34話 呪縛


 翌日、類香は教室に入るなり鞄を机に置いた夏哉を見つけた。夏哉も類香に気がついたのか、顔を上げてこちらを見る。


「おはよう、瀬名」

「おはよう……夏哉」


 類香は、やはりいつもと様子の違う夏哉を見てその疑念を確信に変えた。そこそこ運動をしている体型なのに、なんだかいつもより線が細く見える。類香は彼に近づき顔をじっと見上げた。


「なんだよ?」

「…………ううん。別に」

「……ほんとに?」

「うん」


 類香の訝しげな視線に夏哉の顔が引きつった。


「今日さ……」

「ん?」

「お昼一緒に食べるんだからね」

「……あ、はい」


 類香の有無を言わさない圧に、夏哉は押されるがままに頷いた。

 和乃は今日休んでいる。少しだけ入院をしてから復帰をする予定だ。学校側には体調不良ということで伝えてあるらしい。類香は放課後に和乃に会いに行く予定だった。少しでも和乃の傍にいたかったのだ。

 授業中も類香は上の空だった。和乃のことだけではない。夏哉の様子も気になるのだ。友達と話している時は普通に見えるが、どこかふやけて見える。彼は一体、何を考えているのだろう。

 類香は前のめりになる気持ちを抑えながらも昼休みが待ち遠しかった。


「夏哉、外で食べようよ」

「いいけど……」


 昼休みになると、類香は夏哉を校舎の外まで連れだした。積極的な類香の様子に夏哉は眉をひそめていた。

 昼ご飯を食べ終えると、二人は校庭に下りるためにある石の階段に腰を掛ける。


「夏哉」


 類香は夏哉の顔をじっと見て神妙な面持ちをした。


「私ね、和乃に謝らないといけないの」

「……なんで?」


 夏哉は拍子抜けしたような顔で首を傾げる。


「私、和乃のこと宇宙人みたいって思ってた。何考えてるのか分からないし、その心が読めなくて」

「そんな時もあったなぁ」

「だけど、それは間違ってた。っていうか、全然、わかってなかった」


 夏哉は吹っ切れたような表情の類香を興味深そうに見やる。


「和乃の努力を、私は全然理解していなかったから」

「努力か……」

「うん。和乃だって色々考えていたのに。私は、一方的に敵意を出してた。最悪だよ。本当、笑える」


 類香は自分を嘲笑った。


「どんなに和乃が努力していたかも知らずにさ」


 夏哉は誰もいない校庭を目を向けた。


「それは間違いではないだろ?」

「……そうかな」

「努力は、見えないところでしてる人が多い。そういうところで積み重ねた結果が俺たちの目に見えているだけ。知らないのは、間違いじゃない」

「……夏哉は?」

「は?」


 類香は夏哉にずいっと顔を寄せる。


「夏哉も、努力家だよね。みんなのこと、助けてる」

「……俺は」


 夏哉は気まずそうに目を逸らした。やはり何かありそうだ。類香はぐっと地面を掴む。


「夏哉、今日、和乃に会いに行くんだ。夏哉も行かない? 和乃、きっと会いたがってるよ」

「…………それは」


 口ごもる夏哉に類香はまた迫った。


「ねぇ、強制なんてしたくないけど、私……夏哉のこと、心配なの」

「……瀬名?」


 夏哉は随分と距離の近い類香から少し体を反らすと小さく息を吐いて俯いた。


「言いたくなかったら、別にいいの。気持ちは分かるから……」


 類香が離れると、夏哉は類香に視線を移した。類香の姿はとても寂しそうに見える。いつもの姿勢の良さも丸めてしまっていた。


「……瀬名、俺さ」

「……うん?」


 口を開いた夏哉に、類香は穏やかな声を返した。


「怖いんだよ……」


 夏哉の表情はとても脆く見える。擦れた鉛筆みたいに弱弱しくて、今にも崩れそうだ。


「……和乃、が?」

「…………というより、なんだろな」


 夏哉は頭をくしゃくしゃとかいた。


「前に、津埜たちとカラオケ行ってただろ?俺はいかなかったけど」

「うん。用事があったんだよね」

「そう。あの日、俺はある人の墓参りに行ってた」

「……お墓参り?」


 予想外の言葉に類香はぽかんとした。


「命日だったんだよ。その日が」

「……誰なの?」


 類香は慎重に尋ねる。命日を覚えているなんて、よほど大切な人なのかもしれない。類香は聞くのが少し怖くなってきた。


「俺が助けられなかった人」

「……」


 類香はごくりと息を呑みこんだ。夏哉の深刻な表情が真に迫ってくる。


「中三の時、俺、学校から帰る途中で交通事故を目撃した。女の人がはねられて、倒れてた。大人たちが、引いた車を追いかけてくれてたんだけどさ、俺は、何ができるのか分からなくて、そのぐったりした女の人を抱きかかえたんだ。救急車を呼んで、どうにか救助しようとした」


