第2話
ある日、フォルフィッタがぼくの家のそばに急降下してくるのが窓から見えた。普段と様子が違っていた。
慌てて外に出ると、フォルフィッタに乗っているはずのイェスタフさんの姿がなかった。フォルフィッタは赤い目でぼくのことをじっと見つめてきた。ぼくはフォルフィッタの目を見つめ返した。フォルフィッタは何かを伝えたいようだった。
ぼくはピンときた。イェスタフさんに何かが起きたんだ。
慌てて家に戻って、お母さんにイェスタフさんが大変かもしれないと伝えた。お母さんは「あらあら」と言いながら家を飛び出て、家のそばで悲しげな目をしたフォルフィッタを見てびっくりしていた。
「お母さんは郵便局に行ってくるから、家で待っているのよ」
あと翼竜にはさわっちゃダメよ、とつけたしてお母さんは走っていった。
ぼくは家の中に戻らず、フォルフィッタのそばに座り込んだ。本当ならイェスタフさんが握ってるはずの手綱は誰にも握られていなかった。
きゅい、と小さな音がした。あたりを見回してもぼくとフォルフィッタ以外には何もいなかった。
何だったんだろう、とフォルフィッタを見ると、また「きゅい」という音が聞こえた。
それでやっとわかった。フォルフィッタが鳴いている声だったんだ。翼竜はほとんど鳴かないらしいのに、フォルフィッタは鳴いている。それも、小さく、悲しげに。
突然、フォルフィッタは手綱をくわえ、ぼくの方に向けてきた。どうしたの、と聞くと更に手綱をぼくの方へ差し出してきた。
もしかして、フォルフィッタはぼくに乗ってイェスタフさんを助けに行ってほしいんじゃないだろうか。ぼくはそんなことを考えた。
もしそうだったとしても、ぼくは翼竜に乗ったことがないし、何よりまだ子供だ。上手く乗れるとは思えなかった。それに翼竜にさわっちゃいけないってみんなも言っていたし。
またフォルフィッタが手綱を差し出してきた。そしてのどの奥で「きゅい」と鳴いた。
「ぼくが乗ってもいいの、フォルフィッタ?」
「きゅい」
「ぼくがさわっても大丈夫、フォルフィッタ?」
「きゅい」
「君のことを信じてもいい、フォルフィッタ?」
「きゅい」
フォルフィッタは背中を低くして、ぼくでも乗れる高さになってくれた。
ぼくはフォルフィッタから手綱を受け取り、フォルフィッタの背中に乗った。初めてふれたフォルフィッタは熱くも冷たくもなかった。「竜は環境に合わせて体温が変わる生きもの」と本で読んだけど、本当だったんだなと思った。
今までに読んだ翼竜の乗り方やイェスタフさんの姿を思い出しながら、フォルフィッタに乗る場所を決める。でも小さいぼくには遠すぎて手綱が上手く握れないし、またがったときのバランスも悪かった。仕方がないので、翼の邪魔にならないように首元の方へ近づけるだけ近づいた。これなら多分、どうにかなる。
「空を飛んでくれる、フォルフィッタ?」
「きゅい」
「行き先は、もちろんイェスタフさんのところだよ、フォルフィッタ」
「きゅい」
フォルフィッタは翼を羽ばたかせ、空へ向かっていく。体が宙に浮いていく不思議な感覚がする。小さい頃にお父さんに持ち上げられた感覚に近い気がしたけど、あの時と違って地面はどんどん離れていくのに怖さを感じた。これからしばらく足をつける場所はない。ぼくはフォルフィッタの体を太ももで強くはさんだ。
下を見ていると鳥肌が立ってきたので、前だけを見ることにした。翼竜の操り方は分からないけど、きっとぼくが指示しなくてもイェスタフさんのところへはフォルフィッタが連れて行ってくれるはずだ。
目の前にはフォルフィッタ越しに広い世界と空が広がっていた。
今、ぼくは空を飛んでいる。念願の空だ。配達人と翼竜しか知らない世界。何だか大人になった気持ちになって、今すぐに誰かに伝えたくなってきた。
真っ青な空は雲もほとんどなくて絵の具を塗ったようにきれいだった。そこを突っ切るように飛ぶぼくらはどんな風に見えてるだろう。
しかし冷たく激しい風に吹かれると、そんなことを考える余裕もなくなった。風はぼくの体から熱を奪っていく。
そういえば、配達人はどの季節でもコートを着ていたけどこういう理由があったんだなと気がついた。手袋もしていなかったから、だんだん手がブルブルと震えだす。でも、ここで手綱から手が離れるとぼくは――。
ぼくは歯を食いしばり、手綱を強く握りしめ直した。
しばらく飛んでいると、他の配達人とすれ違った。赤い体の翼竜に乗っていた。「よう、フォルにイェスタフ」と挨拶をしてきたが、ぼくの姿を見ると慌てて旋回してぼくの横に翼竜を誘導した。
「ボウズ、何でイェスタフのフォル……翼竜に乗ってんだ」
