35話 帰路


 病院の前に着くと、昨日とは違い人がたくさん出入りしていた。ロビーも真っ白に明るく迎えてくれた。フロアを歩けば様々な人の声が溢れて活気がある。類香は和乃の病室まで向かった。夏哉はその少し後ろを歩いている。

 病室を覗いてみると、和乃は留守にしているようだった。通りがかった看護士が類香と夏哉を見て声をかけてくれた。

 「日比さんなら、中庭を散歩してくるって言っていたから、多分そこにいるよ」と。

 類香は夏哉と顔を見合わせ、瞬きをした。夏哉の緊張していそうな表情が少し緩んだように見える。二人は看護士にお礼を言うと中庭へと向かった。


「和乃、最近休みがちになっちゃったから、ノートとか見せてあげないとだね……」

「そうだな」

「夏哉も協力してよ」

「瀬名の方がまとまってそうだけど……」

「他の人が見たら見にくいと思う」


 途中、二人は他愛もない会話をした。まだ怯えが見える夏哉の気を紛らわせようと類香は彼に話しかけ続けた。

 中庭は当然建物に囲まれてはいたが、想像していたよりも広々としている。入院中の患者やお見舞いに訪れた人、外来患者などがその陽だまりの中にたたずんでいた。


 類香は和乃を探した。きょろきょろと視線をあちこちに回しながら中庭を進んだ。しばらく探していると、不意にその姿が目に入る。類香は彼女の名前を呼んだ。

 まるで部屋着のようなラフな服装で、和乃は中庭の端の方にいた。近くに咲いていた小さな花を見ていたようで、類香の声を聞くと嬉しそうに立ち上がった。

 類香は和乃に近寄り微笑んだ。和乃の顔色は悪くはなさそうだ。和乃も笑顔を返してくれたが、すぐに後ろにいる夏哉に気がつくと、その表情は少し曇った。


「日向くん……」


 後悔に満ちた声が和乃から漏れる。気まずそうに夏哉を見るその目は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。和乃は両手を身体の前で結んだ。


「あの……昨日は、本当に……」


 昨日、類香が夏哉が二人を助けてくれたことを話すと和乃はクシャクシャな顔で謝っていた。本当は本人にも言いたいはずだ。類香は同時に彼に対する感謝の言葉も耳にしていた。


「……ご、ごめ―」


 意を決したように和乃がその言葉を言いかけると、夏哉が一直線に和乃に向かって歩いて行く。スタスタと迷いのない足取りで。

 和乃の前まで来ると夏哉はそっと右手を上げ、和乃の左頬に触れた。


「和乃だ……」

「日向くん……?」


 突然のことに、和乃の声が恥ずかしそうに裏返った。もともと体温の高そうだった頬がみるみるうちに赤く染まっていった。


「和乃だ……良かった……」


 夏哉はそんな和乃の戸惑いなど気がついてもいないようで、掠れた声でそう呟いた。目の前にいる和乃の存在を噛み締めるように、次第にその表情は綻んでいく。


「……うん……和乃だよ……日向くん、ありがとう……」


 和乃の頬に涙が伝った。嬉しそうに笑うその顔は夏哉にお礼を言えた喜びに溢れている。


「ああ……、良かった……ちゃんとここにいる」

「うん。そうだよ、二人のおかげだよ……」


 和乃は頬に添えられた夏哉の右手を両手で優しく包み込んだ。


「ありがとう……ここにいられて、良かった……」


 また大粒の涙を流している。和乃は真っ赤な頬を歪ませていた。それでも夏哉の温もりに触れて、また微笑んだ。夏哉はその表情に応えるようにゆっくりと頷く。瞬きをすると、一粒の涙がこぼれる。

 柔く握った彼の指先が和乃の手の甲に届くと、彼女はそれを握り返した。繋いだままの手を下ろし、和乃は勇気を出して顔を上げる。


「本当に、ごめんなさい」

「いいんだ。今、日比はここにいるだろ……? それだけで十分だ」

「……うん。ありがとう」


 顔を見合わせ嬉しそうに笑い合いながら泣いている二人を見て、類香は頬が緩んでいった。二人の緊張や戸惑いが解けていくのが目に見えて、類香はそれだけで笑みが零れてきたのだ。

 和乃に優しい言葉をかける夏哉は自分とは正反対だった。類香はまた少しだけ反省した。それでも後悔はしていなかった。表現なんて人それぞれなのだから。

 大事なのは、その気持ちがちゃんと伝えられているのかということだ。


「……まったく、もう」


 類香の口から声が漏れた。二人を見ているとどうも調子が狂う。しかしそれは心地の良いものだった。その感情を受容した類香は、ふと夏哉の言葉を思い出した。


(奇跡ねぇ……)


 つい、くすっと笑い声がこぼれる。


(確かに、間違いではないのかな……?)


