26話 勇気


 「わのちゃーん、遅れちゃうよー?」


 津埜が教室前方のドアから顔を出した。


「津埜ちゃん、ちょっと待ってー!」


 次は選択教科の時間だ。和乃は音楽の授業に出る。忘れ物をしたようで、一度教室に戻ってきていた。


「あった! 津埜ちゃんお待たせ」


 机からノートを取り出し、和乃は津埜に駆け寄った。途中、前にあった机に大きくぶつかった。


「いたた……」


 和乃が恥ずかしそうにしていると、近くにいたクラスメイトは、「大丈夫?」と優しく声をかける。

 和乃の噂は校内ですっかり下火になっていた。類香の信じた通り、クラスメイト達の和乃を見る目は変わらなかった。


「へへへ、恥ずかしいな……」

「わのちゃん気を付けてねー」


 皆、和乃のことを相変わらず可愛がっていた。類香は和乃の笑顔にほっと胸を撫で下ろす。

 類香は美術のクラスをとっている。教室を移動するため類香も席を立った。


「瀬名、ちょっと待った」

「何よもう……」


 その前に立ちはだかる夏哉に類香はため息を吐いた。


「大鳳も美術のクラスだよな? これ、渡してあげてくれない?」

「はぁ?」


 目の前に差し出されたのは次の授業で使う彫刻刀だった。


「なんで夏哉が持ってるの」

「後輩に貸してたんだってさ。さっき、急いで返しに来てて……」

「大鳳さんは?」

「先生の手伝いで早めに行った」

「……もう」


 類香は仕方なく彫刻刀を受け取った。


「皆、忘れ物しすぎ」

「頼んだぜ」

「はいはい。引き受けます」

「じゃ」


 そう言って夏哉は小走りで教室を後にした。夏哉は工学のクラスだ。教室が少し離れているところにある。類香は彫刻刀片手にその背中を見送った。

 HRが終わると、類香の席に和乃が来た。


「類香ちゃん」

「あ、和乃。ちょっと待ってね」


 類香は荷物を片付け急いで立ち上がった。


「ううん。急がなくても……」

「雨が降るかもしれないんだって、早めに帰ろう」


 類香はそう言って窓の外を見る。先ほど見た時より雲は分厚い。


「知らなかった。傘持ってないや……天気予報見れば良かった……」

「そうでしょう?」


 類香は得意げに言った。和乃が傘を持っていないのは知っていた。和乃は朝テレビも見ないらしい。スマートフォンをそこまで見るタイプでもないし、置き傘もしていない。


「だから早く帰ろう?」

「うん」


 類香はすっかり和乃に詳しくなっていた。それは不快なことではなく、むしろ和乃のことを知ることは楽しかった。類香は和乃が焦る様子を見て、ふふと笑った。


「今日は寄り道なしだよ?」

「わかった!」


 和乃はにっこりと笑う。その笑顔が好きなのだ。

 教室を出ようとしたとき、後ろから大きな声が聞こえてくる。


「瀬名さーん、わのちゃーん、ばいばーい」


 振り返ると、大鳳が二人に向かって元気よく手を振っている。その隣では津埜が笑いをこらえていた。大鳳はダンス部で、動きが機敏だ。確かに、キレが良すぎてコミカルな動きになっている。

 類香はそんな大鳳の突然の行動に驚いていた。彼女とは今日、彫刻刀を渡した時に初めて会話をしたようなものなのに。


「ばいばーい」


 和乃は元気よく答えた。流石に慣れている。


「ば……ばい、ばい」


 類香がぎこちなくそう言うと、和乃が類香を見て微笑んだ。


「また明日ね」


 津埜の言葉に、和乃は手を振って応える。


「類香ちゃん、最近クラスでもいい感じだね」

「え? どういうこと?」


 隣で笑っている和乃に向かって類香は首を傾げた。二人は校門を出たところだ。


「馴染んでるっていうか……壁がなくなった感じ」

「……そうかな」

「うん。皆も、類香ちゃんの魅力に気づいちゃったかな?」

「変なこと言わないの」

「えへへへへ」


 和乃は舌を出して笑う。


「でも、そう見えてるのは嬉しい」

「ふふふ」


 また、はにかんだ。類香はむっと頬を膨らませる。


「和乃のせいなんだからね!」

「はーい」

「最近、両親のこと、ちゃんと向き合うようにしてるの」

「……うん」


 和乃は気を取り直したように優しい瞳で類香を見た。類香はその瞳を見て安心した。自分のことをちゃんと見てくれている。


「だけど、どうしてもできないこともあって……」

「なに?」


 和乃は小首を傾げる。


「あの映画が見れないの」

「映画……?」

「うん。両親が共演してるただ一つの作品。和乃が見たことあるやつだよ……」

「ああ! あのポスターの!」

「そう」


 和乃は類香の表情を窺った。


「類香ちゃん、大丈夫? 顔が青いような」

「大丈夫」


 類香はそう言って震えそうな手を隠した。


「和乃……あのね」

「うん」

「一緒に、観てくれないかな……?」

「え?」


 和乃はきょとんとして口を小さくする。


「あの映画は、両親の最後の作品でもあるの。だから、見届けたいって思うんだけど、怖くて……。それを見たら、全てが終わってしまいそうで」

「……類香ちゃん」

「和乃と一緒なら、観れる気がするの」

「……私?」


 和乃は自分のことを指差した。類香は迷いなく頷く。


「私なんかでいいのかな?」

「当たり前でしょ……! 強制するつもりはないけど……」


 類香は控えめな声の和乃に対し肩をすくめる。


「ううん。一緒に見ようよ。私でよければ」


 和乃は遠慮がちな類香の反応を跳ね除けるようににっこりと笑った。


「喜んで、協力させて」

「……ありがとう、和乃」


 類香はその返事を聞いて緊張が解けていく。断られる覚悟だってあった。


「類香ちゃんはすごいなぁ」

「え?」

「ううん。なんでもない。類香ちゃんはどんどん前に進んでるなって」

「……和乃だって」

「ふふふ。そうだといいなぁ」


 そう言って朗らかに笑う和乃は、どこか儚く見えた。


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