32話 慟哭
無機質な壁に囲まれた部屋。パステルカラーのカーテンが視界に入ると、僅かに心が和らぐような錯覚がある。
類香は目の前にあるベッドを見下ろした。和乃の呼吸が微かに聞こえる。息を吸い込むと、寝ている身体が少しだけ膨らみ、すぐに空気が抜けていく。
鼻には医療器具や薬剤の独特な匂いが届いてくる。それが余計に現実感を薄めていった。
和乃は病院に運ばれ、今は個室のベッドで寝ている状態だった。個室しかちょうど空きはなかったようだ。医者や看護師によると、命に別状はないとのこと。ただ、まだ意識を失ったまま目覚めてはいない。
和乃の家族にも既に連絡は入っている。夏哉が対応してくれたのだ。じきにこちらへ来るだろう。もうすぐこの部屋には家族がやってくる。だから、類香がここにいる必要はもうない。しかし類香はこの部屋を出る勇気がなかった。もし和乃が目覚めたとしたら、その時そこに誰もいないのは寂しいだろう。
類香はベッドの横の椅子に座り、和乃の寝顔をじっと見つめる。類香の髪と服はもう渇いた。温かいお茶も飲んで、身体もすっかり温まっている。
けれどどうしても和乃に言いたいことがある。類香の手は体温とは対照的に震えていた。
すると和乃の瞼がほんのわずかに動いたように見えた。類香は慌てて立ち上がる。
「和乃?」
小さな声で呼びかけてみた。類香は前のめりになってベッドに手をつく。その体重でマットが沈むと、和乃の指がそれに応えるようにぴくっと動いた。
「和乃、わかる……?」
おずおずと、類香は声をかけ続ける。
「……う……ん」
和乃の呻き声が聞こえる。類香は彼女の瞳が開かれていくのを瞬きもせずに見ていた。
「和乃……!」
「…………るいか、ちゃん……?」
和乃の首がこちらを向いた。類香は反射的に和乃の手を握った。
「目が覚めたんだね……! 和乃……!」
ほっとしたのか、類香の瞳が潤んでいった。和乃は、類香のことをそっと見上げている。まだ眩しそうに目を細めながら。
「……私……わ、たしは……」
何故自分がここにいるのかを思い出そうとしたのか、和乃はゆっくり身体を起こそうとした。類香はそれを支えるために手を伸ばす。和乃が上半身を起こすと、類香は和乃を再び見つめる。
和乃は自分がしたことを思い出したようだ。ただでさえ白くなっていた顔が、一層青くなった気がする。
「類香ちゃん……私……あの……」
和乃の瞳が揺れる。類香はその表情を見るなり抑えていた何かが爆発した。
「和乃のばか……!!!!」
自分でも驚くほどに大きな声が出た。同じくして類香の頬に涙が伝う。和乃は目を丸くして、少しおびえたような表情で類香を見る。申し訳なさでどうしたらよいのかわからなくなっているようだ。
「ばかばかばかばか! 本当に、ばかなんだから……!」
「ごめ、ごめんなさい……類香ちゃん……」
和乃の頬にも涙が伝った。そして類香の余裕のない切羽詰まった表情を見て、彼女の両親の姿がよぎったのだろう。和乃の涙は次から次へと溢れてきた。自分はなんてことをしたのだろう。声に出さずとも感情が表情に滲んでくる。顔をくしゃくしゃにした和乃は類香の瞳を見つめたまま、もう一度謝った。
「和乃は……! 天国へ行く人でしょう!?」
類香は和乃の肩を力強く掴んだ。まだ和乃はそこへ行くべき人ではない。まだその時には早い。だが、もし和乃が天寿を全うしたのであれば、彼女は天国へ行くべきなのだと類香は思っていた。
自分の両親たちとは違って和乃はそこへ行くのだと、類香は疑いようがなかった。
だから今回のことは本当に許せなかった。
「どうして……どうしてこんな……」
類香は泣き崩れる。ずっと怖かったのだ。もし和乃が目覚めなかったら。そんなこと考えたくもなかった。ベッドに顔を伏せ、力なく膝をついた。
「類香ちゃん……本当に……あの……」
和乃は泣き崩れる類香を見てその手が震えた。話さなければ。この人には本当の自分を伝えなければ。和乃は勇気を振り絞るようにぐっとシーツを握った。
この人はきっと大丈夫だから。きっと、受け入れてくれるから。
和乃は決意し、唇にきゅっと力を入れる。
「類香ちゃん、私、私ね……本当は、わのちゃんなんて、人間じゃないの」
類香は和乃の静かな声に顔を上げる。
「私、いじめられていたでしょう? だから、自分のこと、どうしても受け入れられなかったの。大嫌いだった。だけど、自分まで自分を嫌っちゃったら、可哀想でしょ? だから、頑張ってみようって思ったの……。高校に行ったら、違う自分になろうって……」
「だから、わのちゃん……?」
「うん……。自分からあだ名をつけるなんて、痛いよね。だけど、そうすることで、最強の防具を身につけられた気がした。自分を守る、わのちゃんって女の子……」
和乃は目を伏せる。
「わのちゃんは、明るくて、優しくて、穏やかで、みんなのことを考えているの。みんなのために、楽しませようって、そんな、ムードメーカーみたいな子なの。私とは大違い。……みんなに好かれて、友達もたくさんいるの。とっても楽しい毎日を過ごすんだよ」
「…………」
類香は黙って和乃の話を聞いていた。
「類香ちゃんに近づいたのはね、ほんのちょっとしたきっかけだった。わのちゃんで高校生活を過ごして、うまくいってた。だけど、夏休みに、あの人を見たの」
「……誰?」
「……中学校の時の、同級生。私のこといじめるのが、日課だった人」
和乃の目が曇る。類香はすかさず和乃の手を握った。
