5話 困惑
「ねぇ、もう、喧嘩はやめよう……? 類香ちゃんも……」
「私……?」
「二人もなんだか悲しそうだし、そんな人を追い詰めるようなことも良くないよ……」
「……日比さん」
類香は小動物のように震えている和乃を見て言葉を飲み込んだ。言いたい言葉はあるけれど、それが相応しいのかが分からなかった。
「……何よ」
二人の女子生徒は突然現れた和乃にペースを乱され、困惑した表情のまま悔しそうな声を漏らした。
「今回は、もういいわ。瀬名さん」
「あんまり風紀を乱さないでよね」
ばつが悪くなったのか、そう言い残して二人の女子生徒は立ち去ろうとした。しかし、そんな二人の前に現れたクリーム色のセーターを着た生徒が行く手を阻んだ。さきほど類香に視線を送っていたクラスの男子生徒だ。類香はさらにきょとんとする。
「二人とも、その前にちゃんと動画と写真を削除しろよ」
「はぁ?」
二人は自分たちの邪魔をするその男子生徒に怪訝な眼差しを送る。
「言いがかりをしたんだろ。間違えてたんなら、ちゃんとその動画も抹消するべきだと思うけど」
「あんた、聞いてたの?」
「いいから」
男子生徒は形の整った眉を歪めると、丸い目で自分のことを見上げている二人を冷たく見下し呆れたような声を出した。
「盗み聞きとかほんとないよね」
サイドテールの生徒は文句を言いながらも渋々動画と写真を消した。
証拠として自分たちを睨み付けている瞳に画面をずいと見せつける。
「消したよ。他にデータもないから」
「……当然だろ」
大きなため息を吐きながら階段を下りていく二人を見送り、男子生徒は安堵の息を吐いた。
「日向くん」
「ん?」
二人の足音が消えて前方に視線を戻せば、和乃がほっとした様子でこちらを見上げている。朗らかな目元に先ほどまでの邪険な空気はどこかへと消え去って行く。
「何事もなくて良かったな!」
「…………」
嬉しそうに頷く和乃とは正反対に類香は何の反応もしなかった。夏哉はそんな類香を見てまた微笑む。その表情はまるで園児を見守る保育士のようだ。
「あの二人、大丈夫かな……?」
「ああ。大丈夫だろう」
「でも、類香ちゃんは別に嶺くんのこと好きじゃないのにどうして類香ちゃんのせいにしようとしたの……? あの二人は、未祐ちゃんの友だちじゃないの? 責めるなら嶺くんでしょう?」
「あー、それはだな……」
和乃の純真な瞳に見つめられ、夏哉は気まずそうに頬を掻く。
「……どうして削除までさせたの?」
そこに、助け舟を出すように類香が口を開いた。夏哉は話題を変えてくれた類香を救世主のように見やると、すぐにきりっとした表情をした。
「あの動画には、瀬名がばっちり写っているんだから当然だろ。他人がそんなの持ってたら気持ち悪くない? ほら。あれだよ。肖像権、的な?」
「ふぅん……」
「もっと自分に関心持てよ」
夏哉は今度は彼女のことを心配そうに見る。類香は視線を逸らしてわざとその言葉の意味が分からないふりをした。
「そもそも、どうして二人ともこんなところに……」
「だって……! 類香ちゃん一人だったじゃない! 二人とも怒っていたし、二対一なんて心配だよ……!」
類香が漏らした不満に和乃が必死な様子で声を揺らがせる。
「でもこれじゃ、三対二だよ」
「俺は、瀬名とあの二人が歩いているところを見て勝手に来ただけだから。日比はそれ知らないし」
「そうだったんだね……! 日向くん出てきた時はびっくりした!」
「なんか不審者みたいだな……」
悪気のない反応に夏哉は弱弱しく笑った。
「…………別にいいのに」
二人の会話を聞きながら、誰にも聞こえない声で類香はそう呟いた。そのままきゅっと唇を噛み顔を伏せる。
「あ! もうお昼休み終わっちゃうよ。類香ちゃん」
和乃は高い空に浮かぶ雲を見上げ、思い出したように声を上げた。彼女の声に驚いたのか、ハトが空を横切っていく。
「ごはん食べなくちゃ!」
「まだ食べてないのか?」
「そうなの。類香ちゃんも……」
和乃はそっと類香を見た。類香は、ぼうっとした顔のままどこかを見たまま動かない。
「類香ちゃん」
和乃が類香の顔を優しくのぞき込むと、類香はその穏やかな表情にはっと息を吸い込んだ。
「お昼ご飯、一緒に食べよう」
和乃の綿のように柔らかな声は、類香の棘だらけの心を包み込むようにその耳に残った。
*
バイトを終え、帰宅した類香は鞄を部屋に置くとリビングへと向かった。ベランダを見れば、朝出しておいた植物が少し寂しそうに佇んでいる。類香はベランダに出て、その少し大きな植木鉢を持ち上げた。ふと顔を上げると、マンションの5階から見える星が瞬いている。
類香は数秒それを見つめ、植木鉢を抱えて部屋へと戻った。
夕食の支度をするために類香は手を洗いなおして冷蔵庫を勢い良く開けた。今日はグラタンを作る予定だ。市販のホワイトソースを手に取ると、類香は冷蔵庫を閉めた。
ご飯を用意するのは当番制だ。同居する叔母は所謂キャリアウーマンで、仕事はそれなりに忙しい。帰りが遅い日も少なくはなかった。そんな生活の中で料理をするのは手間がかかる。しかし最近は時短の術が増え、その選択肢の多さに類香は感謝していた。
叔母の
本当なら、バイトも家事もしないで青春を全力で謳歌してほしいのにと類香に申し訳なさそうに言うのは楓花の口癖だった。類香はその言葉を言わせてしまったことを後悔した。
楓花には自分のことについて思い悩むようなことはして欲しくなかったからだ。これまでも散々お世話になってきた。もっと彼女自身が自分のことだけを考えていけるように、彼女の重荷にならないようにしていかなければ。
その決意は呪いのように心の底に落ちたままだった。
類香はマカロニをゆでながら、ぼんやりと今日のことを思い返す。
和乃は何故今になって自分のことを気にかけてくるようになったのだろう。ただの気まぐれだろうか。あの、花が咲いたような笑顔を見ていると、どうにも罪悪感を抱いてしまう。
これまでの傾向から、異性でもある夏哉が自分に興味を抱くのはなんとなく理解できる。正確には彼の本心すら知らないが、それでも不思議には思わない。
しかし和乃の動機だけは分からなかった。新学期に同じクラスになったタイミングでもなく、初夏に行われた体育祭というイベントのタイミングでもなく、何故、今なのか。彼女はたくさんの友だちがいるし、急に友だちが欲しくなったとも思えない。
類香はぐつぐつと音を立てる鍋をじっと見た。マカロニが気泡に押されるようにして次々に上にのぼってくる。そこにマカロニの意思はない。強引に浮き上がってくるだけのその姿は少し哀愁を誘った。
「わのちゃん……」
マカロニを見つめながらその名前をなんとなく呼んでみた。
そして類香がくすっと笑うと、鍋の中で大きくマカロニが揺れた。
どうすれば、厄介な笑顔を向けてくる彼女を遠ざけられるだろうか。
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