33話 衝動


 病室から出ると、入ってきた時にはまだ明るかった廊下はもう暗くなっていた。今は常夜灯のみがついている。類香は静まり返った廊下を抜け、そのまま一階のロビーへ向かった。ロビーもとっくに受付時間を過ぎているためか暗くなっている。受付窓口の向こう側にぼうっとした丸い電球が見えた。


「夏哉」


 類香は硬いソファに座っている夏哉に声をかける。夏哉が顔を上げると、彼の疲れた表情が見えた。


「日比は?」

「大丈夫……ご家族も来たから……」

「そっか」


 夏哉は類香の真っ赤な目を見やる。類香は彼の視線に気づいて少し恥ずかしくなったが、特に気にするのはやめた。和乃の家族は、つい先ほど真っ青な顔をして病室に駆け込んできたところだ。和乃を見るなり涙を流して謝っていたのが印象に残っている。とても穏やかで優しそうな親御さんだった。類香にお礼を言いながらも和乃のことをとても心配していた。


「夏哉は? 会わないの……?」

「俺は……」


 夏哉は目を伏せるようにしておもむろに立ち上がった。


「帰るよ」

「……そう?」

「瀬名は、叔母さんが迎えに来るんだよな?」

「うん……」


 類香は彼の問いに頷きながらもどこか薄い表情をしている夏哉の様子を窺っていた。疲れているだけなのだろうか。


「気を付けて帰れよ」

「うん。夏哉だって……」

「ああ」

「夏哉、今日は本当にありがとう。夏哉が来てくれなかったら……」

「……いいって。連絡くれてありがとな」

「……うん」


 夏哉は微かに頬を緩め、そのまま正面入口へと向かって歩き出した。


「ねぇ……! 夏哉……!」


 類香がその後ろ姿に呼び掛けると、夏哉は上半身だけを類香の方に向ける。


「また、明日ね……?」


 類香の少し控えめな言葉に夏哉は手をあげて唇で弧を描いた。


「ああ。また明日」


 そのまま手を振って夏哉は夜の中へと消えていった。類香はその姿が見えなくなるまで見送った後でソファに腰をかけた。一気に身体が脱力していくのを感じる。

 類香が息を吐くと同時に外で車の止まる音がした。


「類香……!!」


 そしてすぐに楓花がロビーに駆け込んできた。とても焦燥しているように見える。類香は急いで立ち上がり、楓花の名前を呼んだ。


「ああ! 類香……!」


 類香を見つけた楓花は雪崩込むようにして類香に抱き着いた。


「ばか! 類香! 心配したんだから……!」


 息を切らしながら、楓花はほっとしたように類香をぎゅっと抱きしめる。その温かさに類香はまた涙腺が緩んできた。もう今日はダムが決壊してしまったようだ。


「ごめんなさい、楓花さん」

「もう、本当に……!」


 楓花は類香から離れると小さくため息を吐いた。類香はその自分を心配する表情を見て胸が痛んだ。


「迷惑かけて……本当に、ごめんなさい……。いつもいつも、楓花さんには心配ばかりさせて……」


 楓花に対して申し訳ない気持ちが溢れてくる。これまでも楓花にはたくさんの迷惑をかけてきた。それに、楓花にとって自分の存在はどれほど重荷だったことだろう。性格も歪んでしまって、面倒なやつだったはずだ。楓花の姉の娘だからといって、どんなに甘えてきたことだろうか。

 類香は肩をすくめて小さくなった。


「もう、本当に困っちゃうわね。類香は」

「……うん」


 楓花はふぅっと息を吐くと、腰に手を当ててくすっと笑った。


「類香、あなた、まさか自分のせいで私が大変な思いをしているって思っていない?」

「……はい」

「やっぱり!」


 素直な返事に楓花は声をあげて笑い出した。いつもの、豪快な笑い声だ。


「類香、あなた勘違いしてるわ」

「……え?」

「私が、類香と一緒にいることを望んだのよ」

「……楓花さん?」


 類香は顔を上げた。楓花は愛おしそうに類香の髪の毛を撫でる。


「あなたのことが、大切なの。涼佳の娘だからじゃない。類香のこと、本当に家族として大切なの。私の宝物だよ」

「…………楓花さん」

「類香は私のことを不幸になんてしてないよ。むしろ、あなたといることは私の幸せだって、胸を張って言えるわ」


 類香の頬にまた涙がこぼれ落ちる。楓花の微笑みがとても頼もしく見えた。


「だから、言わせてほしいんだけど……」


 楓花はコホンと咳払いをした。


「お友達を助けるのもとても立派で、素晴らしい! 誇らしいし、とても、とってもいいんだけど……あなた自身のことも、大切にしてね?」

「……うん」

「類香に何かあったらどうしようって、私、生きた心地がしなかった」

「……ごめんなさい」

「類香のこと、私は守っていきたいの。できる限りね。だから、まだ私に叱らせてくれる?」

「…………うん! もちろん……!」


 類香は楓花に思い切り抱きついた。大好きな家族だ。それから涙を流しながら微笑んだ。どうして気づけなかったのだろうか。いや、気づいていたけれど強がっていただけだ。類香も楓花と同じ気持ちなのに。こんな幸福な存在が、近すぎるからといって見えていなかったのだ。


 だが、そんな言い訳はもうするつもりもなかった。大切なものは自分で大事にしていかなければならない。そのことに胸を張っていこう。

 私の叔母さんはこんなにも素晴らしい人なのだと。

 類香と楓花はしばらく笑い合った。涙で腫れてしまった顔が恥ずかしくて照れてしまいそうだったけれど、真っ暗なロビーのおかげでその姿は誰にも見えていないだろう。

 二人の笑い声はとても軽やかに響いていく。




 帰り道。助手席に座った類香はふとスマートフォンを握りしめる。夏哉は無事に帰れただろうか。連絡するべきか悩んでしまった。ひどく疲れているはずだ。あまり心労をかけたくはない。


「じゃあ帰るよー!」


 楓花の明るい声が聞こえる。類香は嬉しそうに頷いた。しかしすぐに、はっと目を見開いた。


「……あ!」

「どうしたの?」

「カレー! 途中だった……!」


 作りかけていた夕飯のことを思い出したのだ。楓花は類香の焦った様子を見てくすくすと笑った。


「作っておいたよ、カレー」

「え?」

「疲れた身体に、スパイスは効くよー!」

「……ふふ、そうだね」


 類香は楓花の得意げな顔に思わず吹き出してしまった。


「楓花さんの作るカレーは絶品だもんね」


 そう、それは類香の大好物だ。

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