 二人の姿を目に映しながら、類香はそこに偶然にまぎれた奇跡を見た気がした。




 和乃を病室まで見送ると、類香は夏哉と帰路についた。来た時と違って夏哉は晴れやかな表情をしている。類香はそれを少しだけからかった。


「まぁ、連れてきてくれてありがとな、瀬名」

「どういたしまして」


 類香はニヤリと笑い、夏哉の表情を窺った。


「もう怖くない……?」

「……ああ、多分」


 夏哉は鞄を持ち直して微かに笑った。


「少しだけ、自分を許せた気がする」

「……というと?」

「日比を見て、救われた気持ちだ。エゴでもいいから、俺は、自分の思うことをするだけだ」

「うん、いいと思うよ」


 類香は目を細めて微笑んだ。


「夏哉はそれでいいんだと思う。それでこそ、夏哉って感じ」

「褒めてるんだよな……?」

「当たり前でしょ!」


 くすくすと類香は楽しそうに笑った。


「俺は、ようやく人を助けられた気がした。こんな感情、初めてかもな」

「清々しいの?」

「さぁな」

「何それ、教えてよ」


 類香は文句を言いながらも軽やかな声色をしている。そして夏哉をじっと見上げた。


「夏哉って、鈍感だよね」

「は? 急に悪口?」


 真面目な顔をしている類香に、夏哉は悲しそうな顔をした。


「まぁ、教えてあげないけど!」

「なんだそれ。瀬名、それは卑怯だぞ」

「この前のお返しです」

「いつのだよ……」


 類香は夏哉よりも一歩前を歩いた。身体が軽くなった気がしたからか、類香は空を見上げる。


(とっくに私のことも、助けてくれていたのに)


 後ろを見ると夏哉が眉間にしわを寄せて考え事をしている。類香の言う“この前”を探しているようだ。そんな彼を見て類香はまた鈴のように笑った。



 和乃は病院に運ばれて三日目で退院をした。類香は退院のメッセージを受け取ると、心の靄が取れたような気がした。和乃とまた学校で会話ができる。それだけで心が弾むようだった。

 類香は自宅に送られてきた菓子折りを仏壇に供えた。和乃の両親からのものだ。夏哉にも送られたらしい。御礼とのことだったが、類香は受け取るのが申し訳なく感じた。もっと早く和乃の苦しみに気づいていればよかったことだ。そうすれば、ご両親を苦しめることもなかったのに。

 しかしもうそれは過去のことだ。

 和乃の命が救われたのは事実。そのことに感謝をして、共に歩んでいくだけだ。


「……お母さん、お父さん」


 類香は写真に語り掛ける。


「私、お友達を助けられたみたい。こんな、お菓子までもらっちゃって……」


 両親は類香を見たまま何も言わない。


「ねぇ、お母さん、お父さん……」


 類香は正座をして背筋を伸ばした。


「どうして二人は自殺をしたの……? 苦しかったよね……?」


 秒針が時を刻む音だけが響いている。


「私も、辛かったよ。二人に会えないし、悲しかった。どうして私を置いて行ったのって、恨んだよ? 追いかけちゃったかもしれないんだよ……。だって、会ってみたいなって思うのはおかしくないでしょう? ……でも、和乃がね、助けてくれたの。私のこと。すごく頼もしいの。和乃たちといると。ねぇ……出会えるかもしれなかったんだよ……?」


 類香は穏やかな声で話しかけ続けた。


「未来で、頼れる誰かに出会えるかもしれなかったのに」


 僅かに、ろうそくに火が揺れる。


「私ね、自分の心に従って生きる勇気を持てた。偽って、誰かを演じることはやめる。……私のこれまでの演技、二人に怒られちゃうかな? ……あのね」


 類香は二人の写真に顔を近づけた。自分の姿もガラスに反射して二人の前にぼんやりと映っている。


「……簡単なことだったんだね。どうして、気づけなかったんだろうね」


 自分を縛っていた鎖は、かつて自らが望んで纏っていたものだった。類香は無意識のうちにそっと微笑んだ。


「私、ここにいたのに……」


 この二人の写真に反射して映る自分こそが私だ。他の誰でもない。

 類香は、ふっと息を吐きろうそくの火を消した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る