21話 深淵


 類香は和乃の手を引いて、駅とは真逆の方向へと歩き出した。驚いた和乃が何かを言っているが、類香はその声を耳に入れず、お構いなく進んだ。

 駅の近くの堤防に来るとランニングをしている人とすれ違った。川岸からは子供たちの遊び声が聞こえてくる。


「類香ちゃん!」


 周りの雑音を縫うようにして和乃が大きな声で類香の足を止めた。類香が振り返ると、和乃が小刻みに震えながら瞳を揺らしている。ハッとした類香は彼女の手を離した。


「ごめん、痛かった、よね……」


 類香は反省するように目線を下げる。夢中でここまで来てしまった。何故だか類香にも分からなかった。ただ、和乃にあんな顔はして欲しくないと、その笑顔を見た時に思ってしまったのだ。どこに行く当てもないのに、あの場所から連れ出したかった。


「ううん。いいの」


 和乃の優しい声は相変わらず類香の散らかった心に陽を照らす。


「こっちこそごめんね、噂のこと。気になっちゃうよね。何も言わなくてごめん」

「どうして謝るの? 言う必要なんてない」


 類香が顔を上げると、和乃は静かに首を横に振った。


「ううん。そんなことない。私は、そう思わない」

「どうして……?」

「……私は、今度こそ類香ちゃんと友達になりたい」

「……は?」


 和乃の表情は真剣だった。きりっとした瞳で類香を見て、何かを覚悟するようにぐっと胸の前でこぶしを握る。

 類香は覚悟を決めた彼女の言葉の意味が分からず、ぽかんと口を開くことしかできなかった。今度こそも何も、和乃とは今年出会ったばかりではないか。類香は瞬きをした。


「だから、類香ちゃんには話す。隠し事は持ちたくない」

「…………わかった」


 類香は納得できないままに和乃の気迫に押された。こんな和乃は見たことがない。とても凛々しく見える。

 二人はそのまま土手に座り、煌めく川を見た。川面に夕陽が散らばり、いつも見ている川のはずなのにずっと魅力的に見えた。


「私ね、小学校の頃からずっといじめられてたの」


 和乃は自分の過去を話し始める。


「気づいたときには、標的になっていて、私はどうしてそうなったのか分からなくて……ある日突然、仲が良かった子に無視されるようになったの。昨日までと同じように、一緒に帰ろうって、言っても、聞こえてないみたいで……他の友達のところへ行くの。私は気づいてないから、一緒に帰ろうとしてたんだけど、その友達たちと会話で盛り上がっちゃうの。だから私は、一人で帰ったの。気のせいかなって、何か用事があったのかなって思った。だけど……次の日も、その次の日も無視されて……他の皆も、どんどん離れていって、私は、一人になったの」


 和乃はゆっくりと、落ち着いた様子で話した。


「グループ分けでも、もう、前の仲良し友達は誰もいなくて……いつも隅っこで怯えてた。こっちを見ないで、見ないでって。もう私は、誰にも見えていなかったみたいだけど。先生に相談するのも怖くて。エスカレートしそうだったから。親は気づいていたかもしれないけど、悲しい顔は見たくなかったし……」


 ふふ、と当時を思い出したかのように和乃は笑う。滲みだした血が渇いたような声だった。


「小学校は、それでもまだ良かった。先生と一緒にいることもできたし。……だけど、中学校は、そうもいかなかった。皆、知識も力もあるし、スマホも持てた。だから……」


 そこまで言うと、和乃の呼吸が少し乱れてきた。瞳も暗く陰ってくる。類香は話すのを止めさせようと和乃の右手を握った。


「いい。もう、いいよ」


 そして空いた方の手で和乃の肩を抱きしめる。


「十分、わかったから……」

「……でも」

「和乃、もういいの。和乃の過去は、もう知れた」


 いつの間にか泣いていた和乃を窘めるように類香は声を落とした。


「和乃の想いは伝わってる。だから、もう思い出さなくていいよ」

「類香ちゃん……」


 和乃は類香の瞳を見上げる。本当に小動物みたいに見えて、類香は思わず微笑んだ。


「和乃の過去は、私は興味ない。これからの和乃の方が興味ある。きっと、クラスの皆もそう。一緒にいるのは、今の和乃なんだから。噂に浮き足立っちゃうのは、馬鹿みたいだけど……。多分、すぐ飽きるから」


 類香は淡々と今の気持ちを述べた。こういう時、気の利いた優しいことを言えない。そんな自分が情けなかった。

 しかし和乃は類香の言葉にまた涙をこぼした。


「ありがとう、類香ちゃん」


 続けて嬉しそうに笑う。類香はそれが恥ずかしくなり、目を逸らし和乃から離れる。


「文化祭で噂を流すなんて、碌でもない人だよ。そんな奴に、気を揉まれる必要ない」

「……うん」

「本当、皆、噂話が好きだよね」


 類香は恥ずかしさを誤魔化すようによく喋った。


「大体、みんなもあんなにこそこそしなくても……。あ、そういえば夏哉、文化祭で講堂に遅れてきたの、まさかこの噂を聞いた……?」


 類香は眉をひそめた。今日はやけに頭が回る。


「え、何、あいつ、黙ってたの……? ……薄情者だ」


 珍しくくるくると表情の変わる類香を見て、和乃はくすくすと笑った。それを見て、類香はほっと胸を撫で下ろす。この笑顔は和乃だ。そう思えたのだ。


「ねぇ類香ちゃん、一つ聞いていい?」

「何?」


 和乃は改まって類香を見る。


「類香ちゃんは、どうして一人でいたの?」

「……へ?」

「私、一人が怖かった。だから、高校では友達を作ろうって思ってた。だけど、類香ちゃんは、一人でいることを選んでいるように見えた。それが、不思議だった。どうして平気なんだろうって思ってた」

「……それは」


 類香は和乃の顔を見たまま口ごもった。頭に浮かんだのは両親のことだ。それが根本にある。しかし、今まで誰にも言ったことはない。適当に誤魔化すこともできるが、類香は迷っていた。

 おかしい。どうして迷うんだろう。これまでなら、適当な言い訳をしていたはずなのに。

 類香を見つめる和乃の瞳が類香の判断力を鈍らせた。


(どうしてこんな……)


 類香は困り果て、すっかり眉は下がってしまった。


(和乃のせい……こんな小動物みたいな目、ずるいよ)


 類香は深呼吸をする。涼しい空気が頭を撫でてくれたような気がした。


「和乃、私も話す」

「……?」


 類香は過去を話してくれた和乃に敬意を表し、自らの出生を語り始めた。



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