「色々あって……とにかくイェスタフさんが大変なんです!」
配達人はぼくのことを見たあと、フォルフィッタの方を見た。フォルフィッタは「きゅい」とぼくに同意してくれるように鳴いた。
それを聞いて配達人は目をまんまるくしていた。そして「本部へ伝えてくる」と言い、また翼竜を旋回させて遠くへ向かっていった。
しばらくフォルフィッタに乗って飛んでいると、だんだん視界が見えにくくなって、体から力も抜けていくような気がしてきた。寒さが体から体力を奪っているようだった。
このままじゃ落ちてしまう。でも、体に力を入れようとしても、まるで人形になりはじめたかのように感覚は鈍くなっていった。
羽ばたきながらフォルフィッタが「きゅい」と鳴く。ぼくはかすれた声で「大丈夫」と返す。でも、限界だった。
ぼくは落ちた。
突然、今までの思い出が頭の中でぐるぐるしだした。
誕生日のお祝いのときのこと。友達とかけっこをしてたらこけて血がたくさん出たときのこと。難しい本が読めるようになったときのこと。お母さんが料理を作りすぎた日のこと。町のお祭りのときにみんなで歌ったこと。イタズラして怒られたときのこと。アメを舐めているときのこと。
フォルフィッタを初めて見た日のこと。
青い空を飛んでいく、緑色の翼竜。翼竜が空を飛んでいるのはよく見る風景だったけど、何故かその日のぼくはその姿から目を離せなかった。そして、その緑の翼竜はぼくの家のそばに静かに降り立った。
そんなことを思い出していると、体というか服の背中が何かにつままれるような感じがした。後ろを見ると、フォルフィッタがぼくの服をくわえてくれていた。だが、フォルフィッタがくわえるにはぼくは重すぎるようで、どんなに羽ばたいていてもどんどん高度は落ちていった。
このままではぼくどころかフォルフィッタも落ちてしまう。ぼくは薄れそうな意識の中、何かできないかと考えた。下を見るといつの間にか町からだいぶ離れていたのか、森の上にいた。
ぼくは「ここで落として、フォルフィッタ」と叫んだ。叫んだけど声は小さかった。フォルフィッタはぼくのことを信じてか、口を開きぼくを落とした。
ガサガサという音が鳴り、体に痛みが走る。だけど落下の衝撃はあまり感じなかった。
ぼくは木の上なら落ちても大丈夫だと思った。実際にそうだったけど、想像していたよりも痛くて体にはいくつもすり傷や切り傷ができていた。
少しするとフォルフィッタも木々の隙間からぼくの落下地点に降りてきてくれた。そして心配そうに鳴いた。ぼくは「平気だよ、フォルフィッタ」とフォルフィッタの背中をなでた。
突然、フォルフィッタは歩いて森の奥へと進み始めた。ぼくはそれに黙ってついて行った。
目的地にはイェスタフさんがいた。しかし、左脚が曲がらないはずの方へ曲がっていた。その痛みのせいかうめき声をあげ続けていた。服も血で染まっているところがあった。
ぼくが駆け寄ると、イェスタフさんはまず驚いた。そして呆れた声で「よくここまで来たな」と笑った。笑ったせいで痛みが走ったらしく、また痛そうなうめき声をあげた。フォルフィッタは辛そうに「きゅい」と鳴いた。
「よくやってくれたな、フォルフィッタ」
イェスタフさんはフォルフィッタに声をかけた。しかしフォルフィッタの目は悲しそうだった。
「大丈夫だって、フォルフィッタ」
そう言ってから、イェスタフさんはぼくに笛を取ってきてくれるかと頼んできた。緊急時に吹くための笛だ。翼竜だけに聞こえる音が鳴り、救助のときの助けになるものと本で読んだことがある。
本来なら首から下げていつでも使えるようにしてあるはずだけど、イェスタフさんによると落ちた時にひもが千切れて転がっていってしまったらしい。あたりを見回すと、すぐ取りに行けるところに笛はあった。
「ついでに吹いてくれるか?」
呼吸もつらくてね、とイェスタフさんは眉をしかめて言った。
ぼくは歩いて笛を取りに行こうとしたが、ふらついて倒れ込んでしまった。後ろからイェスタフさんの「ああ……」という声が聞こえた。
不意にまた背中が持ち上げられた。後ろを見なくてもわかる。フォルフィッタがくわえて持ってくれているんだ。フォルフィッタはゆっくりと笛の方へと歩いてくれた。そして笛の前で静かに降ろしてくれた。
ぼくは手を伸ばして笛を取り、めいいっぱい吹いた。人間に音は聞こえないので、ちゃんと吹けているかどうかは全然わからない。
ちらっとそばのフォルフィッタを見ると、まるで頷くかのように頭を上下した。ぼくは感じたままに受け取ることにした。
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