27話 右隣
この週の金曜日の放課後に類香と和乃は映画を見る約束をしている。類香は最後まで映画を見ることができるのか不安だった。しかし和乃がいてくれるなら、このまま踏み出していける気がした。
だが今の類香には別の不安があった。今週、和乃は学校を休みがちだ。風邪を引いたとのことだが、類香は心配だった。無理をしてはいないだろうか。
今日も空っぽの和乃の席を類香は寂しそうに見る。
「日比のこと?」
「……夏哉、急に現れないでよ」
「同じ教室にいるんだけどな」
夏哉はそう言うと類香の隣の席に座った。本来その席に座る生徒も今日は風邪で休んでいる。風邪が流行っているのだろうか。類香はふぅ、と細い息を吐く。
「今週、月曜日しか来てないから……」
今日は木曜日。明日は約束の金曜日になる。
「金曜日、約束があるんだけど、延期した方がいいよね……?」
「日比に連絡した?」
「うん。金曜日は行けるよって……」
類香は不安そうな表情をしたまま首を縦に振る。
「まだ体調悪いのに無理やり来ることないよね……? まさかとは思うけど」
「否定はできないな」
「……だよね」
類香はスマートフォンの画面に目を落とした。
「無理はしなくていいんだけど……急いでないし」
「もう一回そう送れば?」
「そうだね……。うん」
文字を打ち込み始めた類香をよそ目に、夏哉は頬杖をついて和乃の席を見た。何やら神妙な面持ちをしている。
「無理、しないでくれよ……?」
ぼそっと、夏哉は類香には聞こえない声で呟いた。
*
金曜日になると、和乃は休む前と変わらない様子で教室に姿を現した。類香は和乃の姿を確認するなり自然と頬が綻んでいった。和乃は類香を見てにっこりと笑う。
「類香ちゃん、ごめんね、心配かけちゃったかな?」
「そんなことない。心配っていうか……うん……心配だった……」
類香は和乃に気を遣わせないようにしたかったが、そう言葉が勝手に口から出て行った。
「えへへ。もう大丈夫だよ。熱ももうないから」
和乃がはにかむと、類香は釣られるようにして笑い返した。
「和乃に会えてほっとした」
そしてハッと口を抑える。自分が発した言葉に驚いた様子だ。
「あ! ごめん。なんか……鬱陶しいよね? 私が和乃に勝手にお願いしただけなのに……」
「ううん。私も一緒に映画観たいから」
和乃はそう言うと類香の手をそっと握った。
「類香ちゃんの力になれて、嬉しいよ」
その温かい手に、類香はぐっと唇を結んだ。和乃の優しさに甘えてしまう自分が情けなかった。しかしそれは同時に嬉しかった。この温もりに触れていていいのだと思うと、それだけで涙が出そうだった。これまで頑なに避けてきた感情は、どれほど望んでいたものだったのだろうか。
類香は彼女の優しさをぎゅっと握り返した。
「ありがとう、和乃」
前に進めるのは和乃が隣にいてくれてこそだった。類香はそのことをもう認めていた。しかし恥ずかしくて、なかなか本人に言えることではなかった。思うことと口にすることは、あまりにも違いすぎる。
「じゃあ、放課後にね」
和乃の熱っぽい手が離れる。熱は下がったと言っていたが、本当だろうか。
類香は少しだけ胸が痛んだ。
放課後、類香と和乃は視聴覚室を借りて映画を観ていた。類香は両親の共演した最期の作品であるこの映画を最初の三十分ほどしか見れたことがない。
希望に溢れた明るい作品なのに、物語が進むにつれて類香はその先の展開に耐えられなくなっていくのだ。映画の中では二人は次々に希望を見つけて楽しそうな日々を送る。本来ならばその姿が微笑ましくて、勇気を貰えるはずだ。
しかし現実には、この俳優二人は自殺してしまう。遺書もなく、原因も分からないまま。
原因が分かればまだ良かったのに。
類香は幾度となくそう思った。だが真相なんてわかるはずがないのだ。本人の考えていたことなんて、見えるはずがない。憶測は尽きないほどある。けれども、そこに真実などない。
真実は誰にも触れられることはなかった。二人がそれを望んだのかもしれない。もしかしたら、深い意味などなかったのかもしれない。二人が命を落としたのは。
ふとした時に、命を放り出してしまいたくなった。ただ、それだけなのかもしれない。
「類香ちゃん?」
和乃の声が聞こえる。類香は伏せていた目を上げた。
隣を見ると和乃の笑顔がある。類香は思わず傍に置いてあった和乃の手を握った。
