女のお兄さんと遊んでいた。陽さんは僕より三歳年上で、無口でほとんど笑わなかったけど、それでも同じゲーム機を見て期待した僕を誘ってくれるくらいには優しかった。日頃の静葉のことを聞いたのも彼の口からだ。
彼女は初めて知ったそんな
「元気です。来年から留学するんだそうです」
「そうなんだ」
「元々、お兄ちゃんはこっちの親戚に引き取られていったから、ほとんど会ったりできなかったんですけど……それでもやっぱり少し寂しいですね」
私的な話は、あったはずの距離をみるみる縮めていってしまう気がする。静葉としては、他に誰にもこんな話をできなかったからかもしれない。放っておくとあっという間に唯一の友人と認定されそうで、僕は
会話が途切れる。
僕たちは多分、普通の友人らしい会話に不慣れなんだろう。
けどその分、沈黙が苦痛じゃなかった。窓から差しこむ光が階段を二色に塗り分ける。その上を僕たちは黙ったまま降り始めた。
昇降口まではあと少しだ。僕は最後の段を降りると振り返った。
なぜか数段上で足を止めてしまった静葉を見上げる。
彼女の顔は逆光でよく見えない。きっと彼女から見た僕もそうなんだろう。
そうであることに安心して、僕は尋ねた。
「静葉は、どうして今、帰ってきたんだ?」
この街に、いい思い出なんてないはずだ。
僕は、彼女に関して都合のいい夢を見ない。期待する資格もない。
だから僕は、彼女から落胆させられるような言葉が返るのを待った。
何も特別な理由は必要ない。劇的な転換も不要だ。
これ以上僕たちに、そんなものを積み重ねないで欲しい。
脳裏をよぎる炎から意識をそらそうとする僕に、静葉は言う。
「良くん、私を助けてくれるっていうなら、もう一つお願いしていいですか」
「何を?」
聞かない方がいい、と予感が
でも、彼女の力になりたいのは事実だ。僕は、自身の愚かさを償わなければならない。忠実な従僕のように彼女の力になる。それは自分で決めていることだ。そうして、彼女からは何も返して欲しくはない。ただ一方的に、余計な感情を挟まず、彼女を助けたいだけだ。
いくつかの「お願い」を僕は想像する。
けど、彼女が口にしたことはそのどれでもなかった。
「良くん、私はあの火事の犯人を知りたいんです」
積み重なり風化していく過去へ、差し入れられようとしている手。
静葉の決然とした声が、僕を打った。
「だからお願いです。──私を手伝ってください」
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