19話 主演
鞄を手に取り、類香は階段を下りた。踊り場で誰かが何かを話しているのが聞こえる。普段なら気にはならない会話も、今日はそういうわけにもいかなかった。
また和乃のことを話しているからだ。それもこそこそとしていて、雰囲気が良いとはとても言えない。
類香は階段を下りる足をゆっくりと弱める。
「お前それ本当かよ」
「本当だって。俺聞いたもん」
今度は男子生徒だった。ちらりと覗くと、同じ学年の生徒なことが分かった。
「中学校が同じだったっていう子から!」
「日比さんと?」
「ああ」
男子生徒はそわそわと落ち着かない様子だった。
「お前、興味ないの?」
「そんなことはないけど。むしろ興味深い」
「だよな」
「ちょっと興奮する」
「お前、趣味悪いな。サディストかよ」
類香は不穏な流れに怪訝な表情で踊り場をもう少し覗こうと身体を傾ける。
「冗談じゃないくらい、いじめられてたみたいだからな」
「日比さん、可愛いのにな」
「嫉妬じゃん?」
男子生徒たちはけらけらと笑った。
その笑い声が、メデューサのように類香をその場に留まらせる。
(和乃が? いじめられてた…?)
信じられない言葉だった。いじめなんて言葉、和乃とは結び付かない。少なくとも、類香の頭の中ではそうだった。
男子生徒たちの笑い声が今度は類香の指先を冷たくさせていく。
皆が噂していたのはこのことだったのか。類香は踊り場に目をくぎ付けにしたまま手すりを掴んだ。
「日比さん、文化祭でキャラクターライブやってたから、元同級生に見つかっちゃったんだな」
男子生徒の一人が同情するように声を上げる。
「なんか、下着の写真持ってるって聞いた。泣いて土下座してるのとか…」
「やば……見たい」
先ほどのサディストらしい男子生徒がごくりとつばを飲み込む。
類香はその瞬間、何かが喉の奥ではち切れたような気がした。何かを考える前に足音など気にもせずに踊り場まで駆け下りていく。その刹那の感情を類香は踊り場に着くころには忘れてしまっていた。
「ねぇ」
突如現れた類香の声に男子生徒たちはハッとそちらを見る。
「あなた、それ、文化祭で聞いたの?」
類香の気迫に元同級生から聞いたといっていた男子生徒はたじろいだ。
「そう、だけど……え、……なんだよ」
つかつかと、類香は彼に近づいた。類香の整った顔立ちから表情が消えていることに気づいた男子生徒の顔色が青ざめていく。
「なんか、元同級生が、ライブのポスター見てた俺に話しかけてきたんだよ。元気になって良かったって……」
「はぁ?」
類香は腹の底から声を出した。自分でも驚くほどに、イライラしている。
「それで、あなたがこの学校で言いふらしたの?」
「……冗談のつもりで……ほら、話のタネになるじゃん」
男子生徒は引きつった顔で笑った。顔は真っ青だというのにふらふらとした調子は変わらない。
「あなたにとっては、ただのネタなのね」
「そ、そうそう! 過去の話だし! 悪意はないよ!」
「そうだよ。それでいじめようなんて思ってないし」
他の男子生徒が口を挟んできた。類香はそちらも睨みつける。
「確かに、あなたたちにとっては、ただの恰好のネタかもしれない…」
類香が静かな声で彼らに同調するように呟く。
「だよな!」
「瀬名もゴシップとか好きだろ?」
ガヤが鬱陶しかった。類香は密かに怒りに燃える瞳を上げる。
「だけど、あなたたちはそれを広めてどういうつもりだったの?」
「は? そりゃみんなで話題を……」
「共有するの? どうして? 必要ないじゃない」
類香の刺すような声に一同は黙った。
「仲間内で盛り上がるためだけなのかもしれない。だけど、それを誰かが聞いてしまうって、思わなかった? 誰にそれが聞こえてきて、話を聞いた人が何を思うのか、考えてる?」
「…………」
彼女のまくしたてるような声を最後に踊り場には沈黙が訪れる。
「話は、勝手に解釈されるんだから」
類香はそう言い残すと、踊り場を通り過ぎてそのまま階段を下りて行った。
校舎を出たところで、類香はハッと我に返った。
自分でも信じられなかった。自分が誰かを窘めようとするなんて。
類香は小さくため息をついた。
どんなに偉そうなことを言ったって自分の話なんて流されるだけだろうに、突拍子もなく注意をしてしまった。
それでも類香は後悔していなかった。あの会話が聞くに堪えなかったのは事実だ。
それに加えて、夏哉に騙された鬱憤がきっとたまっていただけだ。
(和乃、噂のこと、きっと知ってるよね……)
世間の話題に疎い自分が知っているくらいだから、彼女が知らないはずがない。類香はそっと空を見上げる。空は、もうすぐに暗くなるだろう。類香は空に目を奪われたまま和乃のことを考えた。
まさか和乃にそんな過去があったなんて。類香は思いもしなかった。文化祭で随分と無神経なことを聞いてしまった。けれど和乃のことだから、きっと友達がたくさんいると思ってしまっていた。
高校のように、これまでも和乃は楽しい学校生活を送ってきたのだと、それがしっくりきていた。
しかし、それは違った。彼女に綻びなんて見えなかったのに。
後夜祭でくす玉が割れた時、和乃は何を思ったのだろう。あの時、震えていたのは気のせいではなかった。
類香は天に向かって息を吐く。
和乃は、類香を遥かに凌ぐ演者だったのだ。
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