「大丈夫……ありがとう」
類香の細い声がスクリーンの光に照らされる。和乃は穏やかに頷くと、再びスクリーンに目を向けた。好きな映画だと言っていただけあって、和乃の瞳がなんだか楽しそうに見える。
それを見た類香は不思議な気持ちになった。
両親はとっくの昔に亡くなっている。本来なら和乃が会えるはずはないのだ。しかし今、和乃の瞳には両親の姿が映っている。むしろ、類香と出会う前から和乃は両親のことを知っていたのだ。
なんとも奇妙な気持ちだ。
類香はスクリーンに目を向けた。両親が話しているシーン。とても陽気に話している。その表情は、やはりどこか楓花に似ている。これまで避け続けていて気づかなかったことだ。
父親に関しては謎がいまだに多かった。親族も疎遠だったようで、類香は会ったことがない。会いたいと言われたことすらないのだ。ただ、類香がここ最近で得た情報によると、芳樹は俳優仲間からの人望も厚く、多くの人に慕われていたとのことだ。
両親のことを知れば知るほど、類香は納得がいかなかった。
涼佳には素敵な家族もいて、親しい友人だっていた。芳樹も皆に愛されていた。それなのに、二人は誰にもその心に潜む不安を語ることはなかったのだ。心の吐露は強制されることではない。しかし類香は虚しかった。
苦しみは目に見えない。それは当然だ。そんなことを責めるつもりもない。
相談する相手がいなければ、心を開放する場所がなければ、誰にも止めることなどできなかった。何かを責めればいいというものでもない。だがもし、責めるのであれば、その矛先は本人に向けられるのであろう。酷に聞こえるだろうか。それでも遺された者にはそれしかできないのだ。
類香にとって、それは自分だった。自分のせいにすることで、自らの存在に意味を見出せた。類香はそれを支えにしていたのだ。でも、もしその支柱に疑問を抱けたとしたら、どんなに後ろ向きな思考になろうと、両親と同じ道を歩むことはしたくない。今ならそう言える。
しかし少し前なら言えなかっただろう。類香は楓花のために生きていたようなものだ。糸が切れた時、意味を見出せたつもりになって両親の背中を追いかけただろう。
何度も何度も自らで傷を求め続けたのだから。
類香はそっと指に伝わる温もりを抱きしめた。
もしかしたら、両親も出会えていたかもしれないのに。生きていれば、きっと。
「……和乃」
「なあに?」
「……なんでもないよ」
こうやって、かさぶたを包み込んでくれる存在に。
類香は和乃の明るい声にくすっと笑った。スクリーンの中で、両親は未来について語り合っている。もう、前を向くことは怖くはなかった。
映画のエンドロールを眺めながら、類香はどきどきと心臓が高鳴っていることに気づいた。
ついに全て見たのだ。二時間半にも及ぶこの映画を。
「やっぱりこの映画、私は好きだな」
和乃がワクワクとした様子でそう言った。
「それに、類香ちゃんのご両親、とっても素敵だね。今まではあんまり意識して見てなかったんだけど、類香ちゃんのご両親だって思うと、なんだか親近感が湧いちゃった!」
「……そっか。どう? 私の、両親」
「綺麗なのは勿論なんだけど、演技もとてもいいよね、魅入っちゃうもん! それに、類香ちゃんの面影も感じる」
「……そうかな?」
「うん! 類香ちゃんも素敵な人だもん!」
「……やめてよ」
類香は頬を赤くした。真正面からそんなことを言われると、どうしてもくすぐったくなる。和乃はそんなこと気にしていないようだが。
「この映画のこと、もっと好きになっちゃいそう」
「どうして?」
「だって類香ちゃんのご両親だよ? それは好きになっちゃうでしょう!」
「……和乃、もう、恥ずかしいから」
「ふふふ。ごめんね。でも嬉しくって」
「何が?」
「類香ちゃんが、どんどん自分のことを克服しているから」
和乃は溶けるような笑顔を見せる。
「すごく素敵だよ。今の類香ちゃん」
「……ありがとう」
類香は口をもごもごさせながらそう言った。和乃はおかまいなしに微笑んでいる。
「類香ちゃんと友達になれて、私はとっても誇らしいな」
その笑顔は、スクリーンの光に溶けてしまいそうに見えた。類香はその日見た和乃の表情を忘れることはなかった。
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