20話 静寂


 「類香ちゃん、今日の英語の部分、あとで教えてくれる?」


 教室へと戻る途中、和乃が穏やかに微笑んでくる。一つ前の授業は英語だった。英語は能力に合わせたクラスに分けられているが、二人は偶然にも同じクラスだった。

 一応帰国子女と言える類香は、最も成績の良いクラスにいる。語学に長けている楓花の影響もあるのだろう。そして和乃も同じクラスにいた。

 和乃は英語が得意なようだ。他の教科よりも好きだと言っていた。色んな世界が見れる気がして魔法みたいだからだと理由も添えて。それもつい最近彼女から聞いたことだ。

 類香は和乃の笑顔を見て困惑した。どうしてもあの噂がちらついてしまう。


「いいよ……なんでも」


 類香は上の空で答えた。和乃は純粋に喜んでいる。それがなんだか後ろめたかった。


「発音綺麗だよね、類香ちゃん」

「……え?」

「秘訣とかあるの?」

「そんなの、ないよ……」


 和乃は自分が帰国子女であることを知らない。類香の過去を何も知らない。それなのに、類香は知ってしまった。和乃の過去を。彼女が隠していたかもしれない記憶を。

 類香はそのことに勘付かれないようにできるだけ平静を装った。


「慣れれば上手くなるよ」

「本当? 類香ちゃんがそう言うなら、信じちゃおうかな」


 和乃は相も変わらずくすくすと笑っている。噂のことを知っているだろうに、そんなことは一切態度にも出ていなかった。なんて強いのだろうか。類香は和乃の顔を見て心臓が苦しくなった。


「今日も早く帰って課題やらないと……」


 うーんと考えこむ和乃。その時、類香はすかさず口を挟んだ。


「和乃、一緒に帰ろう」

「え……?」


 自分からの誘いにぽかんとしている和乃を見て、類香は耳が赤くなってきた。恥ずかしい。食い入るように言ってしまった。絶対に必死な表情をしていた気がする。

 類香は居心地が悪くなり和乃から目を逸らした。

 しかしそうでもしないと、今日も先に帰られてしまいそうだった。それは、何故か分からないけれど寂しい。もっと自分に色々話してくれてもいいのに。もう、愚痴や相談くらいは聞ける。類香は、いつの間にか開いていた和乃への心の檻を自覚した。


(和乃のせいだ……和乃のせい)


 類香は自分に言い聞かせた。自分もこれまで、多少なりとも嫌がらせは受けてきた。状況は違うとはいえほんの少しなら共有することができるかもしれない。その虚しさや悔しさを。

 和乃は類香を見たまま何も言おうとしなかった。依然として呆気にとられた表情をしている。


(何がそんなに驚いたの……そんな、そんなに変なこと言ったのかな?)


 ちらりと和乃を見る。ちょっと自信がなくなりそうだ。早く、何か言ってよ。類香は声には出さずに、むっと口を結んだ。いつの間にか耳に馴染んだその声を早く聞きたいから。

 すると和乃が、糸が切れたようにふっと笑う。その崩れた表情はあまりにも無垢だった。


「うん! 一緒に帰ろうね、類香ちゃん」


 和乃の朗らかな声。その声と笑顔に類香は感情を囚われる。


(そっか……)


 何かが腑に落ちたように感じた。

 そういえば、類香が和乃にその言葉を言ったのは初めてだった。

 一緒に帰ろう。

 ただそれだけの言葉が、和乃にとっては大きなサプライズだったのだ。



 類香は鞄を持ってすぐさま和乃のところへ向かった。和乃はまだ荷物を片付けている。類香は彼女の横顔を見て、寂しそうな瞳に気づいた。


(和乃、こんなだったっけ……?)


 その見たことがないような彼女の憂いに類香は心がざわざわした。もっと明るい目をしていなかっただろうか。これまで気づかなかっただけなのか。それとも。

 類香は和乃越しに見えるクラスメイトの姿を捉えた。端の席に座り、二人して和乃のことをちらちらと見ている。手にはスマートフォン。その画面上で会話をしているのだろう。類香は彼女たちのことを思わず睨んでしまった。しかし二人は類香のことには興味がないようだった。


「和乃、帰れる?」


 類香の急かすような声に、和乃は元気よく頷いた。先ほどの憂いはもうない。

 校舎を出るまで、二人とすれ違う生徒たちは時折、声を潜めていた。やはりみんなゴシップが好きなようだ。類香はセンセーショナルな話題に盛んな同年代の様子を横目で静かに見ていた。

 この好奇な目線が嫌いだった。だから、瀬名類香を作り上げた。和乃はこの視線に何を思う。類香の知らない日比和乃は、どう見ているのだろう。


 校門を出ると、二人は生徒たちの好奇心から解放された。類香はまた和乃を見る。さっきからずっと彼女の横顔を追ってしまう。過保護だろうか。気にしすぎなのだろうか。類香は和乃に対する興味を隠せなかった。誰よりも一番、和乃に好奇の目を向けていることに類香は気づけなかった。

 二人は黙ったまま駅に向かう。和乃の口元は微笑んでいるが、何も話そうとはしなかった。その軽い足取りが重くなってきた時、類香はぐっと唇を噛んだ。


「ごめん、和乃」


 言葉が先に出てきた。駅はもう目の前だ。


「類香ちゃんどうしたの?」


 和乃が不安そうに類香を見る。類香はまた、その瞳に憂いを見た。


「和乃の噂、聞いちゃった」

「……………………そっか」


 長い沈黙の後、和乃はそれだけ言って笑った。そして目の前に見える駅を見上げた。


「私、皆よりお家が遠いの」


 いつもの穏やかな声で和乃はぼそっと言った。


「少しでも遠くに行きたくて。それで、この高校に来たの」

「……そう、なんだ」


 類香は和乃の柔らかい表情を見る。夕陽を浴びて、その顔はまるで幼子のようだ。


「あの噂はね、本当だよ」

「……!」


 和乃が俯いた。類香はその静かな告白に胸に銃弾を撃ち込まれたように感じた。

 待って、そんな顔をしないで。

 類香の言葉は冷たい息とともに飲み込まれる。


「私、いじめられてたんだぁ」


 和乃はどうにか笑顔を作って顔を上げた。重い空気にしたくなかったのだろう。しかし類香はその張りぼてにすぐに気付いた。


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