「それでね、私、怖くなったの。折角手に入れた日常が壊れちゃいそうで……。あの人たちは、今もどこかで楽しい高校生活を過ごしているの。過去の私のことも知ってる。その存在が消えることなんてないんだって、思い知らされた……。私の過去は絶対に消えない。そこに存在し続けるの。……だから、怖くて。それで、夏休みが明けた時、教室でふと類香ちゃんが目に入ったの」
「……うん」
「前から、類香ちゃんのことは気になってた。いつも一人でいるから、怖くないのかなって。すごく気になるようになっちゃった。それで、考えたの。いつも一人の類香ちゃんと一緒にいることで、自分を守ろうって」
「守る……?」
類香は興味深そうに繰り返した。
「うん……。類香ちゃんといることで、自己を保つの。私はわのちゃんだから、類香ちゃんをクラスに馴染ませるぞって、そんな言い訳をしてたの。使命を持つことで、わのちゃんでいられるの……」
「……そっか」
類香はくすっと笑った。和乃はそれが不思議だったようで小首を傾げている。
「……だけどね、類香ちゃんと一緒にいるうちに、私、普通に、類香ちゃんと友達になりたいって思ったの。類香ちゃんは本当に素敵な人だから、私には釣り合わないけど……一緒にいられたらなって思ったから……」
「それで、本当の友達になりたいってこと?」
類香は前に和乃が言っていた言葉を思い出した。和乃はこくりと頷く。
「類香ちゃんは本当に強い人だった。ご両親のこともどんどん克服していって、自分に打ち勝っていくの。本当の自分をさらけ出す、そんな素晴らしいことができる人になっていった……すごく、すごく眩しかった。類香ちゃんはすごいって、本当に、尊敬した。……だけど、同時に……」
「……和乃?」
「同時に……自分のことが、どんどん嫌になっていくの。何もできない自分が、本当に惨めに思えるの。どんなに取り繕ったって、どこまでも綻びが追いかけてくるの……!」
和乃の呼吸が荒くなってきた。
「後夜祭で、類香ちゃんはあんな酷いことされても、すごく冷静だった。それなのに私は怯えてばかり。クラスの皆にも、類香ちゃんはすごく馴染んでいった。嬉しかったけど、それは私の役目が終わる時でもあった。なら、類香ちゃんの苦しみを支えようって思ったけど、ご両親の映画を観た時、類香ちゃんはそれも乗り越えていった。……ああ、私に出来ることなんてなかったんだって……私のいる意味なんてないんだって、思い知らされた。私は、自分のために類香ちゃんといただけ。でももう、類香ちゃんに私は必要ない……。私の生きている意味なんてなくなったの……!」
和乃が握りしめたことでしわしわになったシーツに涙が落ちる。和乃はそのまま、息を乱して泣きじゃくった。もう類香のことは見えていないのかもしれない。類香はぐっとこぶしを握って立ち上がった。
「私を、悪役にしないでよ……!」
類香の言葉に和乃は顔を上げた。類香も泣いている。とても苦しそうな表情をしていたが、怒っているようにも見えた。まだ涙は止まらない。
「類香、ちゃん……」
和乃は類香の気迫に呆気にとられていた。
「みんな、みんな私のせいじゃないでしょ!? 私が、何をしたって言うの!?」
類香はそう言いながら、両親のことが頭をよぎった。そうだ。彼らだって、罪を擦り付けたようなものだ。どうして悪役を押し付けてしまうのか。人は、そんなにも誰かを責めたいものなのか。
「和乃……! 和乃が、教えてくれたんじゃない! 幸せを型にはめようとしないでって……!」
類香は和乃に迫った。
「生きる意味なんて求めないで……! 生きる意味なんていらないんだから……! 私はそのことを、ようやく知ったの!」
「……類香ちゃん」
「私は、和乃に救われたの……! 幸せについて教えてくれたのは、和乃なの……! 和乃のおかげで、私は自分に素直になれたの……! 自分……自分でいられるって、本当に素晴らしかった……!それに気づけたのは、和乃のおかげなの!」
類香は和乃の手をぎゅっと強く握りしめた。和乃は真っ赤な瞳のままきょとんとした顔で類香を見つめている。
「それに和乃は、……わのちゃんは、和乃だよ」
「……え?」
「優しくて、明るくて、笑顔がとても素敵なの。……だけど、すごくばか」
「……類香ちゃん?」
「自分の魅力に、なんも気づいてないんだもん……!」
類香は和乃の丸くなった瞳をじっと見る。その瞳は潤んでいて、油断すると吸い込まれてしまいそうだった。
「わのちゃんは偽りだとしても、その中に和乃はいるでしょう……? 皆のこと、好きなんでしょう?」
「…………うん」
和乃の唇は震えていた。自分が求めていたものは、川の向こう岸ではなかった。ようやく見えてきた自らの望みに、涙がぽろぽろとこぼれていく。
「ばか和乃……」
類香は和乃のことを優しく抱きしめた。思っていたよりも細くて、類香は少し驚いてしまった。こんなに脆くなるほどまでに和乃は苦しんでいたのだ。
「……うん……ごめん……ごめんね、類香ちゃん」
和乃は身体を震わせたまま類香の背中に手を回した。弱弱しく抱きしめられて類香は少し申し訳ない気持ちになる。
「謝ったって、このことは絶対に許さないんだから……」
「うん……うん……ごめんね」
どうして優しい言葉をかけられないのだろう。こんなに弱っている人間に、酷いことばかり言ってしまう。類香はそのことを反省した。
しかし、それほどまでに類香は必死だったのだ。
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