 夏哉は当時を思い出したようだ。落ち込んだように俯いてしまった。


「血はそんなに流れてなかったけど、きっと内部はダメージを受けてた。息も苦しそうだった。絶対に命を救うんだって、俺は必死だった。だけど……」

「……夏哉」


 類香は浅い呼吸で動く彼の肩を撫でた。夏哉がとても辛そうだったからだ。


「その人は、俺を見てにっこり笑ったんだ。もう、苦しくてたまらないはずなのに。それで、ありがとうって……言ってくれたんだ。俺に向かって、笑いながら……」


 夏哉の声が震えてきた。類香はその声に胸が締め付けられそうだった。


「俺の手を撫でて、ありがとうって、何度もかすれた声で言うんだ。そのうち、その手は力を失って、垂れていった。俺の腕の中で、あの人は息絶えたんだ」

「…………」


 類香は何も言えなかった。言えるはずがない。そんな苦悩を抱えていたなんて、知るはずがなかった。その苦しみは、やはり類香には共有することができないのだ。


「俺は、自分の無力さを悔やんだ。俺は恵まれていたから、それまで身近な人が亡くなったこともなかった。だから、日比のいじめの話を聞いたときも、死ねって言う言葉の重さを知らなかったんだ。その言葉が、どれだけの意味を持つのか……」

「……夏哉」

「その日以来、俺はそのいじめの話から逃げるようになった。聞きたくなかった。イライラするだけだ。でも他校の奴だし、首を突っ込むこともできなかった。本当は、怖かっただけなんだけど。また、何かが失われてしまうかもって」

「夏哉は悪くないって、前も言った通りだよ……?」

「とにかく、俺は、あの人を救えなかったことがトラウマになった。無力な自分も嫌だった。俺は、出来る限りの力で、人の助けになるんだって、そうするようにしたんだ。日比のことからは目を逸らしたのにな。……それに、あの時の後悔は、いつまでたっても拭えてないけど」

「夏哉、そんなに、自分を責めないで……?」


 類香は肩を撫でていた手を止める。そして再び、ぐっと近寄った。


「夏哉は今も、きっとこれまでも、たくさんの人を助けてきたじゃない。それって、普通に出来ることじゃないよ? 人に優しくするのって、大変だもん……。私のことも、何度も助けてくれたよね?」

「瀬名……ありがとな」


 夏哉は類香の顔を見て微かに口角を緩める。


「でも俺が人を助けるのは自分のエゴみたいなものだ。それで自分に救いを求めてるんだから。前にお人好しって言ってくれたけど、結局は自分のことを助けてるようなものなんだ」

「それで、夏哉はこれまで救われたの?」

「……いいや」


 夏哉は遠くを見る。


「そんなエゴで救われるわけないって思い知らされた。だんだん人を助けるのが怖くなる一方だ。いつまでも俺は、自分に向き合えないって。人のためなのか、自分のためなのか、何のためなのかって、嫌になる」

「人を助けるのに理由なんて必要?」

「さぁな……。ただ、やっぱり俺はトラウマから逃れられてない。それだけは分かる。昨日、俺、日比が助からないんじゃないかって……瀬名が飛び込んだ時も……。やめてくれって思った。また助けられないかもって。とんでもないエゴだよな」

「……ごめんね。何も考えてなかった」

「謝るなよ。瀬名たちを責めたりしない。ただ俺が怖いだけなんだ。失うことが」

「……そうだね。ちょっと、分かる」


 類香は夏哉の見ている方向を向いた。空が抜けていて、とても高く見える。


「俺さ、瀬名たちに学校で出会えたことって奇跡だと思うんだよ」

「奇跡……? そんな大げさな」

「いや、大げさでもいいんだ。こんなにたくさん学校があって、生徒がいて、そんな中で同じ教室に詰め込まれてる。奇跡って言っても間違いじゃないだろ?」

「偶然ともいえるよ」

「ははっ、そうだな。だから俺、日比のことも瀬名のことも大事なんだよ」

「……夏哉、そんな、ほんと、正直なんだから」


 類香は耳を赤くした。どうしてそんなことを恥ずかしげもなく言えるのだろうか。その心意気だけは少しだけ羨ましかった。


「友達だって、みんなそうだ。大事な出会いだろ」

「……うん。今なら分かる気がする」

「今日、瀬名の顔を見た時、ほっとした」

「どうして……?」


 夏哉は照れたように笑った。それでも眉はきりっとしている。


「学校で毎日顔を合わせる。それって、限られた時間にしかできないことだろ? 当たり前に思えることも、当たり前じゃない。その相手だって、限られた中で出会える唯一の存在だ。そんな相手と、今日も会えたんだ。俺は、それが嬉しかった。また明日って別れた相手と、ちゃんと挨拶できたんだから」

「……ふふふ、そうだね」


 夏哉の穏やかな微笑みに類香はきゅっと心臓が跳ねるのが分かった。そういう顔はやはりずるい。


「俺は、それなのに、日比のことを知っていながら、助けられなかった。あの時、その悔しさは痛いほど分かっていたはずなのに。その傷に気づいてやれなかった……。大事なんだとか言っておきながらさ。……だから日比を見るのが怖いんだ。俺は、また、ただ自分のエゴのためだけに動いたのかもって……。日比のこと、本当に助けられたのかって……」


 夏哉はまた目を伏せる。


「ねぇ夏哉、和乃は生きているよ……?」

「……ああ」

「夏哉は、和乃をちゃんと助けられたよ。昔とは違う。塾で耳を塞いでいたころとは違う。夏哉は、和乃を助けたんだよ。……夏哉も、本当は会いたいんでしょ?」

「…………」

「夏哉、一緒に、会いに行こうよ」


 類香の言葉に、夏哉はまだ自信がなさそうな微かな声で頷いた。


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